笛吹き朗人のブログ

器楽は苦手でしたがサラリーマンを終えた65歳から篠笛を習っています。篠笛を中心に日々のリタイア生活を紹介します。

房総の「西行伝説」を訪ねて

2018-01-05 22:06:20 | 日記
西行については、高校の古文の授業で、「新古今和歌集に最多の94首入集された平安後期の歌人で
、有名な歌は、『心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮』である」と習ったことしか
記憶になく、関心も無かった。

しかし、2017年の1月から、会社のOBのN先輩のお世話で俳句を習い始めて、大きく変わった。
というのは、「俳句を学ぶなら、せめて芭蕉の『おくのほそ道』くらいは読み直しておこう」と思っ
て読み返すや、その最初にある「古人も多く旅に死せるあり」の「古人」の解説に「芭蕉の思慕した
西行はーーーー」(岩波文庫)と有ったからである。
つまり、芭蕉の「おくのほそ道」は、その思慕する西行が訪ねたところを辿って旅した記録であると
いうのである。

それを機に、西行について知るべく、「西行物語」、「西行花伝」(辻邦生)、「西行論」(吉本隆明)
、「西行」(白洲正子)や「西行歌集」に目を通した。
そして、その先祖が平将門を討った藤原秀郷であり、鳥羽上皇の北面の武士として平清盛の同僚だった
が、友の急死を受けて世を儚く思い出家し、京都の西の郊外、高野山、吉野、伊勢などの庵に住みつつ、
奥州への二度の旅を含め各地を旅した。また、保元の乱で敗れて讃岐に島流しになった崇徳上皇とは和歌
を通じて親しくしており、崇徳亡きあとその陵に詣でたなど様々なことも知った。

そうなると、わが房総とはどういう繋がりがあるか、気になるところでである。
今は、インターネットのホームぺージ(HP)という便利なものがある。
「千葉県 西行」で検索してみると、千葉県内には、安房に1カ所、上総に1カ所、下総に2カ所の西行
伝説がある。2017年に、それぞれ訪ねてみたので、ご紹介したい。

(安房)
西行寺――浄土宗千葉教区のHPによると、「九九六年に源信僧都がこの地に庵を結んで教化されたのが
始まりで、その後、西行が平治の乱で焼け落ちた東大寺大仏大修理の勧進のために奥州平泉の藤原氏に旅
した際にこの地に立ち寄り西行庵を結んだ。
その4年後、この地の豪族で歌道の門人で且つ源頼朝公の家臣の安西家の安房三郎時重の寄進により西行
庵を修復して西行寺として頼朝公の朱印をいただいた」とある。

西行がこの旅の途中、鎌倉で頼朝に会って話をしたことは、鎌倉幕府の記録である「吾妻鑑」にも出てい
ること、古東海道は三浦半島から安房への海路を辿っていたこと、頼朝も真鶴から安房へ海路を辿ったこ
となどから、私は十分ありうる話だなと思っている。
場所は、那古船形駅のすぐ近くで、境内は広くなく、観光地的なイメージは感じられない地域に根差した
寺院という印象だった。銀杏の大木が印象的だった。駐車場はお寺の参拝者用がある。
「銀杏のいろづくを待つ西行寺」(笛吹朗人)

(上総)
西行の薄墨桜――東金市のHPによると「伝説によれば、東大寺と興福寺は平重衡によって治承4年(1180)
に焼討ちされたことから、俊乗坊重源上人は東大寺の再建を志し、文治2年(1186)西行に陸奥の豪族藤原
秀衡まで砂金勧進の旅を依頼した。西行は当時の山城国紀伊郡深草の墨染桜の枝を杖とし、赤人・小町をし
のびつつ、この地に来て負神(貴船大明神)を安置し、傍にこの杖をさし、『深草の野辺の桜木心あらば亦
この里にすみぞめに咲け』と詠じて去った。この杖が芽をふき、いわゆる墨染桜となり今日に至ったと伝え
られている。」とある。東金市の指定文化財である。
千葉県公式観光サイトでは、「高さ10m、根回り1.5m、樹齢の800年」としている。

