意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

今日も元気で読んでいます!


2008年1月から読んだ本について書き残してきました。読んだ内容を忘れるのは致し方のないこと、でも少しのヒントがあれば思い出すこともありそうです。今日も応援いただきありがとうございます

物語 幕末を生きた女101人 『歴史読本』編集部編 **

2011年11月28日 | 本の読後感
幕末から明治維新にかけては多くの佐幕、勤王の志士で有能な人物が輩出され活躍したが、その活躍を支えた女性も多かった、という着眼点で101人を取り上げている。読み進むとこんなにも多くの女性達が、と感心する一方で、101人にしたかったのだろうが11人くらいにしておいて、より深く解説しても良かったのではないかと感じる。11人の候補を上げてみる。

坂本龍馬の姉乙女。坂本龍馬が母をなくした時、すでに長姉の千鶴、次姉のお栄は嫁ぎ、龍馬のすぐ上の姉である乙女が3歳年長でいた。5尺八寸30貫というから176センチ、110kgの巨漢女性である。坂本のお仁王様、と呼ばれたこの乙女、龍馬に剣術を叩き込み、本嫌いの龍馬に孝経の素読、小学、大学の講義もした。万事に気品を尊ぶ鷹揚な気質で、経済のごとき毫も顧みず、と評された乙女は龍馬に無欲を叩き込んだ、というのは司馬遼太郎。乙女は豪商才谷屋からおこした武家にして初めて身につけることができた「銭金にこだわらない」品格を龍馬に身につけさせたという。その竜馬に惚れたのがお龍、性格は乙女そっくり、というのが龍馬によるお龍評である。龍馬に惚れた女性には千葉道場の千葉佐那もいるがこちらも男勝り、龍馬は男勝りの女性が好きだった、つまり乙女が大好きだったのである。

大久保利通の妻満寿とゆう。利通28才の時に迎えた妻満寿(まず)、結婚後安政6年から明治2年までに二人の間には5人の男の子供が生まれている。その後ゆうとの間にさらに二人の男の子、満寿とのあいだに女の子、そしてゆうとの間にもう一人男の子、という子沢山である。しかしこの間、大久保利通は鹿児島から始まって京都、江戸、山口、欧米視察、佐賀、北京、東北と2-3ヶ月をおかず転々としているのである。よくぞこんなに多くの子供を設けられたと感心する。最後の男の子は明治11年に利通が暗殺された時に身ごもっていた子。満寿は同じ年利通の後を追うように亡くなった。

蛤御門の変に敗れた長州軍が逃げ場を失って品川弥五郎が井上馨の愛人だった芸者の君尾に助けられたがこれが縁で二人は相思相愛の仲になった。この君尾が作曲したと言われるのが、「宮さま、宮さま、お馬の前にひらひらするのはなんじゃいな、とことんやれ、、、」という日本最初の軍歌トコトンヤレ節。君尾が救ったのは人斬り半次郎と言われた中村半次郎(後の桐野利秋)や最初の恋人井上馨。近藤勇も君尾に惚れたという。しかし君尾は尊皇攘夷で倒幕の志士に心が惹かれていたので、「近藤様、天子様のために尽くして下さい、そうすれば私はあなたのものになります。」と、当時鬼と恐れられた新撰組局長に切り返し、尊皇の大義を問いかけたというから驚きだ。長州の桂小五郎を愛したのはこちらも芸者の幾松、山科の金持ちの身請け申し出を断って勤王の志士である小五郎の胸に飛び込んだ。幾松も蛤御門の変の直後も乞食に身をやつして京都の情勢情報を小五郎に届けたという。幕末の京娘は佐幕に辛く、勤王に甘いのだ。

会津藩の生き残り、女性たちには活躍した人が多い。新島襄の妻になった新島八重子、大山巌の妻になった大山捨松、焦土となった若松城下で敵味方なく負傷者を手当てした瓜生岩子、キリスト教布教で活躍した海老名リンなどがいる。薩摩藩の天璋院篤姫などの人生も波乱万丈である。

これで11人になっただろうか。
物語 幕末を生きた女101人 (新人物文庫)
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アタマはスローな方がいい!? 竹内久美子 ***

2011年11月25日 | 本の読後感
この人のエッセイは時々読みたくなる。本書は平成15年から1年間、文藝春秋に連載された「遺伝子が解く!アタマはスローな方がいい!?」。題名になったアタマはスローな方がいい!?、ここには筆者自身のことを紹介、分かりが遅くて悪い自分のことを題材にして、分かりが悪いのはわざと回答に近づく前に遠回りして考えてみるから、と解説。だからこそ時々、他人が思いつかないことにも気がつくこともある、と。

竹内久美子はSEXネタ、スカトロネタが大好きな動物学者、といより動物学というのはSEXとオスメスの愛情と飲食、糞尿から考えるのが早道ということ。生きることのほとんどすべてが食べることと排泄すること、そして子孫を残すことだからである。人類が言葉を発達させた理由さえも、相手を口説くためであり、相手の浮気を防ぐため、というのが竹内久美子説。一夫一妻制も普遍的ではなく、一夫一妻の鳥の子の7割は相手の子供ではない、という研究結果もある。日本でも夜這いがあった頃は、子供の本当の親は分からないが村で育てる、という意識があった、と司馬遼太郎は書いていた。竹内久美子の本職の論文などは読んだこともないが、エッセイの特徴はそのタイトル。「そんなバカな!」から始まって「賭博と国家と男と女」「女の唇の秘密」「浮気人類進化論」「パラサイト日本人論」など、つい読みたくなってしまう。

なぜ加齢臭はあるのか、おじさんになると誰しも免疫力が低下する。ところが皮脂は分泌されていて、免疫力の強い若者はバクテリアで皮脂を分解するので臭くない、くさい男は免疫力も弱いというのだ。おじさんになると更にノネナールという物質が大量にできて酸っぱい、葉っぱが腐ったようなニオイのもとになる。匂いでさえも免疫力と連動しているという話。

自閉症になりやすいのは女性より男性、コミュニケーションが苦手だが、別の得意な能力があったりする。一方の女性にはひどい方向音痴や数学や理科の苦手な人がいて、コミュニケーション能力は異常に高い人がいたりする。これは右脳と左脳の違いで説明できるそうで、極端な右脳人間が自閉症になり、極端な左脳人間には病名はなく単なる理系嫌い、とされたりする。つまり自閉症というのは左右の脳のいずれを発達させるかという連続した問題の一部を病気としているだけだという。周りの理解が重要だという指摘だと思う。

