マル鉄・鉄道写真館

鉄道・バス・航空機・はたらくクルマなど、乗り物全般の歴史をご紹介しています。

DD51牽引 20系寝台客車:急行「だいせん」

2011-02-20 08:21:00 | 国鉄・JR急行列車
DD51牽引 20系寝台客車:急行「だいせん」

急行「だいせん」は、昭和43年10月の改正により誕生した急行列車。昼行列車と夜行列車が存在した。
大阪から福知山線経由で山陰島根方面を結んでいたが、行先は複数が存在した。

昭和53年10月改正より、それまで10系寝台・旧型客車の編成であった夜行列車が20系化される。

夜行急行の20系化当初は、大阪~出雲市間が急行運転となり、大社線への乗り入れ区間は普通列車となる。また、B寝台車のほかにA寝台車を座席改造したナハ21が3両連結され、いずれも指定席となっていた。(ただし、大社線内は自由席。)



昭和59年2月12日 大社駅にて DD511113牽引 急行「だいせん5号」(機回し後)

終点大社駅は昔から優等列車が乗り入れていたため、長い有効長を持っていたが、この20系編成には対応できなかったようである。DD51が機回しされて出雲市方に連結されると、出発信号の確認できる位置まで編成を1両分程度押し込み、所定の位置で折り返し待機するという方法を採ってた。これは、所定の位置に停止後の折り返し出発待ちの図である。

夜行急行「だいせん」は、昭和61年11月改正から14系寝台+12系化され、平成11年10月からはエーデル車両により気動車化されてしまう。
そして、平成16年10月の改正により、山陰の老舗急行「だいせん」は姿を消すことになる。


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キハ56系:臨時急行「ニセコスキー」

2011-02-19 06:10:00 | 国鉄・JR急行列車
キハ56系:臨時急行「ニセコスキー」


急行「ニセコスキー」は、札幌圏からスキーリゾートへ向けた臨時列車。(運転開始時期等は不明)
ただし、単独編成ではなく、主体は札幌駅8:10発の定期急行「らいでん2号」(902D)への併結運転となっている。全ての区間において併結されていることを考えると、体裁的には単に増結されただけと言える。

同年の公社時刻表によると、昭和56年3月29日までの土休日は、「ニセコスキー」(札幌~蘭越間)と「岩内スキー」(札幌~小沢間)を「らいでん2号」に併結すると記してある。

定期急行「らいでん2号」は、札幌~倶知安間が急行運転であり、倶知安からは普通列車(1522D)となる。臨時急行「ニセコスキー」についても、このまま途中の蘭越駅まで併結されていたようだ。
余談ではあるが、前述のとおり臨時急行「岩内スキー」も全く同じ期間に併結されており、こちらは小沢駅で切り離し後、岩内線内を927D定期普通列車に併結して終点の岩内まで運転されていた。



昭和56年3月 札幌駅にて

向かって左側のキハ271による列車が急行「らいでん2号」「ニセコスキー」「岩内スキー」である。右側にも急行列車が停まっているが、「らいでん2号」の35分前に発車する「えりも2号」か、50分後に発車する季節急行「すずらん2号」か、今となっては不明である。




珍しい列車なのでサボの写真も撮っていた。専用にあつらえたサボではなく、「急行」のサボを白塗りしてマジックで書き替えているようだ。ローマ字表記の部分が「EXPRESS」のままになっている。




なかなか巡り会うことは難しいキハ27のトップナンバー。

その後に札幌圏へ行ったのはJR化後であり、冬場にも行っていなかったので、同列車がいつ頃まで運転されていたのかは不明である。

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415系・キハ58系・20系客車:快速「エキスポライナー」

2011-02-18 07:12:00 | 国鉄・JR快速列車
快速「エキスポライナー」

昭和60年、現在の茨城県つくば市において「国際科学技術博覧会」(つくば万博)が開催された。会期は1985年3月17日から同年9月16日までの184日間に及び、この間、会場の最寄となる場所に「万博中央」駅が設置され、さらに、牛久駅や土浦駅に分散したアクセスが採られた。
会場まではシャトルバスが主な輸送手段となっていたが、路線としては常磐線が重要な輸送手段となり、快速「エキスポライナー」が多数設定されている。現在では大宮~武蔵野線経由の旅客営業列車が定期で運転されるようになったが、貨物線が一般客に解放されるきっかけとなった出来事でもあった。


401・403・415系


昭和60年8月25日 神立~高浜間にて 



昭和60年9月5日 万博中央~牛久間にて



昭和60年9月5日 万博中央~牛久間にて久

輸送のメインとなったのは、401系・403系・415系からなる近郊型電車たち。
このつくば万博に合わせて塗装が変更となり、輸送力増強のための15両化が実施された。それまでの「赤電」時代は、4連×3本の最大12連であった。

401系初期車の廃車が既に始まっていたが、残っていた5両の401系初期低窓車も、塗装変更の上総動員されている。


キハ58系




昭和60年9月5日 万博中央~牛久間にて

常磐線急の急行「ときわ」「奥久慈」は、奇しくもつくば万博の開催直前である60・3のダイヤ改正で廃止され、常磐線から定期のDC急行が消えたことになるが、キハ58系は転属・廃車されることなく、「エキスポライナー」にも活用された。グリーン車のキロ28も連結されているが、料金不要で開放されたと記憶している。


