意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

流れる 幸田文 ***

2012年01月31日 | 本の読後感
物語は昭和30年ころ、次のように始まる。「このうちには相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。」

この文章が日本語を学ぶ外国人にはどうにも分からない、という話を読んだことがある。まず主語がない。日本人なら、玄関ではなく勝手口を探しているのだから、お客ではなく他人の家を訪ねていったのだろう、と想像するが、勝手口という日常の意味を理解していなければ、誰がどこで何を探しているのかすら分からない文章である。主人公の梨花は女中の口を見つけて芸者衆のいる置屋に住み込みで働くことになる、というお話であるが、主人公は40才前後で子供が昔はいて、夫とは離別した女性、ということしか読者には示されない。あくまで読者が想像しながら読んでくれることを期待する文章である。

くろうととしろうと、という話が出てくる。芸妓衆は玄人筋、主人公はしろうと、というわけである。しろうとは会話が直接的で分からないことなどは何でも疑問を口に出してしまいそうになるが、くろうとの世界では会話の端々から読み取る、読み取ろうとするように会話をしている、という風に梨花は感じてしまう。お客の前では洒落た会話を交わす芸者衆も、お客が帰れば口汚く悪口を言う。芸者は基本は独り立ちするものであり、置屋は場所貸し、お茶だって置屋の主人のものは黙って飲んではいけない、などという決まりを梨花は働きながら学ぶ。置屋の近所には寿司屋や車屋、仕出し屋、八百屋などがあるようなのだが、一人分、という買い物が気楽にできることを梨花は感心する。ここでもくろうと世界のある意味での利便性を感じてしまうのだ。

置屋の主人が姪の米子の子供の不二子が熱を出した時に、不二子に抱きつかれた主人が倒れてしまう様に感心する。「主人は子どもに纏られながら、膝を割って崩れた。主人の膝の崩れからはふんだんに鴇色がはみ出た。崩れの美しい形がさすがにきまっていた。縮緬の袖口の重さが二の腕を剥き出しにして、腰から下肢が慎ましくくの字の二ツ重ねに折れ、足袋の先が小さく白く裾を引き担いでいる。腰に平均をもたせてなんとなくあがらいつつ、徐々に崩れていく女の体というものを梨花は初めて見る思いである。なんという誘われ方をするものだろう。徐々に倒れ、美しく崩れ、こころよく乱れていくことは。」主人は昔は芸妓の世界で一流と言われ、今でも清元などでは声がかかるほどの腕前の人物。今は、年越しにも苦労するほどの左前になってはいるが、昔の栄光はこうした様にも現れるのかと梨花は感心している。

近所に住む、こちらも昔は一世を風靡したという芸妓の手配をする「なんどり」と梨花が呼ぶ老女、その女性が朝、寝間から起き上がる様を見て、梨花はまたまた感心する。「横になったまま細い手を出して紅い友禅の掛け布団を一枚一枚はねておいて、片手を力にすっと半身を起こすと同時に膝が縮んできて、それなり横座りに起きかえる。蒲団からからだを引きぬくように、あとの蒲団に寝皺も残らないしっとりとした起き上がりかたをする。藤紫に白くしだれ桜と青く柳を置いた長襦袢に銀鼠の襟がかかって、ふところが少し崩れ、青竹に白の一本独鈷の伊達締めをゆるく巻いている。紅い色はどこにもないのに花やかである。」こちらでも老婆の起き方にくろうとの世界を垣間見るのだ。

多くのオノマトペが使われる。あとがきにも触れられている擬音、擬声、擬態語の多用。昔気質の小説家は嫌ったであろう。ざわざわ、きんきん、と調子を張ったいろんな声。薄気味悪くてぞわりとして。つまらない男にぴちゃぴちゃするから。これも日本語を学ぶ外国人が最も苦手にするジャンルである。

しろうとと自分のことを考える梨花、しかしくろうとの世界の所作を見ることで、自分の相対的なこの場所での価値を察知したに違いないのが梨花である。置屋の主人からは来た日からすぐに重宝がられる。しかし、物語の最後で、清元の稽古をする主人の出来が今日は一段と良かった、と言ったその途端、主人は「しろうとのあんたがなぜ分かる」と急転するのだ。「あんたの素性はなに」と主人に問い詰められて梨花は去り時を感じる。

この小説は外国人には分かりにくいのだろうと想像する。芸者と置屋、昭和30年代という時代設定、主人公梨花の正体、花柳界の隆盛が終わった時代、くろうとの女性としろうとの女性、多くは語られないストーリーの背景。読者の想像力に大いに依存する作品、映像化は田中絹代が主人公になった映画があったというが、それを見てみたい気がする。


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寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民 伊藤正敏 ****

2012年01月24日 | 本の読後感
中世権門体制のなかでは朝廷、武家の勢力が強かったと言われるが、もう一つの寺社勢力の力は思ったより強く、経済的にも武力的にも大きな力を持っていたとする。網野善彦は「無縁・公界・楽」で権力の手が及ばない場所としてその3つを上げたのだが、本書ではそれをまとめて無縁所とし、南都北嶺と言われた興福寺や延暦寺をその代表的地域であり治外法権の場とした。

中世の京都の町は花の御所から少将井があった上京、六角堂から市屋道場があった下京、そして白河御殿があった二条河原より東の白河地域、祇園社のあった祇園鳥居より東の祇園社領地域、そして六波羅蜜寺があった六波羅探題地域、清水寺地域、東山七条から三十三間堂がある南東の法住寺地域に分かれていた。鎌倉幕府が持つ検断権は上京と下京にしか及ばず祇園社、清水寺、院政の本拠地白河御殿、法住寺には及ばなかった。さらに中世の土倉は債権取立てを行う自衛組織を持ちなかば警察権をもって自主自衛をしていた。幕府は政府の安全を脅かす暴力以外は手を出さなかったのだ。

中世の開始は院政の開始とする説が一般的であるが、筆者は祇園社が不入権を確立した1070年とする説を主張している。寺社勢力がその境内を領有し権門体制の一角を占めた象徴であるからだとする。首都での重大事件を時代の区切りとするならこの時がふさわしいという理由だ。白河の地に院政政権の地が定まったのが1075年、このあたりが中世権門体制の始まりだとする。

奈良の東大寺や興福寺は当時の摩天楼寺域であり、商業地や住宅街も持っていた。これらは不入権をもつ境内都市と呼ぶことができる。平安末期の近畿地方には南都北嶺以外にも東寺、醍醐寺、石清水八幡宮、四天王寺などの境内都市が存在した。高野山金剛峯寺や石山本願寺、根来寺もそのひとつであり、人口は高野山で7-20万人いたと推定される。

鎌倉幕府が成立する際、平家の持っていた荘園領を検断得分(警察権力が調査・裁定の目的で土地を召し上げる行為)を名目として召し上げたものを恩賞の名のもとに御家人に配分した。平将門追討でも平貞盛や藤原秀衡を起用し、清水次郎長は明治政府に起用された。近代警察制度確立以前にも非合法、未公認の武力集団を活用して警察権力が利用する例があり、現代社会でも山口組の田岡一雄が治安維持への貢献から兵庫県警察の一日署長を務めたといいう。武士はヤクザとつながるのか。西の朝廷・寺社と東の武士・幕府対立が現代にも受け継がれているようで面白いと筆者は言う。

