出エジプト記19章3~6節(日本聖書協会「新共同訳」)
モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
「ヤコブの家にこのように語り
イスラエルの人々に告げなさい。
あなたたちは見た
わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
わたしのもとに連れて来たことを。
今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
ペトロの手紙 一 2章9~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」
のです。
エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山に到着しました。その様子が出エジプト記19章に記されています。その時、神がモーセに語った言葉が3~6節です。
第一に言われたことは、「神の御言葉に従い、契約を守るならば、イスラエルの民が神の宝となる」ということでした。申命記7章でも、イスラエルの民は神の宝と呼ばれています。そこではイスラエルが「どの民よりも貧弱であった」、「あなたに対する愛のゆえに」と言われ、神の選びの不思議さが語られています。それはつまり、イスラエルの民が神の宝であるのは、彼らにもともとそういう価値があったのではないということです。ではなぜ彼らが選ばれ、「宝」とまで呼ばれているのでしょうか。その理由については、神が選んだからという以外何も語られません。聖書は選ばれた理由ではなく、選ばれた民はそれにどのように応えるべきかだけを語ります。それが「神の御言葉に従い、契約を守る」ということです。
第二は「祭司の王国」ということです。エジプトを脱出したばかりのイスラエルの民には祭司は存在していません。ですから、後に存在する職業としての祭司のことではなく、「祭司の役をする」という意味です。祭司は神と人との仲介をします。そのため動物を神にささげ、人々のために執り成しをするのです。すべての人々のために神に執り成しをする存在としての祭司の役目を、イスラエルの民が果たすということです。この祭司の務めは、最初の先祖アブラハムに言われた「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)を言い換えたものといえます。すべての人々が神の祝福に入る、すなわち神に救われるということであり、この目的のためにイスラエルの民が神の民とされたのです。
第三は「聖なる国民となる」ということです。「聖」は清いという意味もありますが、聖書の中では「特別の目的のために他のものと区別する」という意味があります。神はイスラエルの民をすべての人々を救うという目的のために、他の人々と区別して選んだということです。
イスラエルの民は、神の民とされました。しかし、それはただ単に彼らを優遇するためではありませんでした。むしろ、すべての人々を救うために、イスラエルの民をまず選んで、神の民として働かせようとしたのです。神の民の働きとは、「祭司の役」をするということです。祭司自身は人々を救うことはできません。神が救うのです。それを祭司が人々に伝えるのです。とは言いましても、人びとのために動物をささげたりはしません。神ご自身が人々を救うために、独り子であるイエス・キリストを十字架におかけになり、それ以外の献げ物は必要でなくなっているからです。
それならば、祭司として、神の民は何をすべきなのでしょうか。神はイスラエルの民について「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」(イザヤ43:21)と言っておられます。神の栄誉を語ること、それはすべての人々を救う神の恵みの御業を語ることです。これは新約の神の民、キリスト教会に与えられた務めでもあります。全ての人々の救いのために十字架にかかられ、よみがえられたイエス・キリストを伝え、人々を御もとに導くことにより、私たちも祭司の務めを果たすのです。
モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
「ヤコブの家にこのように語り
イスラエルの人々に告げなさい。
あなたたちは見た
わたしがエジプト人にしたこと
また、あなたたちを鷲の翼に乗せて
わたしのもとに連れて来たことを。
今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。
世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
ペトロの手紙 一 2章9~10節(日本聖書協会「新共同訳」)
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」
のです。
エジプトを脱出したイスラエルの民が、シナイ山に到着しました。その様子が出エジプト記19章に記されています。その時、神がモーセに語った言葉が3~6節です。
第一に言われたことは、「神の御言葉に従い、契約を守るならば、イスラエルの民が神の宝となる」ということでした。申命記7章でも、イスラエルの民は神の宝と呼ばれています。そこではイスラエルが「どの民よりも貧弱であった」、「あなたに対する愛のゆえに」と言われ、神の選びの不思議さが語られています。それはつまり、イスラエルの民が神の宝であるのは、彼らにもともとそういう価値があったのではないということです。ではなぜ彼らが選ばれ、「宝」とまで呼ばれているのでしょうか。その理由については、神が選んだからという以外何も語られません。聖書は選ばれた理由ではなく、選ばれた民はそれにどのように応えるべきかだけを語ります。それが「神の御言葉に従い、契約を守る」ということです。
第二は「祭司の王国」ということです。エジプトを脱出したばかりのイスラエルの民には祭司は存在していません。ですから、後に存在する職業としての祭司のことではなく、「祭司の役をする」という意味です。祭司は神と人との仲介をします。そのため動物を神にささげ、人々のために執り成しをするのです。すべての人々のために神に執り成しをする存在としての祭司の役目を、イスラエルの民が果たすということです。この祭司の務めは、最初の先祖アブラハムに言われた「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12:3)を言い換えたものといえます。すべての人々が神の祝福に入る、すなわち神に救われるということであり、この目的のためにイスラエルの民が神の民とされたのです。
第三は「聖なる国民となる」ということです。「聖」は清いという意味もありますが、聖書の中では「特別の目的のために他のものと区別する」という意味があります。神はイスラエルの民をすべての人々を救うという目的のために、他の人々と区別して選んだということです。
イスラエルの民は、神の民とされました。しかし、それはただ単に彼らを優遇するためではありませんでした。むしろ、すべての人々を救うために、イスラエルの民をまず選んで、神の民として働かせようとしたのです。神の民の働きとは、「祭司の役」をするということです。祭司自身は人々を救うことはできません。神が救うのです。それを祭司が人々に伝えるのです。とは言いましても、人びとのために動物をささげたりはしません。神ご自身が人々を救うために、独り子であるイエス・キリストを十字架におかけになり、それ以外の献げ物は必要でなくなっているからです。
それならば、祭司として、神の民は何をすべきなのでしょうか。神はイスラエルの民について「わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」(イザヤ43:21)と言っておられます。神の栄誉を語ること、それはすべての人々を救う神の恵みの御業を語ることです。これは新約の神の民、キリスト教会に与えられた務めでもあります。全ての人々の救いのために十字架にかかられ、よみがえられたイエス・キリストを伝え、人々を御もとに導くことにより、私たちも祭司の務めを果たすのです。