意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

8月17日、ソ連軍上陸す 大野芳 ***

2014年07月16日 | 本の読後感
浅田次郎の「終わらざる夏」を読んで占守島のポツダム宣言受諾後の戦いのことを知った。もっと知りたいと思ってこの本を読んでみた。「終わらざる夏」に出てきた日魯漁業の400人の若い女性たちがソ連軍上陸後に30隻の漁船で逃げ帰った話、アメリカとの終戦交渉のために駆り出された通訳の話、満州で結婚してすぐに占守島に派遣された大尉、終戦直前に派遣された参謀などが、実在するという話を知った。浅田次郎はこうした資料を読み漁ったのだろう。

筆者は平成20年に本書を発刊しているが、取材開始は昭和54年、しかしすでに多くの関係者は亡き人になっていた。しかし多くの証言と資料から本書を書き起こした。終戦直前に千葉に転属命令が出たので、最前線だからこそ豊富に配給されていた多くの食料を部下に荷造りさせた連隊長、終戦後のソ連軍攻撃に部下に出撃を命じながら一人で降伏し自害せずに生き残った戦車連隊長、アッツ島の守備戦で玉砕を生き延びて占守島に転戦して死んだ将校と兵隊たち、そしてそれ以外にも、終戦を迎えやっと国に帰れると喜ぶ兵隊たちに攻めてきたソ連軍に向けて出撃を命じた将校たちの苦悩をドキュメンタリーとして記録を渉猟する。

占守島の戦いの意味はあったのか、関東軍の兵士たちを加えると捕虜になった兵士の数は60万と伝えられているが詳細は不明である。捕虜になった多くの兵士たちはその後シベリア送りになり、あるものは思想教育を受けた後に共産主義思想に凝り固まって、あるものは赤旗に憎しみを抱いて舞鶴港に帰ったという。ソ連からの帰還兵を赤旗を振って迎えた集団があった。それに対して「そんなにロスケが好きならラーゲリに行ってみろ」と歓迎の群れに突撃した帰還兵もいた。

そしてシベリアでは劣悪な環境での重労働などで施設によっては6割の兵士が死んだ。思想教育に従わない兵士は日本兵同士の内部告発などで処刑されたりして死んだもの多かった。指揮官を失い統率がなくなった日本の兵士たちのシベリアでの実態、武装解除後の捕虜となった兵士の数値は把握されていないという。

日露中立条約は日本に2発の原爆が投下された後に一方的に破棄されソ連は満州に攻め込んだ。占守島攻撃が8月17日に遅れたのは、アメリカ軍がすでに占領している可能性があったからという。ソ連軍はウルップ島までは攻め込んだが択捉・国後には上陸しなかった、それはアメリカ軍占領情報がもたらされていたからだという。真偽の程は不明だが、占守島の戦闘で死んだ兵士たちは、ソ連の領土への欲望のために死んだ。しかしそもそも太平洋戦争自体が日本の満州や東南アジアで日清日露第一次大戦以降に獲得した領土を守るという欲望に発したもの。ソ連の不実を責められる立場にあるのかと自問自答する。

「しかしもし、占守島での戦いがなく、ソ連軍がスムーズにカムチャツカ半島から南下していれば北海道から東北北部辺りまではソ連領となっていたのかもしれない、と考えれば占守島の戦いにも意味を見いだせるかもしれない」。生き残った長島元大尉の証言である。


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日本史が面白くなる「地名」の秘密 八幡和郎 ***

2014年07月14日 | 本の読後感
Japanは「日ノ本」が中国で「リューベン、ジーベン」となり、それを聞いた西洋人がジパングと記し、Japanとなった。倭国は当時の日本人が自分たちのことを「我(わ)」と呼んでいたことから、また自分の地域のことを「ヤマト」と呼んでいたことから「大倭」と記され「倭」となった。好字二字令が713年に発令され、大和と記されるようになった。ヤマトは福岡県に山門(ヤマト)郡、京都(ミヤコ)郡があり、「大和魂」という言葉もあり、沖縄では今でも本土人のことを「ヤマトンチュ」と呼ぶ。

江戸時代には300の藩があり幕府の直轄領は天領と呼ばれたと言われているが、藩という呼び名は幕末に一部の人間が使い始めたに過ぎなくて、版籍奉還から廃藩置県の時に初めて正式に使われたという。天領も同じ時に使われたと。江戸時代には天領は支配所、御料地、幕府領などと呼ばれ、石高で言うと全国の25%ほどが幕府領だった。九州では日田、長崎、富岡、中国では倉敷、大森、隠岐、近畿では生野、大坂、堺、五条、伏見、大津、奈良、山田、多羅尾、中部では府中、高山、韮山、関東甲信越では府中、中野、相川、神奈川、江戸、布佐、岩鼻、真岡、新潟、東北では小名浜、桑折、北海道の箱館であった。