高齢出産に伴うダウン症児発生の確率にははっきりとした出産年齢との相関があるという。出産年齢が15-29歳では1500分の一なのが30-34才では800分の一、35-39才では270分の一、40-44才では100分の一、45才以上では50分の一と明確である。これは精子ができるのは2ヶ月半前からであるのに対し、卵子は女性が胎児のときからであり、卵は長い長い期間作りおきされた状態で劣化が進んでいるからだという。しかしそのダウン症児にも生まれてくる意味があるというのだ。ダウン症児は一般に明るい性格で穏やか、人懐っこくてユーモアがある。そして人の世話をするのが好きで皆に愛される。長く生きられなかったり、不妊だったりする人が多いが、一家のなかでは可愛がられて家事の手伝いをし、一族の結束を固める。単なる障害児として捉えるべきではないという。とても温かい考え方である。

鳥の糞はなぜ白いか。それは尿酸を混ぜることでアンモニアの毒性を解消しているから。卵生である鳥が、卵の中でアンモニアにまみれてしまえば一巻の終わり、そのため老廃物からアンモニアを抜くために尿素のかわりに尿酸を使っている。尿素を使うと水分が排出されそのぶんの水分を摂取する必要に迫られる。そもそも鳥は飛ぶために体重を軽くする戦略をとっていてなるべく水分を取らずに済ませるため、尿として水分を排出する仕組みは貴重な水を失うことになる。水に溶けない尿酸として排出することが戦略に合致したという。尿酸は白いので糞も白いというのである。コウモリは哺乳類であるが、尿の量は少なくてスポイト2滴くらい、だという。

猫は魚が好物なのに水が嫌いな理由、それは日本の淡水には日本住血吸虫が住み着いていたから。日本では甲府、広島県片山地方、筑後川下流、利根川下流、沼津地方の風土病。アジアでは中国、メコン川、レイテ島などには今でもいるが日本では根絶に成功した。日本住血吸虫は人の腸に棲みつき産卵、便と共に排出されて水中で孵化、中間宿主のミヤマイリガイに侵入して人間にケルカリアという体長0.3ミリの状態で取り付く。皮膚の毛穴を通して侵入し、発疹、腹痛、発熱、下痢、血便を発生させ、虫卵の塊が肝臓を侵し、肝硬変や肝がんを引き起こす。脳に侵入すれば頭痛、視覚障害、言語障害などを引き起こす。これらを発見したのは1900年甲府市の開業医三神三郎の便の中の寄生虫の卵発見に端を発する。1904年には三神三郎の家の飼い猫から寄生虫のオスを発見、その4日後広島でメスも発見された。医師の松浦有志太郎は自らの身体をこの寄生虫を含む水に浸し皮膚から感染することを身をもって証明し確認したという。1913年には中間宿主も発見される。なんという感動的と言うかすごい人達なのだろう。猫はこうした危険があることを先祖から学んでいるのだろうが、どうして伝えられているのか、不思議である。

竹内さんの動物学には温かさがあること、再確認した。
アタマはスローな方がいい!?―遺伝子が解く! (文春文庫)
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イギリス交際考 木村治美 **

2011年11月24日 | 本の読後感
1970年代に書かれた本書、本棚の奥から出てきたので読んでみた。40年前ならそうだろうな、ということが多くて、しかし当時のイギリス人の気分が今の日本に当てはまりそうなことも多くて考える所も多い。

欧米人の動物に対する考え方、野生動物はあるがままに手を加えないというよりもその存在を尊重するが、飼育動物には徹底的に手を加え調教する、ということ。子供の躾も飼育動物と同様、ほうっておくと野生化するので、徹底的に人間に仕上げていく、というやり方だそうだ。ロンドンですれ違う犬に吠えかけられたことなどなく、リードで結ばれていなくても安心だが、日本ではそうではないだろう。逆に日本では野生動物にもやたらに餌をやったり手なづけようとする。一方で、飼育動物の調教には無関心ではないもののぞんざいであり、江戸時代に日本に来た英国人が日本の馬が言うことをきかないのに驚いている。飼い犬でも、他人を見ると吠えかかるものが多い。バードウォッチングなどという趣味は、日本では発生しようがなかった。70年代のこの頃にはそんな趣味はなかったようで珍しく記述されている。

日本人による日本文化評価はあまりに低い、という話。日本文化を大事にしよう、ということでは一致しているのに、日本文化評価を外国人に委ねている部分が多すぎるのではないかという指摘。例えば、「横文字の氾濫にむしろ外国人の方が敏感に日本語の崩壊を心配している」とか「日本に済む欧州人は日本の消費文明に呆れている」などという表現である。日本論は外国人が書いたものがベストセラーになるし、テレビ局の日本論でも必ず外国人や日本人でも外国生活経験者が呼ばれる。外国からでしか日本の良さや悪さは分からないのか、とも指摘している。

英国では機械化による合理化を否定する傾向があるという。機械というものに対して情緒的に拒否反応を示してしまう、というのである。産業革命によって家庭生活も技術革新がなされ19世紀から20世紀にかけてイギリス人の生活は世界でもトップレベルの利便性を持つようになっているのがかえって否定されているという。機械化や合理化によって生きるという意味が見失われていく不安を感じているのだという。手作り、手間暇かけることが再認識されている。しかしこの傾向が始まった時に「英国病」が始まった、これは今の日本にぴったりではないか。ホームスパンという単語、これは手織りという意味であり、home spun、つまり家庭で織られたという意味、昔は粗野な、平凡なという形容詞の意味を持っていたのが今では手作りという珍重されるべき意味を持つに至っている。

イギリスや欧州の建物は数百年でも持つように石で作られているが、日本は30-50年で建て替える。ロンドンの町は産業革命の時に立てられているので、給排水の施設が老朽化している。暖房は石炭だったので暖炉があるのが、今は排煙規制で使えない。トイレだって150年前は道に捨てていたのだという。日本は文明発達につれるように家も建て替えるので、その時代にあった利便性を組み込むことができる。その代わりに、家をたてることに収入の多くをつぎ込むことになるため、GDP増大に比して豊かになれないのだという。何年持つ家を立てるべきか、結構深い洞察である。

40年という月日、長いものではあるが、その期間に日本が経験した経済発展と人々の気持ちの変化が40年まえのイギリスでの生活に垣間見えるというのはとても面白い。そういえばロンドン地下鉄の初乗り運賃、70年代には15ペンス、1ポンドが900円くらいの頃なので、それでも130円くらい。2006年から3ポンド、2007年からは4ポンド、当時の為替レートでは1000円、2011年の円高の今のレートでも480円という高さ。ビッグマックは1.94ポンド、スタバのラッテ・トールが1.89ポンド、感覚としては1ポンドが100円という感じか、ロンドン物価は世界一ではないか。
イギリス交際考 (文春文庫 (232‐4))
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イタリアでわかった タカコ・半沢・メロジー ***

