意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

平城京遷都 千田稔 ***

2012年02月28日 | 本の読後感
奈良遷都は710年、それから1300年経過、本書は平城京遷都に関してヤマトの時代とも言える推古から孝謙(称徳)までの古代女帝を絡めて磐余から飛鳥、藤原京を経て平城京への歴史を解説する。

ヤマトの時代の始まりは欽明朝、地政学的な国家戦略のあった時代だとする。仏教伝来と定着のプロセスで、隋、唐、百済、新羅、加羅、高句麗、渤海などと外交的関係を展開して国家を創り上げていった時代だった。ヤマトの時代には女帝がいる。江戸時代の2人を除けばこの時代に集中している。推古、斉明(皇極)、持統と続く初期の女帝、後半は元明、元正、称徳(孝謙)の三女帝である。前の三女帝は皇后の立場を経て大王になったためか、長期にわたり在位し、政治にも直接関与したが、後半の元明、元正は聖武天皇となった首皇子が正式に即位できる年齢までの場繋ぎ的地位だった。

「磯城島」という枕詞は大和、日本にかかる。ヤマトの時代はこの奈良盆地の南部から始まる。磯城とは律令制度の城上(しきのかみ)、城下(しきのしも)という郡が成立し、磯城はこの城である。磯城と呼ばれた地域は現在の桜井市西北一帯のこと、桜井市慈恩寺には式嶋という小字が現在でもある。嶋はアイランドではなく、一定の限られた地域を意味しているという。

仏教伝来は538年-552年といわれこの頃権勢を強めていた蘇我氏によって国家の支柱としての受容が進められた。蘇我氏は稲目、馬子の時代で、稲目の娘堅塩媛と小姉君はいずれも欽明の妻となり、堅塩媛は推古そして用明となる子をなし、小姉君は穴穂部皇子、穴穂部間人皇女、そして崇峻となる泊瀬部皇子を設けた。欽明は宣化の娘石姫との間に敏達を設け、敏達は推古を皇后として竹田皇子をもうけている。ここまでは蘇我氏の系統であったが、推古のあとの舒明は敏達が息長氏の広姫との間にもうけた押坂彦人大兄皇子の子であり蘇我氏の血が入らない大王の誕生であった。そしてその後の皇極へとつながり、乙巳の変で皇極の目の前で入鹿が殺されることになる。女帝は皇子から大王への即位に争いが予想される場合の一時避難ではあったが、女帝の次はどうするという争いは絶えなかった。

推古を補佐したとされる厩戸皇子の憲法17条であるが、蘇我氏を悪者にしたい日本書紀の編者による後世の挿入ではないかというのが筆者の仮説である。1条和をもって貴しとなす、2条仏法僧によりよこしまな心をいだくな、第三条詔は謹んで受ける、これらの憲法を読み解くと、臣である蘇我馬子が大王に対する態度を説諭する口調を感じられ飛鳥で繰り広げられて政治闘争を背景とする、という説である。

舒明、皇極、天智、天武、持統、文武の墓は八角形、東アジアには類を見ない形だそうだ。八隅治し(やすみしし)で八方を治める意。東西南北の八方向を統治するイメージだという。道教での最高位の王は宇宙王である天皇大帝であり、天皇という称号の由来を示すという。舒明から天皇という呼び名が使われていた可能性があり、大極殿という記述は皇極時代から、天武時代には確かに天皇が使われている。大化の改新の根幹は①私地、私民廃止 ②都を定め畿内や国・郡を設定する ③戸籍・計帳により班田収授の法を定める ④田の広さにより調を定める これらは10-20年かけて整備されていった。

草壁皇子が没しその後持統天皇が即位、飛鳥浄御原宮で儀式を執り行った。浄見原令を発し、宮は大和三山を周囲に配するように藤原宮として作られた。宮が都の中心にある珍しい設計であった。道教に傾倒していた先帝天武の希望する形式でもあったという。そして708年ころには平城京への遷都が図られる。遷都の表向きの理由は藤原京の衛生環境悪化、実際には藤原不比等という権力者の示威行為であったという指摘である。孫の首皇子を即位させるため、元明、元正という2代の女帝を即位させた上に遷都も行なったという。この時の敵対勢力は長屋王、平城京にも広大な邸宅を構えた遺跡が発掘されて話題になった。

720年に藤原不比等は没する、そして聖武天皇が即位、長屋王の時代を迎えるが、聖武が結婚したのは藤原不比等の娘光明子、長屋王の勢いにも陰りが出る。729年には密告により長屋王は自殺、王位継承争いは混沌状態に陥った。光明子は光明皇后となり施薬院や悲田院を設立、皇后としても活躍した。平城京のプランを見ると、東に飛び出た部分があるのは、藤原氏の氏寺である興福寺があり、三条大路の東の延長線上には藤原氏の奉斎する春日神社のご神体山の御蓋山がある。平城宮にも東に出っ張りがあり、これも不比等の孫のために作られた東院だったという。そしてまた藤原氏とその他の天武の子孫などによる勢力争いで、聖武と光明皇后の阿部内親王を皇太子とする人事が行われる。藤原不比等の4人の子は天然痘で同じ年に相次いで死亡、藤原氏の政治基盤は大きく揺らいだ。

聖武天皇による大仏建設は752年に完成する。開眼供養であるが、これは日本書紀による仏教伝来552年の200年祭であった。これを契機に平城京の時代は衰退期に入った。阿部内親王は孝謙となり道鏡事件を引き起こし、その後淳仁、光仁と力のない天皇が続いた。藤原仲麻呂は権力を握り恵美押勝と称した。「恵みを施す美徳を持ち、強敵に押し勝つ」という名を天皇から授かる。重祚した称徳は道鏡事件で力を失い、その後継は天智の血筋に戻る。

平城京は藤原不比等が孫の首皇子のために建設した都であり、藤原氏の血統から天皇を出し続けたいという欲望の現れでもあった。しかし、聖武天皇と光明皇后は盧舎那仏を建設、平城京ドラマの主人公は聖武と光明皇后であった、というのが筆者の分析だ。



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病が語る日本史 酒井シズ ***

2012年02月23日 | 本の読後感
結核、赤痢、梅毒、コレラなどが治療できるようになったのはほんの最近のこと。明治以前にはほとんど加持祈祷のような手段しか民衆レベルでは手の施しようがなかった。日本史を病気の歴史という視点から振り返ると何が見えるのか、歴史の流れと病気の種類の二つの視点から解説している。

全国に伝わる蘇民将来伝説。伊勢市では玄関の注連縄に「蘇民将来子孫之門戸也」と書かれた札が下がっている家がある。この家は蘇民将来子孫だから疫病が入らない、というオマジナイ。蘇民将来伝説では、北の海に住む武塔神が南に住む女神を訪ねた。疫隈の社に来た時に日がくれたので、そこに住む兄弟の兄、巨旦将来の家を訪ね宿を頼むと、見ず知らずの旅人を怪しんだ巨旦将来は断った。次に、貧乏そうな弟の家に蘇民将来を訪ね宿を頼むと、粟の飯しか出せないがと言って快く泊めてくれた。数年後再度その地を訪問した武塔神は茅で作った輪を蘇民将来に送り、子孫もこれを身につけておくことと言った。その後、疫病が流行して村人が皆死んだ時、蘇民将来の家だけが生き残った。武塔神とは須佐能の尊である。茅の輪伝説、蘇民将来伝説、須佐能の尊伝説の混合伝説であるが、伝説とはそういうもの。京都の祗園社も蘇民将来と須佐能の尊を祀る。全国の蘇民将来祭りは同様の伝説を背景に持つ。

6世紀ころの疫病の記録を分析すると、ほとんどが限定された地域に繰り返し起こっているため、地方病であり、マラリア、住血吸虫症、ツツガムシ病が考えられる。灌漑の普及と疫病流行が同時期に起きている関連性あるかもしれない。706年の疫病は中国からもたらされた痘瘡であった可能性が高い。戦争、飢饉と疫病は関連があり、大陸文化流入と疫病が連動するケースが多い。

天下を握った藤原氏も疫病で苦しんだ。不比等の死因は痘瘡か麻疹であった。不比等の娘光明子は聖武天皇の后となり光明皇后となったが、仏教に帰依し、悲田院、施薬院を設けて自らもらい病患者などの世話をした、という逸話が残っている。戦前には光明皇后の美談として教科書にも掲載されていた。735年ころ痘瘡が流行、不比等の次男房前が4月17日死亡、7月13日に四男麻呂も死亡、7月25日には武智麻呂が死亡、8月5日には宇合も死亡。わずか4ヶ月の間に4兄弟ともが痘瘡が原因と思われる病気で死んだのである。970年に摂政となった藤原伊尹、贅沢好きであった伊尹は糖尿病で49才にして死んだ。栄華を極めた藤原氏であるが、その甥の道隆、道長、道隆の子で伊周も糖尿病であった。

中世の人たちは想像以上に物の怪や怨霊を恐れた。怨霊思想は奈良時代からあり、陰陽師に占いをさせて、怨霊を取り除くということが繰り返し行われた。桓武天皇時代の藤原種継暗殺では早良の親王が容疑者とされ死亡したがその後朝廷に凶事が続き、早良の親王の怨霊のせいだとされて崇道天皇と諡名して霊を鎮めた。有名なのは菅原道真の怨霊。903年、配流先の大宰府で道真が死んだ。その後起こった数々の出来事を政争の道具として使われた結果北野天満宮に道真を祀ったという話。

