意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

捨て童子・松平忠輝(上) 隆慶一郎 ***

2012年03月30日 | 本の読後感
徳川家康の第六子松平忠輝は鬼っ子として生まれた。容貌怪奇なため家康は生まれた赤ん坊を「捨てよ」と命じたため、下野長沼3万5千石の小大名皆川広照に引き取らせた。忠輝の幼名は辰千代、母はお茶阿といった。お茶阿は鋳物師の生まれ、道々の者の流れをくむ。家康との間に辰千代に加えて松千代も生んだ。そして連れ子のお八を花井三九郎に嫁がせた。そして辰千代は長沼松平家を継ぐことになり、武州深谷一万石を領することになった。

この辰千代が、幼少のころから武術に、学問にも異彩を放つ存在となった。家康の子にして傀儡師の一族と交流し、オランダから来ていた宣教師から医術とラテン語を習い会得、武術は忍術を学び、徳川家の子供として豊臣家に嫁ぐことになる千姫とも一緒に遊ぶ。とにかく、辰千代、長じて松平忠輝は只者ではない若者に成長していく、というお話である。読んでいて痛快、、武士、そして道々の者と言われる日本史の教科書にはあまり出てこない人物も登場する、面白い読み物だと思う。



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駅名で読む江戸・東京 大石学 ***

2012年03月27日 | 本の読後感
1603年に徳川家康が江戸に幕府を開いて400年余り、江戸城、隅田川河口周辺の下町、神田、品川、赤坂、溜池、上野、そして山の手に広がり、西の多摩地方に広がる東京、歴史を踏まえ地名について解説する。

オランダ人の航海士、ヤン・ヨーステンはリーフデ号に乗り1600年豊後に到着、家康に信任され日比谷堀端の現在の丸の内に屋敷を与えられた、この屋敷地がヤン・ヨーステンの音から八重洲と呼ばれるようになった。1929年の町名変更の際にこの地は丸の内となり、外堀埋め立てを経て駅の反対側が八重洲と呼ばれるようになった。

柳沢吉保は1688年に側用人に就任、その後川越城主として7万2千石の老中格となった。綱吉は柳沢吉保に駒込の土地4万9千坪を与え、柳沢吉保は六義園を建造した。六義園とは、中国詩経の分類法で「風、雅、頌、賦、比、興」に由来、風は諸国の民謡、雅は朝廷の正楽、頌は宗廟における祭りの楽歌、賦は感想、比は比喩、興は他のことを述べて本題に入ること、をそれぞれ指すという。

日本橋は元は二本橋で、その後、慶長の江戸大普請があった頃から日本橋と呼ばれるようになった。また日本全国へ向けた5つの街道の第一歩が日本橋と定められたことも大きく影響していた。橋の広さは元和の再架の時には69メートルで江戸最大の橋であったことも日本橋、と呼ばれる理由となった。

後楽園は中国の明の儒学者朱舜水の意見を取り入れ、「士は天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」に基づいているという。神田用水の水を引き入れた庭の池は回遊式築山泉水庭園であり、神田川の水は邸内を通り、懸樋で神田川を越えて暗渠に流れていた。

紫衣事件が起きた時、後水尾天皇はこれを不満として幕府との緊張が高まった。こうした事態を収拾するために大御所秀忠に支持で後の春日局であるお福は京都に赴き、秀忠の娘で中宮和子に伺候し武家伝奏の三条西実条の妹の資格で天皇に拝謁、春日の局号を与えられた。お福は幕府の一侍女であり、公家の反発を招いたが、紫衣事件とあわせて幕府の力と朝廷とのバランスが変わってきたことを象徴する事件であった。この後、後水尾天皇は女帝の明正天皇に譲位した。お福が与えられた屋敷があったのが春日である。

越中島は家康にゆかりの深い久能山東照宮の警護を命ぜられていた榊原越中守で、この洲に屋敷を構えていた。しかし毎年の洪水にさらされ屋敷を返上、その後は人々が徐々に住み着いたという。

その他、代田橋はダイタボッチというツングース系オロッコ語に由来し、大きな人の穴居という説話から来ているという。大太法師とも書く。成城学園は「哲夫成城(てっぷしろをなす)」という詩経の経典からとられている。多摩川を挟んだ両岸には同じ地名が存在する地域が多い。石田、押立、布田、和泉、二子、宇奈根、瀬田、上野毛、下野毛、等々力、丸子などである。多摩川の流路がたびたび変わることから一つの集落が両岸に分断されたためと言われる。羽村は羽衣の里、端の村から転じて羽村と言われた。ちょうど江戸の町に引かれる用水の取水口があった場所でもある。雑学的な知識がいっぱいである。昔は亀無だった亀有、幕府御用の警備隊がいた御徒町、ビールの名称が駅名になった恵比寿、徳富蘆花が愛した町が芦花公園などなどもある。



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青春の門 挑戦編 ***

2012年03月21日 | 本の読後感
時代は1960年頃、舞台は北海道江差、伊吹信介はアナキストの活動家丸谷玉吉の遺品と遺骨を預かり、玉吉のふるさとである江差にある鴎島に散骨するために東京からわざわざこの地に来た。それを密かに追うのが全工連の岸森、活動資金1200万円を信介が預っていると思い込んでの追跡だったが、それは空振りに終わった。

時代背景は60年安保、ハガチー事件から所得倍増計画発表へ、そしてアメリカでは43才のケネディ大統領誕生、北海道では北方領土問題が特攻船やレポ船などの問題を生んでいる。信介は江差で知り合ったオーストラリア人のジョン、新宿2丁目で知り合ったカオル、函館の元新聞記者西沢洋平らとともに対ソ連問題に巻き込まれる。信介を追って江差に来た岸森は組織からの粛清を受け視力を失うが、江差でバーを営んでいた立原百合江とジャズ喫茶を開店して江差で暮らすことを決心する。信介は百合江の娘で17才の美少女襟子に気に入られ関係を持つようになるが、ジョンの勧めで海外に旅することを夢見て、チャンスを伺う。東京では歌手としてデビューした牧織江がプロとして芽を出しかかっている。織江から信介は何回かの手紙を受け取り、織江の信介への変わらぬ思いを確認するが、海外への憧れを心の中で育て続けている。

