意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書 ****

2011年10月31日 | 本の読後感

朝敵藩とされ、会津から斗南に移された旧会津藩士たちの困窮と、その中から這い上がって薩長土肥以外の出身ながら陸軍大臣にまでなった柴五郎のの手記を、石光真清の子、真人は編集して、柴五郎が士官学校に入るまでとしてまとめたもの。

柴五郎は会津落城後、下北半島の斗南藩に移され、武士として慣れない農作に携わる羽目になり、当地の寒さと飢えで死線をさまよった。筆者の父の叔父にあたる野田豁通が青森県初代大参事に任命され、旧会津藩の若者をなんとか教育したいとの思いから二人の旧藩士の子息が選ばれた。その一人が柴五郎であった。筆者の父、石光真清は柴五郎より10歳年下であったが、野田豁通宅に書生として暮らした時期、柴五郎と接する機会があり、その後一生付き合いが続いたという。この交誼関係から、柴五郎氏から少年時代の手記を石光真清の子真人が託された、というのが本書の背景である。柴五郎も石光真清と同じ中国観を持っていた。「中国は面子を尊ぶ。それなのに、日本は彼らの信用をいくたびも裏切っったし面子も汚した。こんな事で大東亜共栄圏の建設などと口で唱えても彼らはついてこない。この戦争は負けだ。」柴五郎が亡くなるまえに語ったこの言葉は昭和17年のことである。

会津城での戦いで敗れた柴家では、男子が城にこもって戦ったが、敗戦を聞いた女性達は自刃、辛うじて生き残った男性たちは地団駄を踏んだ。会津藩は35万石と言われたが幕末には実質69万石の大藩、この時8千人の武士は3万石と言われた斗南藩に転封された。当時の下北半島は地の果て、農地には適さない実質は7千石程度の最果ての地であった。猪苗代藩か斗南藩かの選択肢があったというが、それは新政府の温情であったのだろうか。藩政府からは大人一日玄米三合、子供は二合と2銭を支給されたが、これで全ての衣食住を賄うことは難しかった。あてがわれた土地は原野、そこに掘っ立て小屋を建てたが、冬の辛さは想像を絶するものであった。

明治4年、野田豁通が青森県大参事に就任、森虎之助とともに柴五郎は学問修行の県庁給仕として選抜された。一家をあげてこれを祝い、応援した。そして機を見て東京に出てきた柴五郎は苦労しながらも勉学の道を探り、設立されたばかりの陸軍幼年学校に入学することになる。同時に入学するものは十数名、石本新六(のちの中将、陸軍大臣)、市井隼太(のち中将)、馬渕正文(のち少将)、山口勝(のち中将)などがいていずれも15-6歳であったという。最初はすべてフランス式、フランス人にフランス語でフランスの歴史や数学の99もフランス語で習った。これは問題があるということでそののち全て日本式に切り替えられたが、この世代の幼年学校で学んだ生徒たちはこのために日本語よりはフランス語の方が得意であり、その後日本語に苦労したという。士官学校入学で手記は終わる。

淡々としているが、柴五郎が幼年時代に受けた薩長からの恥辱は一生忘れなかった。同じような思いを受け継いでいる会津人は多かったはず。明治維新もこうした視点から見ると失敗の連続、多くの犠牲者の塗炭の苦しみがあったことが伺える。薩長以外の視点の明治維新も確かに実在していたのだ。ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書 (中公新書 (252))

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誰のために 石光真清の手記 ***

2011年10月30日 | 本の読後感
石光真清の手記、第4巻。世田谷の郵便局長の職を得てこれで一家の生活を平穏に過ごせると思うのが普通ではないか。しかし石光真清は弟真臣の勧めで再度ハルビンでの任務につく。

辛亥革命で孫文が大総統になる臨時政府が樹立され、国号も中華民国となったが、まもなく旧軍閥を背景とする袁世凱が共和政体を宣言するに至った。孫文は事態を収集するため袁世凱に地位を譲った。この間、各国から政治的介入があり英国、ベルギー、米国、日本などが大陸に進出を図った。世界大戦が勃発したのはその後、日本は戦勝国としてドイツの租界地を譲渡された。そして袁世凱に対して21か条の要求を提出した。石光真清はこの行為を中国のメンツを潰す愚行と避難、過去300年にわたって欧州諸国が東洋で強行してきた植民地手段に日本も手に染めてしまったと嘆いた。こうした中、弟の真臣は真清に支那錦州での貿易商社設立を進めたのであった。そしてそのビジネスは順調に推移した。

