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イスタンブールで奥さんが迷子になった 2/2

カバナの町の朝の散歩です。駐車場があります。訪れる人が多いのでしょう。漁港ではなく、フェリー乗り場に使っている。魚はいない。長時間座っているので、腰が痛い。バス・ターミナルでトイレを借りて、誕生石を買ってきた。それぞれ1.5ユーロです。本当に小さいお土産です。フロントは6時のモーニングコールを始めました。地方都市の方がアメリカライズされているし、駐車場があります。新たな可能性です。

ツーリストに聞きたいのは旅の目的です。奥さんに言わせると、「旅」以外の目的はないと明確です。何か目的があると思うけど、単にはまっている人もいる。こういう場合も共依存してはいけない。私の場合は、生まれてきた時から目的を探しています。

アテネの市民は本を読まない理由を考えて見た。未来を作るのは、学習です。その中核が本と図書館です。もしかすると、オスマン・トルコに占領されていた「奴隷根性」の性かもしれない。未来を見ずに自らの生存を第一優先にする。ギリシャの姪の旦那から探ってみましょう。

ギリシャ・トルコ国境を越えます。時間がかかっています。大勢が来たときには、こんなことでは対応できない。それともショップでモノを買わせるためですか。トルコに入りました。急に暑くなった感じ。バスを替えるのに、バタバタです。

トルコで何を見いだそう。アテネのように知り合いがいなくて、国際遺産を回る旅で何を感じるのか。ギリシャよりも豊かな大地を感じる。農業よりも観光に力を入れている。
本『死とは何か』池田晶子のDLを読んでいます。私がブログで書いている理由は、彼女が本を出版しているのと同じです。書き残しておきたい。「本当の孤独というのは、自分は何者でもない、他人に証明されようがされまいが、自分は自分でしかないという、絶対的な事実を認めるところにしかない。」

「孤独に耐える」というと、社会的な役回りや自己イメージのウソを見抜いていった果てに残る、「何者でもない自分」こそが、本来的な孤独、きわめて豊かなものであるからです。内に広がるこの空間の豊かさを味わおうとせずに、外に他人を求めにゆくなんて、なんてもったいないことか。

「自分を味あう」ということは。ひとりはつまらないからとつき合うつまらない他人なんかより、はるかに面白いことだと言えます。なぜなら、この「何者でもない自分」とは何なのか、内側へ向かい探索を始めれば、果てというものがない。このような事態を私は「思索する」、自分を思索することだと言っているが、この自分を思索することの面白さこそ、孤独であることの特権です。

存在しているのは自分なのです。「自分」だけなのです。「自分」というのは、言うまでもなく、この自分、他の誰かではない自分が、その意味で、こどくであるのは当たり前のことです。

トルコは国の方針が明確なのと、それに従っていれば、大丈夫という国民の心情を感じた。特に、ケマルに対する信頼感をガイドから感じます。

もうじきイスタンブールです。奥さんがトルコで最初に行ったのは、犬じゃらしです。昼食のカフェテラスに子犬がいました。靴の紐をくわえさせて、遊んでいました。奥さんの得意分野です。

イスタンブールのトプカプ宮殿でスルタンが集めたモノを見ていた。ダイヤはでかかった。トプカプ宮殿の図書室は休憩室みたいです。本はありません。持ってこさせるのでしょうか。

イスタンブール市内のトラムは4両編成です。1500万人都市です。トウモロコシはおいしくなかった。冷めているモノを渡された。現地の人間のように、自分で選ばないといけない。

奥さんたちが迷子になりました。ガイドが速くて、後ろを見ずにどんどん行ってしまうし、ツアコンはバケッジ・ロスト対応でツアー客のチェックを怠っています。。途中の曲がり角を直進したのでしょう。迷子者は25名中8名です。

私には、奥さんの行動パターンは分かるので、ガイドには「交差点に居るはずだ」と言ったら、その通り、居ました。

その後のバザールは時間がなく、両替のみで、すぐにアンカラに向けて移動です。両替時に、奥さんの対応力が発揮されていました。後に「ここ語」と名付けた、指さしを日本語の組み合わせです。
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イスタンブールで奥さんが迷子になった 1/2

未唯へ。偶然の偶然で来てしまった町カバナにいます。昨日の夜、回ったが何もなかった。ここに導いた、何かを見つけよう。

今日の日程はカバラ⇒イクサラ⇒イスタンブール⇒アンカラです。イスタンブールの宮殿とバザール以外はバス移動です。トイレが心配です。

ホテルの部屋の空調は動かない。皆の部屋がそうなっている。ツアコンに聞いたところ、雨で外気温が下がっているので掛からないでしょうとのこと。ベテランのツーリストに聞いたら、「それは言い訳だ」と言っていた。外気温22度でエアコンは要らないというホテル側の論理でしょう。ツアコンからエアコンの話がありません

この15日間のツアーには多種多様な人が居ます。一部、自分の手柄を早口に話します。人の身の上も名前も興味がない、彼らは孤独を癒すために、参加したが、さらに寂しいので、人にくっついている。奥さんに関係図を作ってもらおうか。私には「そんな人がいる」だけで、そんなことは覚えていません。奥さんは相づちを打ちながら、丁寧に聞いています。多くの話し相手を持っています。私は、その奥さんの「おとうさん」になっています。私は「おとうさん」という名前ではありません。

本来ならば、ヘッサロニアの街から15時間の夜行寝台特急で、朝8時にイスタンブールに着く日程だった。ゼネストで欠便です。バスでの移動に変わりました。特急一等寝台の代わりに、バスで、イスタンブール到着が朝8時から夕方4時になり、夕食だけで、宿泊地のアンカラまで移動です。旅好きな連中はイスタンブールに乗り入れる列車が、今回のツアーの目玉みたいでした。

それに対する、ツアコンの言い訳を10分ぐらい聞いていた。列車からバスになったことの説明は、旅慣れたツーリストへの心情的な訴えで、寝台特急料金とバス代との差額分の請求を避ける意図が見えていた。その意図のために、アイスランド噴火のロンドンでの思いで話と自慢話が延々と続いた。うんざりです。

私たちは、そんなことは偶々、ありました。本来、知るはずのない、ギリシャ・マケドニア地方の港町、カバラに来ています。私の「仕組まれた偶然」理論からすると、ここに何かあるはずです。今のところ、エアコンの件だけです。4時には外へ出たいけど、ルームキーが一つしかありません。私が持っていくと、奥さんは電気が使えません。さて、どうしようか。

「仕掛けられた偶然」はどこにあるのか。直接的に現れるのか、長い思考時間で、何かを発見するような間接的なものかもしれません。毎日が「仕掛けられた偶然」だから、アンテナを高くして、いくことかもしれない。それでも十分です。
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