こうした中で、函館で出会ったレポ船の後ろ盾となっている影之原隆元と元新宿二丁目で娼婦だったカオルがその秘書になっており、さらには公安警察の安川という人物も絡んできている。対ソ連政策では、日本政府の立場は北方領土返還を要求、影之原も同様の立場で表向きは活動しているが、裏ではソ連への情報提供の元締めでもあり、複雑な動き。そうした中で、西沢がレポ船の存在を社会的に追求しようとする動きが影之原の眼に止まり、この動きを牽制しようとする中で、信介、ジョン、そして西沢にハバロフスクに行ってみることを持ちかける。西沢の元同僚で、西沢が死んだと思い込んでいる伊庭敬介がハバロフスクで影之原の手助けをしている、ということを持ち出し、彼に会って真実を知ってほしい、というのである。信介のことが好きになった襟子はこれを知って、自分も連れていくように信介に迫る。

信介と織江の青春ストーリーは過去のものとなりながら、信介の勝手気ままな思いつきに従ってストーリーが展開するような、若者は無茶なことをしてみるものだ、というインテンションがあるような、今後の展開が読めない。週刊誌での連載では、この先の風雲編で、ハバロフスクへ渡り、すったもんだがあった後に、信介はハバロフスクで知り合ったロシア人娘アニョータとシベリアを横断してポーランドを目指すらしい。しかし連載はその時点で中断したままである。拡散したストーリーをどうまとめていくのか、五木さん、長生きして欲しい。



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ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ***

2012年03月17日 | 本の読後感
世界最大の大富豪一族とも言われるロスチャイルド家が、どのようにして興り、欧州からアメリカへ、そして戦争を通して富を築いてきた歴史を解説する。

1744年にフランクフルトのゲットーで生まれたマイヤー、銀行業を学び、苗字をドイツ語で赤のrotと盾のschildとして父の金貸し業を継いだ。ウイリアム王子に取りいって財をなしたマイヤーには5人の息子がいた。長男アムシェルにはフランクフルト本店をまかし、次男サロモンにはウイーン、三男ネイサンはロンドン、4男カールはイタリアのナポリ、5男ジェームズはパリと配置した。

一番有名な話は1815年のワーテルローの戦いとその結果をいかに早く市場戦略の生かしたかという逸話。ナポレオン敗戦をいち早く知ったネイサンロスチャイルドはイギリス公債を売り、市場関係者がそれにつられて公債を売ったことによって暴落した公債を再び底値で買い戻し暴利を得たという話。ネイサンはイギリス公債入手により最大の債権者となりイギリス政府に対して絶大な影響力を持つに至ったのであった。同じようにロスチャイルドの兄弟は各国の金融をコントロールするようになる。マイヤーが1812年に遺言したのは次の5つ。
1. ロスチャイルド銀行はすべての要職をロスチャイルド家が担当し外部の人間を入れない。
2. 財産流出をさせないため、いとこ同士でしか結婚しない。
3. 財産状況は口外しない。
4. 遺産相続は弁護士に介入させない。
5. 後継者は長男とする。
実際、このあとの100年で行われたロスチャイルド家の婚姻は18回、16回はいとこ同士であり、2回はユダヤ人銀行家と行われた。1850年ころのロスチャイルド家の財産は60億ドル、150年後の現在は50兆ドルあると見られているが詳細は不明である。

ピーポディーは1854年当時100万ポンドクラスの銀行家であったが、ロスチャイルド家の代理人になることで1857年の大不況の時にアメリカ鉄道債と連邦債で大儲けし2000万ポンドを稼いだ。ピーポディには子供がなかったため、ジーニアス・モルガンをパートナーとしそのアメリカ支店をJPモルガン商会とした。

1929年8月9日、連邦準備制度理事会は公定歩合を6%に引き上げたのを機に、ニューヨーク連銀は銀行への貸付金利を5%から20%へと引き上げた。投資家達は株式市場から逃げ出し、1600億ドルの富が2ヶ月の間に消えた。これを国際金融家は羊毛刈りと呼んだ。この大恐慌では8812社が倒産したが、ニューヨークの5大銀行に対抗しFRBの言うことを聞かない五大銀行に敵対する相手であったという。

日本製品が欧米市場を席巻していた1980年代国際銀行家達は円高ドル安政策を打ち出し1985年のプラザ合意ののち、1ドル250円は149円まで上昇したのだ。1987年にはNYSEの株価は暴落、対日貿易赤字問題で交渉したブッシュと中曽根は日米金利調整に合意、日本の公定歩合は2.5%となり過剰流動性が高まった結果、株式市場と不動産価格の金融バブルが出現した。国際金融資本が用意した武器は株価指数先物商品であった。1989年12月に日本株式市場が最高値の38915円をつけたその頃、舞台裏では株価指数のプットとコール・オプションの売り買いが仕込まれていた。年明けに下落に転じた株価は、株価が下がれば儲かる株価指数プットオプションを大量に売りだしたゴールドマンサックスはアメリカ市場で大いにこの商品を売りさばき、日本の株式市場の相場下落速度は早まった。現在、中国の株式市場にも当時の日本株式市場と同様の仕組みが組み込まれているという。



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藤原氏千年 朧谷寿 ***

2012年03月16日 | 本の読後感
7世紀の中臣鎌足から16世紀山科言継までの、藤原氏の始まりから、藤原氏が五摂家などに分家していく歴史をたどる。

中大兄皇子は皇太子に20数年在位、その後天智天皇となったが、孝徳帝崩御の時には29才になっていた。皇極が斉明として重祚したのは、中大兄皇子が孝徳の皇后であり実妹の間人皇女と恋愛関係にあり、即位すれば間人皇女を皇后とすることになってしまうことを憚ったという。間人皇女が崩御した後に天智天皇として即位したのはその現れであると。そしてその翌年、中臣鎌足が危篤状態になった時、天智天皇は鎌足に最高の官位大織冠と内大臣の位を与え、中臣という姓に代えて大和の国の地名であった藤原を姓として与えた。程なく鎌足は生涯を閉じるが、これが藤原氏のおこりであった。太政官の位を藤原氏が司ることは神祇官であった中臣氏と新たな藤原氏が太政官を受持ち、政治と祭祀の分離、政教分離をも意味した。藤原朝臣は不比等に継承させ、神事を司るのは意美麻呂として中臣姓を名乗らせたという。

