日がな一日のんびり暮らしています

のんびり暮らす中で、気になったことなんかを書き込んでみたいと思います。

“プレミアムフライデー”

2017-02-23 13:06:15 | 日記
今月から、プレミアムフライデーが始まる。

消費を増やすという事から、仕事の時間を短縮し、“消費者”を早く街中(ここでは市場)に追い出してみるという事なのだろうか。
ここで、「消費者」という言葉について考えてみた。何らかの商品やサービスの提供を受ける人のことだと定義してみると、今回は「買い物をする人」「食事に行く人」「娯楽施設などを利用する人」などが考えられると思う。他方、購入、享受する人たちを迎い入れる立場の人は、消費者とは言わないのだろうか。ここで働く人たちも、商品を購入し、各施設を利用する“消費者”であるはずだ。しかし、『金曜日の午後』という時間帯に限って言えば、蚊帳の外にある。
つまり、今回の“プレミアムフライデー”は、『月曜から金曜の昼間に働いていて、かつ金曜の午後に仕事を切り上げることができる人』という特殊な階層に属している“人間”を対象に考えられたものだというになるのではないかと考える。
かなりの極論として言い換えれば、「月~金の昼間に働く人は、金曜の午後は早く仕事を終わらせて、遊んでいいよ。そのほかの人は、お金を落としてくれる人がいるから、頑張ってサービスをしなさい。」という上から目線のように思えてしまう。

こうした“上から目線制度”はこの国には考えると思う浮かぶことがある。公共機関や役所、一部の大手という法人である。役所では、最近は少し改善傾向が見られるものの、時間を少しでも過ぎると受付を拒絶されてしまう。また、場合によっては30分位前になると、窓口を閉じてしまう様子がよく見られる。
郵便局では、複数の窓口に列になって並んでいても、時間になると何人並んでいても窓口を占めてしまう事が往々の状況だったが、民営化後は改善され、民間企業のように1列で並ぶように改善されている。しかし、郵便局に関しては、民営化という呪縛に取り込まれいまだに混乱の日々のようだ。封建的な全体主義は相変わらずだし、民営化後もノルマ制度は根深く残している。ノルマ制度は、金融関連ばかりでなく、販売業では日本独自の制度なのか時期ごとに伺い見ることができる。
直近では、チョコレートの販売で見られたし、クリスマスのケーキ、正月の餅、恒例行事である盆暮の贈答品、郵便局の年賀はがき、こうした恒例の押し付け購買に、今回のプレミアムフライデーにも同じきな臭さを感じる。

消費が減少傾向となっているのは、この国に将来が見えないことからくるものだ。見えないのではなく、国民に見えないように、わからなくなるように、この国が舵を切っているからに他ならない。
それは何より、政治が“政治家”から“政治屋”が国政や地方行政に係るようになってきたからに他ならない。
こういった政治や行政を監視するのがマスコミの仕事のはずなのに、マスコミはその運営(経営)するための営利追及をしなければならないため、政治屋からの暗黙の“声”に流されてきている。現在の報道番組でそのことがよくわかるのではないかと思う。毎日が、報道という名の娯楽番組になっているではないか。現在は、マスコミをコントロールできる政治屋が人気を得てその意見を通せるようにもなってきている。

マスコミというメディアは、その発展の流れを考えた時、どうしても政治の影響を受けてしまうようになっていることが分かる。
メディアは当初は紙媒体(主体は新聞)から、ラジオになり、テレビという映像を含めたメディアに移行してきた。メディアは歴史を辿れば、戦争の道具にも活発に利用され、民衆を誘導してきた歴史がある。特にテレビ媒体に移行する際に、メディアは新聞社主体にラジオ局の設立が認可され、テレビ局の認可を受け、各新聞社系列で現在のメディアがある。そこを横断的に広告代理店という興行集団が口銭抜きをしているのが、今のマスコミ業界だ。マスコミという事業が認可事業であるという事は、その認可と言う「旗印」を得るためには、政治の力をバックに行政の『踏み絵』を踏まなければならない。そのために本来の責任が十分に果たせなくなっている要因があるのだと考える。
テレビでは、一羽ひとからげでプロダクションが投げ売りするタレントを使ったバラエティ番組が横行し、各社挙って加熱な内容を競い合う報道番組、特定の団体の利益を担保するための健康番組があふれている。また、ドラマでも、無理やりお涙頂戴を目的に複雑にシナリオを作ったために訳が分からない内容となり視聴率が上がらないものがあったり、安易にヒットしてている小説やマンガのドラマ化が盛んに行われている。