境内都市には領主がいたが主従関係はなかった。網野善彦は東国の御家人制度にたいして西国には寺社・天皇に直属する供御人・神人制度があったとするが、筆者は神人にはあった政治上の実態が供御人にはなかったとして、網野善彦の説を踏襲しながらも自己の主張をしている。無縁所の条件を次のように列挙している。
1. 都市には知的資源、物的資源と人脈ができる関係的資源、匿名性があり、流入者を受け入れる素地があった。
2. 諸役不入の地域で検断不入、民事不介入で自力更生の原則が支配する地域。
3. 武士の権力とそれに対抗する寺社などとのパワーバランスが成り立つ中立的地域。
そしてこれらの無縁地域では、自由市場、ある意味での平和、平等な民衆的性格が成立していたという。

堺のように自治が成立していた商業都市もあった。その前提には家の成立が必要であった。家の定義とは、世襲を名乗ること、世襲する財産があること、世襲する家業があること、であり継続する経営体であるとしている。家が成立するのはこうした定義が固定して変動しなくなる時、日本史における最重要問題であるという。そして家が集まって成立した自治都市は境内都市と同様無縁の地であった。

中世の歴史を語る時に、網野善彦の唱えた説を避けて通ることはできないらしい。高校時代の歴史では軽く扱われていたこうした無縁という概念や寺社の勢力が権力とのパワーバランスの間に存在し、しっかりとした組織も維持していたということ、改めて認識した。現代社会は国家権力が隅から隅まで及んでいるので、国民の権利を阻害するような派手な宗教活動などは取り締まり対象となるが、警察にとって必要悪とも言えるヤクザ組織は徹底的な壊滅には至らずパワーバランスの間に継続している。現代の地道に活動する人手不足のNPOや出家信者しか認めない宗教、ヤクザ組織なども無縁所の3つの条件をクリアしているような気がする。諸役不入、検断不入、現代社会が息苦しい人には必要な無縁所なのかもしれない。


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天皇はなぜ生き残ったか 本郷和人 ***

2012年01月19日 | 本の読後感
室町から江戸の時代には武士が力を持ち朝廷や天皇の権力はなくなったが、社会の中での権威を求める要請は絶えなかった。鎌倉の源氏・北条時代から南北朝、そして足利時代には、天皇の存在はまさに消えかかる寸前まで行きかけた瞬間もあったが、それでも時の権力者は力だけでは統治ができないと考え権威を求めた。

筆者は幾つかの強烈な主張をしている。中世の権門体制と言われる武家、公家、寺社の3つの権門は、実際には武家の鎌倉勢力が天皇の権威に伺いを立てる、という2大権力態勢であり、寺社の勢力は武家と朝廷に抑えこまれていたとする。また、後醍醐天皇を異形の王権とする主張には疑問を持ち、当時の鎌倉政権が既に内部崩壊をしていて、転がり込んだ政権が建武の中興であり、その政権も3年しか持たなかった。中曽根、小泉政権よりも短かったではないか、などというものである。

国の盛衰は人口の増減で見ることができる。卑弥呼時代には180万、800年には600-650万、1600年に1000万、1700年に2500万と急増し、戦乱や飢饉から江戸時代になって初めて逃れられたことを示す。人口増は権力支配機構の強化とも軌を一にする。武士が権力を握った後にも朝廷の知恵を学びながら聡明にかつ巧妙に統治するようになったと主張する。

中世貴族の出世コースには武官と文官の2コースあった。武官は左右近衛少将から左右近衛中将を経て蔵人頭に、文官は蔵人から弁官を経て蔵人頭にというものである。蔵人頭は殿上人であるが公卿ではない。その上の参議からが公卿であり中納言、大納言、左右内大臣、太政大臣と出世する。近衛中将から選抜された人間が蔵人頭を務めるので頭の中将と呼ばれる。大臣は公という尊称が付けられ、大中納言、参議は卿、これをあわせて公卿と呼ばれる。律令制度で定められた官位であるが実情は形骸化が進み、必要で権力を持つ令外官が多数生まれた。摂政、関白、内大臣、中納言、参議、蔵人は令外官である。

日本では科挙の制度は導入されなかった。理由は大宝律令の時点では知識人層が形成されていなかったのでしたくても出来なかったから。そして日本人が世襲に親和性をもつからと。天皇や貴族はじめ世襲に寛容であるとし、国会議員の世襲批判も弱いのではないかと指摘。キャリア官僚へのバッシングは激しいのに。朝廷は争いを好まず、皇位は簒奪されず、革命も起きない、宗教戦争もなく外来文化との衝突もしない、この「ぬるさ」が日本の特徴であると指摘する。

摂関政治時代に藤原氏系統が貴族系として成立、近衛、松殿、九条の三家も成立したが松殿家は木曾義仲と共に没落、近衛家は兼平が鷹司家を立てた。九条家はその後、二条、一条を立てて五摂家が成立したのが鎌倉末期。清華家は大臣になれる家系で花山、大炊御門があり、土御門、久我、堀川、三条、西園寺、徳大寺があった。江戸時代には9清華家となり、久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院、大炊御門、今出川に広幡、醍醐が加わった。吉田、葉室、二条、坊城、中御門、勧修寺が実務官コースの代表である。

貴人が部下に書状を出させる場合、これを奉書と呼び、三位以上の公卿が出す書状が御教書、天皇が出せば綸旨、上皇であれば院宣、親王や女院であれば令旨となる。治天の君が天皇であれば綸旨が出されるが院政では院宣がでる。鎌倉時代になると、宣旨は使われなくなり綸旨と院宣が頻用された。この時の奏者が伝奏、蔵人であり、公卿を経由して治天の君に伝わったのが、院宣や綸旨は直接のやり取りになった。つまり伝奏や蔵人が力を持つようになるのである。

武士たちは権門体制では最初は権力の番犬であったが、その後国司、検非違使などの官職を得て、保元・平治の乱を経て政治的発言力を獲得していった。平清盛は上皇の優越性を武力で無効化、鎌倉政権へとつながっていった。ここに権門体制は崩壊したのだが、朝廷勢力は温存された。筆者は朝廷の権威だけがそれを支えたとする説を排する。形ではなく実情から温存されたというのである。守護・地頭は天皇が認定して設置されたのではなく地頭の勢力を追認したのだと。鎌倉幕府が成立したのは征夷大将軍に任ぜられた時ではなく、頼朝が関東で実質的な新しい王となった1180年のことであった、という主張である。鎌倉時代は東の鎌倉政権と西の京の朝廷、2つの王権が併存する時代だったという認識である。

後醍醐天皇の力をどう評価するか、筆者は上皇と廷臣による雑訴の興行と上皇と幕府の交渉のどちらも行なっておらず、実情的な王としての努力をしていないとする。後醍醐の軍事行動に参加した多治見、土岐、楠木、赤松、名和は当時無名であり、後醍醐の声掛りで準備して兵を上げたわけではなく、当時衰退してきた鎌倉幕府の内部にこそ崩壊の種があり、霜月騒動がキッカケになって疲弊していた。そのタイミングを見計らったのが後醍醐であり、事態を一変させたのは足利高氏であった。後醍醐の力ではなく鎌倉幕府は自壊したのである。しかしその建武新政権はわずか3年と二ヶ月で瓦解、この時代、天皇の権威は「王が必要なら木か金で作れ」と高師直に言われるほど地に落ちた。それでも天皇は生き延びた。南北朝の時代、地方の守護が生き延びるには中央の威光が必要なほど勢力が弱くなっていたからだという。土地の安堵という守護への職の体系を幕府が準備できればこの時なら幕府が天皇に取って代われたかもしれないが、それが出来なかった。室町幕府も土地所有に関して天皇の方法を乗り越えられなかったのだ、という。