西行寺の続きである。
西行は桜を愛し、「願わくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」と詠んで、実際にも如月16日
に死んでいる。
西行がこの地を訪ねた理由とされている、山部赤人は万葉集の編者で、この近く(当時は山辺郡の郡衙があ
った)の出身と言われていること及び小野小町が老後この近くで余生を送ったと言われていることなど、
西行が訪ねるに足る歌枕がある。(それぞれにゆかりの場所も近くにある)
場所は、JR東金駅からバス千葉行で山田坂下下車徒歩20分だが、大きな道路にも道案内の看板があり分
かりやすい。桜の時期はとても見ごろである。駐車場はない。
「東金 西行桜」で検索すると沢山のHPがある。
「上総路や西行残せしさと桜」(笛吹朗人)

(下総)
勝間田の池――佐倉市のHPによると「勝間田の池が下勝田にある。ここには二股の葦(よし)が生い茂る
というのである。そのわけは、西行法師(さいぎょうほうし)がこの地に行脚し、ちょうどお昼にしようと
したが、箸(はし)がなかったので近くにいた百姓に「箸を一膳(ぜん)貸してください」と頼んだが、そ
の百姓は、「お貸しする箸はありません。あなたの後ろの枝でも折っておあがりなさい。それががいやなら
親からもらった五本箸で」というので、西行は、いたしかたなく、その葦を折って箸とした。そして食べ終
わったときに、そのお礼として、『水なしときいてふりにし勝間田の池あらたまる五月雨のころ』と一首を
よみ、葦の箸をそこにさして立ち去ったが、やがてその箸から根が出、立派な二股の葦になった。このとき
西行が、「この池にわがさしたるこの葦のほかに葦の生うることをゆるさじ」といったためだろうか。三尺
(1m)の土手を隔てた田の中には普通の葦がたくさん生い茂るが、この池にはないのである。」
「勝間田の池は、古くより名勝地として知られており、嘉永3年(1850)に編纂された『下総名所図絵』にも
記されています。池の中程には厳島神社が祀られており、その傍らには、若者中による歌碑や天保8年(1837)
3月に建てられた歌碑も建立されています。近年、周辺地区の開発が進んでいますが、地元の人々により手厚
く保護されています。市指定名勝」とある。

現地を訪ねたが、なかなか難しい場所にある。県道76号線を八街から本佐倉方向に向かい榎戸駅を過ぎて
間もなく左側に小澤設備工業と言う会社があり、そのわきの道を左折します。約1キロほど行くと右側に
浜源本社と言う看板が見えます。その看板より30mほど手前の1車線ギリギリの農道(舗装)を入って行
くと突き当りに太陽光発電所があります。その前に車を止めて、発電所の脇の細い道を藪をかき分けながら
下ると、ポッコリと池が見えて、感動的だった。
「勝間田の池に遊びし鴨夫婦」(笛吹朗人)

西行清水――独立行政法人水資源機構千葉用水総合管理所の「印旛沼をつくる湧き水」というHPに「西行
法師が遊歴し詩を読んだと言われており、干ばつ時も枯渇しない」とある。
民間の「城跡を歩くー尾竹城・先崎城コースを歩く」のHPによると「台地を下りる小道の中腹にある。
現在は水脈が細く、僅かに水が滲み出ている。 昔、西行法師が遊歴したとき『道の邊に清水流るる柳陰
しはしはこゝに杖ととめにけり 』と歌を詠んだと言われている。」とある。

ここも、極めて難しい場所にある。ユーカリが丘の井野中学向かいのローソン脇の道を進み、右手に青菅
小学校が見えたら校庭沿い細い道を曲がり、校庭の終わりくらいまで進むと右折する道がある。そこ
を200mくらい行くと右手に「西行清水入口」という看板があるので、この付近で車を止めて、そこ
を右折して細い坂道を下りる。坂の途中の滴り落ちる清水がそうなのだそうだが、2017年秋に、私が行
ったときは、残念ながら、水は枯れていた。
「西行の泉に水無し枯れ尾花」(笛吹朗人)

遠い昔の話だから、どこまで本当のことかは分かりませんが、土地の方々が長く言い伝えてきた話には、
何か大切なものがあるのだと思う。


コメント
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