2011年11月22日 | 本の読後感
イタリア人の良いところ、それは陽気で決してクヨクヨしないおしゃれな生活を送っていること。

筆者はイタリア好きの日本人女性、しかしなぜかフランス人と結婚、1986年からイタリアに暮らし始めた。最初に知り合ったイタリア人の夫婦は63才のサロとその妻53才のラウラ、33才で長男のサルバトーレが同居していた。娘のいない夫婦はなぜか「タカコ」と可愛がってくれた。イタリア人は日本人贔屓、特に日本人女性が好きなのだそうだ。息子たちは自立して出て行ってしまうもので、それを親がどうこう言うものではない。年をとってからは娘が欲しいのだそうだ。90年からベルガモに移り住んだ以降も、400キロも離れたトスカーナのモンテカティーニ・テルメという夫婦の住む街を訪れるのだ。訪問すると実家に帰ったように歓待してくれて、帰りがけには手作り保存食などをどっさりくれる。ある時、クリスマス時期に訪問すると家が改築されていて、どうしたのだと聞くと、「タカコと一緒に住めるように改築した」という。おまけにタカコが夫のモーリスと離婚した時には是非来てくれという、勝手な申し出だが、嬉しい。当然強制するものではなく、本当に気が向いたらそうして欲しいというのだ。そのサロが肺がんになったというのを聞いたのは1999年、イタリアのお父さんサロ、待っていてねと思う筆者。しかし2000年、サロは亡くなったという。

息子のサルバトーレは合気道を習い始めた。先生は日本人のシライ、そうこうするうちに筆者夫婦の日本出張に一緒に来たいということになり、筆者の実家に夫婦とサルバトーレで3週間泊まることになった。夫のモーリスは日本式の生活に馴染めないのだが、サルバトーレは畳生活や食事も、日本式の風呂も大好きになり、駒沢大学の合気道部に出入りをして3週間みっちり稽古をしてもらった。サルバトーレは今でも日本のことが忘れられないでいる。

電車で乗り合わせた人、レストランで話しかけた人など、数多くの出会いがあった。先方のイタリア人にすれば身近に日本人と接する機会などなく、日本人旅行者がいてもイタリア語を話さないのでコミュニケーションが取れないのだが、興味は深々なのである。そこにイタリア語も英語もできるフランス人を夫とするおしゃべりな日本人女性がいるのだから、話しかけられお茶に呼ばれ、食事に誘われ仲良くなって、イタリアが大好きになる、よく分かるきがする。日本でも田舎で日本語が話せて気さくなアメリカ人やヨーロッパ人がいれば人気ものになってあちこちに呼ばれるであろうことは想像できる。その外国人が写真家やエッセイストであれば「日本人はイタリア人が大好きで、それもイタリア人男性が大の好みなのだ」などと報告するかもしれない。イタリア人の特質が本書に書かれたようなものであるとすれば、イタリア人から見た日本人の特質は何だろうか。「正直、働き者、誠実、、」どんなことを紹介するのだろうか。
イタリアでわかった―陽気でけっしてクヨクヨしないおしゃれ生活 (祥伝社黄金文庫)
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ハーケンと夏みかん 椎名誠 ***

2011年11月21日 | 本の読後感
1988年、椎名誠調が確立された頃のエッセイである。山や川、自然を歩きまわってお酒を飲む、ということを友人、時に妻と行う、そのことを綴ったエッセイ集。読者が面白いと思うのは、男たちばかりが集まって、自然を相手に、それも大自然などという大げさなものではなく、そこらの自然を相手にワイワイと集ってキャンプして、焚き火して、飯を食って、お酒を飲む、というごく自然の仲間内の楽しみが共有できる気分になることではないか。今と違って携帯電話などないので、30分ほどいけば人家などがあるのではあるが、とりあえずは誰とも連絡は取れない状況で、男たちだけで好き放題やることに、どことなく憧れを感じる自然派、というジャンルが80年代にはあったのだ。

高校生時代の思い出話で、沢野ひとしと椎名誠が房総の鋸山の岩山に登りに行って、初めてハーケンというものを使い、帰りに食べた夏みかんが忘れられないという「ハーケンと夏蜜柑」。結婚した妻と東北の新花巻駅で降りて、目についた山に登ってみたという「仮称ヤブレガサ山登山記」。友人の沢野ひとしが突然バカ殿に変身するという他愛もない「沢野バカ殿様白神のボコボコ山を行く」。川下りの野田知佑と四万十川をカヤックに乗って下りながら、毎晩酒を飲む「四万十川がぶのみの旅」。などなど。

70年代に書かれたという「かつおぶしの時代なのだ」よりはある意味洗練された文章と沢野ひとしの挿絵も落ち着いている、とも言える。山と渓谷社の雑誌連載で「椎名誠の素晴らしい地球凹凸状況」というタイトル。「東日本なんでもケトバス会(東ケト会)」によるわしらは怪しい探検隊シリーズや、「哀愁の町に霧が降るのだ」などが書かれた時代である。名作「岳物語」が書かれたのもこの時代。気楽に読めばいい。
ハーケンと夏みかん (集英社文庫)

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白いメリーさん 中島らも **

2011年11月18日 | 本の読後感
らもワールドなんだろうなあ。

ある商店街で、人殺しができる日の出来事を綴った「日の出通り商店街 いきいきデー」。中華料理店主は階から天ぷら油を撒いている。老医師は手術用のメスを手裏剣のように投げてくるし、注射針の先から塩酸を飛ばしてくるので、中華鍋で受ける。返す中華鍋で老先生の頸動脈をぶった切る、などという話。

女の子が良い年頃になると蛇に変身してしまう家系の姉妹は父との3人ぐらし。母は若い頃に家を出ていったという。その姉妹の姉の様子がおかしい、部屋から出て来なくなったのだ。妹が探りを入れると体の一部が鱗になっている。それを知った父は慌てて姉妹に告白、「実は君たちの母も蛇になってしまったので家を出ていって山に入ったのだ」と。しかし姉は秩父の山には逃げ込まなかった。狙ったのは「ヘビメタ」、体中に広がってきた鱗を武器にヘビメタグループを結成して売りに出たのだ。全身が鱗で覆われた姉のバンドは人気が出た。見ている人たちは鱗の着ぐるみでも着ていると思っているらしい。「蛇姫さま&マングース」、ギターのピックがなくなっても鱗をはがせばピックになる。酒飲み話の延長のようなストーリーが「クロウリング・キング・スネイク」、実際そうなのだろう。

夜中にジョギングしていると、夜中に店を開けている荒物屋がある。変だと思っていると、そこの主人はシンナー中毒で少年好き、シンナーでラリってホームレスをやっつけていい気になっている少年たちを自分の家にあげて、売り物のシンナーやトルエンを与えて自分の餌食にしている。そんな奴を許せない「夜走る人」、荒物屋の家を爆破させてしまう。しかしその夜走る人も幻影であった、という話。