絛虫を始めとする回虫にも日本人は悩まされた。古代の住居跡、排泄物から回虫の卵が見つかっている。室町時代には腹痛や腰の病は虫のせいとされた。下痢、霍乱、黄疸、赤痢、石淋(腎臓結石)などが虫の病とされた。実際、サナダ虫、回虫、蟯虫などが体から出てくる病の話が記録されている。今昔物語や栄花物語で寸白と表現される全身が腫れる病気は象皮病、陰嚢が大きく腫れる病気は陰嚢水腫、フィラリア症と考えられる。江戸時代には見世物になるほど大きく腫れる場合があった。日本住血吸虫で腹がパンパンに腫れる老婆の絵が「奇疾絵巻」に見られる。住血吸虫は甲府盆地、沼津地方、利根川流域、広島県片山、筑後川流域に多く見られた。住血吸虫を発見したのは1904年岡山医学専門学校校長の桂田富士郎であった。

インフルエンザは862年に流行した記録がある。咳逆(ひどいせき)と呼ばれた。923年、1015年、1150年、1233年と咳逆の記録がある。江戸時代にも流行があり、1614年、1730年、これ以降は愛称がつき1769年(稲葉風)、1776年(お駒風)、1784年(谷風)、1802年(あんぽん風)、1808年(ネンコロ風)、1832年(琉球風)、1854年(アメリカ風)と連続する。

徳川13代将軍家定は1858年に死んだが、その時の奥医師岡礫仙院が閉門謹慎、奥右筆志賀金八郎は自殺した。病気は脚気、オランダ人医師ポンペはそのことを知っていた。14代将軍家茂の死因も脚気、江戸時代の江戸では庶民も白米を食べるようになり、野菜や魚を取らない食生活から脚気の死者が多かった。日清戦争での死者では脚気が原因と考えられる数が多く、日露戦争でも十分な対策が立てられなかった。脚気に効くのはビタミンB1が主成分のオリザニンであることは1910年になって鈴木梅太郎が発見した。

痘瘡大流行を受けてはたびたび改元が行われた。947年の天暦、1113年永久、1126年太治、1161年応保、1163年長寛、1175年安元、1177年治承、1206年建永、1207年浄元、1225年嘉禄、1235年嘉禎、1302年乾元、1381年弘和、1452年享徳と度々である。江戸時代以降は痘瘡に限らず疫病流行を政治のせいにはせず祈祷もしなくなったという。痘瘡神には住吉大明神を祀ることで病魔に勝とうとした。麻疹も江戸時代に13回流行、麻疹が原因の眼病で失明した人も多かった。

伝染病予防が本格的に日本で行われ始めたのは1897年、伝染病予防法でコレラ、赤痢、腸チフス、痘瘡、発疹チフス、猩紅熱、ジフテリア、ペストの8種類が法定伝染病に指定、切っ掛けは日清戦争の帰還兵が国内に伝染病を持ち帰ったことであった。ペスト菌は北里柴三郎とエルザンにより発見されたが、それは1899年のこと、伝染経路もなかなか解明出来なかった。ペニシリンはこうした多くの病気に対抗する画期的な方法となったが、人類が伝染病を押さえ込めたと考えるのは早計である。耐性菌、ウイルスは変異を繰り返し、人間の進歩より速い速度で変異を繰り返している。どのようにして上手く感染症を押さえ込めるのか、HIVやインフルエンザなどまだまだ人類が解明できていないウイルスは数多い。感染症ではないとされるガンを撲滅できる日は来るだろうか。今後もウイルスや感染症研究は人類が生き残るために必要である。



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動的平衡2 福岡伸一 ****

2012年02月20日 | 本の読後感
動的平衡に続いて読んだ、面白い。

生物の進化や活動は水が流れるように、いつも動いている状態と同じであり、一つ一つの器官の機能を調べて細かい働きを知ることができたとしても、生命の解明は出来ない。視覚が進化のプロセスで生物に備わったのは、競争上視覚を持つことが有利だったので視覚を持つ生物が生き残った、という簡単な説明では不十分である。水晶体だけがあっても視覚は完成せず、網膜、網膜細胞、視神経、視覚細胞などを経て脳で視覚として処理されなければならず、その視覚に対応する運動機能も組み合わさるのだ。これらがサブシステム毎に自然選択されたとは考えられず、ダーウイン的適者生存の進化論では説明しきれない。ドーキンスは「利己的遺伝子」だけでは説明しきれない社会的伝承を「ミーム」と名付けた。筆者はそれをエピジェネティックスで説明しようとする。遺伝子外で起きることという意味だ。自己複製だけではなく合成と分解を繰り返すなかで恒常性を維持する動的平衡こそがその説明であると考えている。遺伝子のコピーだけではなく、遺伝子機能を発揮するタイミングやその強さなどを自由に選択していることが動的平衡を考えることになる。

動物はアミノ酸を吸収、再構成して生命を維持する。人であれば20種類のアミノ酸であるが、そのうち11種は体内で生成、9種は外部から取り入れる必要がある。原始的な植物は必要なアミノ酸をすべて自己生成していたが、動物はそれを別の場所で外から手に入れることを学んだ。そのほうが全部自分で生成するよりも有利であったから。人類は、米、小麦、ジャガイモ、トウモロコシのいずれかを主食とし炭水化物を摂取しているので、食の多様性が原始時代に比べて失われているという。バランスの良い食物摂取のためには肉、乳製品、卵、野菜などを組み合わせることが重要であることは言うまでもない。その中で、老化に効果的なのがBCAA(Branched Chain Amino Acid)、バリン、ロイシン、イソロイシンの摂取に心がけるといい。

人間の消化には腸内細菌が大きな役割を果たしているが、その人が住んでいる場所により違いがある。海外旅行にでて腹をこわすのはこのせい。抗生物質は細菌を殺すので、腸内細菌も殺され、下痢、便秘が起きる。筋力トレーニングをして筋肉隆々になっても子供には遺伝しないし、繰り返しお酒を飲むことでアルコール分解酵素を獲得した親の子供も酒豪になるとは限らない。キリンが高いところの葉っぱを食べようと何世代も首を伸ばしても遺伝子により長い首を持った子供が生まれることはない。あくまで突然変異で首の長い子が生まれ生き残った、これが進化論である。しかし、エピジェネティックスでは、別の説明も可能だと。チンパンジーと人のDNAの違いは2%程度、DNA自体の違いよりも、各DNA機能がいつ、どの程度の強さで発現するか、というのがエピジェネティックスの考え方であり、ネオテニーという幼さの長期化戦略が人への進化を呼んだ、という説を筆者は唱える。



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遺伝子組み換え食品との付き合い方 元木一朗 ****

2012年02月20日 | 本の読後感
遺伝子組み換え(GM)食品はどの程度日本に入ってきているのだろうか。我々は非遺伝子組み換え食品だけを選んで食べて生きていけるのだろうか。賛否両論は「国 vs 農家」「種苗会社 vs 市民団体」「科学 vs 感情」「食糧問題 vs 派生する問題」「企業 vs 消費者」など様々な視点が組み合わさるようだ。筆者は科学者の立場から、論点を整理する。

食の安全を遺伝子レベルで考える際には、消化吸収の仕組みを理解する必要がある。例えば、肌の経年劣化に良いと女性に特に好まれるコラーゲンの消化はどうなるか。コラーゲンはゼラチン質などが多く含まれるタンパク質の一種なので、胃などの消化酵素で分解され、ペプチドやアミノ酸に分解される。分解されたペプチドなどは主に小腸で吸収され分解されてアミノ酸となり、他からも吸収されたアミノ酸などを原材料として、タンパク質などを体内で生成する。体に必要とされるコラーゲンはこのサイクルで生成されるが、原材料として必要なものは豆腐、肉、卵などタンパク質が多く含まれる食物であれば同じ効果が期待される。細かく言えば、コラーゲンには必須アミノ酸であるトリプトファンが含まれていないので、別の食物から摂取する必要がある。溶鉱炉に入れられた鉄の原料と同じで、鉄の原料として古い自転車を使っても溶鉱炉から出てくるのが自転車になっているわけではなく、コラーゲンを食べるとコラーゲンを生成する材料を食べていることにはなるけれども、そのままの形でコラーゲンが体に生成されることにはならない。コラーゲン入の化粧水を肌に塗っても、化粧水として肌がしっとりする効果はあるかも知れないが、コラーゲンの分子の大きさでは肌を通過できないため、肌からコラーゲンは取り入れられない。遺伝子組み換え食品も同様、遺伝子レベルで食品の一部が従来のDNA配列と違っていても、消化吸収のプロセスでアミノ酸にまで分解されるのだから、問題はないはず、という解説である。

現在、食品としての安全性は次の考え方でチェックされる。
1. 導入された遺伝子自体が有害物質ではないか。
2. 導入された遺伝子によって作られたタンパク質に有害性はないか。
3. 作られたタンパク質がアレルギーを誘発する可能性がないか。
4. 導入された遺伝子が間接的に働き有害物質を造ることはないか。
5. 遺伝子を導入したことによって食品成分が大きく変化する可能性がないか。
これらのチェックを経て、2011年3月までにトウモロコシ、大豆、セイヨウナタネ、綿、アルファルファ、テンサイ、ジャガイモの7作物157品種について、販売や輸入が認められているという。飼料としても同様でジャガイモ以外の6種57品種が認められている。

「遺伝子組換えでない」という表示を見たことがある。日本では、原材料の重量に占める割合の上位3種以内で5%を超える場合に「遺伝子組換え」の表示義務があり、食品に5%までの遺伝子組換え材料の非意図的混入が認められているが、韓国では3%、欧州では0.9%である。米国では、従来のものと著しく組成や栄養に変化がある場合を除き、遺伝子組換えについての表示義務はない。

