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歴史散策まち歩きの記録
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裕次郎灯台へ 葉山・堀内地区を歩く

2014-03-07 10:39:38 | 歴史散策
         
真名瀬から海岸に降りて森戸神社に向かう。目指す裕次郎灯台が見えてくる。
一色地区から堀内地区に入る。

裕次郎灯台と名島(なじま)
森戸神社の磯辺より沖合い700メートルに浮かぶ小さな島が名島。赤い鳥居が目印。
名島には裕次郎灯台が建っている。夕陽によって茜色に照らし出される夕景は美しく、神奈川の景勝50選に選ばれている。
裕次郎さんの三回忌を記念して、兄の石原慎太郎さんが約1億円の基金を集めて建設した。灯台のプレートには「海の男 裕次郎に捧ぐ 葉山灯台」と刻まれている。
森戸神社の境内の磯辺近くにも石原裕次郎記念碑がたっている。

         
         
             

森戸神社
今から約840年前の1160(永暦元)年、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は、三嶋明神(現在の静岡県・三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願した。
1180(治承4)年、その加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝は、鎌倉によるとすぐさま信仰する三嶋明神の分霊を、鎌倉に近いこの葉山の地に歓請した。
 
千貫松(せんがんまつ)
神社裏手の磯辺の岩上に切り立つ松の木で、その枝ぶりは見事なもの。
源頼朝が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられている。
         
石原裕次郎記念碑
神社裏手の海岸入り口には、湘南で青春を過ごし、この地をこよなく愛した俳優、故石原裕次郎さんの記念碑。
石碑には裕次郎さんを偲ぶ文字が刻まれている。
「夢はとおく 白い帆に のって 消えていく 消えていく 水のかなたに 太陽の季節に 実る 狂った果実たちの 先達 石原裕次郎を 偲んで」
遠くに裕次郎灯台が見える。
          
みそぎ橋(かながわの名橋100選)
この森戸の海浜は、鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められ、事あるごとにお祓いやみそぎが行われたと「吾妻鏡」に記されている。
このような故事により、この海辺で「みそぎ」が盛んに行われ、神社から海辺に通じる橋を「みそぎ橋」と呼ぶようになったと言い伝えられている。
 
詩人・堀口大学詩碑 「花はいろ 人はこころ」 堀口大學
この詩は女優の森光子さんが好んで色紙に書いたそうだ。また鎌倉の日本料理屋の紙袋にも書かれているという。堀口大学は1950(昭和25)年から亡くなるまで葉山町に住んでおり、葉山の名誉町民にもなっている。家族が今も住んでいる。因みに大学は本名だとか。この碑は町制50周年を記念して建てられた。
         
               
マルチーノ公使ベルツ博士記念碑
マルチーノ公使・ベルツ博士は葉山が黒潮の影響で冬は暖かく夏は涼しい温暖の地で、風光明媚であるということに注目し「葉山」が保養の地として最適であると皇室に進言し、1894(明治27年)に葉山御用邸が造営される。

境内には、他に昭和天皇の即位50年記念の「昭和天皇即位の御大典記念碑」「大正天皇即位の御大典記念碑」明治天皇・照憲皇太后の歌碑や高橋是清の歌碑「堪忍の 股からのぞけ 富士の山」などがたっている。
また、「源頼朝公別野跡」の碑も立っている。
源頼朝がこの地に別邸を建て、笠懸(かさがけ)を催したり、三代将軍・源実朝や四代将軍・藤原頼経なども来遊した記録が「吾妻鏡」に残されている。
笠懸とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の 伝統的な騎射の技術・稽古・儀式・様式のこと。格式としては流鏑馬より略式となり、余興的意味合いが強い。

庚申祠 1843(天保14)年
      

森戸海岸
昭和30年代の太陽族ブームで全国有数の海水浴場となり、葉山の一時代を築いた。
「頭を慎太郎狩りにした太陽族が肌をギラギラさせてワイワイ騒いでいた。」と、当時のことが書かれている。実に60年も前のことだ。
         

葉山コロッケ・旭屋牛肉店  葉山町堀内898
裕次郎さんのなじみの店でもあるようだ。
         
以前、葉山コロッケを求めに、今回と同じ道を辿って、ここを訪れたことがある。その時に、勉強していれば森戸の裕次郎灯台を見ていたはずだった。

森戸川・亀井戸橋
         
橋の中央に飾られている。調べると葉山工芸美術集団の磁器板ということ。この集団は、三浦半島の風景をモチーフにした磁器製品、磁器板、及び油彩、水彩等の絵画を制作している。

長徳寺(臨済宗)
1675(延宝3)年造立の庚申塔。六字の名号(南無阿弥陀仏)を主尊とする。庚申の文字はない。三猿が刻んである(左)。
名号(みょうごう)とは、仏・菩薩の称号をさしていう。「六字名号」・「九字名号」・「十字名号」などがある。
                
庚申塔群にも、明和、安永、天明など江戸中期の年号が刻まれている。

六地蔵
         

古き魅力ある建物
県道沿いの狭い範囲で魅力ある古い建物が並ぶ。中には江戸時代から続く商店もあるとか。
        

 

脇町の庚申塔(道標)
1772(明和9)年造立。碑型。正面に「庚申講中」とあり、向かって右側面に「右みさきみち」、左側面に「左うらがみち」とある。三崎街道と浦賀道の岐路にあったものが移設されたと思われる。道標の庚申塔は中央奥に安置されている。
          