これ以降も文化においても政治においても新参の勢力は古きと対峙し古きに学び批判したが、京都は中央としていつも権力者の意識に存在し、新しい政治の創始者はかならず伝統文化の摂取が不可欠と考え、天皇と貴族はこの点で常に武士への優位性を維持してきたというのである。

京都という町が持つ伝統が天皇を生き延びさせたというのか。関東と京都というバランスが良かったのか、現代では天皇も東京に、権力も東京にあるが、権力の源たる権威はどこにあるのであろうか。それが海の向こうだとしたら大問題である。


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トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所 中田整一 ****

2012年01月18日 | 本の読後感
米国カリフォルニアの山中に秘密裏に立てられた日本兵のための尋問所、暗号名トレイシーで行われた尋問とはどのようなものであったのか。誰が捕虜となり、どのような内容が聞き出されて、どのように使われたのかを探った。

最初の捕虜は開戦直後の1942年2月ウェイク島沖海戦で捕獲された第五富久丸の乗組員、その4ヶ月後のミッドウェイ海戦の捕虜が9名、アトカ島で捕獲された潜水艦呂号第61の5名と続く。トレイシーの場所はバイロン・ホットスプリングスで、トレイシーという町の北西20Kmに位置した。トレイシーは盗聴防止装置付きのテレックスでワシントンの陸軍省や海軍省、中央諜報部と直接つながっていた。厳重な秘密管理が行われたのである。

トレイシーには最初日本語能力を持つ白人が採用された。太平洋戦争開始後日本語能力の教育が海軍日本語学校で行われ、12ヶ月で日本の新聞が読めて、文書と口頭の日本語が自由に使えることを目標とした。85名が卒業、トレイシーに配属された。日本語の難しさは同音異義語の多さであり、カンシ、という単語には監視、看視、漢詩、冠詞といくつもの同音異義語があることである。さらに固有名詞の三菱、隼、武蔵、陸奥などの艦船名や飛行機名称があった。搭乗員、操縦室、自滅や敗走、陥落、人員点呼、侵略などの軍隊用語も難しい日本語であった。

トレイシーに送られてきた日本人捕虜は「戦陣訓」に苦しめられた。ここで尋問に応えて米軍に協力することは帰国ができないことにつながるのではないか、つまり米国に留まることを決意しなくてはいけないのか、と悩んだという。そして捕虜になったことを日本の家族に知らせたくない、日本軍に知られたくないと考え、それを最大の恥辱と考えた。こうした日本兵の心理をトレイシーではよく理解し、辛抱強く尋問に当たった。日本兵が暴言を吐いても礼儀正しく親切に捕虜を扱うことで協力を引き出せることを学んでいたからである。

飛龍の捕虜の最高位にあった海軍中佐は次のように供述した。「日米で戦争捕虜に対する考え方が大きく異なる。日本兵には捕虜となったことを恥と感じないものもいるが、恥辱感から自決するものもいる。日本兵は、自分がどう考えるのかは自白することはないだろう。」苦悩の果てに精神的障害に陥る捕虜もいた。

捕虜から得た情報で米国軍は爆撃目標を正確に知ることができるようになった。三菱名古屋の軍用機生産工場の配置図情報などでは三菱重工の工場に対して壊滅的な被害を与えたのは尋問により得られた情報だった。日本軍の戦術から日本列島の詳細、工場配置図までがトレイシーにより明らかにされたと言われている。トレイシーが扱った最高位の捕虜の一人が中国漢口駐在だった海軍武官の沖野亦男大佐だった。沖野は戦闘で片足を失っていたが、戦争の行方を冷静に分析し、日本軍の敗戦を予見していた。そのため、米国による尋問にも協力、日本軍の組織体制や軍隊用語、日本精神の背景と心理、天皇と軍隊、日本の政治などさまざまな情報を提供した第一級の捕虜であった。また日本海軍の戦力についても非常に正確な情報を提供した。沖野は1946年日本に帰還した。戦後は身体障害者のスポーツ発展に生涯を捧げ、東京オリンピックの年にはパラリンピック東京大会の開催に中心的役割を果たし、1978年に亡くなった。

硫黄島の捕虜で暗号送受信を担当していた坂井が提供した暗号情報は“Top-Secret-Ultra”と分類されるほど有用な情報であった。無線送受機器の図面からキー配列、暗号書、乱数表、計算表までの情報が提供されたからである。坂井は偽名であることを悟られることなく、しかし正確な情報を米軍に提供したのである。坂井には矛盾した望みがあった。それは日本に残してきた妻に自分の形見を渡したいということ。しかし米軍には偽名である“坂井タイゾウ”としか伝えていないのである。トレイシーで坂井の尋問担当官であったロパルド中尉は、坂井との尋問を通して深い友情を持つに至った。そして坂井の意思を自分の息子に託した。そして戦後坂井(本名は坂本泰三)は日本に帰還したが、硫黄島で捕虜になったこと以降の話は家族にも話さず1983年に死亡した。坂井の意思として父から遺言を託されたロパルド中尉の息子は2008年になってようやく横浜にいた坂本泰三の遺族に形見の品を届けたのだという。

トレイシーの尋問官長を務めたウイリアム・ウッダード少佐は戦後GHQの要員として日本に来た。そして日本の状況を知る情報通として靖国神社の継続の判断に携わった。神社参拝などを通して学校教育で天皇崇拝が教えられ、軍国主義浸透が図られたのではないか、靖国神社はその象徴であり取り壊すべきではないかという判断である。戦没者の慰霊鎮魂を目的とする宗教施設なのか、軍国主義的施設なのか。ウッダートは次のように結論した。「本来は全面的廃止が望ましいが占領期の早い段階でその結論を出せなかったことは失敗であった。1947年1月の今にいたっては、宗教の自由の原則から靖国神社、護国神社は排することによる混乱が大きく、廃して得るものは少ない。東京招魂社との名称にして存続させるべき。」1951年のサンフランシスコ講和条約の結果、靖国神社には国有地の使用が認められ「靖国神社」の名前も残ることになったのである。現在のこじれた靖国問題もこの時点であれば解決策もあったはずである。

米国側から見た日本情報獲得の努力は、日本側のそれとは比較にならないほどの質と量があった。太平洋戦争が日本の敗戦に終わった理由は数多くあるが、情報量と質の差は大きな要因であった。そしてウッダードのような戦後の日本通の多くはこうした日本語諜報戦略の一翼を担った人間から輩出された。ドナルド・キーンもこうした一人であった。


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歴史は「べき乗則」で動く マーク・ブキャナン ***

2012年01月17日 | 本の読後感
第一次大戦の原因は1914年6月28日にサラエボでオーストラリア・ハンガリー皇太子を乗せた車の運転手が間違った角で曲がり、そこにたまたまボスニアに住むテロリストグループのメンバーだった学生の目の前で止まったことが引き金になった。もし、曲がり角を間違えなかったら、第一次大戦は起きなかったのか。地震の周期性、地球歴史上に起きた大量絶滅の原因、金融市場が暴落する理由など、なにか法則があるのだろうか。複雑系といわれる出来事から過去の出来事を整理し、なんらかの法則を見つけて将来を予測することは可能なのだろうか。

地震、過去の地震の頻度とその規模を2次元グラフにすると右下がりの一直線になる。規模が大きい地震はまれにしかおきない、という法則であり、エネルギーが2倍になる毎に発生確率は4分の1になる。この法則から未来の地震発生について予見的なことは語れない。しかしこれはべき乗則と呼べる法則であり、世の中の多くの出来事をこの法則で説明することができる。大きな地震の前後には小さな余震や前震があるが、大地震が起きた後の次の地震が起きるまでの待ち時間は待ち時間が短いほどその確率は高い。待ち時間が2週間であれば1週間の地震の2.8分の1の確率で起きる。

