tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

いつか「コロナ福」だったと言える日/鷲田清一氏(京都新聞「天眼」2021.7.11)

2022年01月07日 | 日々是雑感
今年(2022年)の年賀状に、哲学者の鷲田清一氏が京都新聞の「天眼」欄に寄せられた文章を短く引用して送ってくれた知人がいた。心に響く文章だったので、年始に図書館が開館するのを待ち、1月5日(水)にその紙面を探し当ててきた。全文は画像を見ていただくとして、後半部分を以下に紹介する。

私たちは都市への人口の集中と、世界の諸文化の交流とを、ずっと文明の発展の証のように考えてきた。距離をなくすこと、それはつまり、一方では便利さ(コンビニエンス)、親密さの向上であり、他方で情報の伝達と移動の高速化である。

さらにそういう都市化とグローバル化にくわえ、《開発》という名の野生への侵蝕(しんしょく)こそが、このたびの災禍の遠因としてあるのはまちがいない。

私たちは今ひとたび、人と人とのあいだの適切な距離、文明と野生のあいだの適切な距離を、設定しなおすよう迫られている。「里山」という緩衝地帯にうかがわれるような古(いにしえ)の《共存》の知恵を再度、参照することも必要だろう。

そういう大いなる反省の下で、人と人との、そして人と自然との適切な距離を設定しなおせたことを、いつの日か、あれは「コロナ福」だったとふり返れる日が来ればよい。道は平坦ではないけれども。


コロナ禍で大都市の脆(もろ)さが浮き彫りになり、また国境を越えた移動の危うさが露見した。新型コロナウイルスは、感染した野生動物から人に感染したとされる。「適切な距離」を置くことの大切さが、コロナ禍の最大の教訓だろう。これを「コロナ福」と呼べるだけの度量を今の私は持ち合わせていないが、いつかその日が来ることを願っている。

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