生まれながらにして五感が麻痺した少年、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚のすべてが生まれながらにしてない。その両親が植物状態の少年を生かしておいても本当にいいのかを悩んで、人の心を読めるという人物にアプローチ、少年の心のなかを覗いてもらうことにした。少年の心を覗いた人物は言う。少年は不幸でも幸福でもない、少年の世界では彼は神である。神に不幸も幸福もない、良い世界ですよ、というのを聞いた両親、微笑む神、という言葉に安心する。

人の良いコンパニオンガールの杉ちゃんの紐になった男、ほとんど理想的な状況なのだが、杉ちゃんは月に一度くらいのペースで発作的に乱れて、手当たり次第にモノを投げ暴れる。嵐のような発作が終わると、また元の可愛い女性に戻るというのだ。男は杉ちゃんの大切な貯金も使い込んでしまう。杉ちゃんが暴れるときにはなぜか襖に手形のシミが浮き上がる。貯金を使い込んだ時にもそのシミが浮かび上がった。はたして杉ちゃんは許してくれるのであろうか。今回のシミは天井いっぱいに広がっているのだ。

らもさん好きであれば、このらもワールドは気持いいのだと思う。人による。

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歴史の交差路にて 日本・中国・朝鮮 司馬遼太郎、陳舜臣、金達寿 ****

2011年11月17日 | 本の読後感
日中韓、3人の物書きにして碩学の鼎談、今はもう実現できない豪華メンバーである。「日本の中の朝鮮文化」を読んだのは大学生時代の1970年代だった。「阿片戦争」を読んだのも大学時代だったか。「小説十八史略」は社会人になってからだったはず、司馬遼太郎の本は一体何冊読んだだろう。この3人が日中韓の文字や文明、歴史、風俗と習俗、食の文化、近代への足取りについて知識と意見を交換する。司馬遼太郎はモンゴル学科出身だから、話は大陸から中国、朝鮮半島そして日本と東西南北を走る。

司馬遼太郎が「オランケ」について話す。オランケというのは野人であり野蛮人の総称として朝鮮で使われた言葉。「そんな行儀が悪いとオランケが来るぞ」とか。朝鮮族にとって、北方の固有満州人(ツングース)や鴨緑江の北にいてときどき略奪に来る女真族などは非常に悪いイメージで語られる。そのイメージ。加藤清正が書いたとされる書物にも「オランカイまで行って」という表現があるという。金が言うには、朝鮮人にはオランケ、女真族、契丹、ツングースから自分を切り離してしまったからダメに成った、などという人がいて、それを「小韓国史観」として反省しているのだそうだ。小さい時には「対馬に送ってしまうぞ」と親に脅されたという。倭寇がやってくる島、という意味だろうか。

金が司馬遼太郎の小説を取り上げて、日本の山を切り開く話を紹介する。「細流を見つけて人々が分け入り、田を開き集落を作った。村人たちは他村からの襲撃に備えて屋敷を砦のようにした。分家ができる毎に山田を開いて集落は20戸ほどになると一つのお宮を中心に結束して、そのお宮に集まっては集落の取り決めをした。」これが日本や朝鮮の集落の起こりだという。そして日本のお宮や神社は一つの独立国のようなものだと。司馬遼太郎はこれに対して、西日本で近代まで残っていた夜這い婚を取り上げ、これは南方文化、XXネシアの文化だという。子供の親は誰だか分からないが村落として団結して子供は育てていこう、という村落中心主義、南方的母系社会だという。その村落の中でも有力な親分に対しては村民は「寄子」となり親方は「寄り親」となる。自民党の派閥はそもそもこのあたりから来ているというのだ。

金という名字、これは中国風にすればコム、朝鮮ではクム、それがのちにキムとなった、というのが金の説。李朝時代に入ってすもも(李)の方に遠慮した。金は木より上だからクムをやめてキムにした。金は姓の時だけがキムでその他はクムなのだという。日本では呉音でありコン、東北には金(こん)さんがいる。いつのまにか今さんになった人も多い。日本では金をお金を想像して嫌がって今としたのではないか。朝鮮の神話には熊(コム)が出てくる。コムはカム(神)、そして日本では神(カミ)になった。熊がカミだという昔話もある。

陳舜臣が言う。朝鮮や中国には骨品制がある。品は官位、九品で生従があり18品。朝鮮でも同様のものがあり中国から入ってきたもの。朝鮮では第一骨は聖骨、真骨で代々の国王、以下第二骨、第三骨と続く。骨は父系で日本の姓(かばね)も骨品制からきている。壬申の乱以降整備されて真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の八種の姓となったが、すぐに廃れた。

日本のちょんまげは弁髪から来ている、というのが陳舜臣。ちょんまげはさかやきを剃る。日本では公家は月代をしないで中国風を尊んで総髪にしていた。武家は鎌倉時代にはもう月代を剃っていたが公家になると剃らない。信長までは官位を貰うと総髪にする。徳川家康以降は武家の礼式で将軍と大名は月代、公家は総髪とした。

世界に料理といえるものはそう多くはない。フランス、イタリア、ロシア、中国、そして日本。スペインやカンボジアは惣菜であり、日本でも宮廷や大名以外の食事は惣菜であった。平安から鎌倉、室町と中国の影響を受けて茶という場での料理が出来上がった。中国の料理人に庖丁というのがいて、それが包丁になったという。

儒教は商売や商業、働くこと自体を蔑視する傾向があり、近代化を阻害したのではないか、と金は指摘する。儒教は社会の仕組みを固定化してしまうというのだ。儒教的な考えからはサービスをする、という発想がないので、韓国や中国ではサービスが悪い、というか日本のサービスが良すぎる。JALではスチュワーデスに東北出身者を採用しない、という話を深田祐介から聞いた、というのが金。一番いいのが静岡県、そして九州だそうだ。愛想よく、人見知りしないという。

中国ではイギリスは英、フランスは法、ドイツが徳、ロシアは俄、スペインは西、アメリカは美である。良い字を選んでいると思うが、日本ではアメリカは米、ドイツは独となった。

とにかく、物知り、碩学、好奇心が強い、おしゃべり好きなど色々なことを縦横無尽というか端から端までという感じで話は広がっていく。面白いのか、ついていくのに必死なのか分からないうちに読み終えた。
新装版 歴史の交差路にて 日本・中国・朝鮮 (講談社文庫)
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定年の身じたく 石川恭三 **