薬子の変の後、藤原4家の内、式家は勢力を失い、平城京と平安京の間で揺れ動き続けた都の場所が、嵯峨天皇の時代にようやく平安京に定まったという。そして蔵人頭が天皇の機密保持を目的として令外の官として設けられたのもこの時、尚侍の役割を蔵人所が受け持つこととなった。その蔵人頭の初代が藤原冬嗣であった。後に、冬嗣は参議、そして右大臣、左大臣となるが、蔵人頭は公卿への登竜門となったのである。

賜姓皇族とは源氏や平氏として皇族から臣下になった一族であり、清和源氏、桓武平氏がある。源氏、平氏ともに歴史の流れの中で武家の一族となるのだが、藤原忠平政権の晩年、東国では平将門と西国の藤原純友が争乱を起こした。将門は若い頃には都で忠平に仕えたこともあったが任官できず帰国、土地の豪族と諍いを起こす。一時は朝廷に事情を説明して事無きを得たが、その後も常陸の国司と争いを起こしたものに加担、常陸、上野、下野の国府を占領してミニ国家樹立を試みた。2ヶ月後の940年、天慶3年には将門の首は都で晒されることになる。同じ頃、元伊予の国の尉であった藤原純友は瀬戸内海を荒らしまわる海賊となって、筑前の大宰府をも略奪の対象としたため、朝廷は官軍を編成し滅ぼされた。純友は北家の末裔であり長良のひ孫であった。10世紀のこの承平・天慶の乱は都の貴族に武力の怖さについての衝撃を与えた。

道長には2人の妻がいた。その内の一人、源倫子の父は宇多天皇を祖父に持つ賜姓皇族でもあった源雅信、妻は藤原穆子(ぼくし)、穆子は道長の将来性を見ぬいて娘を嫁にやったという。そして倫子が生んだ子供が道長の栄華の源となった。倫子が生んだ4人の娘は一条妃、三条妃、後一条妃、後朱雀妃となったのである。しかし道長も死に、まもなく東国では平忠常が反乱を企て、奥州では前九年の役が起きた。前九年の役では追討側に加わった清原氏は後三年の役では清原清衡が源義家と組んで勝利者となった。そしてこの藤原清衡が奥州藤原氏の初代であり中尊寺を建立、権勢を誇ったのだが京都の藤原氏との関係はない。こうした内乱の続発が中央政府の没落を象徴し、地方豪族の躍進を中央政府にも印象づけた。そして追討にあたった源氏は東国に勢力基盤を築き、鎌倉政権へとつながっていく。12世紀半ばの保元・平治の乱は皇室・摂関家などの対立から起こったが、武力によって解決されることで、武士の勃興を許し、地下人と蔑まれた武士が権力の前面に登場するきっかけとなった。

藤原氏では北家がその後主流となったが、その中から五摂家が生まれた。鎌倉幕府の三代目実朝暗殺で直系が途絶え、藤原家から公家を迎えた。その中で忠通の子、基実が近衛家、兼実が九条家を起こし、近衛家からは更に鷹司家が生まれ、九条家からは二条家、一条家も生まれた。これが五摂家となり摂関の位と荘園も持つことになる。この時代の公家は「こうけ」であり、その後、武家に対する貴族の総称として鎌倉時代以降は公家(くげ)と称されることになる。この摂関家のシステムは江戸時代末期まで継続、千年継続することになる。例外は秀吉とその甥秀次が関白となったこと。それでも秀吉は形式上近衛前久の養子となり藤原朝臣となっている。藤原氏が五摂家と呼ばれ権勢を誇ったのは千年のうち、前半200年であり、800年は形式的な摂関家であった。家名は平安京の街路名からつけられたものが多い、特に東西の通りである。そして寺院(世尊寺、勧修寺、西園寺、徳大寺)、地名(山科、日野)がある。

ちなみに、慶応三年の王政復古の舞台となった禁裏の小御所には明治天皇、岩倉具視、大久保利通らとともに公家が同席したが、呼ばれたのは万里小路、中御門、正親町三条の3人だけであり、五摂家は招かれていない。そこには従来の制度を否定するという意味合いが込められていた。しかし明治17年に定められた華族令では公侯伯子男の爵位が認められ、徳川家や五摂家は公爵に清華家は侯爵に、大臣家、羽林家、名家は伯爵になったため、特権階級は温存されたとも言えるが、第2次大戦後終了が華族の最後であった。今でも唯一公家屋敷に住むのは冷泉家であり、天皇が東京に移り住むときに京都留守を承ったという。そして冷泉家の墓には今でも「藤原朝臣」と記されているという。



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中世民衆の世界 藤木久志 ***

2012年03月14日 | 本の読後感
戦国時代の民衆は地頭や代官の年貢取り立てに抵抗して、一揆を起こしたり、代官を通り越して越訴を実行したりしていた。「領主は当座、百姓は末代」と言われた関係にある代官と農民、戦国時代の為政者や武将たちがどのように農民たちをコントロールしようとしていたのか、農民たちはそれらにどう対応していたのだろうか。

飢饉の年は、年貢も払えず村から逃げる農民が多く、領主としてはなんとかこれを食い止めたかった。鎌倉時代の御成敗式目では「百姓が村を捨ててよそへ逃げる時、もしその年の年貢をすべて収め終えていれば去留は民の意にまかせよ」と決めていた。これは大飢饉や大災害を切り抜けようと考えだされたのと同時に、江戸時代までも続いた農民と領主との了解事項でもあった。

