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「生類憐みの令」の真実/奈良新聞「明風清音」第59回

2021年07月27日 | 明風清音(奈良新聞)
「生類憐みの令」について、最近は見直しの風潮があるようだ。NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」の「将軍様と10万匹の犬―徳川綱吉と大江戸ワンダーランド」(2017.6.2放送)では、キャスターが「犬を傷付けただけで死罪になった悪法というイメージがありますが、最新の研究でその意外な実像が明らかになってきました」と語っていたし、手元の『新もういちど読む山川日本史』(2017.9.30 1版2刷発行)の「生類憐れみの令」にも、「江戸時代の悪法の代表とされてきた生類憐れみの令は、近年見直しがすすんでいる」とある。見直しのポイントは2つで

①僧隆光が生類憐みを進言したのは俗説であり、事実ではない(「生類憐みの令」の出された貞享2年に隆光は江戸にいなかった)
②生類憐みの対象は捨子、行路病人、囚人などの社会的弱者に及んでおり、これは殺伐とした戦国の遺風を儒教・仏教により払拭しようとした綱吉の政策の一環だった


「ホンマカイナ」というのが私の実感だったが、「生類憐みの令」の全体像の分かる本というものが、ほとんどなかった。やっと見つけたのが、仁科邦男著『「生類憐みの令」の真実』(2019.9.24 草思社刊)だった。これで上記①②は完全に否定された。仁科氏によると「生類憐みの令」のはじまりは、やはり貞享3年7月の「大八車、牛車による犬の事故防止」「主なき犬にも食事を与え、犬を憐れむこと」を命じる江戸町触れで、このとき隆光は江戸にいた。

また生類憐みの対象は、社会的弱者のような「人間」には及ばない。綱吉は「人を含まない生類」を憐れむことに特別な意義を見出したのである。これでやっと私は溜飲を下げたのであるが、奈良新聞の「明風清音」でこれを紹介しようとしたところ、皮肉なことに文字数が足りなくてこの部分を書くことが出来なかった。あまりにも残念だったので、ここに記しておいた。ではそろそろ記事全文を紹介する。

綱吉と「生類憐みの令」
仁科邦男著『「生類憐みの令」の真実』(草思社刊・税込み1,980円)をとても興味深く読んだ。本書カバーには「徳川五代将軍綱吉は、二十数年もの間、生類憐みの令を出し続けた。犬、馬から、鳥、魚介類、虫まで、あらゆる動物への慈愛を説き、その理念と実践を人々に強要したが、彼はなぜ、そこまで過剰な行為に走ったのか?個人的な願望をこれほど赤裸々に表明し、周囲に強要し続けた将軍は、歴代将軍で綱吉しかいない。生類憐みの全法令をつぶさに検証し、綱吉の心の闇に迫る」。

以下、本書の記述に従い、ポイントを紹介する。なお仁科氏は、昨年9月17日に本欄で紹介した『犬の伊勢参り』(平凡社新書)の著者である。

▼下地は「明暦の大火」
綱吉12歳の明暦3年(1657)1月、江戸の町の約7割が燃えた大火が起こる。「江戸の町の行く先々に人の死体が積まれていた。馬も犬も死んでいる。この時の無残な光景は綱吉の心の底に焼き付いて生涯消えなかったのではないか。やがてその記憶は生類憐みの令に形を変え、人々の前に姿を現した」。

▼「生類憐み」的な施策
延宝8年(1680)35歳で徳川家を継いだ綱吉は、生類を憐む施策を始めた。例えば貞享2年(1685)7月の「犬猫つなぐこと無用」のお触れや同年9月の「馬の筋延べ(後肢の筋を切り見栄えを良くする)禁止令」である。前者は将軍のお成り(外出)の際、犬猫をつながなくても良い(表に出してもかまわない)とするものだ。粗相があってはいけないと、犬猫を退治する輩がいたからである。同年11月には、江戸城台所での鳥・魚介料理が禁止された(獣肉料理はもともと禁止されていた)。