2011年11月16日 | 本の読後感
定年を間近に控えて何を考え準備しておく必要があるか。筆者は杏林大学医学部教授に45才にして就任、60才まで勤めた後に同附属病院の勤務医として週休5日制で働いたという。教授にもなれば定年後は関係する病院長などに転出して70才くらいまで威張っている人が多い中、役職に恋々としない、恬淡とした人生が定年後の良い過ごし方だと説く。

50才を過ぎても好奇心を忘れないこと、これを怠ると定年後はただの年老いた人間になってしまう。そして自分にとっての楽しみを見つけること、料理、PCに挑戦、株や投資をする、毎週スポーツをする、塾の先生など、定年前なら考えもしなかったようなことでも面白いと思えれば生きがいになる。夫婦の関係は先細りの関係がいいという。それまで殆んど家に居なかった亭主が一日中家にいると鬱陶しい。顔を突き合わせる時間をできるだけ少なくする工夫が重要だと、軋轢を先細りにさせていく方法を考えることだという。そして夫婦の4原則、「気安さ、慎み、いたわり、折り目正しさ」一緒にいる時間が増えれば増えるほど重要だという原則だ。

若い世代との付き合いでは、スポンサーになることを進めている。一緒に何かするときには、その後の食事代は自分が払う、子供や孫に何かしてもらったらお礼に旅行に連れて行く、など、時間とお金に余裕があればできるはずだという。前向きな考え方、ポジティブシンキングも老いを遅らせるコツだという。悪い方に考えがちな人は老いるのも早いと。病気との付き合いもうまく考えて、かかりつけの医師をもつことを進める。

元の会社や組織への思いがあっても仕事は未完のままでも席を譲る、OBとして押し売り的な行動を慎む、子供に対しても悪あがきをしないこと、足るを知る、感動の涙を流す、おしゃれに心がける、言われてみれば納得する心がけばかりである。
定年の身じたく 生涯青春!をめざす 医師からの提案 (集英社文庫)

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かつをぶしの時代なのだ 椎名誠 **

2011年11月15日 | 本の読後感
1979年、椎名誠がまだサラリーマンをやっていた時代に書かれたエッセイ集を文庫にしたもの。椎名調の文章の原点である。そもそもこういうエッセイは週刊文春などの週刊雑誌の後半に登場して骨休み的に気楽に読んで、「こんなこと考えているヤツもいるのか」などと考えながら、すぐさま次ページに目をやって全く別の記事を読むので、記憶にはほとんど残らず害にはならず毒にもならない、という種類の読み物である。それがエッセイ集となると、次から次へと繰り出されるので、好きな人はよろしいが、そうでもない場合には食傷気味になる、という傾向をもつ。

本書の場合には、沢野ひとしのイラストが食傷を救ってくれていると思う。内容にまったく関係のないイラストが載っているので気がまぎれるのだ。

かつおぶしが好きだ、から始まって、不倫の女性の振る舞い、鉄人28号のような目をしていた店員について、蚊取り線香の渦巻きは丸いが中国のはきっと四角いラーメンどんぶりに書いている模様なのだ、マホービンの蓋はコルクだったのがねじ巻きになって、そしてスイッチポンになった、大相撲もプロレスのように派手にして欲しい、東武日光線に乗っている藤色の手袋をはめた女性車掌は必要なのか、ニクタイヒロージとはなんなのか、若者のビチャビチャが気に入らない、女は果たして遊ぶのか、などなどという内容なのだ。

解説の佐野洋子は、椎名誠は日本最後の男だ、と言っている。一人で男の孤独に酔っている奴、先へ先へと進む奴、三ヶ月も知らないところをほっつき歩いて「ロマンだ」などと叫んでいる奴、下手すれば遭難などして家族と回りに迷惑な奴、そんな奴は一生一人で生きろ、家族に甘えるな、これが佐野洋子が言う日本最後の男である。

実にどうでもいいことを女々しく、今までの男だったら口にもせぬようなことを堂々と元気よく実にきめ細かく書いている。この独特の文体の確立というものが椎名誠の真骨頂なのである。独特の文体を持った奴の勝ち、男は女々しい奴が一番手ごわい、女々しいのはある種の決断の回避と混沌からなっている。こういう男を論破するのは難しく、男がこうしてぐねぐね言っていると、佐野洋子は参ってしまうのだそうだ。つまり、佐野洋子は椎名誠が好きなのだ。体がでかくて体力があって、女々しいことをグネグネ言う、好きだということはお人柄が気に入ったということ。何事にも代えがたいことだと思う。
かつをぶしの時代なのだ (集英社文庫)

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日本深見二泊三日 宮脇俊三 ***

2011年11月14日 | 本の読後感
1990年に出版され、旅行雑誌「旅」に連載された旅行記。多分1980年代の旅で、新幹線は仙台から博多まで通っているが結構ローカル線も残っている。自動車道路も北陸や中国はできていて、秘境と言われる場所は少なくなっているが、今ほど観光地が広がっていて、観光バスでどこへでも行ける、という程ではない。列車旅行が好きで、離島に行くのに旅程が制限されているなど余程のことがなければ飛行機には乗らない、という筆者が「旅」に連載する記事を書くために2泊3日の旅をするという設定である。

「旅」の編集局から旅館の予約をしてもらうと、旅館の方が気を使って駄目だ、との信念があり自分で予約するのをモットーとする。これは旅行記を書く人間にとっては当然だろう。グルメの旅、というテレビ番組があるがこちらはカメラがあるのでお忍びは無理、グルメレポートも有名人になっては出来ないのと同様である。

熊野古道の旅、まだ世界遺産騒ぎになる前のその地を訪れる。バスに乗り合わせた親父さんに声をかけられて、泊まっていけよと誘われる。山道で雨にぬれて歩いていると、家に来て昼飯でも食えや、と誘ってくれる。バス停まで車で送って行くよと旅人に親切である。

親不知の旅、「親知らず、子はこの浦の波まくら、越路の磯の泡と消え行く」平頼盛の夫人が越後の夫に会うべく子供を抱いてこの難所に差し掛かった時に愛児を波にさらわれた、その悲しみを歌った歌から地名が由来するという。宿は糸魚川から13km西の外波の民宿、他に客は居ない。部屋は空いているのに線路側の部屋を依頼する筆者に「珍しいお客だ」と驚く主人。一泊二食付きで5500円で暖房料が500円、翌日歩いて市振まで行くというと、宿の主人に危ないと止められた。車道が狭く危険だという。車で送って行ってもらい、海岸に降りてみると、海岸も波に削られて平地部分がほとんどない。昔、子供が波にさらわれたのももっともだ。芭蕉の奥の細道では「一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月」の句が記されている。おくのほそ道はあれほどの大旅行なのに400字詰めの原稿用紙で40枚ほど、その中でここ親不知は印象的だったという。前記の句が詠まれていて、「今日は親不知、子知らず、犬戻り、駒返しなど言う北国一の難所を越えて、疲れ侍れば、枕引き寄せて寝るに、一間隔てて面の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ」とある。芭蕉がとまったのは桔梗屋という宿らしいが今は平凡な2階家であり、「おくのほそ道、芭蕉の宿」の札があるという。