日本市場の具体的なスーパーにある食品別に見てみる。野菜は組み換えに関係ないと考えられるが、ドレッシングには遺伝子組換え油を使っている可能性が高い。コーンはほぼ米国からの輸入品であり、遺伝子組換えであるが表示義務はない。飲み物でお茶は遺伝子組換えではないが、ジュースには果糖ぶどう糖液糖が入っており、これらはトウモロコシを加工したもの、遺伝子組換えと考えられる。味噌、醤油の原料の大豆が国産であれば非遺伝子組換えであるが、輸入品であればほとんどは遺伝子組換えであるが表示義務はない。牛乳は乳牛飼料が100%遺伝子組換え作物であるため、遺伝子組換え関連商品である。豆乳の原材料は大豆が主材料なので、遺伝子組換え大豆を使っていれば表示義務があるが、日本ではめったに見ない。コーンスープ、「遺伝子組換えでない」と表示されているが、調味料に何が使われているかの表示義務はない。生卵は鶏の飼料がすべて輸入であるため遺伝子組換え関連商品と考えられる。お酒ではビールに使われるスターチ、お菓子でも果糖ぶどう糖液糖が入っていれば遺伝子組換え関連食品である。お肉では飼料が100%輸入のためすべてが遺伝子組換え関連商品である。食用油、キャノーラ油、綿実油、大豆油のほとんどは遺伝子組換え食品。つまり、主原料は国産でも、調味料などでナタネ油、大豆、トウモロコシなどを加工した香料や果糖ぶどう糖液糖、水あめ、ブドウ糖、魚介エキス、デキストリン、エリストリールなどが含まれる場合には表示がなくても、遺伝子組換え関連商品であると考えられる。もう一つの表示に「遺伝子組換え不分別」表示があるが、日本では表示義務内容が曖昧であり、製造者、小売業者の考え方に依存しているのが実態である。

筆者は消費者がそれらを選択できるよう、「遺伝子組換え食品」「遺伝子組換えでない食品」としっかりと表示することが重要であり、市場原理を働かせることができることが重要としている。

遺伝子組換え作物には次の種類がある。
・ 除草剤耐性:ラウンドアップなど
・ 害虫抵抗性:Btトウモロコシなど
・ 疾病抵抗性:パパイヤ、トマト、ジャガイモなど
・ 有用成分強化:リシン、オレイン酸、ビタミンAなど
・ ストレス耐性:乾燥、冠水、高温、低音など
・ 有害成分低減:アレルゲンなど
・ 医薬品生産:花粉症低減など
・ 環境浄化作物
報道などで有名になったモンサント社のラウンドアップは除草剤である。作物以外の雑草にのみに働き、人間や作物には無害とされるが、ラウンドアップ耐性を持つ雑草の出現や周囲の環境・他作物への影響が危惧される。

ハワイのパパイヤは1990年代にウイルスにやられ壊滅的被害を受けたがGMによりウイルス耐性パパイヤが商業化され、ほとんどのパパイヤ農家が採用、ハワイでは表示義務がないため普通にスーパーで売られているパパイヤの半数雨以上がGMである。日本には2011年12月以降輸入解禁となったため、初めて果物としてGM表示される商品となった。欧州ではBSE感染問題から、政府や企業不信が高まり、科学者や政治家は信用されない機運があり、遺伝子組換えに反発がある。BSE問題は原因物質とされるプリオンの研究が不十分で、それが飼料の肉骨粉に含まれているにもかかわらず、米国においては2009年までその生産と使用をストップ出来なかった、これが大きな問題だと指摘する。肉骨粉を食べた可能性のある米国産牛肉は食べるべきではないという主張である。

放射能汚染が懸念される農作物について。汚染と健康被害の科学的データがほとんどない中で設定された安全基準が現行の基準である。より安全サイドに立った対策が必要である。最終判断は消費者に委ねられるべきであり、放射線表示を誠実に行うことが重要である。安全かどうかを行政や自治体が表明するべきではない、という主張である。



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日本史の授業2 天皇論 井沢元彦 ****

2012年02月17日 | 本の読後感
読んでいて面白く知識整理にもなる本である。

古代日本列島には何回にも分かれて大陸・朝鮮半島から移民があった。第一次農耕移民は稲作技術と青銅器を持って渡来、その後さらに優れた農耕技術を鉄器と共に移住してきた、これが天皇家の祖先であり、大和朝廷を築いたのはこの移民ではないかというのが筆者の推測。理由は銅鐸で分かると。銅鐸は青銅器をもってやってきた移民の聖なる信仰の道具であり、第二次移民はその民族を鉄器で駆逐したため、銅鐸の持つ信仰の由来が失われた。天智の時代には既に銅鐸の使用目的や名前すら分からなくなっていたという。

天皇陵として河内、摂津、大和地方には50ヶ所ほどの古墳がある。天智天皇陵と天武・持統合葬陵、応神天皇陵は確実だというがそれ以外は確認されていない。継体天皇陵と言われる太田茶臼山古墳、仁徳天皇陵と言われる大仙陵古墳、斉明天皇陵と言われる牽牛子塚古墳を始め、高松塚古墳、纒向石塚古墳、見瀬丸山古墳、古市古墳、石舞台古墳などは誰の古墳かはわかっていない。宮内庁が発掘をしないようにしているためであるが、もともと神武から仲哀までは実在自体が疑問視されているのだから、歴史解明のためにはなんらかの調査が必要である。日本の古墳には墓誌がないため不明な点が多いとも言われる。天皇は死んだら黄泉の国に行き復活しないように考えられており、それが他国の王の墓との違いであるという。

日本に仏教が伝わった際にも、悟りを開くよりも成仏する、つまり、怨霊鎮魂の手段として取り入れたという。供養、というのは仏や菩薩に供物を捧げることであるが、死後の人間を納得させることを日本では供養するともいう。死者に死後の世界で幸せになってもらうこと、恨みをはらすことが重要という怨霊鎮魂信仰とでもいうのが日本の仏教であるというのだ。これは仏教本来の考え方とはかなり異なる。日本的仏教の考え方はその後の歴史にも大きな影響を与えている。

古代から近世までの土地制度を整理すると、大化の改新の詔で公地公民制が導入され、すべての土地は国のものとされた。大宝律令では班田収授法で6才以上の男女に田を貸し徴税した。その後田んぼ開拓を進めるため722年には良田百万町歩開墾計画が立てられ農民には食糧と道具が支給された。そして三世一身法では開墾地は期限付きで所有できるとされ、墾田永年私財法では無期限に本人の所有物となった。その後、8-9世紀には藤原氏一族や寺社が班田農民を使って開発した農地を荘園、つまり別荘地の庭であると称して税を免れる仕組みを作り出し、勢力を伸ばした。11世紀には所有地を権門勢家に寄進することで荘園とする寄進系荘園も増えて天皇家の勢力は弱まった。天皇家は土地所有の争いで藤原氏に負けたとも言える。こうした藤原氏一族に対抗するため、天皇家の子孫は源氏、平氏となって武士団を形成していった。その後できた鎌倉幕府は御家人を守護・地頭に任命し武士の土地所有を認めたため地方武士の支持を集めた。豊臣秀吉の時代には刀狩り令で兵農分離が図られ、一地一作人制度が確立された。

藤原一族は皇后を送り込むことで勢力を得ていたが、平安中期、藤原家に関係のない皇子が即位、後三条天皇となった。この時天皇家は藤原家に対抗する手段として荘園整理令を出した。しかし荘園の数は手に負えないほど増えていた。後三条の次の白河天皇は院政を導入、公務に忙しい天皇を差し置いて政治的決断に口をはさむようになった。天皇の命令は詔勅であったが大臣たちの承認を必要とした。上皇は好きな時にだれの承認なしに院宣を出し、思うように政治を司った。院政のはじまりは藤原氏対抗策でもあった。その後堀河、鳥羽、崇徳、近衛、後白河、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽まで院政時代は続いた。

平清盛は一時天下をとったが、武士に支持されなかった。理由は土地の権利を与えなかったためである。頼朝がそれを思いついたのは伊豆に配流されていた時に現地の武士たちと直接触れ合うことがあったからだという。頼朝は1185年、後白河法皇と話し合い、日本国惣地頭となることを認めさせ、各地に守護を置き、配下の武士たちを地頭に任命した。清盛は武士なのにそうしたことを思いつかなかった。さらに、頼朝は日本全国の警察権と検察権を手に入れた。後白河法皇を始めとする貴族たちは血の穢れを嫌い、社会の治安が悪化していた時に頼朝が征夷大将軍となった。この結果徴税権と徴兵権も手に入れた頼朝は朝廷とは独立した権力を手に入れたことになる。天皇家はこの時点で大切な警察権、検察権、徴税権、徴兵権までも手放したが、武士たちもケガレと怨霊を恐れた、また自分たちがそうしたケガレに手を下すという劣等感があり、天皇家を根絶やしにすることをためらったため天皇家が存続した、という解説である。

後鳥羽上皇は、後白河法皇が幕府に与えてしまった権利を取り返そうとし、西面の武士をおいて軍事力を増強、実朝が暗殺されたのを機に幕府打倒の兵を上げたが敗れた。承久の乱である。「乱」とは下が上を反抗すること、「変」は政権転覆の争いを指し、場所で表すという。禁門の変、桜田門外の変など。例外はあり、本能寺の変は本来は明智光秀の乱であるはずだが昔から変となっている。

