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大河ドラマ「お江」の御霊屋 増上寺・徳川家霊廟

2011-10-08 18:12:23 | 東京散策
お江の御霊屋 徳川家霊廟

増上寺は東京上野の東叡山寛永寺と共に徳川将軍家の菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟が御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の左右に建ち並んでいた。

鋳抜門

正面の門は旧国宝で「鋳抜門」といわれ、文昭院殿霊廟(六代家宣)の宝塔前「中門」であったものを移築した。
左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には上り龍・下り龍が鋳抜かれ、その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。

増上寺御霊屋
墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設は、当時の最高技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいで、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、1945(昭和20)年3月と5月の2度にわたる東京大空襲によりその大半が焼失した。
1958(昭和33)年に実施された改装により、徳川家の墓所は安国殿裏手の一画にまとめられた。
墓所には、二代秀忠・六代家宣・七代家継・九代家重・十二代家慶・十四代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠正室、三代家光実母、お江))、静寛院宮(十四代家茂正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(三代家光側室、五代綱吉実母)はじめ5人の側室、及び三代家光第三子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されている。
           

秀忠の宝塔は木造製のため、戦災で焼失し、現在、お江の宝塔が使用されている。
お江(小督(おごう)・お江与)は戦乱の世、近江国小谷城主・浅井長政と小田信長の妹・お市の方の三女として生まれている。長女は茶々(後の淀殿)、次女は初。
お江は3度目の結婚が6歳年下の二代将軍となる秀忠であった。その後三代将軍家光をはじめ2男5女をもうけた。
戦国・安土桃山・江戸という時代の移り変わりの中で、お江は数奇な運命に翻弄され波瀾万丈の54歳の生涯を送り、ここに眠っている。

           

      

      

旧台徳院霊廟惣門
増上寺山内の南端に位置する台徳院霊廟は、1632(寛永9)年に造営されたもので、2代将軍徳川秀忠の廟所。芝の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きく、地形の起伏を利用した壮麗な建築群を誇っていたが、1945(昭和20)年の戦災に際して、罹災を免れた。
七代家継の霊廟二天門も被災を免れ東京プリンスホテルの駐車場に建っている。
           

                
                戦災で消失する前はこの辺りも南廟であった

皇女和宮の墓
余談ではあるが、
戦禍で荒廃したままの墓所を改装工事する過程で棺内の副葬品を調査している。和宮の棺は装飾品のない淋しいものであったようだ。
ただ、両腕の間に抱きしめていたかのように、小さなガラス板が落ちていたという。そのガラス板は写真であることが分かったが、ただの素透しのガラスになってしまっていて、人物画であったことは確かであったそうだが誰が写っていたかは不明とのことだ。
それをテーマにした推理小説が浅見光彦登場の「皇女の霊柩」である。
           


大本山 増上寺

大殿
1974(昭和49)年、浄土宗大本山の念仏の根本道場として、戦災で焼失した本堂が再建された。本尊阿弥陀如来(室町期製作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の像が祀られている。
           

三解脱門(三門)
増上寺の表の顔として、東日本最大級を誇るこの門は、増上寺の中門にあたり、正式名称を三解脱門(さんげたつもん)という。徳川幕府の助成により1611(慶長16)年建立。増上寺は江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のこと。建築様式は3戸2階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味されている。2階内部(非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
その大きさは、間口約19m(10間余)奥行約9m(5間)高さ約21m(7丈)。
           

今回一般公開された2階からの景色、ビルだらけであるが昔は海が眺められたという。
           

増上寺旧方丈門(黒門)
増上寺の方丈(庫裡・くり)の表門であったので方丈門と呼ばれ、全体が黒漆塗であったため黒門ともよばれた。
四脚門で、建造年代を明らかにする記録はないが、三代家光の寄進とされており、慶安年間(1648~52)に建立されたと思われる。増上寺の通用門として1980(昭和55)年に現在の地に移築される。
蟇股(かえるまた・寺社建築で梁の上のカエルの股のような部分)には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
           

大梵鐘
1673(延宝元)年に品川御殿山で鋳造された。
四代将軍家綱の意向で奥方のかんざしまで寄与され、7回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘のひとつに数えられ、東日本では最大級として知られている。
その大きさ、高さ龍頭をいれると約3m(1丈)、径約1.8m(5尺8寸)重さ約15t(4千貫)の大鐘で、その音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘う。
江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」と詠われ、増上寺の近くには九州の有馬や島津の判定があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」・「てもさても諸国へ響く芝の鐘」等の句もあり、江戸庶民の自慢も含んでに親しまれてきた。
           

グランド松
1879(明治12)年アメリカ大統領グラント将軍が日本に訪れ、増上寺に参詣された記念に植えられた。
           

貞恭庵
幕末の悲劇の主人公、皇武合体の犠牲者として有名な十四代家茂正室、皇女和宮ゆかりの茶室。
和宮の戒名から名付けられた。老朽化したものを1980(昭和55)年、現在の地に移築・改修される。4畳半2間の茶室からなるもので、明治の世になって京都から東京に戻って居を構えた屋敷内にあったのではとの見方もあるが増上寺の解説にはその点は書かれていない。
 




              

たまたま増上寺に寄ったところ徳川家旧御霊屋三解脱門の一般公開があったので見学した。
三解脱門は戦後初の公開だという。2階のすべてに歴史の古さを感じさせる。




                                              参考資料:増上寺