こうして旅は日本中を駆け巡るのである。豊後水道、秋田のかまくら、南淡路、五島列島、夕張、四国のお遍路、五能線と十二湖、北海道池北線と続く。記述があっさりしていて飽きることがない淡白さが魅力である。日本探見二泊三日 (角川文庫)

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流氷への旅 渡辺淳一 **

2011年11月12日 | 本の読後感
1970年代の匂いがする、24才の女性が紋別で流氷の研究をする男に惹かれる話。24才の女性がここまで一途に男を思うのか、時代のせいなのか、現在の読者なら違和感たっぷりの恋愛小説である。24才にして大学卒業後花嫁修業ということで、自宅で暮らしている一人娘の竹内美砂(みさご)が主人公。

花嫁修業に息が詰まって、思い立って流氷が見たくなり訪れたのが紋別、知り合いの明峯教授に紹介してもらったのは、紋別にある流氷研究所の研究員主任紙谷。いきなりの訪問ではあったが、お願いして流氷を見せてもらった美砂は紙谷に惹かれる。紙谷には織部という親友がいて、同じ女性杏子を好きになり、織部が杏子と結婚する事になった後、織部と紙谷は流氷研究のため流氷に乗って織部だけが転落して死んでしまう、という事件が昔あったことを聞かされる美砂。

帰りの札幌で明峯教授宅に立ち寄り流氷の話をする。教授は「私の秘書にでもならないか」などと言ってくれるので、美砂はその気になる。東京に帰っても紙谷のことが気になるが、紙谷からの連絡は一切ない。数カ月後、紙谷が学会で東京に来ることを紙谷の同僚が知らせてくれる。美砂は会いたくてたまらずホテルに電話、食事をする。紙谷はあっさりと北海道に帰るが、羽田まで美砂は見送りに行く。結構積極的な女性なのだ。その後も紙谷からの連絡はない。美砂は紋別を再訪問することにする。再訪問した美砂を流氷研究所の紙谷とその同僚たちは歓迎、鍋を囲んでのパーティを開いてくれる。その夜、紙谷と二人になった時、美砂は紙谷に告白をする。帰りに明峯教授宅に立ち寄った美砂は秘書にして欲しい、と訴え、札幌に住むアパートも決めてしまう。

その後、明峯教授の秘書となり勤めを始める美砂の前に、教授の秘書を昔していた杏子が現れる。美砂は杏子に過去のことを聞いてみたくなり、紙谷との出会いのことなどを聞き出そうとする。杏子はすでに別の男性と結婚をしていて、紙谷とは関係がないはずなのだが、杏子はなにか口ごもる。杏子の夫婦生活はうまくいっていないようなのだ。

紙谷は夏の北極に流氷研究の旅にでることになり、その前に札幌に出てきて札幌に住んでいる美砂のアパートで結ばれる。北極で紙谷は小さいクレバスの転落、足の骨を折る重傷を負い日本に帰国、札幌の病院の入院、美砂は入院した紙谷の面倒をみることになり、二人の関係は深まる。退院した紙谷は紋別に帰るが、その後杏子の行方がわからなくなり、紋別に行っていることがわかる。杏子は今でも紙谷が忘れられなかったのだ。美砂はたまらず杏子を追うように紋別を訪れ、紙谷に自分との愛を迫る。

時代的には携帯がないので、手紙が来なければじりじりする、東京から紋別への電話は長距離電話なのでかけるのも気が引ける、その割には同じ年に2回も東京から紋別にまで女性一人が旅をする、札幌にいる両親の知り合いであり中のいい知人の北海道大学教授を頼って、秘書として札幌に就職してしまう。なんとも気の強い、お嬢さん育ちを地で行くような、しかし男性が考える女性像を演じてしまう美砂。70年代ならこんな感じでも小説は成り立ったのかと感じる。流氷は紙谷という男性を象徴するような存在なのか。氷河から切り放たれた流氷は海流の流れに乗ってオホーツク海を南に下って紋別や知床に着く。春になるとまた遠くに去っていく。それを追いかけるのが情熱的な女性美砂。気まぐれな男性を思いつめた女性が追いかける、渡辺淳一が描く恋愛小説は男性側の妄想的理想像なのか。
流氷への旅 (集英社文庫)

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日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ****

2011年11月11日 | 本の読後感
あなたの宗教はなに?と日本人に聞くと「無宗教です」と答える方が結構いる。キリスト教徒ではなくイスラム教徒でもない、そして日蓮宗徒でも浄土真宗親鸞会にも属していない、となると無宗教ではないか、という気持ちである。しかし、お盆やお彼岸にはお墓参りをして、自宅には仏壇や神棚があったりする。七五三詣りや七夕、ひな祭りだって子供の為に祝っているのではないか。宗教行事と年中行事は違うのか、それとも慣習となった宗教行事を行なっても無宗教と言えるのだろうか。本書は、明治以前と以降で大きく変わった宗教に対する考え方を紹介し、無宗教について解説している。

まず、国は政教分離を憲法で唱えているのに、国家予算を使って地鎮祭を行なってもいいのか、が裁判で争われた。地鎮祭は外見上神道式の宗教行事に属することは否定できないがその実態は習俗的行事であり、神道の布教、宣伝を目的とする宗教行事とはいえず、政教分離原則に違反しない、と最高裁で結論づけられた。社会の一般的慣習に従った行事は宗教行為ではない、という解釈である。つまり、日本人が行なっている年中行事は神仏を混合して日常的に行う雑居的レベルであり、もっと遡れば日本古来からある自然崇拝や自然に宿る神々への思いなどを総合した自然宗教に基づく行為は宗教的行為ではない、という意識があるのである。自然宗教に対する言葉は「創唱宗教」、創始者がいて人間が意識的に広める努力を継続する宗教活動である。明治維新以前の神道的儀式の多くはこの自然宗教的儀式が多く含まれていた。