日本の中で同じ読み方をする市がいくつかある。みよし市(三好、三次)、いずみ市(和泉、出水)、かしま市(鹿島、鹿嶋)、こうなん市(江南、香南)、こが市(古河、古賀)、さかい市(堺、坂井)、さくら市(さくら、佐倉)、だて市(伊達、伊達)、つしま市(対馬、津島)、ふちゅう市(府中、府中)、ほくと市(北杜、北斗)、やまがた市(山形、山県)。

筆者による今はなくなってしまって惜しい市町村名。首里、坊津、飫肥、小倉、赤間関、卯之町、杵築、淀、出石、三輪、上野、白子、樟葉、伏見、安土、宇治山田、信楽、忍、角館。いずれも歴史に登場し、読み方も一筋縄ではいかない地名が多い。

平成大合併で生まれた地名。筆者によるベスト10とワースト10。ベストは宮城の大崎、茨城の坂東、愛知の愛西、長野の安曇野、山梨の南アルプス、愛媛の四国中央、大分の由布、新潟の妙高、鳥取の湯梨浜、長崎の西海。ワーストは愛知のあま(文章に埋没する)、千葉の匝瑳(読めない)、岐阜の飛騨(旧字体の意味なし)、山梨の甲斐・甲州(安易な旧国名)、愛知のみよし(同音市名)、福島の伊達(同市名)、秋田の美郷(同音市名)、茨城の筑西(福岡と間違う)、青森のおいらせ(有名なのは上流の奥入瀬渓谷)、熊本の和水(キラキラネーム)。

2013年11月発刊で新しいのがいい。


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悲しみのマリア(上・下) ****

2014年07月11日 | 本の読後感
1年間の大河ドラマにでもできそうな、そんな人物の生涯を描いた感動実話物語。現在でも「きよせの森 コミュニティクリニック」として医療活動を続けている病院を創設した人物、武谷ピニロピの一生。1919年にロシア・ウラジオストックからハルビンに向かう列車の中で生まれときから始まり、ハルビンで最愛の弟を病気で失ったのち、1929年ごろ、日本に母タチアナ・叔母クセーニャと共に日本へ渡り、知り合いの紹介で福島県会津若松にて暮らすようになる。物語ではマリア・ミリューコフ、弟はミーシャとして紹介される。会津で世話になったのはシベリア出兵でロシアに来ていてマリアの父でロマノフ王朝の最後の帝王ニコライ二世の側近だったミリューコフ海軍大佐と知り合った安藤陸軍大尉。会津では連隊長として地元の学校などに受け入れを依頼した。

安藤の息子健吉はマリアの兄貴分として言葉や遊びを教えた。会津では、八木福子を家庭教師とし、若松第五尋常小学校に4年生で入学、算数に才能を発揮した。会津女学校に進んだ(現・県立会津女子高校)マリアは勉学に励み、主席で卒業後、単身上京。1942年、女子医専(現・東京女子医大)を卒業。1943年、理論物理学者・武田浩太郎と結婚、出産もした。戦争中は外国人として近所からの意地悪にも合う中で必死で子育てをした。ここまでが上巻。

戦争が終わり、順天堂大学病院眼科に勤務。あるとき東京・清瀬村を訪れた時に、トラコーマや眼病、その他の病気で多くの患者たちが病院にも行けず失明したり病気になったりするのを目にした。そして、そこで知り合ったお百姓から土地を借、焼け残ったアメリカ製のタイプライターも質に入れたりしてなんとか資金を工面して武田診療所を開設した。メインは眼科のはずだったが、患者は病気の種類などはお構いなしに診療所に押し寄せた。君沢看護師が唯一の同僚だったが、マリアは必死で診療をこなした。夫は物理学者であり直接は手伝ってはくれなかったが、自転車の乗り方をおしえ、往診の効率アップに寄与、その後は自動車の運転を教え車を入手するなどして診療の効率向上を応援してくれた。娘と息子を授かったが、娘の美知子は呼び寄せた両親に面倒を見てもらったきりで、高校進学と同時にアメリカに留学、当地で弁護士免許を取りアメリカ人と結婚してしまい、日本には戻ってこなかった。娘を両親に任せっきりだったことに反省をしたマリアは息子の陽(あきら)の世話は自分でしようと考えた。しかしあまりに厳しく接したために陽は中学生になる頃から母に反発するようになり、大学生の問には家を出てしまう。しかし35歳になってからは母への理解と和解を求めて病院の手伝いをするようになる。

