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「人間の本質は『繋(つな)がり』にある」by 田中利典師

2019年02月15日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)で種智院大学客員教授の田中利典師が、ご自身のブログとFacebookに発表された書き下ろしエッセイの第5弾を紹介する(第4弾は、こちら)。
※トップ写真は師のFacebookから拝借した

師は「今、自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを実感することが、いまを生きる大きな支えになる」ということを厳しい山修行のなかで知った。それで「死に対する恐怖が極めて小さくなって行くのを感じた」という。まずは全文を以下に紹介する。

書き下ろし第5弾。山修行で得た体験を書いてみました。普段から講演などでよくさせていただいているお話です…。

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「人間の本質は繋がりにある
山の修行で学んだこと、感じたことはたくさんある。その一つに、吉野から熊野に至る大峯奥駈修行で強烈な体験をした。それを紹介しよう。

その日は朝からものすごい雨が降っていた。もう体中ぐしょぐしょ。行中は1日に20箇所ぐらい峰中の「靡」(なびき)という場所で勤行するのだが、そのときは七曜岳の遥拝所で勤行をしていた。ずっと雨が落ちていた。その勤行をするわずかな時間、ふと、そこで勤行をしている自分と、降っている雨と、雨を受けている草や樹や大地や岩と、雨を降らしている空や雲やあらゆるものが、まさに自分と繋がっているということを実感したのだ。これはもう突然、雷鳴に打ち抜かれた如き感覚だった。

その日はすでに早朝から8時間ぐらい歩いていた。正直、くたくただった。行に入って3日目だと思うが、疲労困憊しながら一生懸命お勤めをしている中で、自我が消滅して、自分は降ってる雨とも、雨を受けている草とも大地とも空とも、全部繋がっているということを体中で感じたのだ。そしてすべてが繋がっていることを感じたその途端に、私の「死」への恐怖が消えたのだった。

私は幼い頃から死を考えると、常に大きな恐怖に襲われた。それは、地球を宇宙の外側から見ている自分がいて、全てから疎外され、自分だけ死んで、それでも地球はいままで通りに運行をしている、そういう思いを抱いたのだ。ものすごい孤独感、恐怖感にさいなまれる感覚である。それが私にとって死への恐怖を生む原因だったのだけれど、すべてのモノと繋がっているということが実感できた時に、死に対する恐怖が極めて小さくなって行くのを感じたのだった。自分は全てと繋がっているということを、山の修行がすんなりと心に教えてくれたのだ。

自分が、私が、というような我執が消えて「懺悔懺悔六根清浄」を繰り返す中で、全てのものと繋がっている自分を諒解することが出来た。これは単に人と人との繋がりだけではなくて、延べては家族とか友人とか地域社会とか国家とか、なおそういうものだけでもなく、先祖との繋がり、人間が持ってきた歴史との繋がり、過去の繋がり、そして未来への繋がり。風土との繋がり、自然、宇宙、森羅万象、それら全部と繋がっているということを、山の修行で突然に体感したのだった。死んだ先の繋がりさえも感じたのである。

これを私は「人間の本質は繋がりにある」いう言葉で言い表している。たとえば、人間とはなんぞやと考えた時に人間の本質は、実はなかなか見つけることができない。人間の本質っていうのはこれだ、というものはないのかもしれない。いや、人間の本質は、繋がり合う側にこそあるのだ、ということなのだ。

例えば、「夫婦」という本質は実はなくて、ここに奥さんがいて旦那さんがいるから、夫婦というものがある。親子も、ここに自分がいて子供がいるから親子というものが出来上がる。つまりこの繋がりの方にこそ本質があるのではないか。心というものの本質もなかなか難しい。でも心という本質は難しいけれども、悲しい時には悲しくなる、辛い時には辛くなる、楽しい時には楽しくなる、繋がりの中に現れてくるものに本質があるのではないか。そういう繋がりの中に本質があるということを、山の修行が私に気づかせてくれたのである。

孤独な生の克服というのは、繋がりの中に自分があるという事を自覚するところに生まれる、と思う。自分というものを極めようとして、自分を中心に物を考えると、どんどん孤立する、孤独になっていく可能性が、人間の心の中にはある。

逆に、繋がりの中に本質があるということを思うと、今、自分が生きていること、生かされてきたこと、これから生きること、それらが全部繋がっている。社会とも歴史とも先祖とも宇宙とも全部繋がっているということを実感することが、いまを生きる大きな支えになるのではないか。山修行で得た、私の大きな人生のキーワードになっているのである。


私も最近になって「人間の本質は繋がりにある」ということを知った。「仏の教えは縁起(関係性)である」ということだ。それを「仏教理解のキーワードは、「空っぽ」(空)と「関係性」(縁起)だった」というブログ記事に書いた。『完全版 仏教「超」入門』(ディスカヴァー携書)から引用すると、

「すべてのものが関係しあって 互いの存在を支えている」
ここに40歳代後半のある男がいる。彼は妻にとっては夫であり、子から見れば父、そして、彼の親からすれば子である。彼はそういう関係性において、今の彼自身であるわけだ。会社に行けば彼は部長であり、経営者から見れば従業員であり、新橋の焼き鳥屋の店主から見れば、週に1回は顔を出してくれる客である。これは個人をたんに役割や待遇という面から見た比喩にすぎない。

しかし、こういった見方をもっと深くつきつめてみればどうなるか。すると、この世のあらゆるものが、関係性においてのみ、その存在が確かめられているということに気づかされる。あなた自身でさえ、多くの人々との関係、あなたの周囲にある、あらゆるものとの関係において、今のあなた自身でいることができる。最初から自分というものが存在しているのではない。多くの人と物と事柄との関係から、自分というものが今ここにこういうふうにありえている。

仏教をひと言でいえば、「縁起」を身にしみて知ること、これしかない。


人間(個人)は決して孤独ではない。関係性(繋がり、縁起)のなかで生かされているのだ。私は本で読んで理解したが、師は大峯奥駈修行のなかで悟った。さすがは「身体を使って心をおさめる」修験者だ。皆さん、いかがでしょうか?

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