戦国の村には掟があり、これを破るものは厳しく咎められた。しかし、村の長老や主だった者たちが、掟破りだとして村人から財産を奪ってしまうことも相次いだため、掟破りは罰するものの、その財産は村の管理として、その子供に相続させる、という方向に変わっていった。これは家を大事にしていかなければ村の繁栄が阻害されることからでてきた知恵であり、その後19世紀の国法によっても遺産相続に同様の考え方が踏襲された。

村には村の共同財産でありシンボル的存在として惣堂、阿弥陀堂などがあった。旅人たちが休む場所、農民たちが祭りをする場所など共同で利用する空間として利用されていた。寺の仏が惣堂に設置されて僧侶が常駐する場合もあったが、その場合でも惣堂自体は村の共有財産とされ、寺の所有物とは一線を画した。

村人を軍隊として使役する戦国大名は、陣夫などに米を一日4合飯は二度などと取り決めていたという。食料は自前、ということではなかったようだ。また、地頭との関係でも、農民が一方的に地頭に年貢を収めるだけではなく、地頭も毎年の行事の中に、農民への反対給付を求められていたことが、「指出」といわれる書物に残されている。

江戸時代になって村同士のいざこざがあった場合には鉄火と呼ばれる儀式で決着、神前で双方が熱鉄を握り正邪を確かめる儀式であるため、指名されたものの手は使い物にならなくなるという乱暴なもの。その補償としては、その家の惣領一人は課役を永代御免とする約束があったという。こうした一見厳しい取り決めは、容易にいざこざを起こさないための抑制手段であり、村の存続、団結、そして領主への圧力ともなっていたと思われる。現在の日本の地方に残る村の取り決めや伝統の中には、こうしたしきたりの残滓が見られるのだろうか。



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日本の女帝の物語 橋本治 ****

2012年03月11日 | 本の読後感
女性天皇の議論が数年前に湧き上がり、秋篠宮家に悠仁親王が誕生したことで下火になっていたこの議論。天皇の血筋と男系男子、女性、女系などの問題は何であろうか。日本歴史に登場する女帝は8人、そのうち6人は飛鳥時代にいた。最初の女帝、推古はなぜ初めての女性大王になったのか。皇極は中継ぎだったはずなのに何故もう一度斉明として登場したのか、最強の女帝とも言われる持統はどのような資格で女帝となったのか。元明天皇、元正天皇と続く女帝登場の背景、孝徳天皇、重祚して称徳天皇以降永い間江戸時代まで女帝が出なかった理由はあるのだろうか。

「中継ぎ天皇」は次世代に有力な天皇候補が予定されているのだが、何らかの事情で天皇即位が難しい場合、それが可能になるまでの間天皇になる」と解釈される。有名な後白河天皇は鳥羽天皇の皇子であり、崇徳天皇の弟であるが、崇徳天皇は鳥羽天皇の后である待賢門院と鳥羽天皇の祖父白河法皇が密通して生まれた子とされる。白河法皇は絶大な権力を持ち、藤原璋子(たまこ)を養女にしながら関係を持ち、藤原璋子を孫の鳥羽天皇に妻として与え、さらに鳥羽天皇が21歳の時に譲位を命じてその子崇徳天皇を誕生させたのである。崇徳天皇即位の6年後白河法皇は死亡、鳥羽上皇の時代となる。鳥羽上皇は美福門院藤原得子(なりこ)との間に男児をもうけ子供のいない崇徳天皇の養子とした、これが近衛天皇。しかしその翌年、崇徳天皇にも男児が誕生、これが重仁親王。更にややこしいことに、重仁親王は美福門院の養子となる。力を持っているのは鳥羽上皇、崇徳天皇に命じて、養子になっていた近衛天皇に3歳で譲位させたが、その近衛天皇は17歳で死んでしまう。後白河天皇は鳥羽上皇と待賢門院の間に生まれた第四皇子だったが、崇徳天皇との間の2人は早世、守仁親王を子としていた。鳥羽上皇としては白河法皇との密通で生まれた崇徳天皇の子供には即位させたくない、そこで美福門院はこの守仁親王も養子にしておいて、守仁親王は後に二条天皇となるのだが、その前に、後白河天皇を立てようということになった。そしてその翌年鳥羽上皇が死亡、ないがしろにされ続けた崇徳上皇は兵をあげ、保元の乱となる。後白河天皇即位の3年後には守仁親王への譲位をさせられ、二条天皇が誕生。その翌年には平治の乱が起きるのだが、後白河天皇は側近からも軽んじられていたとされるが、加速する動乱の中、後白河上皇の政治的才能は、出家して法王となり開花していった。つまりこの時代の天皇は子供の時に即位して、早くに譲位するか早世している。院政時代というのは天皇が中継ぎだった時代、とも言える。

同じようなことが起きたのが、持統天皇。天武の死後4年間は称制として天皇を代行、息子の草壁皇子に譲位をしたかったのだが、28歳の皇子が死亡、それではと孫の文武天皇を即位させるために42歳で中継ぎとなるが、15歳の文武天皇に譲位してからも、夫であった天武と共に制定した飛鳥浄御原令をベースに大宝律令公布、58歳でこの世を去る前に律令の施行具合を見る旅に全国を回った。大宝律令は文武天皇の時代に発布されたが、実は持統上皇が実現したといえる。院政はこの時代にもあったとも言える。称制は天皇が死んで、次の天皇が即位するまでの時間を空ける場合にあり、斉明死後の7年間中大兄皇子が称制、白村江の戦いで大敗北を喫したことを受けて、唐の大軍を迎え撃つためには準備が必要という称制であったという。