流行という流れの中で、今回の“プレミアムフライデー”がどのようなポジションを得ることができるのかを見定めたい。



今週は忙しかった

2017-02-18 18:18:01 | 日記
2月中盤、今週は3日間勉強会があった。
その内の2日間は、私が所属する委員会主催の講習会で、残りの1日は県の指導員連絡協議会の主催の勉強だった。
県指連協主催の勉強会では、県外の大学から先生をお招きしてのチームワーク作りのための講演だった。
私と同年代の教授という事から考えるところは同じで、“子育ちには、子どもに向けるまなざしが大切”という処に落ち着いていた。
かなりの研究者という事からか、言葉のニュアンスが気になるようで、聴く側としてはなかなか素直に聞くとわからなくなってしまう話し方をされる方でした。このため、講演後に参加者からの質問が出ることはなかった。多分、理解が十分にできていない参加者がほとんどだったものだと感じた。聞く側の力量が試される講演だったのかもしれない。

いい文章を書く人≠いい講演者 という事かもしれない。



そして、今回私たち主催の2日連続での勉強会では、新たな視点での取り組みを行った。

1つは、私が長年行いたいと考えていた中堅/ベテラン対象の勉強会だ。
児童厚生員の勉強会では、中堅が対象でスキルアップを目的に勉強し、交流する。
今回参加はしなかったものの、全国の児童館/児童センタの職員の交流会では、勉強会の後も熱く語り合い、お互いに刺戟や感動を交換し、共有しあうことができる。
一方、学童保育の勉強会では、基本的な勉強が主体で、実践に重きを置いたものが多い。
児童館/児童センターでは、“児童厚生員”という研修を受講した専門員が事業に関わっており、現在貧困絡みで子ども食堂事業や、勉強サポート事業などへの取り組みが進んでいる。他方、放課後児童クラブ事業では、最近資格制度が始まって、現任研修という形での研修を各地域で始まっている。このことから、保育に係る担当を「支援員」「指導員」と呼称が2つが使われている。同時に、保育スタッフには、教員有資格者、保育士資格者、社会福祉士資格者、そして無有資格者が混在している。

私は、各地域の厚生員と関わることで、自分が成長することができる実感がある。この“関わること”から学べる実感を、是非学童保育の指導員にも感じて欲しいと考えていた。
そろそろ学童保育との係わりも残り少なくなるやに感じている今年度、委員会の部会で私が感じてきたことを話す中で、今回の勉強会では、中堅指導員に向けての分科会を行うとこに舵を切ることが出来た。そしてこの試みを、西部地区の指導員で、書籍を出版したり、多くの取材を受けていたり、全国各地の講習会で講師を行い、全国連絡協議会の役員をしている指導員に引き受けてもらえることが出来た。
主催する私たちも、具体的な実地した事例がなく、講師を承諾してもらえた指導員にも新しい取り組みという事で、私からの曖昧な考えの提示からかなりご苦労をかけたものと反省している。

私としては、考えているものの100%の実現ではなかったが、講師の指導員の尽力で参加者からの評価は満足できるものとなった。
そして、もう一つは2日目のsessionでのグループ討議で、男性のみのグループで討議を行ったことだ。今まで男性だけのグループ討議は行ったことがなかった。これは、今回の勉強会の準備をしている中で、委員から提案されたもので、男性参加者が私を含め7名という構成だったために出来たものでもあった。
厚生委員の勉強会では、男性同士で2次会で熱く語り合う事はあったのだが。
このグループ討議からも、男性指導員という事からのシビアな声が聞こえてきた。
私の前職では、指導員の雇用の確保という事が大きな課題として持っていたが、男性指導員というカテゴリーに限って考える上では、特異な課題があることが浮かび上がって視えてきた。
この課題をクリアするためには、個別の事業体、地域、県といった括りでは改善は進まないものだが、今後もこう言った取り組みを行うことで明確にしていくことが大切になっていくものだと感じた。