江戸幕府はキリシタン禁制政策を行う際に、寺の檀家制度を強化、現在の戸籍制度の役割をもたせ、民衆を家ごとに一つの仏教寺院に所属させキリシタンではないことの証明を得る必要があるとした。葬儀や法要、婚姻や旅行まで寺から身分証明書を発行してもらえなければならなかった、つまり寺院は幕府の民衆支配の末端組織であった。葬式仏教の始まりでもあった。死ねば成仏してホトケになり「ご先祖様」となって敬われる、これで安心して死ねるのである。葬式仏教は死後の安楽の保証でもあった。ホトケとは何か、何処からきた表現なのか。有賀喜左衛門は死者の霊魂を寄り付かせるために使われる木の枝がフトキと呼ばれていたことから転じたとしている。死者祭祀に使用するフトキをヒントにして死者をホトケと呼ぶことにしたのだという。仏教の教えよりも日本古来の自然宗教の考え方が深く関わっているというのである。ホトケは伝統的なカミの一種、という説である。これが一般化したのは仏教僧侶による葬送と法事が行われるようになった近世以降、戒名をつければ仏になり往生できるというわけである。このように死後の安楽を保証されることで、生きている間は無宗教でも安心できる、これが日本人の無宗教ではないか、というのが筆者の主張である。

宗教、という日本語は明治維新に作られた。その時に宗教とくくられていたのは創唱宗教であり自然宗教は含まれていなかった。だから無宗教と称するのもあながち間違いではないという。明治維新以降は天皇崇拝を進めるために神道、神社の国家支配が進められた。国家神道である。それ以前の日本人の信仰生活は、土間に火のカミ、水のカミがいた。仏壇や神棚もあって家の先祖や鎮守の神が祭られていた。座敷には伊勢神宮や春日大社のお札が祭られ、神仏同居は当たり前の感覚であった。これを神仏分離令が大幅に変更してしまった。

宗教には回心という考え方があり、病める心を持った人物が精神的に生まれ変わることを差す。回心を必要としない人は健全な心を持った人、と考えれば日本人の無宗教というのは多くの日本人が健全な心を持っているとも言える、というのが筆者の指摘。日本で創唱宗教が流行らないのは日本人が健全だからである、という解釈である。しかし、この解釈、信心深い外国人にはどのようにして説明できるのだろうか。
日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)

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しきたりの日本文化 神崎宣武 ***

2011年11月10日 | 本の読後感
日本にあるしきたりには神道、仏教、神仏混合の歴史的背景があり、もともとは意味があった物が多い。しきたりの歴史を知ることは日本人の宗教心の変遷を知ることになり、実は宗教観をも知ることができる。本書では、縁起かつぎ、神頼み、正月とお盆、節供と節分、寄り合いと祭りの相互扶助、お産と名づけ、七五三、葬式、通夜と葬送、喪と年忌について解説している。

縁起とは因縁生起の略である。様々な事象は因縁絡みによるものだということから、寺社の草創のいわれを述べて指すようになった。やがて物事全般の由来を縁起という。江戸時代になると、寺社に限らず祠や御堂、石像にいたるまで縁起が語られ、それがお守りや護符のような小物になって、これらが縁起物と言われるようになった。縁起かつぎとは縁起ものをかついでふれ回った人のことをいったが、縁起物を販売するのにはもっともらしい解釈を付けて売った人が多く、これらを縁起かつぎと人は言うようになった。

松の内は一般には歳神を迎える大晦日から1月7日頃までとする。江戸以外の地方では1月15日の小正月を事じまいとして門松外しの例が多い。一部ではトンド(左義長)で門松や注連縄を焚き上げ鏡餅を焼いて食べる事じまいに相当する。小正月とは7日までを大正月とすることの呼び分けである。

節供は江戸時代に5節供として定められた。正月7日は人日、3月3日は上巳、5月5日は端午、7月7日は七夕、9月9日は重陽である。一般には七草、桃、菖蒲、星、菊の節供とされる。節供のごちそうは餅と酒、正月は餅と屠蘇、雛の節供では草餅と桃酒、端午は柏餅やちまきと菖蒲酒、重陽の節句は団子と菊酒である。それぞれ意味があって、春に芽生えるよもぎは強い旬の活力を秘めている。柏餅のかしわの葉も生命力にあやかっている。

お産をする時には、お産をする女性を産屋に隔離して食事も女性が運んでやる、という習慣があった。妊娠、出産する女性を少しでも楽にしてあげる、同時に血の穢れを家に入れない、という考えがあった。火を別にするため「別火(べっか)」と言われた。女性に対して丁寧な扱いをすることから、「お別火」は「おべっか」の語源となった。

大きな流れとしては、仏教も神道も土着の信仰を巧みに取り入れて発達してきた。檀家寺が檀徒の祖霊供養を担当するようになったのは江戸中期以降、神社も村落の守護神となるのは江戸幕藩体制で国割と村割がなされてからである。古くは小さな集落単位で産土神や株神が祀られていた。こうした土着の信仰を取り入れることで神道も仏教も全国に広がった。そして中世に神仏習合が進んで、例えば春分や秋分の行事が仏教の彼岸会と習合した。田遊びと神社の例祭が融合している例もある。中世、近世には祭りや行事の変容があり、仏事と神事が融合した例が多い。明治維新の神仏分離はこうして癒合してきた日本の祭りを再び変容させたという。江戸時代までは神主と僧侶が同席して行われていた正月などの行事は神社神道が公的なものとなった。仏教は弔いにその痕跡を残すものとなり、葬式仏教と言われるようになった。

しきたりの歴史は宗教の歴史でもある。日本人は無宗教、などという人もいるが、多くの日本人が無意識に、慣習として受け入れている行事には宗教的な行事が多い。意識をしなければ無宗教なのか、外国人に日本の文化を説明する時などには再確認が必要な視点である。しきたりの日本文化 (角川ソフィア文庫)

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フロイスの見た戦国日本 川崎 桃太 ***

2011年11月09日 | 本の読後感
ルイス・フロイスは戦国時代の日本を訪れ、長期にわたって滞在、特に織田信長、豊臣秀吉をはじめとした戦国大名たちにアプローチ、その著書「フロイスの日本史」は信長や秀吉に深く関わったものにしか書けない詳細な性格や振る舞いが記されている。

ポルトガル人のフロイスは1563年に西九州にある横瀬浦に上陸、2年前に司祭になったばかりの31才であった。イエズス会に入っていた彼はインドに派遣されゴアで宣教師の準備をして日本に来た。その頃の日本には2名の司祭、数名の修道士がいるだけであった。フランシスコ・ザビエルは1549年に来日しているがその後離日、日本に残ったのがザビエルの仲間の司祭のコスメ・デ・トルレスであった。布教は成功しては居なかったが、山口の周防、長門では大内義隆により布教の許可を得ていた。山口ではトルレスにより2000人の信徒を獲得することができた。こうした下地があったため、フロイスは到着した年の正月には足利義輝に年賀の挨拶に伺候することが許された。しかしその同じ年、義輝は三好義継と松永久秀に討たれた。公方の死により、キリスト教反対派は伴天連追放を迫り、フロイスは都から追われた。