鎌倉仏教のなかでは、浄土宗、浄土真宗、時宗、これらが阿弥陀仏を信じるという念仏を唱えることを重視する念仏系。臨済宗、曹洞宗が座禅を重視する禅宗、そして日蓮宗は「南無妙法蓮華経」とお経を信じるというお題目を唱える。日蓮宗だけが教祖が宗教名になっているのは、日蓮が信者にとっては人間以上の大菩薩的存在だからだという。日蓮宗では「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗を批判する四箇格言を辻説法で唱えたため、他宗から攻撃された。法華宗の始まりとも言える天台宗の叡山とも日蓮宗は戦った。天文法華の乱であり、法華教を読むことで修業を重ねてきた天台宗とお題目さえ唱えればいいという日蓮宗との戦いであった。叡山は京都に21もあった日蓮宗の寺を焼き払い京の町は応仁の乱以上の被害にあった。

インドの仏様は薄着、これはインドが暑い国だから。菩薩は多くの装飾物を身につけているが、阿弥陀如来はほとんど薄衣一枚であるのは修行の結果である。いずれにしても見た目が日本人とはあまりに異なるので、仏様は最初は神に姿を変えて日本に現れ、その後仏教が広まってからほんとうの姿(仏様)になって現れた、というのが本地垂迹思想。天照大御神は大日如来、八幡様と熊野権現は阿弥陀如来、愛宕権現は地蔵菩薩、須佐能の尊は薬師如来、大国主命は大黒様と対応するとされた。こうして神仏習合は進んだ。

日本人は今も昔も軍隊を嫌う。これはケガレ思想で、平和だと言っていれば平和が維持できると思うのは「言霊信仰」であると筆者は言う。



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宮崎駿の<世界> 切通理作 ***

2012年02月16日 | 本の読後感
宮崎駿作品を愛してやまない大ファンが書いた、宮崎作品の歴史と、登場人物、ストーリー、裏話、すべてが分かるといえる解説本である。風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、となりのトトロ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫から未来少年コナン、ルパン三世カリオストロの城、そして千と千尋の神隠し、ハウルの動く城、崖の上のポニョと全てを語っている、宮崎駿ファンなら必読書ではないか。

ナウシカ、叙事詩「オデュッセイア」に登場するパエアキアの王女にちなんで名付けた。そして宮崎駿が子供の頃に読んだという堤中納言物語の登場する「虫めづる姫ぎみ」である。「社会の束縛に屈せず、自分の感性のままに野山を駆け回り、草や木や、流れる雲に心動かしたその姫君、平安時代に彼女を待ち受けた運命は如何に」とナウシカに宮崎はその想いを込めた。ナウシカは風使いの少女だったが、ラピュタでも風が重要なモティーフになっている。ナウシカは風に乗るメーヴェが印象的、ラピュタの海賊は二人乗りの飛行具フラップターに乗る。白く透明な二対の羽をブンブン振り回してハエのように飛ぶ。空中に浮かぶ王宮がラピュタ、それを狙う空中海賊の老婆がドーラ、彼らに追われる少女がシータで彼女と一緒にラピュタに行くのが機会工の少年パズーである。ガリバー旅行記にヒントを得たというラピュタ、少年が少女に出会う物語である。

これら有名になった作品の前にテレビで放映された宮崎作品が26回シリーズの未来少年コナン。1990年頃のことである。平均視聴率は11-12%、裏番組はぴったしカンカン、当時は宇宙戦艦ヤマトの全盛期であった。この本では第一話から26話までのストーリーをすべて紹介する熱の入れ用であり、マニアなら必読。そして1979年劇場公開された漫画映画ルパン三世のカリオストロの城、こちらも詳細にストーリーが紹介される。懐かしい次元大介や銭形警部、峰不二子が登場する。そしてなによりもクラリス、84年に公開された風の谷のナウシカのキャッチフレーズが「クラリスからナウシカへ」という触れ込みだったという。ルパンではヒロインのクラリスがアニメファンの心をつかんだのだそうだ。

宮崎駿は東映動画に1963年入社、関わったのはわんわん忠臣蔵、狼少年ケン、ガリバーの宇宙旅行、少年忍者風のフジ丸、ハッスルパンチと懐かしい。65年には劇場公開用アニメ「太陽の王子ホルスの大冒険」に自主参加。テレビのレインボー戦隊ロビン、魔法使いサリー、長靴をはいた猫、ひみつのアッコちゃん、さるとびエッちゃんなどの原画にも一部参加していたという。そしてTVシリーズで本格的に手がけたのがアルプスの少女ハイジ、母をたずねて三千里を原作とした物語。これらが有名になった宮崎作品の基礎となった。

もののけ姫で最初に登場する森の精コダマ(木霊)、カタカタと静かな音を立てて頭を回す。映画館の観衆は前の席から驚きの息継ぎが波のように伝わりうねってきたという。感嘆の声ではなく、はっとため息を飲み込むような音だった。ナウシカに登場する腐海、ムシゴヤシが飛ばす午後の胞子が雪片のように舞う、無音に近い空間でシューシューと盛んに瘴気を吐く足元の菌。袋状の実のようなものが破れて胞子を吐き出す前を、クラゲのような生き物が横切る。こうした映像を見た時の反応と同じだという。

悪役もいる。紅の豚の空賊はコミカルな敵であり主人公とも同好の士。ラピュタの政府特務将校ムスカやコナンのレプカは文明側を代表する徹底した憎まれ役である。銭形警部なども敵役だが憎めないし、カリオストロ伯爵は偽札作りをする悪者ではあるが徹底した憎まれ役ではなさそうだ。その背後にいる本当の支配者こそが悪者だとして描かれる。

ハウルの動く城では、城の出入り口に4色の丸盤がありそれを回転して別の場所に出ることができる。「魔法のドアで移動できるなら城が動く意味はあるのか」などと無粋な意見をいう人もいたらしいが、千と千尋の神隠しの不思議の街と同様、距離感や時間を喪失した世界観であり、不安定な世界を表しているのだから、そんなことは気にしなくてもいいはずだ。最新作はポニョ、二泊三日の夏物語である。見た人も多いと思うが、原案はアンデルセンの人魚姫で、舞台を日本にしてキリスト教色を排除し、幼い子供たちの愛と冒険物語にする、それがポニョだった。

宮崎駿の作品への思い入れは作品の細部に詰まっている。先ほどの木霊やムシゴヤシを始めとする背景とも言える登場物、そしてメカへのこだわり。ナウシカが王蟲の死骸を見つけて、目を覆う透明の半球を銃弾の火薬を目の周りにつけ回して、銃を空撃ちして着火、ボン、と取り外す場面を見たら、それは分かる。宮崎駿は平和主義者でありながら武器やメカが好きなのだ。日本のディズニーとも評価される宮崎駿の次の作品は何だろう。



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壬申の乱 遠山美都男 **

2012年02月14日 | 本の読後感
壬申の乱について、従来の説を検証してみた著。従来の説とは、王位継承を巡って大友皇子と大海人皇子が戦った内乱であり、実の兄である天智に殺されかかった大海人皇子は政権から阻害され吉野に隠棲、天智の死後、大友皇子が自分の殺害を企てていることを知り吉野を脱出、美濃を拠点に反撃、大友皇子を自害に追い込み大王の座についた、というもの。大王になった大海人皇子は天皇制度を確立し、律令制度の基礎になる徴税や官僚制度を整備、持統天皇とともに天皇制度の原型を創り上げた。しかし、これは日本書紀に基づく歴史であり、天武天皇と持統天皇がその作成を命じた歴史書、つまり、自分の都合の良いように書かせたに違いないので信用がおけるのか、というのが筆者の遠山さん。大海人皇子の主張は、自分に正当な王位継承権があるのに、兄は自分の子である大友皇子に王位を譲り、大海人皇子を亡き者にしようとしたので正当防衛をしたのだという。これは正しいのかというのが本書。

668年には大友皇子は大海人皇子のむすめ十市皇女と結婚、大海人皇子は天智の4人の娘(大田、鵜野讃良、大江、新田部)と結婚しているので、中大兄と大海人が兄弟であれば、姪との結婚、従兄弟同士の結婚となる。天智は自分が大王になる際に、王位継承を争うなかで、年齢と世代を重視した王位継承権の矛盾に気づき、王位継承のルールを確立したいとの思いがあったと言う。王位は特殊な血統をもった皇子に継がせるべきである、それを実現するためには自分と大海人皇子の血を引く皇子の誕生を願った。大海人皇子と大田皇女の子である大津皇子は孫であり甥、安定した王位継承をもたらす最高の皇子であり、天智は大津皇子を寵愛した。

大友皇子を大王にするのは上記理由より中継ぎだった、という推測がある。草壁、大津がまだ年少であり、十市を嫁にすることで中継ぎに最適な血統をもつことになる。この時点では大友皇子の王位継承に大海人皇子も同意していたのである。

そして天智が亡くなってから半年は何事もなかったかのように日本書紀は書いていて、大海人皇子が大友皇子の挑発に止むに止まれず挙兵を決意、絶えず優勢のうちに戦いを進め勝利した、というのは無理があるというのだ。挙兵準備なら大友皇子こそ十分にできたはずなのに、なぜ大海人皇子が絶えず優勢に戦いを進められたのかという疑問である。大海人皇子は倭姫王の即位(女帝)を天智に進言し王位継承をめぐる戦いを防ぐという状況を作り出そうとしたのである。大友皇子、大海人皇子共に十分な準備をして挙兵し戦ったと見るべきである、というのが筆者の主張である。

庚午年籍(こうごねんじゃく)は民衆をその居住地によってひとり残らず把握した帳簿であり、兵役や租税を徴収することを可能とする基礎であった。天智はこの調査を行なっていたため、壬申の乱の勝者は最新データを使った徴税システムにより、強大な権力を得ることができた、つまり壬申の乱は、豪族の長から国家の長への成長に伴う権力闘争であったという。そして壬申の乱を境にして大王は天皇になり、大王に対する貢納・奉仕のシステムであった伴造、部の民制度から全国の在地豪族を結集し、豪族間の利害までも調整する権力を天皇家が持つに至った。