最初の女帝、推古の時代は蘇我氏の時代である。推古は欽明と蘇我稲目の娘堅塩媛の子炊屋(かしきや)姫であり、欽明と別の女性石姫皇女の間に生まれた敏達と結婚、敏達が疫病で死ぬと、異なる母を持つ異母弟の用明が即位、2年後に用明が死亡すると、蘇我稲目のもう一人の娘小姉君との子である崇俊が即位、しかし蘇我馬子に暗殺されたため、敏達の后であり、欽明の娘でもある推古が大王となる。背景には物部氏と蘇我氏の権力争いがあり、権力を握った蘇我馬子が姪に当たる推古を擁立したといえる。本来なら、用明と小姉君の娘穴穂部間人皇女の間に生まれていた厩戸皇子を即位させたかったが、まだその崇俊暗殺の時点で19歳と若く、敏達の系統で息長氏の娘広姫との息子である押坂彦人大兄皇子の即位を妨害するために即位させられたという。押坂彦人大兄皇子には一人の子がいて、崇俊が殺された翌年生まれ、推古死亡後には舒明となる。日本書紀にはこの押坂彦人大兄皇子は意図的とも思えるほど無視され、一方の厩戸皇子は一度も天皇になっていないのに現代でも有名である。生きている天皇が次世代に譲位する初めてのケースは推古の二代あとの皇極で乙巳の変を受けての譲位であった。推古は即位後も、厩戸皇子に譲位することなく、死んで舒明にバトンを渡すことになる。その舒明帝の后が押坂彦人大兄皇子の孫に当たる皇極である。

舒明帝が死んだ時には舒明帝と皇極の間に、大海人皇子、中大兄皇子がおり、舒明帝と蘇我馬子の娘法提郎女との息子で古人大兄皇子、そして厩戸皇子と蘇我氏の流れをくむ刀自古郎女との息子山背大兄皇子が王位継承候補者としていた。この時の権力者は蘇我蝦夷、有力な候補者を押す勢力間の争いを回避するために皇極に即位させたと考えられる。皇極の父は押坂彦人大兄皇子だが、敏達の孫でもあり、母は欽明の孫であった。古代の6名の女帝で大王の娘以外で即位したのは皇極だけである。そして乙巳の変、皇極の目の前で、中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害され、大王の座を自ら欲したのではない皇極は史上初めての譲位をする。譲位した相手は弟の孝徳、棚から牡丹餅のような即位であった。謎は、孝徳死去後になら天皇に即位してもおかしくなかった中大兄皇子はそのままで、皇極が重祚して斉明となったこと。斉明は一人前になった大海人皇子と中大兄皇子の両皇子を臣下のように従えて強い力を持つ。67歳の時には朝鮮半島からの援軍依頼を受けて自らが出陣、旅先で死んでしまう。この時に同行していたのが有名な額田王であり、「熟田津に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ今は漕ぎいでな」と歌った。この戦争の結末が、2年後の白村江の敗戦である。


文武天皇の跡を継いだのは、その母であった元明天皇、しかしそれは孫の聖武天皇を即位させるための中継ぎであり、聖武が15歳になった時に、元明の娘元正天皇に譲位。この時代の天皇制度はまだシッカリとせず、誰かが天皇の職務を果たさなければ政務が滞ってしまう。平安時代になれば政務の実験は摂政や関白が恒常的に存在したため、天皇の存在が軽かったが、この飛鳥の時代には天皇が一人前であるとみなされることが重要であった。権力者の勢力争いを避け、天皇の候補たる若い男児が成長するまで中継ぎの天皇となる必要性が飛鳥時代にはまだあった、ということである。

そして聖武のライバルは高市皇子の息子長屋王。聖武天皇が即位する前には、持統天皇以来天皇家を支えてきた藤原不比等が死に、その翌年元明上皇も死亡、元明上皇は死ぬ前に長屋王と藤原房前を呼んで、朝廷を支えるようにと遺言をした。聖武天皇が即位、不比等の娘光明皇后との間に基皇子が生まれるがすぐに死亡。聖武天皇を支える勢力は藤原不比等の4人の息子、房前、麻呂、武智麻呂、宇合、ライバルの長屋王を陥れる「長屋王の変」を演出、長屋王一族を誅滅する。4人の兄弟は同じ年に疫病で死亡、そして光明皇后との間には阿倍内親王が生まれる。東大寺大仏建立の後に、49歳の聖武天皇に譲位され即位したのが阿倍内親王であった孝謙天皇、32歳であった。孝謙天皇は21歳で女性初の皇太子になっていた。家庭教師は吉備真備、当時最大の知識人であり、中国からの留学から戻ったばかりであった。男が天皇になる場合には后を娶って子供を天皇にする、というのが筋であるが、女性が天皇になる場合にはこうした規定がなく、内親王が結婚するのにふさわしい親王が、10歳年下の安積親王しかおらず、安積王も17歳で死亡、結婚をするという選択肢が孝謙にはなかった。これには生涯結婚をしなかった元正天皇の存在も影響を持つ。結婚しない女帝は誰かに譲位するまでの中継ぎ天皇である。そして光明皇太后が生きている間は娘の後見役としての役割を持っている。女帝自身は悪巧みをしなくても、周りが悪だくみする、それが橘諸兄の子であり、不比等の孫でもある藤原奈良麻呂の乱であり、武智麻呂の息子であり藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱であった。聖武天皇が死ぬのは大仏開眼供養の4年後、孝謙天皇の後継者に天武天皇の孫で、鎌足の娘五百重娘の間に生まれた新田部親王の子、道祖(ふなと)王を指名、しかし1年もたたない間に孝謙天皇は道祖王を廃太子としてしまう。さらに次の後継者とされた舎人親王の末息子大炊王、一度譲位されるが直ぐに廃帝にして孝謙天皇は重祚、称徳天皇となる。そして有名な道鏡事件を引き起こす。この時天皇は48歳、ゴタゴタのあと53歳で後継者をきめないまま死んでしまう。これ以降江戸時代まで女帝は出現しない。