森林火災が起きる確率は低いほうが良い。その為に火災の自然発生をできるだけ抑制する人為的努力がされてきた。その結果何が起きたかというと、森自体が年をとってしまったということ。老齢な木が若い樹木に取って代わられないために、枯れた草木や枝、低木や落ち葉が積もって臨界状態になり、森全体が大火災を起こしやすい臨界状態になったのである。その結果、一度森林火災が起きると非常に大規模な火災に発展するケースが出るようになった。こうした結果を踏まえ、現在では森林管理者は小中規模の火災を食い止める努力を止めたという。複雑系である森林を管理する難しさを示す例である。

地球上の地層には地質学者には有名なKT層がある。白亜紀(ドイツ語でKreide)と第三紀(英語でTertiary)の間、約6500万年前の層は、恐竜の絶滅をもたらした地球上の大変異を物語る変化が示されている。地上の生物の75%が死滅したとされる隕石の衝突に伴う大変動である。KT層以外にも、2億1千万年前、2億5千万年前、3億6千5百万年前、4億4千万年前にも大絶滅を示す地層があり、生命誕生以来5回の大きな大絶滅があったことが分かっている。地球の歴史で誕生してきた生物種は数十億いたが、その99%は今では絶滅しているのだ。KT絶滅は隕石が原因とされるが、それより前の絶滅は気候変動が考えられている。温度低下は海面低下をもたらし、大陸棚の有機物の化学反応で酸素が消費され窒息死した生物がいたことも想定されている。火山爆発、紫外線増加などの幾つかが組み合わさって起きたこと、これも複雑系である。

経済学者は1987年の株式暴落をプログラム取引のせいにした。1929年の暴落は過剰な借金が原因だとし、1997年の暴落はアジア諸国の対外負債の膨張を原因としたが、いずれも事前に予見することはできていない。経済学というのは起きた事象を説明できる理論であり、これから起きることを予見する学問ではない、とも言える。

都市の発展には多少の法則が見られるようだ。大きな都市の周りにはその2分の1の規模の4つの都市が存在する。しかし、歴史をもう一度繰り返しても同じ町が最大の都市に成長するとは限らないようだ。偶発的な戦争や疫病などが発達の原因や阻害要因になるからである。これは発展途上国、先進国いずれの国でも同様の傾向が見られる。言い換えれば人間のレベルでもある種の普遍性がはたらき、典型的な都市のサイズというものは存在せず、巨大都市が発生するべき乗則が働いている。

科学論文の引用数にもべき乗則があるようだ。引用数が2倍になるとその論文の数は8分の1になる。戦争とその死者数の関係にも同様の関係があり、死者数が2倍になるとその頻度は4分の1になる。こうしたべき乗則は過去の出来事の整理であり未来の予測ではない。SF作家アイザック・アシモフのファウンデーションシリーズでは、数学者ハリ・セルダンが、個人の行動は予想不可能であるが、膨大な数が集まった集団としての人類の行動は集団として紡ぎだす歴史として予測可能であるとしたお噺であった。そして小説では近い将来、人類の英知は全て失われるという予測を出したのだ。未来を変えることはできるのか、という命題であるが現実にそれに成功した理論はない。べき乗則もそれができるのではなく、後から説明ができる、というもの。地震、経済など予見が少しでも出来れば大いに人類の役に立つのだが。


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神道の逆襲 菅野覚明 **

2012年01月13日 | 本の読後感

タイトルの「逆襲」は特に内容を表すものではないようだ。神道についての理解を深めるための入門書である。

日本では、古来から折に触れて神様が地上の我々の周りにおいでになることがある。例えば、種まきや収穫、大晦日やお正月など。それ以外にも、「神がかり」などという言葉は、予想もしないときに神様が実在する人物の身体を借りて現実社会に作用を及ぼすことを表す。つまり、神は身の回りに始終いるわけではなく、必要な期間、来て去るまでの一定時間として人々には経験される。この神を迎えお送りする過程の形式化が祭祀であると考えられる。祭祀の固定化がお祭りであり、お祭りを通して民衆の間に神の存在が定着する。繰り返される祭祀を通して、神の経験を反省する中で神道の教説が生まれた。神道は民衆の生活その者であるのだから、教義は不要であるという考え方もある。本居宣長である。

本居宣長は、「仁義礼智信」のような体系だった教えが神道にはないのではないか、とする儒教者からの神道批判に対して、そうした理屈は理屈が必要なほどまがまがしい国だったからこそ理論的背景が必要とされたのであって、我が国のように、神の御心のままに人智によるこしらえ事がなくても道が実現できる世の中では、体系的な教えなど必要としなかったと「直毘霊(なおびのみたま)」で主張する。しかし宣長は決して神道の教義的体系を否定しているわけではない。

伊勢神宮には外宮と内宮がある。天照大御神をお祀りする内宮と豊受大御神をお祀りする度会の宮、外宮である。内宮は垂仁の皇女倭姫命が天照大御神の託宣に基づいて神霊を祀ったと日本書紀には記されている。外宮は雄略の時代に天照大御神の夢告にしたがい丹波国から迎え奉ったと古事記に記述されるが日本書紀にはその記述はない。二つの宮が象徴するのは神道の表裏、二面性を象徴しているとも言われる。日本書紀が表す天照大御神とその前の最初の神とされる国常立尊(くにのつねたちのみこと)の系列は天皇の系列であり、世界の現状を表す。古事記が記述するのは裏の神道系列であり、豊受大御神の先祖天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)は天照大御神を太陽とすれば月であり、表の世界の鏡である。外宮は裏、内宮は表の世界の象徴である、という世界観である。

日本は神の国である、という記述は日本書紀神功皇后の巻に表れ、鎌倉以降は各種文献にも記されている。この意味は、1.神の祭祀が優先される国 2.神が守護する国 3.神の後裔である天皇が治める国。 仏教や儒教に対応して語られるのは1,2であり、外敵に対応する場合には2,3である。蒙古襲来や太平洋戦争では2,3で使われた。「日本は神の国」という発言が問題視されるのは、太平洋戦争での2,3の使用が日本を戦争へと導いたという記憶が生々しいためであり、神道思想そのものに問題があるわけではない。

日本に古来から伝わるお伽話には5つの類型があるとしたのは柳田国男である。桃太郎、猿蟹合戦、舌切雀、花咲か爺、カチカチ山である。共通するのは「普通の人ならば格別重きを置かぬことを馬鹿正直に守っていた老翁だけが恵まれ、それに銘々の私心をさしはさんだ者は皆疎外されたということ」正直なものが福を得る、ということだ。正直が神に愛されるものの条件であり、勤勉とか忠義ではないということ。3年寝太郎や物ぐさ太郎では徹底したサボりであり、嫁を取らない若者の一人暮らしも進められた道徳的態度ではない。老母を家に残したまま亀に連れられ竜宮城に行く青年も刹那的遊び人であって、けっして万人に進められるような態度ではない。しかし正直なのだ。「正直の頭に神やどる」。子供の目は正直、という場合もある。川の上流から流れてくる桃や、捨てられていた白犬、イジメられている亀などは非日常であり、それを拾ったり助けたりすること、神を受け入れるというのは、非日常が突然現れた際にもそれを受け入れる態度として称揚されているという筆者の指摘である。