壬申の乱の結果、処罰が下されたが、乱の規模に比べるとその内容は軽微であった。死罪は中臣金はじめ7名、蘇我赤兄、巨勢人は死一等を減ぜられ、中臣金の子らとともに流罪となり、それ以外は罪の軽重を問わず無罪。大友皇子の味方は少なかった、というより大海人皇子も大友皇子の勢力を完全粉砕するほど強力ではなかったと筆者は分析する。そして天武天皇は戦場の流血と死の穢れを祓う儀式を丁重に執り行った。天皇が治天下の大王となるために必要なのは今までとは異なる統治者としての正当性確立だった、というのである。

古代史最大の内紛と言われる壬申の乱は、天皇制確立のキッカケになった豪族間の勢力争いであり、豪族の部の民・伴造制が国家律令制に成長するのに必要な王位継承のルール作りの一つのプロセスであった。



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戊辰戦争 佐々木克 **

2012年02月13日 | 本の読後感
戊辰戦争は政府軍の目線で語られることが多いかもしれないが、本書は旧幕府側の目線で見てみようという主旨である。

鳥羽伏見の戦いの時点では官軍と賊軍は明確にはなっていなかった。軍事的には幕府軍の旗色が悪いものの、薩長側の大勝利でもない。錦の御旗の現物を見た侍がいるわけでもないのに用意された旗を見てこれは官軍、賊軍と思い込んだ、政治的勝利というべきものであった。戦争が始まるまでは、薩長側も負けた場合の手はずを用意していた。
1. 天皇に三条実美,中山忠能を従え、薩長兵が護衛して芸州、備前に移動し討賊の詔を四方に下す。
2. 岩倉と有栖川宮は京都に留まり、防戦しながら天皇は叡山に潜幸したと偽る。
3. 仁和寺宮、知恩院宮を東北に派遣、令旨を領ち勤王の兵を召集して江戸城を衝かせる。
大久保利通の策略である。前の天皇の孝明天皇は1866年に死亡しているが毒殺の可能性アリとされ、岩倉が首謀者だという説もあったが、筆者はあとがきでそれを否定、死因は出血性痘瘡と明確に特定されたという。

幕府の倒壊後、朝敵とされた側の処分が発表された。第一等は徳川慶喜、第二等が会津松平容保、桑名松平定敬、第三等は伊予松山松平定昭、姫路酒井忠惇、備中松山板倉勝静、第四等が宮津本庄宗武、第五等が大垣戸田氏共、高松松平頼聡である。第一等二等は鳥羽伏見で新政府軍に敵対、第三等は藩主が幕府軍に兵を差し出して慶喜に同行したもの。第四等では出先の家来の不心得から発泡したもの、第五等は家来の不心得はあったもののすぐさま謹慎処分などがくだされたもの。各藩はこれらの処分に従い家老の切腹などが行われた。

戦争が上野戦争から東北に移ろうとする頃、仙台藩は藩主伊達慶邦の名で建白書を太政官に提出した。
1. 鳥羽伏見の戦いで先に発砲したのは薩摩軍であり、徳川軍は応戦したまでである。
2. 大政奉還後は徳川家にどのような企みがあったというのか。
3. 王政復古の新政がなされようとしているのになぜ戦争など仕掛けようとするのか。幼い帝の発案ではないはず。
4. 慶喜が先に発砲したことを取り上げて賊軍というは乱暴である。
5. 国内戦争をしている間に外国からいかなる侵攻があるかもしれず、国辱を万国に流すことになるかもしれない。
しかしこの建白書を受け取った時点ではすでに征討軍は奥羽に向けて出発した後であった。

この後も、庄内藩討伐の宣言が行われるが東北各藩はその理由を新政府軍に問うている。それに対して、「徳川慶喜が朝廷に対して暴発反逆を働き、関東へ逃げ込んだ後も庄内藩はなお回復を主張した。あまつさえ、旧冬関東見廻り役の節、ゆえなく嫌疑を持って諸藩邸内へ砲撃し、焼き払ったこと」であるという。つまり江戸薩摩藩邸焼き討ちが罪状の中核であった。秋田藩、米沢藩、仙台藩は庄内藩への罪状に不信を抱いた。こうした積み重ねから、東北地方の各藩は仙台藩が中心になり、次のような盟約書を結んだ。
1. 大義を天下に伸ぶるをもって目的とする。
1. 同舟海を渡るごとく、信義をもって行動する。
1. 私利私欲を離れ秘密は守り同盟を離間しない。
1. 百姓を労役で苦しめない。
1. 大事件には列藩協議して公平を心がける。
1. 他国への通報、出兵は同盟に相談する。
1. 無辜の民を殺害しない。
仙台藩62万石、会津23万石、盛岡20万石という大藩から1万石程度の小藩までが東北越列藩同盟であるため、公平であることが強調され、何事も協議して決めることが約されている。これらが会津戦争で会津城がせめこまれる間に脆くも崩壊するのである。薩長の横暴には腹を立てながらも新政府以降も藩としての生き残りも模索したい、というのがサラリーマン的考え方であり、勇猛果敢に戦う会津とそれ以外の藩には相当な温度差があった。

東北戦争に敗れた将兵は続々と仙台に集結、榎本武揚の艦隊に合流していた。旧幕府歩兵奉行松平太郎、陸軍奉行竹中重固、歩兵奉行大鳥圭介、古屋作左衛門、新撰組副長土方歳三、遊撃隊長人見勝太郎、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、唐津藩主世古小笠原長行らである。かえるべき場所がないので仕方なく合流したという。榎本武揚を大将とする軍隊は投票でその役割を決めた。松平定敬や板倉勝静、小笠原長行らは指導者としての能力を評価されず選ばれていない。結局、この戦いにも敗れ、戊辰戦争は終結、東北各藩は没収地を実施された。もっとも厳しかったのが会津藩で23万石が斗南藩の3万石、実質は1万石もない地に追いやられた。仙台藩は62万石が28万石に、盛岡は20万が13万に、二本松は10万が5万に、庄内は17万が12万に、長岡は7万が2万4千に、白河が6万を4万に、米沢藩は18万が14万に減封された。しかしそれ以外は意外に軽い処置であった。

東北各藩が何を求めて同盟を結んだのか、社稷を守るため、領地を防衛するためという消極的理由ばかりではなく、本当の意味での新政復古を行いたいという熱意であった。しかし、東北の各藩の団結も強いものではなく、仙台藩の力への反発も強く、天皇を頂点に頂き、全国に存在する各藩が現状維持するという未来像だけでは戦い抜けなかったのが事実である。しかし、明治維新以降に、東北の武士の面目を一新できるようなチャンスがなかなか巡って来なかった。



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私小説 from left to right 水村美苗 ****

2012年02月08日 | 本の読後感
いつの時代なのだろう、想像するに1965年ころか、家族と共に12才でニューヨークに移り住み20年経過した時に、今はボストンに住む自分とNYCに住む姉との電話会話を通して20年のアメリカ生活を振り返る。ある意味饒舌な、しかし自分の言葉で話しながら、なぜか姉の代弁をしているような、英語の国に暮らし、右も左もわからなかった自分が、やはり20年経っても異国人であることを姉と共に振り返っている。電話のダイヤログなのに、姉は自分の映し鏡のようであり、もう一人の自分であり、お互いになりたくない自分でもあるようだ。

父は日本企業の米国駐在員で、日本では中流の家庭だが、米国に来るとなぜか日本では上流の人たちと付き合うようになる水村家。アメリカでの住まいも昔は上流家庭が多かった地域で、近所の人達の善意に囲まれて暮らす。クラスの友人は初めての日本人が来た、ということで珍しがってくれた。2歳年上の姉の奈苗は、そのうちボーイフレンドと付き合うお年ごろになる。本人の美苗はまだ味噌っかすである。奈苗はアメリカの生活に馴染もうとしてどんどん英語人に近づく努力をするため、英語も上達するが、美苗は日本語文学の世界に没頭して英語からの距離を保とうとする。

奈苗と美苗の電話は半分が英語、それも奈苗の会話は英語で美苗が日本語が多い。美苗が日本語の小説を書くとしたらどんな内容かを二人が電話で話しあう。「私のアメリカ青春記」、貞奴と川上音二郎なんかになりたくない、と美苗。Harlemに住んで、娼婦やjunkiesが近所にタムロしているので時々銃の撃ち合いもある。ついでに黒人の恋人までいる、20歳代中盤の日本人女性が主人公、名前は古風なサチコ。高校から大学までをNYCで過ごしたという設定。HarlemのクラブでJazzを歌って暮らしを建てようとしている。白人のgayの友達がいるがAIDSで苦しんでる。そこへ高校時代の初恋の相手がNYCに来る、出会いは劇的だ。なぜか日本から来たのにその相手の男性も英語ができるという。そこで美苗はその男性が黄色人種であり、日本人であり、東洋人であることをアメリカの中でどのように存在させるかが想定できない。一個の人間として自分の小説の中で確立出来ないというのだ。これは美苗の自分自身の苦しみである。