大王の系統が途絶えたことがあった、武烈のあと、継体が越前からこの後を継いだ時である。大伴金村が連れてきた継体は応神の5世代目とされるが定かではなく、大和の豪族たちに行く手を阻まれて大和の地には入れず、河内で即位することになる。即位の条件として出されたのが、仁賢と后の春日大娘皇女との間に生まれた手白香皇女を后として迎え、その間に生まれる子を皇位継承者とすることであった。継体帝は結婚二年後に後に欽明帝となる男児を設けるが、20年ものあいだ大和の国に宮を設けることは許されなかったという。越前からきた継体帝には目子姫という妻との間に壮年の皇子が二人いた、安閑と宣化である。安閑は仁賢帝の娘の春日山田皇女を娶り、宣化帝はもう一人の異母娘である橘仲皇女を娶る。この橘仲皇女は子を産み、石姫皇女となり、継体帝の子、欽明の后となる。安閑も宣化も二人共大王にはなるが、それぞれ2年と4年で死亡、そして大和の豪族たちが正嫡と考える欽明帝が即位する。とにかく、先代の大王の娘を后にしてなんとか正当性を確保させたい、という周囲の思いであり、男系男子がいない場合、天皇の娘が血筋を伝える存在なのである。




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美麗島まで 与那原恵 *****

2012年03月06日 | 本の読後感
ルポライターが沖縄出身で自分の母である与那原里々の生涯について、20年かけて必死で取材した渾身の作と言える。沖縄の歴史、沖縄に住む人々の歴史が中国、日本、台湾とつながり、歴史と共に展開していくさまを、里々の一生とともに描いている、筆者の取材の力、そして母である里々の生き様、その夫で父の考え方、彼らを取り巻く人達、話は1971年、里々が死んだ時から里々が生まれた1917年に遡り、さらにその父である南風原朝保の生涯にまで遡る。筆者にとっては祖父の朝保が生まれる20年ほど前に、明治政府による琉球処分があった。450年続いた琉球王国の崩壊である。

琉球王国が形成されたのは12世紀頃、民族的には日本列島に住む日本人と同一系列ではあるが、弥生式土器は出土せず、南太平洋文化に近い石器や土器が出土する。中国の隋の歴史書「隋書」には636年時点で流求として登場、「虻の水中に浮かぶが如し」ということから流虻、そして流求、琉球と変遷してきた。船から見た琉球諸島がそのように見えたのかもしれない。オキナワは8世紀頃に「阿児奈波」と唐大和上東征伝に記述があり、17世紀ころからは「沖縄」と書かれるようになった。九州の漁師が沖でナワ(漁)をする場所、という説もある。12世紀以降はグスク時代、北中南の三王国がシノギを削っていた。1368年に中国ではモンゴル人の元が滅亡して漢民族国家である明が建国、その時、中山王は明に朝貢して三王朝を統一して明の冊封体制に組み込まれた。16世紀になると、日本列島では朝鮮出兵を企図して、琉球にも出兵の要求をよこすようになったが琉球はこれを拒否、その後家康の意向を受けた薩摩藩島津氏が3000の兵を差し向け、武器を持たなかった琉球王国はあっけなく敗退、琉球王国は薩摩に占領された。それ以降、薩摩を経由して徳川幕府への租税支払いが義務となり、奄美、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島も薩摩藩に割譲された。江戸への使節団は将軍交代ごとに送られ、18回に上った。しかし琉球王国内でも石垣や与那国などは琉球王国への租税に苦しめられるという多重支配構造があった。そして、明治維新、廃藩置県に遅れて、朝敵となり最後まで新政府軍と戦った会津藩などと同じ程度の「琉球処分」という強い響きの処置が明治政府によって行われた。明治政府に表立って歯向かったわけでもない琉球に対する措置に、沖縄の人たちは今でも強い痛みを感じるという。

明治政府が気にしたのは清国の立場と意向、1871年に起きていた宮古島島民の台湾先住民による殺害事件があり、台湾出兵を目論む明治政府が、廃藩置県以降にもかかわらず、琉球藩をまず設置、1874年に台湾に琉球藩民保護という名目で出兵した。この時には日清両国は北京議定書を取り交わし50万両の賠償金を清から受け取った。ここに、琉球は日本、という事実承認を清国から得たことになる。琉球処分では、清国との進貢関係の禁止、暦を明治元号とする、藩王は上京する、という3点を認めさせる内容であった。南風原朝保が生まれたのは1893年のことであった。朝保には弟の朝光がおり、朝保は医師に、朝光は画家となった。朝保は上京時に知り合いでもない森鴎外を訪問、弟子入りを希望、鴎外も日記にそのことを記録している。当時、鴎外は軍隊の医務監であり、鴎外が兵隊の白米食に強くこだわったため9割の兵士が台湾遠征では脚気に倒れたという。

沖縄戦で戸籍が消失している沖縄では戸籍からの確認が十分出来なかったが、朝保は1915年に、帝国劇場にも出演していたという沖縄出身の夏子という女性と結婚していた記述を発見、そして、1915年比屋根ツルと結婚、という事実、そしてツルは夏子と同一人物であることを突き止めた。長女里々の誕生は1917年、その頃ロシアに留学していた朝保は西洋よみの名前を付けたくてリリーと命名、しかし1919年には夏子は死亡したという。この時代、ロシアには多くの日本人がわたっており、作家の二葉亭四迷や曠野の花を書いた石光真清もその一人である。朝保は妻の夏子を失い、医師としての活躍の場を求めて1919年の当時、日本領として大きく近代化を進めていた台湾に移り住んだ。

この当時の台湾には先住民が多く住んでおり、中国人にとっては漁業基地という位置づけ、化外の地であった。台湾は1544年にポルトガル商船がイル・フォルモサ!、美しい島と命名、台湾は別名美麗島と呼ばれるようになった。17世紀にはオランダ人が島を領有、明から清朝に移行する頃には大陸からの移住者が増えてきた。鄭芝龍がオランダとの戦いに勝利したのは1661年、日本でも国性爺合戦として浄瑠璃で取り上げられている。オランダ人は先住民が客人を「ダイヤン」と呼ぶのを聞いて台湾という漢字を当てた。