吉田神道は卜部神道、唯一神道、元本宗玄神道ともよばれ律令制度の神祇官の下級官人であった卜部氏の諸伝承を集成してできた神道の一派である。デカルトが「我思う故に我あり」、とすれば「我祭る、ゆえに我あり」というのがその思想。その理論は仏教や易をはじめ様々な思想の雑多な受容の上に成り立つものであり、世俗世界を超越した形而上学が説かれる一方、対世間的な対応では現世利益的、権力志向的な世俗性を引きずっているものではあるが神道思想の展開の足がかりを準備したことは否定できないとしている。

神儒一致の流れをくむ垂加神道は山崎闇斎から渋川春海、正親町公通、平田篤胤へと展開された。山崎闇斎によれば君臣関係は親子関係より根源的なものとされ、他の儒学者が親子関係を基本としたのと対照的である。神道の教えとは土金の伝授である、としたのは闇斎の弟子の浅見絅斎、物質的元素である土と金によって人間存在を説明、それが神代神話を主題を形成するというもの。土が締まることで万物は生じ、金で土は締まる。土が締まるとはつつしみであり、金が締まるとは金が土の中に兼ねてある、という五行思想の付会的解釈である。垂加神道では朱子学的君臣道徳に基づき封建的秩序を守ることが求められた。つまり神道とは言っても君臣、親子、夫婦、兄弟、朋友の五倫の道を守ることに尽きるのである。天照大御神はその道徳の体現者であり象徴である。

国学・復古神道の系図で言えば、荷田春満から賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と系図は続く。思想の中には武(いづ)と和(にぎび)があり、須佐能は武を象徴し、天照大御神は和を象徴する。本居宣長の古事記解釈によれば、イザナギとイザナミによって創成されたこの世界は天照大御神、月読命、須佐之男命の三柱の神によって分掌統治された。イザナミは火の神を産んで黄泉の国に去る。顕の世界は表の世界であり、これを支えるのが天照大御神でありその子孫である天皇である。幽の世界は裏の世界であり黄泉の国、これを支えるのが神道であり大国主命である。大国主命の主宰する亡き母の世界が人間存在の地平となすというのが本居宣長の世界観であった。平田篤胤もこの神道の思想に大きな影響を受けた。

結局元の2元論に戻るようである。仏教や儒教のような仁義礼智信などの思想的価値理論というより、父母、君臣のような関係の中に尊敬の思いを抱くという感情的価値観に根源を発している気がする。戦争遂行のために利用された忠信孝悌は別にして、重要な価値観は日常生活のなかで教えられる、というのは日本人にはぴったり来る。「親は大事にしよう」「先祖は敬うべし」「嘘は泥棒の始まり」「人に迷惑をかけるな」「早起きは三文の得」などなど、いずれも日常生活の教えであり、親子、兄弟、朋友への感情を基礎としている。神様が基礎にあり、それは日本人の誰もが持つものであり、その上にホトケや儒教、人によってはキリストの教えが積み重なっているとも考えられるのではないか。神道の逆襲と言うよりも、神道は浸透済み、という感じ。

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封印作品の闇 安藤健二 ***

2012年01月12日 | 本の読後感

 

「封印作品の謎」に続く第二弾である。キャンディ♡キャンディ、オバケのQ太郎、ジャングル黒べえ、サンダーマスクの4作品について、絶版になっている理由を探った。

キャンディ♡キャンディは原作水木杏子、作画いがらしゆみこのコンビで発刊、1975年から79年になかよしに連載、TVでは76年から79年まで放映された人気のアニメである。裁判で争われたのはその著作権で、2001年最高裁は原作者にも著作権があるとして水木杏子が全面勝訴したとされる。それにしてもなぜ裁判になったのか。ことのおこりは1990年以降、いがらしゆみこが水木に無断でキャラクタービジネスを強行したことにあった。二人は元は仲のよかった原作者と漫画家であり、どこですれ違ったのか。どうもいがらしゆみこ側が、原作者との印税などの取り分について不満があった、それを話し合いをしないまま、一方的に自分の解釈のままにビジネス化してしまった。その後も謝罪すれば元のように原作者40%、作画家60%という按分で収入が分配されたのに、それをしなかったため、双方の言い分が食い違い、発刊や映画化なども含めたすべてのビジネスができなくなってしまったのである。意地をはって謝らなかったいがらしゆみこは評価を下げてしまった。被害者は、ファンであろう。

サンダーマスク、テレビ番組として1972年から73年にかけて放映された変身して怪獣たちをやっつけるヒーローもの。封印されたとされる理由として浮かび上がったのが、第19話、「発狂したサーダーマスク」、怪人シンナーマンはシンナー中毒者の脳みそをエネルギー源に鎖を振り回して暴れる悪い怪獣なのだが、この回は主人公の命光一がシンナーマンと脳を入れ替えられてしまいシンナー中毒になってしまうというエピソード。第21話は「死の灰でくたばれ!」、放射能をあやつる茨城県東海村の魔獣ゲンシロンが登場するというもの。しかし、調査を進めると、それは噂だけであり、本当のところは放映権の解釈で、地上波アナログ放送しかなかった時代に締結された契約には、衛星放送などは想定外ではっきりとした取り決めがない。その後人気が出たガンダムの権利を持っているエージェントが保有する権利であり、ガンダム人気を慮って、それほど人気の無いサンダーマスクの契約で波風を立てたくない、ということから放映できなくなってしまったとのこと。ガンダムの影にサンダーマスクがいたのだ。

ジャングル黒べえは藤子・F・不二雄の作品、1973年に放映された。封印のキッカケは、オバケのQ太郎シリーズの中で黒人のオバケが登場する号があり、その描写が「腰みの姿で黒人を描き、人食い人種を連想させる表現があって、黒人への偏見を煽る」として該当する巻の発刊を停止した。ジャングル黒べえは黒人のキャラクターが出てくるだけではあり、直接抗議の対象とはなっていないのだが、小学館は販売停止の判断をしたというのである。販売停止請求をしたのは「黒人差別をなくす会」、小学館は当時、部落解放同盟などからのプレッシャーを強く感じていた頃であり、問題になるのを事前に回避したと考えられるが、請求者の会は個人的な家族のグループであり、部落解放同盟などとは関わりのない会であった。さらに、当時、自民党の政調会長だった渡辺美智雄の黒人差別発言がアメリカで問題視され、日本政府が謝罪するという事件があったこともあって、黒人差別には敏感になっていたことも要因となっている。タカラやカルピスは同様の抗議を受け、長年使っていた黒人のキャラクターを取りやめ、会社ロゴも含めて変えている。その後、ちびくろサンボは再発刊され、過剰な黒人差別への反応はなくなってきたかに思える。現在の読者から見れば何の問題もないような表現が問題視された時代であった。

オバケのQ太郎は、藤子不二雄がFAに別れる前の共同制作作品であり、共同著作権をもつ唯一の作品だそうだ。制作の過程では、FQ太郎、ドロンパ、P子、キザ男を描き、Aが正チャン、伸ちゃん、小池さんを書いていたらしい。コンビ解消後は、パーマン、ドラえもんはF、忍者ハットリくん、怪物くんはAなどとはっきりと著作権を分けている。二人は終生仲良く過ごしたそうだが、問題はFが亡くなってから、Aの姉、Fの妻が権利の主張を譲らなくなってからだという。新オバケのQ太郎はFの単独作品であり、こちらの発刊に問題はなさそうに思えるが、「新」を再発刊すれば旧シリーズも発刊して欲しい、という声が上がり、それに答えることができないために「新」の再発刊もできないでいる、というのが現状。こちらも著作権争いはファン不在の争いになっている。

 

 