アメリカの学校に通った人なら皆が毎朝唱える文言。「I pledge allegiance to the flag of the United States of America…..」手探りでアメリカでの風景に慣れていく中で、毎朝唱えるマントラ、そして教室に立つ星条旗。世界地図はアメリカ大陸が中心、歴史は近代までがイギリスびいき、独立戦争からはイギリスが悪者になる。北部と南部では異なるアメリカ史、授業中に足を組もうが、放課後に買い食いしても咎められることはない。喫煙ですら学校内でなければ咎められることもない。女の子たちは早稲で色情狂、男女交際は誇るべきものであり隠れてするものではなかった。女の子たちは学校にハンドバックをもってきてトイレの鏡の前で髪をとかし化粧をする。ストッキングもガーターも必要もないブラジャーだってみにつけていた。朝のシャワー、カーラーで髪を巻くためにドライヤーが必要だということも学んだ。ロッカーにはデオードラントの匂いが立ち込めていた。夏休みのキャンプには7年生からはドレスを持ってくることとされていた。ダンスパーティがあるからだ。最年長組の15-16才の女生徒になると妖艶とも言える美しさでダンスとは名ばかりの濃厚な前戯とも思える踊りをおどるのだった。

アメリカの文化的側面も語られる。衝動買いが止まらない人に対するセラピー、“spendthrifts group therapy”とか”compulsive shoppers anonymous”などという話。ダイエットをしたいのだけれどもたくさん飲みたい人のためのダイエットコークのガロン瓶。数多く行われるデモへの参加、anti-nuke、pro-choice、gun-controlなど。離婚と再婚、そしてゲイとホモ、イイ男は結婚しているかホモである、などという話。孤児院にいる子供の後見人になる善意の人々とその子が不良になってしまう話。アメリカ人の女性同士でもするような日常会話を姉妹でしているという何でもない会話の連続であるが、ここまで濃厚であると、読む方の腰が引けてしまうのではないかと心配にもなる。

JAP、日本人への差別表現かと思ったら、Jewish-American Princessが転じてJapanese-American Princessつまり日本人駐在員のお嬢さん、という感じの自嘲的表現。平均的アメリカ人のボーイフレンドからみればそう見えるという話。

しかし、そういう自分たちも品のいいbarから追い出されて傷ついた奈苗の話は印象的だ。Barでボーイフレンドと飲んでいて白人のバーテンダーにこう言われたそうだ。“Will you two behave yourselves or will I have to ask you to leave?” ボーイフレンドが出て行かないのを見たバーテンダーはさらに”I just don’t think you two belong in place like this.” ボーイフレンドの方は見てくれも悪くてそう言われても仕方のない気がしたが、なんでyou twoと言われなければいけないのか、それは自分が東洋人だからなのか、というのが奈苗の感覚だった。この話が二人の姉妹を引きずる。東洋人の私たちはこの国アメリカで人間的に存在していけるのかと。奈苗が白人の女性であったならバーテンダーはあんなことは言わなかったのではないかと美苗も思う。

日本語で読んだ西洋の物語、それを英語では違う言い方をする。小公女は“A little princess”、主人公はセーラ、Sarah。若草物語はLittle women、秘密の花園はThe secret garden、小公子はLittle lord fauntleroy、ゴッホはVan Goch、アルキメデスはArchimedes、プトレマイオスはPtolemy。日本の少年少女は日本の物語を読んでいるのではなく、日本語で書かれた西洋の物語を読んでいるのだということに友人のSarahと話していて気がつく。そして美苗はSarahに言う。英語で小説を書くのと日本語で書くのとでは読者の数か全く違うのだから、書くという行為の価値まで違うんだと。日本語で書かれた優れた作品でも海外で評価されないものは多い。単に知られていない、もしくは翻訳すると通じない日本文化を背景にしている、そもそも日本文化に関心がない人が読んでも面白くもない。

美苗は大学院でフランス語を学んでいる、その最終の口頭試問を受ける。受けた後には20年ぶりに日本にかえるつもりなのだ。その試験官のMadame Ellmanにこう言われる。“Home is not a place to return to”。Ellmanはユダヤ人、日本人とは違う考え方なのか、それは普遍的な事実なのだろうか。

水村美苗、私小説とはよく言ったものだ。全くのプライベートな姉との電話での会話を通して家族の過ごしたアメリカでの生活を読者に垣間見せている。もちろんその一面であり、小説なのだから全てが事実だとは限らないが、登場人物は水村家を含め、RebeccaもSarahもLindaも実名だと思われる。濃すぎるカルピスを飲んでしまったような、あるいは「北の国から」を通してみた時のような重い感じを腹の下に感じる。美苗姉妹には何の罪もない、そして水村家の両親にも罪はなく、美苗たちを取り巻く人達も多くは善意の人たちであった。しかし、重々しい差別感、孤独感、孤立感、希薄な自己存在感、アメリカという国に住む人達への美苗からみた人間観にはビュービューと風が吹いている。「本格小説」や「日本語が亡びるとき」につながる基本となる物語である。水村美苗、今は小説では「殿」と呼ばれている日本人の夫(岩井克人)と日本で暮らしている、幸せなのだろうか。小説の最後でも今の、戦後の薄っぺらになった日本を嘆いている。日本では買い物は便利だし、玄関を出るときにも緊張は不要だし、人のつながりは濃くて、日本人であるかぎりは住みやすいかもしれないが、国家としての存在が薄い、アメリカはこんなに薄っぺらな国ではなかったと。それでも帰りたい日本、美苗には"Home country is a place to return to"なのである。



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松井教授の東大駒場講義録 松井孝典 ****

2012年02月05日 | 本の読後感
2005年の時点で惑星科学を分かりやすく学生相手に講義した時の講義録が本になったもの。面白い。

「暗い太陽のパラドックス」という話し。太陽の明るさは遠い昔は暗く、徐々に明るくなってきているという。現在の地表温度は平均15度、しかしもし地球の大気成分が現在と同じだと仮定すると、20億年前には地表温度は0度、38億年前にはマイナス25度だったはずという。ところが実際には海流があった、つまり凍っていなかった証拠がある。地球上のCO2は雨で地上に流れて海に溶け込み重炭酸イオンとなる。これを貝が取り込むと炭酸カルシウムとなる。これらが火山活動などで空気中にCO2として吐き出されるという地球規模での循環が行われている。地表温度が上がると海水はより多く蒸発し雨量も多くなるが、気温が低いと雨量は少ない。太陽が暗いと温度は下がり、雨量が少なくなって大気からCO2が除去されなくなり、CO2による温室効果で地表温度は上がる。つまり、太陽の光度変化に地球はシステムとして応答し安定化する、という。しかし地球が誕生した46億年の間には、全球凍結と言われる地球氷河期が何度かあり、火山活動の停止があるとCO2の大気中への供給が減るため温室効果がガクンと減るので、これで説明できるというのだ。人間が誕生した以降でも氷河期があり、8度程度の平均気温低下が過去40万年の間にも4回あった。現在の15度という温度は1万年前から安定している温暖期である。

惑星探査には幾つかの段階がある。第一段階はフライバイ、惑星の側を通過して観察する。赤道を回るのと極方向に回るのでは使われるエネルギーが違うので、フライバイでも二種類に分けられる。極方向に回れば惑星の全体を観察できるが、赤道周りでは自転方向なのでその緯度しか観察できない。探査機を惑星に下ろすことが出来ているのが金星、火星、月、小惑星、タイタン。サンプルリターンが次の段階で月、そして現在では日本のはやぶさが持ち帰った小惑星「いとかわ」がある。

地球には大気がある。大気は循環しているが、大きくは赤道で温められた大気が上昇して北緯30度付近で下降するハドレー循環、中緯度では逆方向で北緯60度に上昇気流があって北緯30度に降りてきて下降するというフェレル循環、極付近はまたその逆方向に大気循環がある。地球には自転があるので、ハドレー循環は対流圏では赤道上の東から西方向への気流となりフェレル循環は北緯30度から60度の間の地表に西から東に向けた気流を生成させる。中層では異なる動きをする。海洋にも大循環があり、表層水は太平洋からインド洋さらには喜望峰を回って大西洋を北上する。グリーンランドの南で深海に潜り、深層水は太平洋を南下、南極の側を東に向かい太平洋を北上して表層に上がってくる、という2000年くらいの循環だという。赤道で温められる、極付近では冷える、というのは大気の場合と同じだが、海流ではこの入射太陽光の量の違いと塩分濃度も関係し、濃くなると沈むので二つの要素で発生しているという。

太陽系には惑星が9つある。太陽系誕生の最初の段階には微惑星という小天体が100万年位の間に形成された。小さな粒子はもっと細かなガスから抵抗を受けて太陽に向かって落ちていく。そのプロセスで粒子同士が重力で集まり微惑星と呼ばれる小天体となる。ここから100万年くらいかけて微惑星の集積により衝突を繰り返す中で更に大きな原始惑星が一定の軌道間隔で並ぶ。次の1億年で原始惑星は合体して今の水金地火の4つの惑星を形成した。巨大ガス惑星は木星と土星の二つ、4つの内側の惑星よりも外側にある木土は、より冷たい空間のため氷成分も多く、そこに含まれる質量も多かったので原始惑星の数も多かった。そのため地球の10倍ほどの巨大惑星が誕生、ガス惑星はガスの塊の中に岩石と氷からなるコアを持ち、外側には水素、ヘリウムを持つ。惑星が大きいので重力も大きく、惑星の周りのガスを取り込んで巨大化したという。3つあると安定しないという。3つ目の惑星がどこに位置しても、他の二つの重力に影響され離心率が高くなり軌道がずれてくるからだというのがシミュレーションで分かっているのだと。

