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田中利典師の『霊山へ行こう』(4)デラシネ、帰属先をなくした日本人

2023年02月20日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は20年近く前、『霊山へ行こう』という対談本を準備されながら、上梓されなかった。利典師はその原稿(ご自身の発言)に加除修正され、ご自身のFacebookに17回にわたり連載された(2023.1.21~2.110。心に響く良いお話ばかりなので、当ブログでも紹介させていただくことにした。
※トップ写真は大和郡山市・椿寿庵のツバキ(2010.2.6 撮影)

第4回のタイトルは「帰属先をなくした生活」。かつて「デラシネ」(根無し草)というフランス語が流行ったことがある。これは、「帰属先をなくした人」と言い換えることができるだろう。戦争に負けて「国家神道」は解体された。進駐軍はキリスト教国家にしようとしたが、それは失敗し、日本人の精神文化は空洞のまま捨て置かれ、「モノとカネ」だけが与えられた…。

これまで利典師は、著作や講演などで教えを説かれてきたが、今回の文章の最後のところで〈結局、私などが何を言っても変わりはしない、身の程知らず、力不足だった〉とお書きである。これは違う。師の著作、講演、SNSなどでの発信は、多くの人に伝わっているし、それはFacebookの「いいね!」数やコメントを拝見してもよく分かる。弱気にならず、ぜひ末永くお続けいただきたいものだ。では、以下に全文を紹介する(師のFacebook 1/24付より)。

シリーズ「山人vs楽女/帰属先をなくした生活」④
著作振り返りシリーズの第6弾は、実は校了まで行きながら上梓されなかった対談書籍の下書きの、私の発言部分を大幅に加筆してみました。もう20年近く前のことですけど、内容はなかなか面白い。みなさまのご感想をお待ちしております。

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「帰属先をなくした生活」
私もそんなにエラそうに人のことはいえないのですが、都会で生きている人たちを見ていると帰属するものをもっていない恐さみたいなものを感じます。人間はどこかに帰属して生きないと、生きてられないわけです。帰属していないから簡単に人も殺せるし、簡単に自分も殺せる、みたいなね。

人を殺したらあかんし、自殺したらあかん、「あかんもんはあかん」と言えないようなことになっていったのは、ひとつは帰属するものを喪失し続けてきたのが原因なのではと私は思っています。たとえば(先生の得意分野である…)極道の世界だって、組に所属していることが極道を続けるエネルギーだと思うのです。

それをなくしたら自分の存在価値をなくすわけですからね。極道は一般社会にはもともと帰属していなくて、アウトローの世界ですよね。でも、組なら組の看板には帰属しているわけでしょ。だからやっていられる。

まあ、極道の世界だけでなく、どんな人間だって、帰属するものがあるから生きていけるわけなのに、いまの多くの人々は帰属するものをもってないんですよ。自分を大切にすることが出来ないのは、帰属するものを失ったせいなのかもしれません。ともかく日本全体が帰属するものを失い続けてきているような気がします。これは大きな問題だと思っています。

現代人のはかなさの根源には、どこにも帰属してないことがある。裏をかえせば、帰属するものを求め続けているとも思える。先の大戦に負け、戦後、せっかく明治に神仏分離をしてまで作り上げた「国家神道」という帰属先は解体をされます。

で、進駐軍政策は日本をキリスト教国にしようとしたというのですが、なぜか途中でやめてしまった。やらなかったのです。調べてみるといろんな事情があったようです。で、どうなったか。やめたまま、日本の精神文化は空洞のままにされたのです。

ただね、空洞のままにされたとはいえ、家制度や村落共同体など、それまでの体制や人々の生活基盤がわずかながらにでも残っていた時代は、神仏和合なり、鎮守さまの祭りなり、そういう昔ながらの習俗やいろんなものの文化伝承は継承されてきたわけなのですけども、それが共同体の消滅などによって、それさえ急速に壊れてきた。そして、その代わりに日本人が何を求め、何が与えられたかというと、物と金だけですわ。

文化伝承が途切れるのですが、そうすると、脳病理学的に病んでるという話になります。脳病理学的に病んでるというのは、大脳の前頭前野の部分に人間の判断力とかを司る部位がありますが、ここが未発達になることをいいます。

特に赤ちゃんは生まれてから1歳半の間に母親から愛情を持って育てられないと、この部位が未発達になるという。昔はですね、母親が少々不出来でも、家族や親族、地域社会などまわりでリカバーできた、それによって学ぶ機会も多かったわけです。

ところがいまや、全然ないですからね。それに代わって、モノと情報量だけが増えてきて、ほんとにいびつな人間がどんどん出てきた。その人たちはどこにも帰属できない。もちろん、神も仏もはないわけだし。本当にとんでもないモノが作り出されてきた社会です。歯止めをかけないと、もうどうしようもないところまでいくのではと、本当に危惧しています。

***************

20年前に話をした内容ですが、けっこう挑戦的なことを書いています。ま、今なお、通用すると思います。あのとき以上に世の中は悪い方向に進み続けているとさえ、思えますからね。

私なりに、いろんなところで、いろんな形…講演であったり、シンポ企画だったり、他宗派との連携だったり、著述だったり…で取り組んできたつもりですが、結局、私などが何を言っても変わりはしない、身の程知らず、力不足だったと感じています。
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2 コメント

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Unknown (吉野山人)
2023-02-20 11:15:15
ありがとうございます。
かわりはしなかったとはいえ、少しは変えられたこともあったかなとは思います。
弱気にならずに私なりに頑張ってまいります。応援ありがとうございます。
粘り強く (tetsuda)
2023-02-21 06:58:43
利典師、コメントありがとうございました。

> 少しは変えられたこともあったかなとは思います。
> 弱気にならずに私なりに頑張ってまいります。

はい、物事は徐々にしか変わりませんから。お互い、これからも粘り強く取り組んでまいりましょう!

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