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民俗学への旅 宮本常一 ****

2012年01月09日 | 本の読後感

家郷の訓(おしえ)」では、宮本常一が生まれて育った山口県大島で父母や近隣の住民、自然環境に学んだことをまとめていた。本書では、それを出発点に、大阪に出て学校に行ったこと、郵便局員になったこと、教員になったこと、生涯にわたり師と仰いだ柳田国男、渋沢敬三、沢田四郎に出会ったこと、戦時中の食料対策のヒアリングの旅、山村、離島、学位などについて書いている。宮本常一の民俗学根本となるフィールドワークがいかに実践されたのかがよくわかる。

家郷の訓では父に旅の教えをもらったことが紹介されていたが、ここにはその続きがあった。旅の教えとは 1.景色を見よ 2.高いところに登れ 3.名物料理を食せ 4.歩け 5.人の見ないところを見よ この続きである。 6.金は使い方が難しい 7.30過ぎたら親のことを思い出せ 8.病気になったら戻って来い 9.正しいと思うことをやれ

宮本常一のふるさとの年中行事である。旧正月:大晦日の宮参り、親戚を呼んでご馳走を振る舞う燗始(かんし)、8日薬師、21日弘法市、2月:10日涅槃会、出稼ぎ者のための法事(3,7,13,17,25,33,50,100,150,200,250年忌)、3月:3日雛祭り(花見)、20日お接待(八十八箇所礼所巡りをする人に握り飯とお茶を振る舞う)、旅芸人(萬歳、恵比寿舞、田植え踊り、デコまわし、猿回し)が来る季節、4月:8日釈迦誕生祭、5月:5日端午の節句、6月:15日祇園祭、月末にはサバライ(牛を海に入れてダニを落とす)、7月:7日 七夕、13日から3日間は盆、16日は精霊送り、20日はうら盆、24日は地蔵盆、9月:9日栗節句、10月:亥の子、11月:チンダイ(注連縄の付け替え)、12月:15日安下庄市、大晦日おおつごもり  こうした行事は昭和の初めまでは続いたが大正末期からの不況と政府からの生活簡素化のお達しで廃れた。

柳田国男には、自分の論文を雑誌記事として投稿してきたが、昭和9年に柳田先生から手紙をもらい、会いに行った。柳田先生からの紹介で沢田先生に出会い、渋沢敬三とも出会った。この時まで宮本は民俗学などという学問について考えたこともなかったが、渋沢敬三の「足半(あしなか)の研究」を知り、鼻緒や結び方の違いが生活や文化の違いを知る手がかりになることを学んだ。民族伝承の会を作ったのもこの時で、金田一京助、伊波普猷、伊奈森太郎、小林存らと会を発足させた。これが日本民俗学会の始まりであった。民俗学とは採集調査の学問であることを知り、地方に住む老人たち、一人ひとりの一見平凡に見える人の話にも耳を傾けると心を轟かすような歴史があることを知る。それらを通して世の中の動きを知ることもできるのである。

漁民のヒアリングを行う際には、動物図鑑の魚の部を切り取って持ち歩いた。魚方言や漁法を聞くにはこれが必要であった。農業は地表を利用するので、土地の専有が必要だが、漁業は海岸、沖合、海面、海中、海底を利用し、漁民が同じ海を異なる方法で活用することにより共有していることを知った。蛸壺漁は海底、一本釣りは海中、地引網は海岸、五智網は沖合で鯛を取る、こうしてトラブルを回避しながら共同生活しているのである。

結局、宮本常一は昭和14年から36年まで23年間渋沢敬三宅に食客として滞在、54歳にして初めて東京に家を持った。それまでも昭和31年の息子の上京の時にも家を持ちたいと渋沢敬三に相談したところ、一緒に住めばいいと言われた。昭和36年に娘が上京するときに国分寺に良い家を見つけたので渋沢敬三宅を離れることになった。

宮本常一は民族伝承や漁船研究、民家調査など幅広い研究と調査を行なってきた。民俗学、民族学、文化人類学と学問の幅を広げる努力もしてきた。しかし日本人が特別であるとか、例外的な民族だとは思ったことはない。相手の社会に入り、その生活に接すれば違いよりも、共通する何かを見出すことにこそ意義があると感じるからである。

平和とは何か。日本国内でも戦争がなかった地域がある、奈良である。日本の中央にありながら古風を残している。その他地方にも戦争が少なかった地域があり、いずれも多くの古風を残す。下北半島、岩手北部山中、佐渡、能登、広島三原、対馬などである。また、中世以来の大名が近世にも統治した地方でも多くの古風が残る。鹿児島、飫肥、熊本県球磨地方、五島、平戸、岩手である。文化や生活の厚みを感じるという。

宮本が興味を持ったものに、一遍聖絵があった。渋沢敬三の研究の続きであるという。塩の研究は泉靖一や梅棹忠夫、加藤詮、山口和雄とともに続けている。佐渡の鬼太鼓座の活動や猿回しにも心を惹かれる。「民俗学への道」で定義された民俗学とは、「かつて文字を持たなかった民衆社会の中で行われた文化伝承の方法であった言葉と行為、慣習的生活の記録化と、これをもとにして文化の原型への遡源と文化の類型、機能を研究しようとするものである」。宮本の生き方そのものではないか。

 

 

 

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百年の封印 新井克昌 ***

2012年01月08日 | 本の読後感

中国、満州開拓の夢を抱いて日本から出かけた多くの開拓民は太平洋戦争敗戦を前にしてソ連軍の侵攻を受けて、先に逃げた関東軍に見捨てられ、ソ連軍のタンクに追いまくられて、悲劇を生んだ。南方戦線に派遣された兵士も、弾丸も食料も補給されない中で、大量の兵力と圧倒的な火力で迫る米軍に、戦うというより、追いまくられて逃げ惑った。死んでしまった兵士は200万人以上、しかし敗戦により最前線から日本に帰還できた兵隊も重くて大きい、人には言えない悲惨な経験と記憶を持ったまま精神に異常をきたしたものも多かった。

本書は、精神を病んだ兵士たち93名を赤城山に集め、社会復帰のためのリハビリ活動を集団で行った轟、梶山を中心とした物語である。 3年間の共同生活を締めくくり、ウチに秘めた秘密を証言として残そうということから、当時出始めた録音機を使ってテープに全員の証言を吹き込み、100年後、全員が死んでから掘り出してもらおう、と言い合って二度と精神の変調を来さないように思いのたけを吐き出した。テープは赤城山に埋められ、93名は各地の地元に帰っていった。

梶山には小さい時からの許嫁ユミがいた。しかし、満州開拓のために渡満する時、ユミは佐藤に嫁ぐことになった。ユミと佐藤にはミツ子という女の子が生まれたが、終戦のゴタゴタの中でソ連軍から逃れるときにはぐれてしまった。ユミは娘を見失ってしまったことに罪の意識を覚え、日本に帰ってきてからも悩み続けた。佐藤も93名の一人となり、梶山は佐藤の話からユミとミツ子の悲劇を聞いた。梶山は赤城での生活の後に故郷の会社を継いで、結婚子供も設けたが、許嫁のユミとミツ子のことが気になって仕方がない。 時が経ち、中国残留孤児が日本に集団で帰ってきて肉親と再開する機会が訪れた。ユミと佐藤はミツ子がいるのではないかと写真撮DNA鑑定で探すが、ミツ子は見つからない。梶山もなんとか力になってやりたいと、佐藤が死んでしまったあとも、ユミと共に中国に渡り、日本人の満州での集団墓地を訪れ、ミツ子探索の手伝いをする。