里々達が渡った台湾はこうした歴史を持つ先住民の土地、沖縄人達が日本人と一緒になり、先住民を討伐するというとこになり、ここでも日本、沖縄、台湾という多重支配の側面を持った。里々は医師の朝保の娘として裕福な娘時代を過ごしたらしい。そして沖縄で400年以上の歴史を持つ家の生まれ、与那原良規と出会う。二人は、里々が東京に出てから結婚することになる。朝保はそんな中で病院の看護婦や友人の妹と関係を持ち、派手な生活をしていたという。そうした友人の一人が古波蔵保好、朝保は保好の妹の登美と再婚することになる。台湾には与那国、石垣、竹富などの琉球から女中奉公の若い女性たちを受け入れていた。この時代の先島諸島のほとんどの若い娘は台湾に躾のためと称して女中奉公に行ったというのである。先島諸島が貧困な時代である。そして台湾には多くの日本人が移住、台湾への移住者の内訳で、1940年には沖縄出身者が第一位になっている。台湾が沖縄よりも文明の先進地帯だった頃のお話である。

逆に石垣島には台湾からの労働者がサトウキビ栽培と砂糖生産のために送り込まれている。石垣島では琉球王国時代に人頭税が課せられ、収入の8割を徴収されていた。波照間や西表から石垣への強制移住と労働が人々を苦しめた。台湾からの移住者が多い石垣島では、今でも多くの中華料理屋がある。

里々は台北でラジオ放送に携わった。南風原病院に出入りしていた川平朝申の誘いで台湾放送協会のアナウンサーとなったのだ。朝申の弟朝清の息子が川平慈英とジョン・カビラである。里々はこのラジオとの関わりをきっかけに21歳の時に上京、1938年から3年間東京中央放送局(JOAK)の番組を担当した。声が綺麗で、台湾育ちだったため沖縄訛りもなく充実した日々を過ごした。そして1940年、良規は家で同然で上京、翌1941年里々と結婚する。台湾では朝保が病院業を拡張していたが、戦線は台湾にも迫っていた。終戦の時、中国大陸では蒋介石の国民党政権が四川に追い詰められ、終戦後の1945年10月、国民党軍は台湾に進軍、中華民国国民政府を宣言した。台湾総督府は施政権を国民党政権に移譲、台湾にいた日本人は48万人だった。朝保も台湾から沖縄に引き上げ、沖縄で病院を開いた。戦後の混乱時期、与那国は最も近い島、台湾との密貿易で潤ったが、米軍の物資が中国に流れる経路となっていたため米国が厳しくこれを禁止、その後の与那国の繁栄はなくなった。

里々が5人目の子供、筆者を生んだのは、朝保が死んだ1957年の次の年、40歳の時であった。里々は結核を患い、出産は死の危険を伴っていたが、台湾での占い師の言葉「5人の母になる」を信じて筆者を生んだという。1960年には画家の朝光が死亡、里々の寿命が長くはないことを知った良規は里々を伴い1968年沖縄を旅行した。沖縄では里々は朝保の最後の妻であった登美を訪問。登美は旧姓にもどり琉球料理店を開いていた。その2年後里々も死亡、その5年後に良規も亡くなった。

筆者は母のため、そして父のためと、凄まじい量の資料を読み、実際に沖縄、石垣島、与那国島、台湾へと調査のために赴いている。母の一生を知りたい、父、そして祖母、祖父の暮らした土地と歴史を知りたいという欲望とも言える執念だと感じる。沖縄の歴史を学びたい人がいるとしたら、下手な歴史書よりもずっと記憶に残る歴史ドキュメントであることは請け合う、沖縄を「癒しの地」と思って旅行する人にもぜひ読んで欲しい。



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超・格差社会アメリカの真実 小林由美 ****

2012年03月03日 | 本の読後感
読んでいて、「そうそう」とウナヅクことしきり、アメリカ西海岸のVC(ベンチャー投資家)や東海岸のビジネスパースンと話をして感じていたことが、シッカリとその歴史観や宗教観も踏まえて解説されている。そしてアメリカで行われる多くの選挙で発表される候補者の考え方に必ず含まれる「中絶可否、ガン所持、同性愛、家族観」などが何故人々の関心を引くのかが説明される。留学経験者や家族同伴での居住経験者ならなおのこと納得感が得られるだろう。

まずは20世紀の中盤にはアメリカ人世帯の7割はいたと言われる中産階級がいなくなったと指摘、今は新たな4つの階級に分かれてしまったという。一番上は特権階級で純資産1億ドル以上持つ5000世帯ほどの特権的富裕層で、ウォール街の人脈などを通して政治家に影響力を行使する。司法、行政、立法の人事権を持つ政治家達は選挙資金をまとまって提供してくれるこうした特権階級の人々への配慮を怠らない。そのため、税制、裁判などで大きな恩恵をこうむるという。次の階層がプロフェッショナル階級で純資産200万ドルで年収20万ドル以上、大学教授や不動産ブローカー、広告代理店、弁護士、医師などである。社会の最下層は年間世帯所得が23100ドル以下の貧困ラインを下回る落ちこぼれ階級、難民や違法移民、ネイティブアメリカン、都市のスラム住民、黒人、ヒスパニックなどの人たちで、健康保険にも入れない階層の人々である。そして、20世紀に中産階級であった人たちの多くは、米国製造業の没落と雇用の海外流出から職を失い、リタイヤ組と一部プロフェッショナル階級へのステップアップ組を除けば貧困層とも言えるクレジットカードと借金生活で苦しむ階級に没落していったというのだ。

アメリカ総人口の15%にあたる4500万人は医療保険が全くない。子どもや老人対象の医療費補助枠外の18-64歳の成人に限れば19%でもなる。5人に一人は無保険ということになる。こどもには公立学校の教育しか受けさせられないため、給料が低い公立学校の先生たちの授業を受ける。公立学校卒業後はローカルカレッジに行くか、生活のために低賃金で働くしかなく、スポーツで名を挙げる以外には高給が取れる職業につくのは非常に難しいのが現実である。