この間、清瀬の診療所では患者が増え、ベッドの数、診療の範囲も拡大していった。社会の動きを反映してか、看護婦の中には労働運動を引き起こして病院経営がおかしくなりかけた時もあったが、息子の陽や患者たち、近所の人たち、事務長、看護師たちの努力と奮闘で乗り切ることができた。陽は母を連れて母のミーシャへの思い出の地ハルビンを訪問、ミーシャの死んだ場所を訪問することもできた。その時中国は天安門事件の真っ最中、言論弾圧や外国人への迫害もあったが、日本で世話をした中国人たちの支援もありなんとか旅を終えることができた。

大変な生涯である。ロシア革命で生まれ故郷を終われ、日中戦争でハルビンを追われ、日本語もわからず知り合いもほとんどいない会津の町で苦労し、太平洋戦争で日本でもプレッシャーを受けながら子育てをし、戦後の混乱のなか、困窮する日本人たちの診療をするために奮闘した武田マリア。タイトルは「悲しみのマリア」であるが、「前向きのマリア、負けないでマリア」とでもしたほうが内容にぴったり来る。

上下二巻の物語だが、しっかり書けば10冊でも20冊にでもなりそうな内容、「感動のマリア」生涯の物語である。


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古代の地形から「記紀」の謎を解く 嶋 恵 ****

2014年07月04日 | 本の読後感
この本の筆者、素人の歴史好きだ、ということだが、とっても面白い視点。卑弥呼の時代の大王は誰だったのか、魏志倭人伝に出てくる有名人や邪馬台国のことがなぜ古事記、日本書紀に出てこないのか、蘇我馬子、蝦夷、入鹿は何者だったのか、古事記、日本書紀の記述の曖昧な部分と大化の改新(乙巳の変)の関係は、など、あくまで推理の積み重ねであり、もちろん実証はできないが以前から不思議に思っていたことに新たな見方を提供してくれた。筆者のブログは次の通り。
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/ 

まずは、古代の地形、縄文時代には海が関東平野の奥まで入り込んでいた、という話は聞いたことがある。それでは近畿地方はどうだったのか。弥生から古墳時代、邪馬台国の時代にはどうだったのか。今より30mから60mも海水が陸地に入り込んでいるとすると、奈良盆地も多くは海、山の辺の道はその海沿いに作られた道だと考えられる。現存する古墳群も海の際に作られたものが多いという。具体的に+60m水位を地図にしてみると、生駒山と信貴山が若草山から奈良の北部を伝って伸びている半島のようになり、奈良は北は若草山から南は樫原市や桜井市、天香久山東は天理市、西は二上山、葛城市までが湾になり、細い水道のように香芝市と柏原市の間を海が入り込んでいる。奈良の北は木津から田辺、城陽、宇治、そして伏見までが入江になり現在の大阪市街地のほとんどは海である。同じように博多から太宰府、久留米、有明湾あたりも+60m水位で見ると、博多から太宰府、久留米までずっと海がつながっていて、白村江の戦いで敗れた天智天皇が築いた水城、元寇を防ぐために作られたという土塁は太宰府から筑紫野市にかかる海の上の橋のような位置づけになる。魏志倭人伝の頃の地形がこうであれば、陸行、水行という記述が別の意味を持ってくる。そして親魏倭王の金印を大国であった魏の国が邪馬台国王に送ったとすれば、それは破格の待遇であり、邪馬台国は北九州にあった、と考えるのが筋だという。邪馬台国大和説の根拠である箸墓古墳は考古学的には350年ころの築造とされ、248年に死去したとされる卑弥呼の墓ではない、というのも筆者の主張である。当時の地形からこうした推理を巡らす、これはひとつの見方である。

