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難を逃れた供養塔が残る徳融寺/毎日新聞「やまと百寺参り」第85回

2021年01月27日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2021.1.21)掲載されたのは「松永久秀の心 石塔に/徳融寺(奈良市)」、執筆されたのは奈良佐保短期大学講師で同会会員の小倉つき子さんだった。小倉さんには『廃寺のみ仏たちは、今』(京阪奈新書)というご著書もある。ならまちの徳融寺は、中将姫ゆかりの寺として知られている。では、記事全文を紹介する。  
※トップ写真は並んで立つ豊成公供養塔(中央)と中将姫供養塔(左)。
危うく多聞城の石垣になるところだった=奈良市鳴川町の徳融寺で

通称「ならまち」に建つ徳融寺(とくゆうじ)や高林寺(こうりんじ)の地は、奈良時代の右大臣・藤原豊成の別宅跡と伝わります。父豊成の後妻から継子(ままこ)いじめを受けた中将姫(ちゅうじょうひめ)が当麻寺で修行し、曼荼羅(まんだら)を織り上げるという「中将姫説話」発祥の地でもあります。徳融寺の観音堂裏に立つ豊成公と中将姫の石塔(鎌倉時代作)は、1677(延宝5)年に高林寺から移されてきたものです。

「戦国の梟雄(きょうゆう)」と称される松永久秀が多聞城(たもんじょう)(奈良市法蓮町)築城の際、墓石などを集めて石垣を造ったと伝えられます。当時高林寺にあった父娘の石塔も持ち去られました。その時、連歌師だった同寺の心前上人(しんぜんしょうにん)が「曳(ひ)き残す花や秋咲く石の竹」と詠み、久秀に石塔の由緒を送りました。

石の竹とは、石塔と石竹(せきちく)をかけた言葉で、石竹はナデシコのこと。冬は雑草同然のナデシコが、秋には花を咲かせるように、荒れ果てた石塔もいずれ供養されるだろうとの意を込めていたのです。久秀は連歌をたしなむ文化人。詩を理解し、石塔を返してきました。おかげで徳融寺で今、父と娘は丁重に供養されているのです。(奈良まほろばソムリエの会会員 小倉つき子)

(宗 派)融通念仏宗
(住 所)奈良市鳴川町25
(電 話)0742・22・3881
(交 通)近鉄奈良駅から徒歩約15分、JR奈良駅から徒歩約25分、またはバス「北京終町」下車すぐ
(拝 観)9時~17時 境内は自由。堂内は要事前予約
(駐車場)有(無料)


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