資産の保有率を見ると、トップ1%が33.4%、2-5%が25.8%と上位5%の人たちが全米世帯の6割の富を所有する。トップ20%まで入れると85%となる。資産を多くの人たちが所有する自宅、不動産を含まない金融資産に絞ると更に顕著である。トップ1%が39.7%、2-5%が27.8%で5%の人たちが3分の2を所有、20%まで含めると91.3%。金融資産から年金や生命保険も除くと残りは金融証券であるが、この場合にはトップ1%が58.0%、トップ10%で88.6%である。つまりウォール街としてはトップ1%の人たちをハッピーにすれば全米金融資産の6割を押さえることになる。アメリカ大統領が次の選挙のために集めたい選挙資金は10億ドルと言われ、100万ドル単位で寄付してくれる高額資産保有者の要望に答えることが再選出の最も近道となる。

クリントン政権以降のアメリカの大型景気は、財政赤字削減のための低金利政策がきっかけとなったが、ITの進歩がもたらした金融取引の電子化が大きな原因となった。金融情報収集が容易となり、リスクヘッジ、レバレッジの手法が開発され、デリバティブ、インデックス、リスクアービトレージなどの商品が開発された。そして資産の証券化が進み、アメリカ産業界全体が証券化されたとも言える。投資の対象とならなかった事業や資産が証券化され小口化されて販売されたため、市場流動性が備えられたのだ。これにより小金持ちでも投資に参加できるようになり、大口投資家よりも控えめな期待金利でも市場から投資資金を吸い上げることに成功した。本来は投資家も事業の推進者の立場になり、事業拡大や利益拡大の努力をすることで健全な資本市場が拡大するはずなのだが、金融商品の持ち主が分散されその代理人は手数料と委託料収入の最大化を図ることを目的とするため投資された事業の内容には関心がない。問題会社のCEOになった人が、人員削減と設備投資削減で利益を出して会社のPLとBSを美しくお化粧直しをしたら100万ドル単位のボーナスやストックオプションを得て次の会社に移るのと同じ構図である。企業の利益が増えても社員は職を失い、顧客はサービスや商品供給を絶たれる。インターネット発達は、関連ソフトやサービス産業を生み出し、TVや新聞などの既存メディアが新しいインターネットメディアと相互乗入する新しい巨大メディア企業を生み出した。90年代後半の好景気は失業率を下げたが多くの中間層は職を失い、新たに生み出された労働は単純作業的低賃金で、生産性向上は米国人の賃金上昇をもたらさなかった。

1620年にメイフラワー号でアメリカ大陸に降り立った開拓農民に渡航資金を融資したのはロンドンのマーチャント階級だった。そしてアメリカ大陸での開拓が金になるとみたヨーロッパバンカー達は商業資本、軍事資本を投入した。こうした資本を投入した最大のバンカーがマイヤー・ロスチャイルド、5人の子供をドイツ、イギリス、フランス、オーストリア、イタリアに駐在させ各国の王室にファイナンスして儲けた資本をアメリカに投入したのだ。そして独立戦争が始まる。独立戦争の敗者はイギリスの資本家、勝者はイギリス商船を略奪する免許を得て3000隻以上の商船を略奪した船主だった。アメリカの市場資本主義はアダム・スミスの国富論が基本理念として採用された。キリスト教が人間の物質欲を根源悪としたのに対し、市場という見えざる手で売れる賞品を提供する行為は社会の幸福に寄与しうると指摘、従来の重商主義下での免許制度からレッセ・フェールでの自由競争が見えざる手により有益な結果をもたらすとされた。個人の過度な欲張り行為は社会から非難されるはずであったが、移民国家アメリカにはそうした社会は形成されず、強欲な拝金主義によりお金儲けをすることが尊ばれる社会へとつながっていく。

アメリカ社会での学校教育では、知識よりも信仰を重んじる伝統がある。多くの日本人ビジネスマンが仕事を通して付き合うのはアメリカの北東部と西海岸の人たち。しかし、それ以外のアメリカ人は高等教育を受けた人たちへの反感があり、本からの知識や理屈による結論よりも伝統的開拓者の価値観に基づく直感的判断を重んじる傾向がある。この背後には開拓時代に普及したエバンジェリカル(福音主義)の教えがある。強い信仰を持った人は正しい判断を下せるが、逆に高等教育を受けた人は信用出来ないと考える。大統領選挙で、候補者は東部エスタブリッシュメントであることを宣伝せず、出身地を表に出したり、家族愛、自助努力などがキーワードに使われる。戦争で英雄的活躍をしたことは重要視され、アメリカが世界で果たす役割は、民主主義の伝導であり正しい行為であることが共有されている。開拓者精神と自立、アメリカの正義を信じるエバンジェリカルはこうした中部アメリカの半数以上を占め、それ以外はメソジスト、大学教育にも力を入れるプレスビテリアン、そして投資行為に関心が深いエピスカパリアンという4大宗派が生まれた。世帯収入と教育は相関があり、受けた教育レベルと家計所得にも相関がある。つまり階級は教育によってさらに固定化されるというわけである。

シリコンバレー(SV)に行ったことがある、住んだことがある人は、その地の素晴らしさを知っている。SVでは起業がしやすい環境がある。創業に必要な人脈とVCがそこにはあるので、効率的に手早く会社設立にこぎつけられる。無駄な時間は創業の可能性を低下させるからである。失敗も多いが、また何回も創業にチャレンジすることは普通に行われるため、そこでの振る舞い、倫理観は重要である。口コミが人脈ないでは重要であり、悪い評判はたちまち伝わり二度と創業の声掛かりりがなくなるからである。各人が持つノウハウや創造力、独立性の強さも創業の後押しをする。これもアメリカの一面であり、強欲な拝金主義者もエバンジェリカルもアメリカである。

日本はどうだろうか。経済成長は実質的にゼロになり、国際競争でも行き詰まる。チャレンジして失敗するとコストが高くつく社会のため新しいことに真剣に挑戦する人が減ってしまう。今より悪くならないことが安定だと認識される社会に大きな進歩はない。選択肢は徐々に悪くなるか、それとも新しい世界を切り開くことかであると、筆者は指摘する。多様な価値観やライフスタイルを受け入れる寛容さと相互の思いやり、ストレートなコミュニケーション、専門能力を生かしたチームワーク、新しい環境に適合できる基礎能力が幸せな環境を作り出すのには必要だという主張である。まことに同感である。


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