この先、地球はどうなるか。それは今が地球歴史の折り返し点であり、今後はエネルギー的に言えば地球内部は冷えるが、地表温度は上昇する。なぜかといえば、地表のCO2量は280ppmで史上最低レベルにあったのが、人間活動によりCO2が増えてきた。1億年前には1000ppm位あったので地表温度ももっと高かったその状態に徐々に戻るだろう、というのが松井教授の解説である。このCO2による温度調節も5億年くらい経つと、太陽光度の上昇によりCO2が逆に減少、現在の10分の一程度になり、植物は光合成ができなくなる。そうすると太陽光度上昇による温度上昇を吸収できないので海が蒸発、金星のようになるだろうという。その時点よりずっと手前で人間圏はなくなっているはず。じゃあどうするのかは1万年くらいかけてじっくり考えればいい。




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乱れているか?テレビの言葉 橋本五郎監修 読売新聞新日本語取材班 ***

2012年02月04日 | 本の読後感
気になる日本語表現は世代によってずいぶん違いがあるだろう。この本は40-50歳代から見た違和感の特集かな。

聞き苦しい表現から。「なにげに」「やばい」「ヤツ」アナウンサーが多用すればおかしいか。
「正直、・・」これは何がおかしいのかと感じる若者もいるだろうが、正直に感想を言えば、という意味の省略形であることを意識しているのか。「・・になります」はファミレスのアルバイト君用語。「人気の・・」「結果を出す」これは何が問題かといえば、人気がある、という意味で「人気の」なのか、という指摘。結果を出すは、いい結果を出す、というつもりであり、いずれも省略された表現であることを意識しているかという、同様の指摘。

テレビでよく使われる「中継をつなぐ」、これは中継されている場所と回線をつなぐという意味の業界用語、「絵」を映してください、というのもテレビ業界の用語。

「元旦の夜」、元旦とは1月1日の朝という意味があるのだから、元旦の夜とは、1月1日の朝の夜となる。「離発着」、離着陸ならわかるが、離発着では二重に地上から離れてしまう。どうでもいいような、しかし誤用である。

数字の読み方。十個なら「じっこ」が正しい。7は「しち」か「なな」か。京都七条はななじょうとは言わない。47士はしじゅうななしとは言わない。イチニイサンとくればシチ、ひとつふたつとくればななつ。七変化、七分袖、人の噂も七十五日はシチ、七色仮面、七重八重、七転び八起きなどはナナ。しちはいちと聞き違えやすいのでナナと言う場合がある。4と9はよんときゅう、しとくは死と苦を想像するので避ける場合がある。しかし40にして惑わず、九分九厘はしとくである。いちにいさんしご、逆から言うとごよんさんにいいち。なぜ帰りはよんなのだろう。0はれいかゼロか。英語ではzero、日本語は零。ゼロセンは零式戦闘機のことをゼロファイターと呼ばれたから日米語が混合した。可能性はゼロ%、零%、ゼロと言われると全く可能性がないように感じるのは何故だろう。

「蓮池薫さんが24年ぶりに戻って参りました」何がおかしいか。参るは謙譲語、ニュース報道なら「帰国しました」で良いだろう。面と向かって紹介するなら「戻って来られた蓮池薫さんを紹介します」となる。しかし「選手団が入場して参りました」これはおかしいか。これならありえる。日本語は難しい。野球選手へのインタビュー「あの場面、どんなお気持ちでお打席にお立ちになられましたか」、過剰な敬語表現だ。「どんな気持ちで打席に立ちましたか」で十分である。

「さ」入れ。「抽選の上、賞品を送らさせていただきます」、不要な「さ」、「送らせて頂きます」である。しかし「見る」「受ける」なら見させて、受けさせて、となる。関西では事情が少し違うかもしれない。米朝師匠なら「私の方から送らさせていただきます」でもいい気がするのは不思議だ。関西人に一から十まで数えて、と言えば「いーちいにいいさんしいごおろくうしーちはーちくうじゅう」とメロディー付きで数えるが関東人は「いちにさんしごろくしちはちくじゅう」と一気に行くだろう。標準語では1月から12月まで数えると、3,5,9月はさ、ご、くにアクセントを付ける。関西ならどうだろう。2月と4月が高いか。「来ない」、関西弁のカ行変格活用で言えば「キーヒン、ケーヘン、コーヘン」京都、大阪、神戸である。サ行変格活用は「しない」が「しーひん、せーへん、せーへん」。

アクセントの違いは意味の違いを表す場合がある。「背景」「拝啓」ケイが高いのは背景、ハイが高いと拝啓。しかし関西ではいずれもハイが高い。highは高いのは当たり前か。債権、再建、再見、細見、再検、言い分けられるのか。資産、試算、四散とか、支援、私怨、紫煙、試演も難しい。統括と東葛、出典と出店、正解はあるのか。

大舞台、ルールは次に音読みがくればダイ、訓読みが来ればオー。ダイブタイが正解らしい。古典芸能の世界ではオーブタイと言うのが例外というが、どちらでもいいと感じる。大地震はダイジシン、オージシン両方ありだが、大震災はダイシンサイなのに。横綱ならダイヨコヅナ、しかし、平成の大横綱はオーである。相撲は古典芸能だというのか。しかし大火事、大一番、大げさ、大げんか、大所帯、大道具、大番頭などは音読みなのにオーである。法則はあるのだろうか。

「全然大丈夫です」、20代の若者は「全然」気にならないらしい。

言葉は世に連れ、世は言葉に連れ、使い方は変わってもいいのかもしれない。



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新しい道徳 藤原和博 ***

2012年02月04日 | 本の読後感
賛成できる主張が多い。成長経済時代は終わって、成熟社会になったのだから、成長経済時代の価値観や仕組みは改めるべきなのに、考え方を変えられない大人が多い。

ケータイの害、それは子供たちに果てしない害毒を振りまいている。そのことに大人は気がついていてもしならいふりしている人が多い。ケータイは悪くない。メールが来たらすぐ返さなくてはいけない、などという思い込みがイケナイ。誰かといつも繋がっていないと不安である、という心理がおかしい。テレビも同様であり、テレビは悪くない。それを常時つけっぱなしにしている状態が家族の教育、コミュニケーションに良くない結果をもたらすことに気づく必要がある。良いか悪いかの2項選択ではなく、中間や混合も有るはずだが、分かりやすく、面白くするためには二極に分けてしまうテレビの手法がまずいのだろう。世の中はそんなに単純ではないはずだ。誰かが権威付けや箔付けをしてくれたブランド信仰も罪である。XX大学卒、XX会社にお勤めです、ビトンのバッグを持っています、他の人と一緒です、などというのは亡霊みたいなものである。

日本が世界に発信しているメッセージ「平和、安全、長生き」、これは宗教的である。抵抗が難しいくらい悪くはない。問題は、その3つが実現された上で何を為すのか、であるのに、3つを実現することが最終目的のようになることである。ブランド信仰とつながる部分がある。ブランド物は持つことではなく、その品物をみにつけて何をするかが目的である。何をするか、考えたことがあるだろうか。

家庭には両親と子供がいる。子供が接する近しい大人は両親だけ、30年ほど昔はそうではなかった。家には叔父や叔母、祖父、祖母、いとこもいたりした。ナナメの関係であり、多様な価値観、つまり、親だと言わないようなスケベな話だとか、自慢話はこうしたナナメの関係から得られたものである。今はそれがない、つまり多様な価値観が家では語られなくなった。地域社会にはナナメの関係がいっぱいあった。大人になって聞いたことがない価値観を拒否してしまう、住みにくい、コミュニケーションがとれない、などはこうした家の変化が原因となってはいないだろうか。

ちびやぎっちょは差別用語なのにおねえやオカマは差別語ではないようだ。ニューハーフ、性同一障害、インターセックス、女装家など、テレビでも堂々と話されている。お馬鹿、お笑い、おねえ、今のテレビに頻繁に登場するバラエティ3つの「お」である。テレビでは登場していても現実社会ではどうだろうか。人のからだについての多様性のテストである。多様性をテストするために、許せるものに○をつける。1.人相が変わるほど化粧する 2.縮れ毛矯正やパーマをかける 3. 毛を染める 4.ピアスをする 5.ムダ毛を薬品で抜く 6.永久脱毛する 7.植毛する 8.刺青する 9.ナイスボディを得るためにサプリメントを飲む 10.プチ整形 11. 歯を白くするトリートメントを受ける 12. レーシック手術を受ける 13. 背が伸びるホルモン注射を受ける 14.ドーピングしてスポーツに望む 15.妊娠中絶する 16.遺伝子操作による再生医療をおこなう

どうだろうか。世の中は多様であり、多様性は受容する必要がある。

藤原和博の主張はこんな所である。


社会で自由を獲得し、夢を実現することは人生の中では有意義なことである。ところで夢を持っている人はいるだろうか。今を生きているだけ、という人がほとんどであることが実際のところではないか。それではなぜ若者には「夢を持て」などというのだろうか。自分が出来なかったことを若者に託すのか。次にやりたいことがある、これがとりあえずの夢、この程度でどうだろう。次に自由、これは社会での信用の積み重ねであり、信任、信頼、の積み重ねで個人が得られる良い意味での裁量であり、周囲からの尊敬を背景に持つ。自由度が上がれば大きな夢だって叶えやすくなる。「自分探し」をする若者は今はどうなったのだろう。次に何をやるのか、どうしたら自由度は上げられるのか、この二つの組み合わせではないか。