梶山は93名の幹事役となり、毎年定例的に赤城山のメンバーを集めた会合を行うが、毎年参加者も年令を重ね、物故者も増えてきて、戦後60年、65年でもう会合は最後にしようではないかと提案する。その際、封印していて100年後に掘り出そうとしていた証言テープを掘り出して聞こうではないかと提案する。嫌がるメンバーもいたが、65年目の12月8日に赤城山で最後の会合を開き、残ったメンバーでテープを聞く。聞きたくない証言が続いて、もう聞きたくない、という意見もでる。 梶山はどうしても佐藤の声を聞きたいと思い、テープを聞くと、とんでもない内容である。「僕は娘のミツ子を、ソ連軍に負われる中で自分の手で殺してしまったのだ」という証言であった。ユミにはどうしてもそのことを告白出来なかったというのだ。梶山も戦場で、敵方の負傷兵を殺す上官を思い余って殺してしまったことを録音していた。 戦争は起こしません、もう僕達は戦争に手を出しません、という赤城山の子供たちの声を聞きながら、梶山の精神は再び異常をきたしてしまうのであろうか。

やりきれない気持ちの残る小説である。フィクションであるとのことだが、多くのドキュメンタリーで、ほぼ同じような内容の経験をした兵士の証言がTVでも報道されている。戦争の中、という異常な状況の中での記憶と経験、封印したままでは済まされず、過去の日本民族の間違いは繰り返さないための進歩が日本人には必要なはずである。「蟻の兵隊」、「戦陣訓の呪縛」、「飢え死にした英霊たち」、「日本兵捕虜は何を喋ったか」などを思い出す。

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白村江 古代東アジア大戦の謎 遠山美都男 **

2012年01月06日 | 本の読後感
白村江の戦いについては、多くの資料はない中で、なぜ倭国は60才にもなる老女ともいえる斎明を派遣(筑紫の国で死亡)したのか、豊璋王と倭国の関係はどうだったのか、鬼室福信と豊璋王の関係はどうだったのか、そして400艘を越える軍船が唐・新羅連合軍に簡単に2日の戦いで敗れた理由はなんなのか、などを探っている。

斉明は重祚した皇極である。皇極は乙巳の変で孝徳に生前譲位しているが、そもそも乙巳の変とはそのための行動だったとも考えられるという。大王に集中された権力を譲渡するというのは政治組織、権力構造がある程度発達していなければスムーズにはできない。645年の時点でようやくそうした態勢ができてきたと考えられる。そして大化の改新では多くの律令制度の基礎となる改革が行われたとされているが、後世の作り話である可能性が高い。大化の改新之詔は全4条よりなるが2,3条は後世の記述、1,4が当時の詔であったと筆者は推察する。部と屯倉の廃止、新税制の実施、仕丁などの労働力編成に言及した部分が大化の改新であるというのだ。地方行政制度の2条、戸籍、班田収授法の3条を後世の挿入だとする。

斉明が重祚したときにも大王候補の皇子は複数いたが、有間皇子と中大兄の間で王位継承の係争が生じることを避けるため女帝が中継ぎをしたと考えられる。乙巳の変は王位継承を目指す孝徳がライバルの古人大兄皇子を蹴落とすため、蘇我一族を打倒する事件であった。斉明の時代にはかずかずの土木工事が行われ、阿倍比羅夫による夷狄征伐、そして水軍強化が行われている。そして中大兄が登場する。中大兄は蘇我赤兄を使ってライバル有間皇子を唆し謀反を起こさせ謀殺する。ここでも王位継承が争われたのである。

このころの倭国は百済と同盟を組み、新羅、高句麗と争っていた。百済が北からの脅威に備えるためには倭国と組まざるを得なかったとも言える。そのため百済は豊璋王を人質として倭国に差し出していた。百済を助けるための出兵、これが斉明による遠征であった。額田王の歌とされる「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎい出な」という万葉集歌であるが、筆者はこれは斉明によるものだとする。「伊予の国で船出の機会をうかがっていると月が東の山に上り、陸から海に風が吹き出す時刻になった、これは船出の好機、潮の流れも西向きに変わったのだから船を漕ぎ出そう」。四国で兵員を増強した軍勢はいよいよ筑紫の国に向かい、中大兄に譲位する絶好の機会とするとすれば女帝斉明の歌でなければならないという理由である。しかしこの後、斉明は急死する。

このころ新羅の武烈王も死亡している。白村江で戦う諸国の内、二国の王が直前に死んでいることになる。このころ百済の豊璋王は立てこもっていた周留城から一旦避難したり、また周留城に戻ったりしているが、敵方の混乱が百済を延命させたとも言える。しかし百済軍内部では司令官とも言える鬼室福信の裏切りがあったとして豊璋王は福信を切り捨てている。二人はもともとそりが合わなかったともされるが、豊璋王のプライドが高すぎた、豊璋王の国内での地位が高くなかった、倭国から豊璋王へ与えられた評価が低かった、などさまざまな推測がある。二人をとりなすブレインがいなかったことも災いして百済軍のモチベーションは上がらなかった。

倭国から白村江に援軍が来た時、豊璋王は周留城にいたのだが、みずから援軍を出迎えに城を出てしまう。これが敗戦の大きな要因だとする。豊璋王のいなくなった周留城の戦略的価値は留守番の兵士たちの士気低下により一気に下がってしまう。唐・新羅連合軍はそのすきを突いて、一気に城を攻め落とし、勢いを持って白村江で倭国軍を迎え撃つ。白村江での唐・新羅連合軍と倭国軍の勢力は拮抗していた、というのが筆者の主張である。唐軍は170艘、倭国軍は400艘、倭国・百済軍に油断があったとする。倭国軍は寄せ集めの水軍であり、意志統一が図られていなかったというのである。そして狭い河口の白村江に突撃、待ち受ける唐・新羅軍に一網打尽に返り討ちにあった、というのが白村江の敗戦である。

倭国での律令制度が不完全だったため、滞在中の豊璋王に百済王として正式な冊封を行えなかった、つまり、豊璋王が百済王としての面目を保てなかったことが、白村江の戦いでの敗戦の遠因となっている。唐という大国に大敗した白村江の戦後は、唐の制度や文明に学び、壬申の乱を経て、日本という国号、天皇制度確立、大宝律令から律令国家建設へと向かう大きな理由となったのが白村江の敗戦だった、というのが既存の学説であるが、東アジア全体が戦乱のなかにあった時だからこそこうした改革を進めることができた、という見方ができるというのが筆者の主張である。


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室町の王権 今谷明 ****

2012年01月05日 | 本の読後感
義満の周到な準備にも拘らず、天皇制度が足利義満によって簒奪されなかったのは、義満の急死が直接原因ではあるが、天皇が持つ祭祀権とともに形式的ではあるが改元権と皇位継承権を天皇が放さなかったからであり、義満死後も守護大名たちが、相互の牽制のために天皇の威光を利用しようとしたためとする。網野善彦が主張した勅許特権を持つ供御人や非農業民の存在だけではなく室町時代の政治構造そのもののあり方が天皇制度の維持存続を必要としていた、という主張である。

11世紀末からの院政の始まりを中世の始まりとする研究者が多い。1086年の白河上皇から南北朝を経て後円融天皇が死去する1393年まで300年院政は続いた。鳥羽天皇が退位して崇徳天皇が即位、鳥羽上皇となっても実権はもう一人の上皇である白河上皇が保持していた。実権を持つ上皇を治天の君と呼ぶ。この時代の天皇は治天の君になるための通過儀礼的地位であった。治天の君には白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇がなった。院政が都合がいいのは責任所在が曖昧にできる点であり、危機発生時にも権力延命が可能となった。安徳天皇が拉致され西海に沈んだ時にも治天の君であった後白河上皇は三種の神器抜きで後鳥羽天皇を立てることができた。しかし承久の乱では鎌倉政権は後白河上皇以下三人の上皇を島流しにして反鎌倉派を一掃した。