諏訪神社
江戸の昔に、「お諏訪様」が祀られたと云われる。
諏訪の大神は、風占いの神として漁の安全を祈る漁師たちから篤い信仰があり、古くから守護神として祀られていた。
社殿の前には狛犬の代わりに猿の親子がいる。猿は古代では神の使いを務めていたという。
          
 

鐙摺須賀神社(天王社)
葉山郷堀内邑の神社。祭神は須佐之男命。
ご神体は、歴史の古い神社によくある、海辺の漂着物だが、その名が珍しく「肥びゃくし」という。
         
 
社前参道には古めかしい常夜灯が建っている。
神社の隣は、海宝寺(戒宝寺)である。以前の本堂は鈴喜三郎助(味の素創始者)邸敷地内の2階屋を移築した建物だったという。

旗立山(伊東祐親供養塔)
1180(治承4)年に源頼朝が挙兵。それに呼応した三浦党が小浜から出港し、その帰りに畠山軍と由比ヶ浜で小競り合いしたとき、この小山に旗を立てて気勢をあげたことから「旗立山」の名がついたという。
小田原北条氏と戦った三浦道寸がこの山から敵を偵察したので、軍見山ともいう。伊東祐親(すけちか)を祀ったとされる供養塔がある。
伊東祐親は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、1159(平治元)年の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、助命嘆願があり、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
子孫には、富士の巻狩りの場で仇討をした曾我兄弟がいる。

旗立山を上ろうとしたら、後ろから「独歩の記念碑がこの上にありますか。」と、50がらみのご婦人が声をかけてきた。武蔵野を書いてる作家が逗子とどう関係するのだろうかと思った。
そのご婦人、服装からしてプロの散策家という感じがして。私も負けそうとうい気がした。
気になって、調べると、『初冬の逗子の浜辺の暮れなずむ頃の情景を、叙情的にうたいあげた詩「たき火」の中の一遍が刻まれています。   
葉山町との境にある逗子市浄水管理センターの敷地内にあります。』とのことで、この旗立山の海側になるようだ。 ただ、立ち入り禁止の公園にたっているようである。

葉山マリーナ・ヨット発祥の地
葉山マリーナの先に「鐙摺(あぶずり)葉山港入口」という信号がある。ここを左(東)に折れて入った所が 葉山港の管理事務所近くに、ヨットの帆の形をした発祥碑がある。
日本にヨットが伝えられたのは、横浜の居留地に住む外国人がヨットクラブを作ったのが最初とされるが、当時の農商務司法大臣 金子堅太郎伯爵の子息が 1882(明治15)年にヨットを建造し、葉山で楽しんだことが日本人による最初のヨットと言われる。
葉山港はかつて鐙摺港と呼ばれる小さな漁港だったが、これを契機に多くのヨットが集まるようになり、1955(昭和30)年には国体ヨット競技会場になり、ヨットハーバーとして名を知られるようになった。
 

            

         

>「太陽の季節」文学記念碑
渚橋の先。逗子海岸東浜
逗子海岸の葉山より渚橋のたもとに石原慎太郎の芥川賞を記念した文学記念碑「太陽の季節」がたっている。
記念碑の左上のゴールドの太陽のモニュメントは印象的。岡本太郎作「若い太陽」である。
         
 

文学碑がたつ渚橋付近は、昔逗子駅から幾度となく歩いたところなので、ここから歩いて駅に向かう。
珠屋洋菓子店
「昭和」の感じが残った建物が並ぶ駅前通りに、数年前改装されたケーキショップがこの店である。
1950(昭和25)年創業。創業以来、長く老舗の洋菓子屋として地元の人々を中心に人気のある洋菓子屋であり、石原慎太郎や石原良純、石原伸晃ら石原家各氏の御用達のお店として、たびたびメディアに取り上げられている。 添加物無添加の高級感のある身体に優しい洋菓子を提供していることが特徴という。
個人的には、半世紀近く前の初夏に、この店に訪れたことがある思い出の店である。
しばらく忘れ去っていた喫茶店だったが、10余年前に、担当の医師がこちらに移動したことで、検診のために逗子駅に、定期的に降り立つことが、思い出させたきっかけとなった。
思い出の喫茶店は、改装して当時と店内のレイアウトが少々変わってはいるが、私の「昭和」がそこには残っている。
 

定期的に葉山に来ているのに、裕次郎灯台にはこれまでお目にかかっていなかった。今回こそは予定に入れようと、睡眠前の床の中で思った。
翌日、朝刊の土曜特集にその裕次郎灯台の記事が載っていた。
それは、1月末のことであった。



                              関連 : 葉山の海岸通りを歩く・一色編

                              資料:葉山を歩こう3  堀内 葉山まちづくり協会


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2 コメント

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こんにちは (郷土愛を育む会)
2014-03-07 17:16:16
記事を読ませていただいてます。各地の見どころが詳細かつ丁寧に書かれていて大変わかりやすいです。葉山も史跡や名所がたくさんあるんですね。横浜蒔田の記事も読ませていただきました。ありがとうございます。
郷土愛を育む会さんへ (tetthan)
2014-03-16 10:56:40
有難うございます。
これからも続けて御覧ください。

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