客車編成


与野駅にて EF8051牽引 12系



与野駅にて EF8063牽引 12系

輸送には予備の客車も総動員で態勢を組んでいた。大宮から貨物線を経由した列車も多数設定され、主に客車列車が運転されている。EF80も交代時期に入っていたが、客車列車牽引のために廃車されずに輸送に当たっていた。



EF8113牽引 20系

こちらはEF81初期車が牽引した20系編成。「エキスポライナー」として運用されたのか、「エキスポドリーム号」としての回送列車だったのか、記憶が定かではない。交直両用形の電車には限りがあり、万博輸送にはさまざまな客車が集められ、EF80やEF81がフル稼働で運用に当たっていた。

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国鉄 旧型電機 EF57

2011-02-17 00:41:00 | 国鉄・JR電気機関車(直流)
直流型電気機関車 EF57

EF57は、昭和15年から18年に掛けて製造された急行列車向けの電気機関車。
東海道線の主要列車に使用され、後に高崎第二機関区、宇都宮運転所へと移動している。

昭和15年に製造された1号機は、EF56後期車と同様のスタイルで誕生している。
ただし、当時の出力アップ型のモーター(MT38:275kw×6)を搭載したことにより大幅に出力が変わったため、EF57という新型式として誕生した。

昭和16~18年に掛け、2号機以降15号機までが製造されたが、1号機とは大幅にスタイルが変わり、パンタグラフが車端に大きく離れたものとなった。これは、通風機の増設による通風能力の向上、中心部に2基のパンタグラフが寄ったことによる架線の押上げ力緩和のためと言われている。

いずれも蒸気暖房装置を搭載し、暖房車の連結を不要とした。その後、東北・北陸地区の客車電気暖房化に伴い、全機とも電気暖房装置に載せかえられた。


《宇都宮運転所における休車風景》


EF571



EF576



EF579

以上3点は、昭和51年に宇都宮運転所で撮影したもの。1号機のみはテールランプが埋め込み式に改造されている。
6号機と9号機はこのときが最初で最後の対面であったと記憶している。



EF574



EF577



EF5711

全ての営業運転から外れた昭和52年の年始。最末期は、1・4・7・11号機が残っていた。昭和51~52年の年末年始輸送における機関車不足から、休車になっていたEF57の運用が復活した。しかし、年始の輸送が終るとまた休車となった。


《最後の輝き》


昭和48年 蕨~西川口間にて 急行「津軽1号」



昭和48年 蕨~西川口間にて 急行「北星」



昭和51年 蕨~西川口間にて 臨時急行



昭和51年 蕨~西川口間にて 急行「津軽2号」



昭和51年 蕨~西川口間にて 急行「八甲田」



昭和51年 上野~尾久 125レ 普通列車



昭和51年 蕨駅にて 急行「八甲田」



昭和51年 蕨~西川口間にて 急行「津軽2号」



昭和52年3月21日 栗橋駅にて 122レ

昭和52年年始の輸送をもって休車になったと記憶しているが、この栗橋へ撮影に行った記録はこの日付で残っている。


《EF57の印象》









11号機だけは、他の車両と違って白Hゴム化されていた。
パンタグラフの真下は、火花が落ちてきて結構危ない。撮影は走行中に行っており、非常に危険である。よいこのみんなは真似をしてはいけない。
と言っても、今さらそんなことができる機関車なんて残ってはいない。

古き良き時代。思春期の記録。

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14系客車:急行「天北」

2011-02-16 00:43:00 | 国鉄・JR急行列車
14系客車:急行「天北」


急行「天北」は、札幌から函館本線、宗谷本線、天北線を経由して稚内を結ぶ急行列車。昭和36年に誕生し、当初はキハ22、その後直ぐにキハ56を使用するようになる。
昭和60年には同じ方面の急行「宗谷」と、夜行列車である急行「利尻」と14系客車で共通運用が組まれる。これは車両運用の合理化を図ったものだろうか?
14系客車時代は、夜行列車で寝台車を連結した「利尻」とも共通運用となったため、昼間列車でありながらオハネ14系を連結すると言う全国的にも珍しい存在であった。




昭和63年6月25日 天北線 曲淵駅にて 上り急行「天北」



昭和63年6月25日 天北線 芦野~猿払間にて 下り急行「天北」



昭和63年6月26日 天北線 小石~曲淵にて 上り急行「天北」

片道は急行「宗谷」と共通の14系ハザのみ4両編成、一方は急行「利尻」と共通の寝台車付き編成だったが、北海道では季節増結に対して柔軟な姿勢であり、度々客車の増結が行われていた。増結する車両はハザ以外にもハネを使用することが多く、編成内で凸凹が面白かった。

JR化後の昭和63年、キハ40系改造のキハ400形による気動車化が再び実施され、スピード面及びアコモデーションの改善が図られたが、平成元年4月、天北線の廃止とともに宗谷本線経由に振り替えられ、急行「天北」の名称は消滅した。


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