そしてその時代に稲作や製鉄技術をもった大陸からの渡来人が日本列島に海沿いに入ってきた。日本列島の先住民は縄文人と狩猟民族。混血もあったが、多くは山の中のサンカの民や、蝦夷地、琉球に追いやられていった。現在の日本人はこうした縄文人と弥生文化をもった渡来人の混血であり、渡来人達は何波にもわたって半島や中国大陸から日本列島に移り住んだ。百済の王子・昆支(こんき)が百済への支援を求めて日本に来たのは5-6世紀ころ。地質から見ると、北九州にあったとされる奴国は縄文時代に起きた鬼界カルデラの大噴火の影響が少なく、水田耕作に向いていたことから朝鮮半島南部の加羅系の人々が作った国であり、南九州にあったとされる狗奴国は騎馬民族であった百済系の人々が作った国であった。先住民であった隼人族とは婚姻関係を繰り返し勢力を広げていった。これが古事記の海彦山彦物語で語られる話であり、日向神話は狗奴国を作った天津族が大和朝廷を開くまでの歴史を神話にしたもの、という推察である。この狗奴国勢力に対抗しようとしていたのが卑弥呼の邪馬台国で、後ろ盾を得ようとした卑弥呼は魏に朝貢した。一方百済は呉に朝貢、百済、呉、狗奴国が結び、邪馬台国と魏の勢力と戦っていた。その後、魏が249年クーデターで滅びたあと、270年年ころに邪馬台国は狗奴国に滅ぼされた。つまり、このころの日本の歴史は朝鮮半島や中国大陸と一体となり進んでいることを認識できなければ説明できないという主張である。

古事記と日本書紀の記述が不明確なのはこうした歴史を編者が自分の都合の良いように書きたかったためねじ曲げられたためであり、神功皇后の東征や実在しない神武天皇以下の記述を、中国側の記述も意識しながら整合性を崩さないように工夫して書かれた、という推理である。先ほど登場した昆支は隅田八幡人物画像鏡銘文から推察すると、これが倭の五王の武、応神天皇と見られる人物であり、オホド王(後の継体)は倭王・興の息子で義弟で、応神の五世の孫で越しの国から連れてきた、などというのは嘘であるという主張。理由は、河内王朝であった崇神から始まる垂仁、倭王・讃、倭王・珍、倭王・済、倭王・興つ続いた王統が倭の五王の最後の武で、百済からやってきた昆支に代わったことを隠すためであった。倭の五王がどの天皇に当たるのかが特定できないのは、古事記の歴史の水増しのせいであるとする。そして、日本書紀は応神の在位を200年ほども繰り上げて欽明を継体の子どもとすることで、応神と欽明との関係を隠し、欽明の子・孫・ひ孫は応神系の大王であった蘇我馬子、蝦夷、入鹿であったのに、それを臣下の豪族であったかのように記述した。つまり蘇我馬子、蝦夷、入鹿は大王(天皇)だったというのである。聖徳太子、崇峻、推古などは架空の人物であり、子孫を残さず死んだことになっているのは蘇我氏の家系を臣下の家系として隠すためであった。馬子の孫、石川麻呂の娘は3人共天皇妃になっており、石川麻呂の弟の娘二人は天智、天武の妃になっている。つまり馬子の子孫は称徳の代までずっと天皇になっていて、蘇我氏が単なる豪族の一つであるはずがない、という推察である。聖徳太子、崇峻天皇、推古天皇などの架空の人物が活躍したように記述したのはそちらに目をひきつけ、蘇我氏三代として隠した実際の天皇の系譜に目が行かないようにさせるためであったと。聖徳太子陵にある3つの石棺はこの三代の大王の棺ではないかという推理もある。さらに、名前が不自然なのは、存在した事実を隠ぺいするためで、馬子は実際には欽明の息子アメノタリシヒコであり、蝦夷は欽明の孫で漢の皇子と記された倉麻呂であり、入鹿は倉麻呂の息子、石川麻呂である、というのが筆者の推察である。不自然な名前、子孫がいない、などは記紀が事実を隠すためにこしらえた架空の人物だから、という推理である。欽明の子孫で敏達から用明、崇峻、推古、舒明、皇極、孝徳、斉明、天智、弘文、天武までの天皇は実際には、蘇我馬子、蝦夷、入鹿、古人大兄皇子、天智、天武と続いていたのではないかという。

他にも中臣鎌足の出自は鹿島、不比等の捏造、アマテラスとスサノオの関係、などなど数多くの面白い推理があるので、関心がある方はぜひ読んでみてほしい。

地名の謎にも言及していて、私も前から気になっていた佐久地方になぜ海がつく地名が多いのかということ。小海線沿いには海ノ口、海尻、小海、海瀬、新海神社、海野など、標高700mの佐久盆地になぜ海の地名が続いているのか。まず佐久という地名はこの地を開拓した神、オオハギが新開(にいさく)の神ともいわれ、開が佐久となり新開が新海神社となった。神社のある田口は田が初めて開かれた地だからだという。そして諏訪湖と同様、この佐久盆地にも火山噴火で堰き止められてできた幾つもの大きな湖があったとのこと。


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