治天の君は守護を行う武家、護持を行う寺社、そして執政を行う公家、この3つの権力の上に立つものであったため、3人の上皇を遠島にできても、単なる東国国家であった鎌倉幕府には形式的な権力強奪までは出来なかったためである。また、一見対立するように見える3つの権力が実は協調して人民支配をする権門体制は荘園支配を行う寺社や公家にとっても好都合であった。治天の君を廃し天皇親政を実現できたのは1333年の後醍醐天皇であり、武士ではなかった。

天皇が司る祭祀にはどのようなものがあったか。神祇令に定められた祭祀には14あり、このうち室町時代の応永年間まで残ったものは、祈年祭、月次祭、鎮魂祭、新(大)嘗祭の4祭のみで、その他は廃絶されていた。別格扱いの一代一会の大嘗会でさえ、南北朝時代の崇高天皇は行わないまま退位し、応仁の乱以降は大嘗会を行わない天皇が続出した。祭祀を行わないので天皇の要件を満たしていないという指摘は当たらないという。

さて足利義満の王権簒奪である。義満には武家は公家よりも力があるのだから名目的にも上にある必要があるという意識があった。さらに義満は順徳天皇の五代孫であり、後円融天皇とは従兄弟同士であった。この事実は義満の皇位簒奪計画の大きな要因であったと指摘する。義満は時間をかけて、官職の任命権を天皇から奪った。さらに門跡寺院へ義満の子弟の多くを入室させ、寺社をも屈服させた。さらには国家祭祀権、密教祈祷の儀式、陰陽道祭の多くを奪い天皇が持っていた権益を奪っていったのである。そして改元にも関与、1379年の改元では「洪徳」を採用させようとしたがこれはかなわなかった。しかしその後決まった「応永」に関してはその次の改元をさせないということで改元への介入を行なったと言われる。

義満がここまで拘ったのにはもう一つの理由があった。中国による国王としての認定である。征夷大将軍は中国から見れば国王ではなく、それ以上の権力者として天皇がいる限りは将軍は陪臣であることを意味した。そこで天皇をも超越する存在になるため出家、既成事実を積み上げていった。後小松天皇の実母が亡くなったときには、国母を誰にするかで介入、義満の妻である日野康子を准母(国母)とさせ、自分は天皇の准父となったのである。そして自分の男子を皇位継承者とすることに成功、それが将軍義持の弟、義嗣であった。准父となった義満は後小松天皇からも取り立てられ、義嗣は左近衛中将にまで出世、武家としては異例の公家としての内裏元服を行ない、参議従三位になった。ついに義嗣が皇位につくかと思われたその時、義満は病魔に侵され急死したのである。

その後、天皇は権力を取り戻すが、戦国時代には権力がなくなったとされる。統治権喪失、即位・祭祀儀礼衰退、禁裏領荘園の廃絶などが挙げられるが、天皇の権力はそもそも可視的なものから目に見えない抽象的な権威となっていたのだから、戦国時代に没落したのではなく、その前から抽象的な権威となって存続を続けていた、というのが筆者の主張である。義満時代に没落した天皇制度は嘉吉の乱を境にして復活の一途をたどった、という指摘である。ただその復活は実質的な権力復活ではなく、叙任権、祭祀権、綸旨院宣発給などの象徴的権威復活であり、それこそが天皇の権力であったとする。

安土桃山時代から江戸時代にかけての天皇の存在は、反キリスト教の象徴として必要だった、つまり日本は神国であるという外来思想排除の思想的背景であったという。外来思想を否定するには神国思想が必要だった、というドキリとする指摘である。


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骸骨ビルの庭(上・下) 宮本輝 ***

2012年01月03日 | 本の読後感
戦災孤児達を育てるのは、戦争から27歳で帰還した阿部轍正、そしてその友人で茂木泰造。場所は阿部轍正が遺産として引き継いだ大阪十三にある杉山ビル、近所の人達はその見た目からか骸骨ビルと呼ばれる場所。育てられたのは都合50名ほど。太平洋戦争敗戦後、帰還兵だった阿部轍正と肺結核で死期が迫っていると言われた茂木泰造は街にあふれる孤児がいろいろな理由から街に放り出されて、骸骨ビルに逃げ込んできたところを引き取りこの骸骨ビルで育てる。ところが、骸骨ビルの所有に関する訴えが出されて、人出にわたり、さらに育ててもらって大恩のある孤児のひとり桐田夏美が、阿部轍正から性的暴行を繰り返されたと訴え、マスコミは阿部轍正を孤児救済に名を借りた小児愛好者の悪者として報道する。世間からの非難の中阿部轍正は急死する。茂木と残った孤児たちは、阿部への冤罪を晴らしたいと考え、骸骨ビルを立ち退かない。

物語の主人公八木沢省三郎(通称ヤギショウ)が骸骨ビルの管理人として住み込むところから始まる。八木沢は不動産業者からこのビルの跡地にマンションを建てようと派遣された立退き手配師とでもいうべき管理人である。骸骨ビルには茂木と10名の住人が住んでいて立ち退くことを拒否しているのだ。しかし、八木沢は急いで立ち退きは迫らず、骸骨ビルに住み込んで住人に事情を聞き出す方法を取る。聞き出した内容からこのビルでおきた出来事が浮かび上がってくる。

描かれるのは、戦争で親に死なれた孤児たち、そして親が子を捨ててしまった結果孤児となった大量の子供たちの存在。その孤児たちには行政が手を差し伸べる必要があるはずだが戦争直後の日本にはそんな余裕がなかった。そこで阿部と茂木が孤児たちを育て始めるのだが、周りには善意の人ばかりではない。逆に近所の人達からの告げ口に近い孤児虐待の訴えや、行政からは孤児たちへの不当な扱いはないかという詮索があった。

もう一つは骸骨ビルの庭で阿部と茂木が子供たちに教えた野菜の栽培である。無農薬農業であり、土の作り方、腐葉土の作り方、ミミズの活用、牛糞、鶏糞の扱い方、害虫の駆除、雑草との戦いなどが描かれる。牛糞、鶏糞の匂いで近所の住人が大変な迷惑を被るが、孤児を育てるためということで一定の理解を得る。

さらには、ナナというゲイの孤児、住人存在、そしてダッチワイフ販売を商売とする住人、やくざになった孤児、食堂をやりくりする孤児、彫金を商売とする孤児、阪大を卒業した孤児などなど、それこそ骸骨ビルの庭に生えていて、抜いても抜いても生えてくる雑草のように様々な孤児たちである。裏切り者の孤児、桐田夏美はホンの一瞬しか登場しない。桐田夏美が訴えた性的暴行を受けた話はつくり話であることが隣人や孤児の話からわかってくるが、なぜ桐田夏美はそのようなつくり話までして大恩のある阿部を裏切ったのかがわからない。そこが最後に語られて意外な展開があると期待していただけに、それが期待はずれである。

宮本輝独特のお説教は随所にある。庭に作っていた野菜と雑草が、世間と孤児を象徴するのか、阿部が孤児を育ててやろうと決心した時のように、人間の一生は一瞬のひらめきで決まる、と言いたいのか。流転の海につながるようなストーリーでもある。



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