▼生類憐みの令がスタート
貞享3年7月「大八車、牛車による犬の事故防止」「主なき犬にも食事を与え、犬を憐れむこと」を命じる江戸町触れが出された。これが生類憐みの令のスタートである。背景には同年閏3月、綱吉の命により長谷寺慈心院から湯島知足院住職に就任した僧隆光の存在があったといわれる。綱吉の母桂昌院は熱心な仏教徒で、隆光に帰依していた。世継ぎに恵まれない戌(いぬ)年生まれの綱吉に対し、隆光は犬を愛護するよう進言したとみられる。

▼鶴愛護令
生類憐みの令は綱吉の前厄の貞享3年(1686)に発せられ、本厄の年から連発される。貞享4年には「捨て牛馬禁止令」、元禄元年(1688)には「鶴字鶴紋使用禁止令」が出された。紀伊家に輿(こし)入れしていた愛娘鶴姫の懐妊祈願にあたり、「鶴」の文字や絵を使わせないようにしたのだ。浅草の饅頭屋鶴屋は麓屋(ふもとや)に、井原西鶴は西鵬(さいほう)と名を変えた。

▼馬憐み令
綱吉が本当にこだわり続けたのは犬ではなく、馬だったようだ。幼名は徳松だが、元服してからは松平右馬頭(うまのかみ)綱吉と名を改めた。通称右典厩(うてんきゅう)公。元服してから将軍になるまでの27年間、綱吉の官職名は右馬頭だった。前述の「馬の筋延べ禁止令」「捨て牛馬禁止令」に始まり、晩年にかけて馬憐み令が続々と出された。元禄7年(1694)の「迷子馬の保護」、同8年の「馬の荷の重量制限」、宝永3年(1706)の「馬養育令」、同5年「病気やケガの馬の介護令」などなど。

しかし同6年(1709)12月に綱吉がはしかで死去すると、翌年1月、生類憐みの令は廃止された。人の命より動物の命を重んじるという天下の悪法は幕引きまで22年を要したのである、やれやれ。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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2 コメント

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Unknown (木方)
2021-08-03 00:31:28
綱吉ってあの立場だから出来たのも結構奇跡的ですよね。世が世ならば、身分や人間かその他かでも扱いが違うでしょうから。ただ同じ命は命だと思うのでその考えはまさに哲学というか信念というか信仰は色々としがらみもあるだろうけど持っていておかしくない発想です、今時に言えば優しいですよね。

個人的には隆光さん調べないといけないとずっと思ってますけどそのまんまで、この前も夢で出た僧のお名前も起きた時は覚えていたんですよね、文字と映像で。ですが忘れちゃって。けど隆光さんがやたらと気になっていましたよ。お寺とお経も出てきたのでもう一回隆光の関係が気になってきたら調べてみます。

高校の時は山川の歴史の教科書で色々楽しかったなあと、子供の為に買おうとも思っていましたけど辛いのが和同開珎じゃなく富本銭になっていたりとびっくりする事もありありですし、逆に違うのでは?って思う事もあるのでとても教えるにも収拾つかなくなるんではないk?と止まってます。日本史興味も全くない子ばかりなので諦めて自分の為に買ってみようと記事読みながら思ってしまいました。

それともう一個ですが、犬じゃなく馬っていうお話がまた無性に興味が出てきてますよ。そう思うと見えてくる物がありそうに思います。興味ある所には綱吉さんやお母様が今に繋いでくれているような場所もいっぱい出会えるのはその熱意のおかげとして現代からは感謝しております。

綱吉さんにしても隆光さんにしてもありのままが浮き彫りになるといいですね。わくわくしちゃいます。
天下の悪法 (tetsuda)
2021-08-04 05:54:17
木方さん、コメントありがとうございました。

「生類憐れみの令」は、人の命より動物の命を重んじるという、とんでもない法令でした。『日本国語大辞典』には、〈江戸幕府第五代将軍徳川綱吉によって貞享二年(一六八五)から宝永六年(一七〇九)まで行なわれた生類殺生禁止令。鳥獣を愛護し、その捕獲殺生を禁じたが綱吉が戌年であったところから特に犬の愛護が著しく、違反者を死罪・遠島などに付したので、世の不満をかった。綱吉の死後廃棄〉。

これは、子が生まれない綱吉(戌年生まれ)に対して隆光が提案し、隆光に帰依していた桂昌院(綱吉の母)も綱吉も、それに乗ったことでできた天下の悪法です。綱吉の死後、即廃棄されたのは当然です。

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