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列島創世記 松本武彦 ***

2012年02月02日 | 本の読後感
2007年11月から発刊され始めた小学館の日本の歴史全集第一巻である。旧石器、縄文、弥生、古墳時代を解説する。文字がない時代の解説であるから、人間の営みを気候変動や骨や土などの発掘物から読み解く必要がある。まずは時代区分、縄文時代というのは長い。15000-11000年前を草創期、11000-7000年前を早期、7000-5500年前を前期、5500-4500年前を中期とまとめて前半とする。後半期は4500-3200年前の後期と3200-2800年前の晩期とする。九州最南端の鹿児島は四季を通じて温暖で縄文草創期の遺跡が見つかる。桜島を望む高台になる掃除山遺跡には竪穴式住居の跡が見つかっている。特定の土地に落ち着く計画的意思と生活戦略の有無が旧石器時代との区別である。旧石器時代の終わりには世界的な気温上昇が見られ、15000年前以降に一旦上昇した気温はその後下降するが10000年前までに再上昇し現代に至っている。旧石器時代遺跡最後の神子柴型にみえていた定住指向が温暖化に伴う河川漁労や植物管理の成功確率を高めたためであると推測できる。

縄文時代の四季は食糧獲得の毎日である。春の山菜、秋の山の果実やきのこなどを保存しながら、骨角器づくりを欠かさず漁労や狩猟にも備える。土器作りで食糧や塩の保存も行う。食糧獲得と共に加工と貯蔵の技術が作ったのが縄文文化であるとも言える。照葉樹林が縄文文化の母体だとする説があるが、筆者はそれを否定する。この時代の照葉樹林は西日本に広がっていたが、縄文文化が広がったのは温暖落葉広葉樹林帯であった東日本が中心であったからである。この時代の西日本には生産活動の痕跡はあるものの大きな集落は見られない。季節ごとに労働の場を巡回するような生活であったと推察する。朝鮮半島との関わりは北九州から西日本に見られ、土器や釣り針も朝鮮半島との共通点が多い。北海道では海や陸の大型獣を捕獲する仕掛けが多く見られる。縄文時代にも旧石器時代の狩猟依存が多い地域である。南北海道から北東北はモリやヤス、石鏃を付けた弓矢などによる大型魚や動物の狩猟、釣り針の発達が見られるという。南東北から関東ではクリの貯蔵、イルカ漁、干し貝などの貯蔵痕跡が多く見られる。一方八重山諸島から南にも九州の土器が伝わっているが、南の漁労の痕跡は多くが研究途上である。

縄文時代には環状集落が見られるがこれは平等社会の象徴だったのではないかという説がある。格差を包み隠しながら中心部に墓、周辺部に貯蔵庫、その間を住居が取り囲むという形だからという主張である。しかし筆者はそれは作られた概念であるという。しかしそれを否定する材料にも乏しく、物質文化の始まりに序列と平等がせめぎ合っていたのかもしれない。

水稲農耕の始まりが弥生時代の特徴である。しかし地域的な時代のズレがある。北部九州から瀬戸内では縄文後期からで晩期には朝鮮半島から水稲農耕が伝来した。気候変動と共に東日本から西日本へ、朝鮮半島から西日本へなど、人の流入や移動は数回の波があった。水田、武器、環濠は弥生文化の三要素である。水田を造るための灌漑技術、他部族との水や土地競合、人口増加に伴う争い、そして防御のための環濠であり、九州から関東にまで広がった。この時点での日本列島は、気候、狩猟・漁労と農耕などが地域的特徴と組み合わさり、北、東、西、南とそれぞれが異なる特徴を持つ文化圏を形成していたと考えられる。

弥生時代の後期からは高さのある遺跡や集落跡がある。上・下、前・後、内・外という物理的関係を体感できるのは高い場所である。天国と地獄、山の手と下町などは地位の違いを象徴する場合が多い。古墳は上下の関係を象徴する建造物であり、死者が上下に関係付けられるのが古墳出現の意味としては重要である。紀元前後の高地性集落は主に北九州から瀬戸内海に分布する。ここに鉄の入手と精錬技術という要素が加わり、北九州、吉備、近畿に出雲、越の国という西日本文明圏が形成されていく。そして古墳は北九州から日本海側へと展開する。二世紀頃の文明圏としては銅鐸の分布から近畿、銅戈の分布から北九州四国の二大文化圏が想定できる。三世紀には纒向遺跡のような大規模なムラが現れ、2平方キロメートルほどの中に住居、運河、周りには前方後円の墳丘墓がある。墳丘をもつ墓の周りに広がるムラは吉備にも見られるクニの中心部の景観である。平等原理の物質文化から、序列原理の物質文化への変革が表面化した時代である。

古墳は四隅突出型墳丘墓→楯築墳丘墓→前方後方墳丘墓→前方後円墳丘墓→前方後円墳→前方後方墳と発達する。古墳の大きさは巨大化し、その後小さくなって終わる。序列社会の形成から、地方の王の地位低下、群を抜いた王がいなくなったことを示す。逆に倭王を頂点とし、各地の王・酋長などが営む経済や流通の仕組みが列島の広い範囲にまで及んだという見方もある。古墳はモニュメントから血縁を祀る普通の墓へと変遷したのである。

通史の第一巻であり、網羅的であるが、日本列島に文明が広がった様を概観できる。東西南北の最初の違いはこの時代に形成されたことにも納得できる。奈良時代の律令時代は西日本が中心であり、鎌倉・室町には東西2つの権力が両立した。その間にも北の文明、南の文明はそれぞれに生きていたのであり、それらも日本史である。日本成立時代から中世に渡る、日本列島の北と南、などという視点の歴史も読んでみたい気がする。


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古文書返却の旅 網野善彦 ***

2012年02月02日 | 本の読後感
網野善彦が若い時代に携わった民俗学研究では、多くの民間文書が収集、借用され返却されないまま研究施設や大学、個人宅に死蔵されたままになっていることに、網野善彦は個人的な苦悩があった。30年以上経過したものもあるが、それらを丹念に調べ、1つずつ持ち主かその子孫に返却する、という途方も無いことを筆者が10年以上かけて実践したその記録であり、贖罪、とも言える活動の紹介である。貸した側からすれば、返したもらえることを期待しているだろうし、期待していなくても、返却の打診があれば喜んで寄付するという人もいるであろう。逆に黙っていればもう二度と協力しないという人もいる可能性もある。今後の歴史研究家は網野善彦のこうした活動に感謝する時が来るかもしれない。

1950年頃に、宇野脩平が国からの委託事業として行なった文書収集、宮本常一が借用した文書も含まれていて、返却したところ、「これは美挙です」と褒められたという。霞ヶ浦と北浦の津の民の文書、瀬戸内海の島に浮かぶ島二神島の二神家の文書、奥能登の有名な平時忠の子孫とも言われる時国家文書、そこで学んだ農民、そして水呑は貧農であるというのは誤解であること、奥能登の豪農が農業だけではなくて蝦夷地やサハリンとの交易を行い、大阪との商業中継地となっていたとの話は後の網野善彦の研究に大きな影響を及ぼした。

返却に行って新たな文書が見つかる場合も多く、中世の貴重な文書をこうして入手できた経緯なども紹介される。総じて、網野善彦の良心の物語であり、自慢話はなく好ましく読める。民俗学者に限らず、研究のために民間文書等を借りて返さない学者がいるなら見習って欲しい姿勢だ。


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幕末百話 篠田鉱造 **

2012年02月01日 | 本の読後感
明治33年になって20世紀を迎える頃、幕末維新の頃の実話を古老から聞きとってまとめた聞きとりメモのようなもの、今から読むと「本当か」と感じるような話もあるが、全ては聞きとって書いたもの、まるっきりの嘘ではないはずだ。

最初の話はこうだ。旧佐竹藩の藩士は生涯81人も人を切ったという御仁、その御仁は維新後、湯屋に行っても銭を払わない。号を煮やした湯屋のオカミが督促すると、意趣返しをしたいと考えたその御仁、死体置き場から腕を一本拝借して銭湯の中に放り込んで出てきた。後から入った客は驚いて逃げ出し、その後その銭湯には客足が遠のいたという。その元お侍、その後松坂屋の土蔵の裏にいた按摩を斬った時、斬り損なって、「目の見えぬものを斬ったな、恨んでやる」という按摩の声に一生苦しめられ、ついに病みつきになって死んだという。とんでもない御仁がいたものである。

脱疽で苦しんだ美貌の女形、澤村田之助は脱疽で手足をなくした。その手術を手がけたのが横浜にいたヘボン、麻酔薬を嗅がせてのこぎりでゴリゴリと足を切断したという。切った足には義足をつけていたのに、元来好きな飲む打つ買うを慎まない田之助、養生も悪く、その後手の先も腐れはじめた。手足の先がなくて転ぶと起き上がれない、という様になってしまった。享年34才で若死にした、という話。

お茶壺道中は江戸時代、大名並みの供応を受けたという話。出発は朝の七つ、御城からお壺を受け取り第一日目は品川へ、そこからは、戸塚、藤沢、平塚などを経て小田原に入る。小田原城にお茶壺を迎え入れ、出迎える。箱根八里を越えて三島でも酒肴が出る。原ではお刺身、蒲原では酒肴水菓子、府中では出迎えがあって、岡部ではまたまた酒肴。掛川では麦そうめん、葛団扇、荒井では鉄砲改めがあり、酒肴と鰻焼飯がでる。桑名ではお茶壺に家老町奉行から挨拶があり、領主御料理代がでる。草津の宿につくと、京都から御職人が出迎える。大津では京都奉行に宇治へ遣わす書状鋏み箱を出す。お茶屋の上林手代などがお迎えに来る。宇治に到着すると、出迎えが夥しく、士分は京都へ、茶壷運送の係は宇治へと別れる。大層なお茶壺道中の思い出の話。

その他、安政の大地震、廃刀とちょんまげ改めざんぎり頭にした話などなど、幕末維新の実話ばかりを集めた、興味がなければ単なる変わった昔の話であるが、幕末維新が好きな御仁にはたまらない。

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