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「自工程完結」では何も救われない

未唯へ。この会社は過去の成功体験から抜け出せそうもありません。メーカーの論理にノスタルジーを感じています。それをマーケティング分野に押し付けようとしています。

金曜日に「自工程完結」のビデオをグループミーティングで流していました。心が反発して、聞かずに寝ていました。ICレコーダに録音した内容を、今日聞いて、「これではだめだ」と痛感しました。


以下は「自工程完結」の説明の一部です。

「自工程完結では意思決定する作業を要素作業と読みます。いずれの要素作業も、求められるアウトプットを出すために、インプットを得て、それに何らかの付加価値をつけます」

「要素作業はそもそも、求められるアウトプットを生み出すために、アウトプットを利用する後工程にニーズを満たしていなければいけません。ここで善し悪しの判断が必要になります」

「もっとも大事なことは、前工程からのインプットです。要素作業を行うために必要なインプットは何か、を明確にしないといけません。ここでもインプット情報が要素作業に必要な内容になっているかの善し悪しを判断します」

「必要なインプットがあれば、作業に取り掛かります。何を使って、どのように作業をするか、道具と方法が明確になっていれば、間違えずに、正しいアウトプットを出すことができます。そこで、道具が使えるようになっているか、方法が分かっているかの善し悪し判断を行います」

こんなクローズした、考え方でなく、多様に考えて、多様に動いて、方向性を持って、一気に片付ける、やり方をしない限り、この会社は救われません。工場の論理では限界があります。なぜ、そこに戻ろうとするのか。そこには何もないです。

「自工程完結」は、「作る」ことだけを考えている。複雑性のように、要素に分解できない仕事が主なのに、流れ作業をベースにしている。「作る」ことがベースになっていて、「使う」「聞く」という部分が欠落している。「作っても、売れない」ので、「使いこんで、聞く」ことで、ユーザーを含んだ大きな循環を回すことが必要なのです。

最大の欠点は「目的意識」の欠如です。誰かが決めたこと、前工程と後工程の間の工程をつなぐだけなら、目的とか知恵は必要ありません。過去50年の成功体験、工場での成功体験を押しつけられては、動けません。

答えは近傍系にあり。
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