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蘇我馬子の墓と伝わる石舞台/毎日新聞「かるたで知るなら」第20回

2021年09月05日 | かるたで知るなら(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は同会が制作した「奈良まほろばかるた」の各札を題材に毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「かるたで知るなら」を連載している。先週(2021.9.2)掲載されたのは「いつも供花 続く祈り/石舞台古墳(明日香村)」、執筆されたのは奈良市出身・香芝市在住の平越真澄さん。彼女はサンスクリット語に通じ、短歌も詠む才女である。

この連載のおかげで、啓林堂書店奈良店などで販売している「奈良まほろばかるた」(税込み1,200円)の売れ行きは、好調だそうだ。皆さんも、ぜひ現物を手に取ってご覧いただきたい。では記事全文を紹介する。
 
〈蘇我馬子の墓と伝わる石舞台〉
古墳はこんもりとした墳丘が通常ですが、石舞台古墳は石室が見事に露出しています。いつごろ、どのようにして露出したかは不明ですが、江戸時代の『西国三十三所名所図会』には墳丘の盛土がありません。基壇の一辺は約50㍍の方墳で、7世紀前半の最大級の横穴式の古墳です。1952(昭和27)年に特別史跡に指定されました。

玄室の側壁には3段、奥壁には2段、天井には2石の巨石が組まれていて、玄室(げんしつ)、羨道(せんどう)に排水溝が作られています。大小約30個の石材は花こう岩で、多武峰から流れる冬野川の上流、細川谷の茂古森(もうこのもり)付近の石であるといわれています。

1972(昭和47)年から、細川谷古墳群の調査があり、その最西端の7基の古墳を潰して石舞台が作られたことが確認されました。細川谷古墳群は6世紀後半の蘇我氏の関係者の墓とも言われています。石室の形態や所在地、『日本書紀』の626(推古34)年の馬子大臣が亡くなり桃原墓(ももはらのはか)に葬ったという記事などから、埋葬者は蘇我馬子と推定されています。

石舞台は中心が北東に45度傾いていて、天井石のはるか西に二上山が見えます。二上山に沈む夕日は西方浄土のようであり、仏教を信心していた蘇我馬子にはふさわしく思え、露出している巨石は、天を仰ぐ石の記念碑のようです。いつも供花がされていて、古墳本来の祈りが感じられます。国営飛鳥歴史公園石舞台地区は、春は桜、秋はそばの花がきれいで、南側には冬野川が流れていて、のどかな所です。(奈良まほろばソムリエの会会員 平越真澄)

【石舞台古墳】
(住 所)明日香村島荘254
(交 通)近鉄橿原神宮前駅からバス約30分、「石舞台」下車すぐ
(拝 観)8時半~17時
(拝観料)一般300円、高校生以下100円
(駐車場)有


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