その後、フロイスは信長に謁見する機会を得た。信長は初めて会うフロイスを歓待したため、城を降りて町に下がったフロイスを宿の主人は別人のように歓待したという。フロイスは信長を次のように描写している。「華奢な体型でありヒゲは少なく声は快調極度に戦争を好む。名誉心に富み正義において厳格であった。自らに加えられた侮辱には懲罰せずにはおかなかった。人情味と慈愛を示すこともあった。睡眠時間は短く、貪欲ではなく、決断を秘め戦術に老練で非常に性急、激昂するが平素はそうでもなかった。家臣の忠言には従わず一同から極めて畏敬されていた。酒を飲まず食を節し、人の取り扱いには極めて率直で自らの見解に尊大であった。」「神、仏の一切の礼拝、尊敬、占い、迷信的慣習の軽蔑者であった。禅宗の見解には若干の点従い、霊魂の不滅、来世の賞罰はないとみなしていた。」これが本能寺で殺される直前には「傲慢さと尊大さは非常なもので、この不幸にして哀れな人物は途方も無い狂気と盲目に陥り、彼自身が地上で礼拝されることを望み信長以外には礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った。」と激しい叱責の言葉に変わった。

これに対して秀吉には最初から厳しい評価である。「彼は身長が低く醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出しており髯が少なかった。自らの権力、領地、財産が増して行くに連れ悪癖と意地悪さを加えていった。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で嫌われものであり、彼に対して憎悪の念を抱かぬものはいないほどであった。」「関白は極度に淫蕩で200名以上の女を宮殿に囲っていたが、さらに都と堺の市民と役人たちの未婚の娘と未亡人をすべて連行するように命じた。」文禄の役では次のように評価している。「日本人は他国民と戦争することでは訓練されていない。シナへの順路も航海も、敵方の言語や地理も知らないのだ。」

キリシタン大名の大友宗麟、大村純忠などは好意的に描写、この他にも多くの戦国大名たちについて解説を加えている。フロイスは日本での布教について次のように解説している。「日本の風習はわれわれの風習とは世界でも最も異なるものであり、彼らと長く交わったものでないと真実は理解出来ない。まず、この国を統治する国主、諸侯、大身たちの寵を獲得し、彼らから愛情や尊敬を享受していることを見せることが効果的な手段である。これなしにはわれわれを憎む仏僧たちが布教の妨害してくることは間違いない。」

細川ガラシャに対する記述。「奥方は実に鋭敏で繊細な頭脳の持ち主であった。過去18年の間、これほど明晰かつ果敢な判断ができる女性と話したことはなかった。キリシタンになることを決めてからは、顔に喜びをたたえ、怒りやすかったのが、忍耐強く人格者となり、気位が高かったのが謙遜で温順となって、側近者も驚くほどであった。」

筆者は最後にまとめている。「戦後日本は経済大国にはなったものの国際間の交流は主として経済だけで終わっている。心の通った精神、文化面での交わりには、欧米人の世界観に宿る宗教心を理解する必要がある。欧米人の心を支えているキリスト教の教えを400年前に伝えようとしたフロイスのことを知り、その時に30万人の信徒がいたことを知ることは無益ではない。今の日本人には「宗教」について考えることが必要だという指摘である。
フロイスの見た戦国日本 (中公文庫)
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受命 帚木蓬生 ***

2011年11月06日 | 本の読後感
日本で拉致問題が存在するのだということが明らかになったのが、小泉首相が訪朝し、北朝鮮の指導者がそれを認め謝罪した時、2002年のこと。拉致問題はあると拉致被害者は訴えてきたが、日本政府は否定してきた。他国民を拉致する国、北朝鮮、これは犯罪国家である。しかし、韓国は500人以上の拉致被害者を抱えながら大問題とはせず、中国は北朝鮮からの亡命者を北朝鮮に送還している。中国にとっては北朝鮮は崩壊して欲しくない国。

中国の東北部には朝鮮族自治州があり、中国にいる朝鮮族200万人のうち半数近くがここにいるという。昔は、もっと自由に行き来していたと思われるが今は分断されているのは有名。今、自由に出入りができるようになれば、東西の壁崩壊の時のように、人は流出するはずだが、中国は難民を難民として認めていない。本書の中でも、「脱北者を北朝鮮に引き渡す、その一点に中国の本質がある」と脱北者支援のNPOメンバーである車世奉が強調している。

日系ブラジル国籍の産婦人科医、生殖医療研究者である津村は、北京での国際学会会場で、北朝鮮の平壤産院の医師、許日好と知り合い北朝鮮へその知識と技術を伝えて欲しいと要請される。津村は、返事を保留、そして旧友のいる延吉を訪問、中国東北部にある豆満江を境に北朝鮮と隣り合う朝鮮族自治州である。旧友の車世奉は脱北者を支援するNPO活動を行っていた。津村は、車世奉に連れられ北朝鮮を川越しに見ながら許の要請を受けることにする。津村の平壤産院での活動は高く評価され、多くの北朝鮮高官達の家族の命を救い、指導者の目に留まる。北朝鮮の指導者は生殖医療に深い興味を示しているのだ。一方、北園舞子は、在日朝鮮人の平山が経営するスーパーの庶務課で働いていた。北朝鮮への送金やその他の貢献で太い人脈がある平山は急病になった時に助けられた舞子を北朝鮮に誘う。平壌に津村も行っていると聞き、「受精」でも助けてくれた恩人である津村がいるならと誘いに乗ることにする。万景峰号で平山とともに北朝鮮の元山に向かう。舞子は「受精」に登場したヒロインであり、その舞子と寛順が登場する。「受精」では彼女たちは恋人を失った後、ブラジルのサルバドールの病院で辛い思いをして帰国したのだ。寛順は、亡くなった恋人の弟東源ともに、別途中国国境から北朝鮮への潜入を敢行する。このあたりの設定はちょっと無理がある気がするが、まあ良しとする。

クライマックスは、独裁者が津村を招待、平山と舞子も招待される、その場を狙った許日好の同士6名により、ポツリヌス菌による毒殺計画が実行され、暗殺が成功する。津村は、独裁者を誘き出すためのおとりだったのだ。

東源と寛順は韓国人であり、朝鮮総連にパイプを持つ平山は在日朝鮮人、ブラジル国籍を持つ津村は第三者、舞子は一般的な日本人女性、という設定である。北朝鮮も建国時には、もっと違った理想があったはず。作中では、先代の指導者には理想主義があったことも描かれる。ところが、二代目になると、経済政策をことごとく失敗し国家の性格が変質してしまったと。

帚木蓬生は北朝鮮には取材に何度も行ったのであろう、平壌や元山の様子は実際に感じたことを描いているのだと思う。「こんな国家は国ではない」、これがメッセージである。受命 (角川文庫)

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