今日の土曜日は、もう一つの関わりである放課後子ども教室で“連凧作り”に出てきた。
ここでの関わりも健全育成事業ではあるものの、放課後児童健全育成とは、目的や方向性は「異」となるものだ。
文科省所轄、厚生労働省所轄という事だけではなく、運営の方向性や子どもとのかかわり方、この国の生活感、そして大きく明治期からの行政の成り立ちの流れが大きく関わってきている。
この事業を一括の事業に持って行こうとする流れがある中、文頭に書いた“子どもの育ち”をきちんと考える必要があると考える。
今一度、このことについて、行政を含めみんなが考え、話し合ってほしいと思う。
何をするとか、出来るとかではなく、まず互いに話すことから始めなければと私は感じている。


障害者支援センターでの講演会に参加してきました

2017-02-13 11:08:29 | 日記
先月さいたま新都心の新しくなった日赤に付属している発達障がい支援センターの開設記念講演に行って来ました。
新しくなった日赤病院は、外観は以前の結構暗い感じの建物と違って、素晴らしく凛々しいく見えました。



記念公演は、県の福祉部長の的外れの挨拶の後、所長の市川先生の講演と、名古屋芸大の教授さんの2講演がありました。
市川先生の講演に於いては、医師というお立場から多角的に、また先生の対応した実例を挙げてお話いただきました。とても勉強になり、中身の濃い75分でした。

ただ残念なことに、今回の開設記念講演は、全体的にはセレモニーであり、研修と言うカテゴリーからはズレていた様に感じました。
埼玉県は、環境は揃っているものの、運営サイドの人材が乏しく、支援が必要な子どもや対象となる人への支援は充分とは言えない状況です。
特に支援校では、一般生徒以上に習熟すべきことが多いにも関わらず、私が受けた特別支援学校サポーター研修では、受講生の私より知識のない教員や、私の質問の内容が理解出来なかったり、養護教諭に至っては間違った認識をしていたりと、教えを請う私が反対に教える側になることもありました。
私は、人材という言葉を好みませんが、本当に人材が乏しい状況なんです。

因みに、今日の参加者もお付き合いでの参加者がほとんどの様で、研修に来たと言うよりは、お付き合いでの参加している方や、場違いの参加してしまった方が多い様に感じました。かなりの方が、下を向いたままでおやすみしていました。
何より前列の5列45席が、関係者席になっていて座れない様になっていました。
講演にしては、関係者と称する席が多く、講演前や後で聞こえてきた話からは、「急いで帰って〇〇するから、お先に。」、とか、世間話ばかりで、本当に聞きたくて参加しているような方は見られませんでした。

1月の末には、特別支援学校の卒業生たちの“成人を祝う会”が各地で行われました。
身体にハンデを持った子どもたちの成人を祝う会です。
身体にハンデを持った子どもたちには、20歳という節目は健常児の20歳とは重さが全く異なっています。
私の知人は、長くこういった子どもたちに携わって来ています。
という事から招待され楽しみに出かけて行ったようでした。

ところが先日あって“成人を祝う会”のことを聞いたところ、担当したクラスの子どもたちはかなり参加したようで、「保護者も含めて会えてよかった。」という感想でしたが、担任しか来ていなかったクラスもあったとのことでした。
「じゃ参加しなくてもいいのでは?」と話したところ、「出れば代休が出るから来ているんだ。」という事でした。
知人は支援校で30年以上も、子どもたちの教育に関わってきていて、その現状を悲観しています。
私も少なからず、福祉に関わっていることから、この国の障害児教育について、激論を交わしている仲です。
でも、自らが携わっているにもかかわらず同僚の教員に対して不満を聞くことが少なくありません。
そして、私よりも専門であるにも関わらず、私が教えることも少なくありません。
そうした時には、私に「現場に来て、やってよ。」と言われてしまいます。
そんな時私は、「この地区にある支援校のサポートを時々するだけで充分だ。」と答えています。
特別支援学校では、健常児教育よりもはるかに知識や応用力が試されます。
同時に、子どもたちからの試し行為も受けることになります。
日々、子どもたちとの闘いの日々で、それは知識、経験、応用力、対応力、機敏さが求められ、とてもじゃない程の体力まで求められます。
私の子どもたちとの係わりを通じて、そんな度量はないと感じているからです。

でも、少しは出来ることはしたいとも考えてはいます。
じゃ何が出来るかと言えば、答えは出ないんですけど。