しかし、その時、軍からの要請でブラゴベシチェンスクに赴いて情報収集を行うことを依頼されてしまう。当地には日本人7千名が住んでいて、ロシア革命下の混乱で、革命軍、清国軍、旧体制勢力が入り乱れる中に、連合国からのシベリア出兵がちらついていた。そこに石光機関を設置する。石光機関には鳥居肇三を始め6名と安倍道瞑師がいた。この陣容で活動をするが、ロシア内政干渉となることになる、シベリア出兵という日本の方針と現地の状況が錯綜し、日本人居留者の立場が難しい。コザック首脳部に日本人居留民は協力する、という約束をするが、それが関東軍総督府の方針と食い違い、陸軍大臣名で、越権行為をとして咎められ任務を解除されてしまう。

世界情勢も複雑化していた。レーニンはドイツとの友好関係を宣言するが、ロシアでボヘミア王国以来の祖国復活を夢見るチェコスロバキア軍はレーニン政府の承認を得てシベリアを横断、ウラジオストクから太平洋、大西洋をわたり独墺軍と戦うことになる。この途上チェコマサリック博士は日本にも援助を求めたがアメリカの顔色を伺い態度を明らかにしなかったため米国に渡ったのである。こうした中で、ブラゴベシチェンスクのアムール政権は経済的に破綻、ロシア革命軍の勢いが増してきた。こうした中、石光真清は現地のロシア人と情報を交換しながら、ロシア革命後のソビエト連邦では日本人には居留を続けることはできないと判断、退去を決める。

石光真清はウラジオストクの大井司令官を訪ねて、日本軍のシベリア出兵についてその真意を正す。しかし、司令官からは「一体誰のために働いているのだ」と逆に叱責される。その場で司令官と言い争いになり任務を解かれる。一体誰のために、という問いは石光真清本人にとっても自問自答、答えに窮する問題であった。

石光真清は自伝であり、日本の大陸進出の側面史であり、日露戦争を描いた場面や、支那での馬賊とのやり取りなどは普通の歴史書では得られないことばかりである。日露戦争には辛うじて勝利した、と歴史では習うが、戦場ではロシアの近代兵器に押しまくられて、兵士たちの国家成長に対する責任感がかえって戦死者を多くし、ロシア軍も極東での戦いにつかれたことが終戦につながったのであり、決して勝利したと言えるような終わり方ではなかった。石光真清本人の生涯も日露戦争のようなものではなかったか。家族を得て、子供にも恵まれたが、家族は本当に幸せだったのだろうか。手記をまとめた子の真人に、真清は次のように言っている。「将来も決して大陸へなんか行くんじゃないよ。内地で良い家庭を持ち良い仕事が出来ればそれが一番さ。大陸に行くにしても、お父さんのように出発点を間違うとどこまでも外れてしまってね、時が立つほど正道に戻れなくなってしまう。物事は初めが大事だよ。」

この手記で明らかに書かれている明治時代の日本人の心、武士の心が生きていると感じる。明治日本人をもっと学んでみたい。誰のために―石光真清の手記 4 (中公文庫 (い16-4))
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望郷の歌 石光真清の手記 ****

2011年10月27日 | 本の読後感
第二巻、曠野の花は波乱万丈、手に汗握り血肉踊るような、ちょっとうまく行き過ぎていて本当かと思うほどの内容であったが、第三巻、望郷の歌では日露戦争に出征し、帰国してからは軍籍を離脱、日本と満州を行き来してビジネスを手がけるが素人同然の筆者は騙されたり、実情をよく調べもせずに手を出したりで何をやってもうまくいかない。日本に妻と子を残して、母親と妻に借金をして大陸に出かけては失敗して帰国することを繰り返す。母も妻も、石光真清は軍は離れたが国のために働いているのだ、と思ってじっと支えてくれているのだが、実際には田中義一からの依頼は大陸の日本軍本部には届いておらず、石光真清は到着初日に現場司令官と言い争いの末辞表を提出、軍のためには1時間も働いては居ないのだった。

日露戦争出征は予備役召集という形、田中義一大佐の計らいで第二軍副官という立場で大尉として出征した。司令官は奥大将、参謀副長由比光衛中佐、参謀山梨半造少佐、管理部長は幼年学校時代から尊敬する橘周太少佐、軍医監は森林太郎(鴎外)であった。第二軍は大陸の中での泥濘の戦いであり、ロシアの近代兵器に肉弾戦で挑み、その気迫で薄氷を踏むような勝利を積み重ねるような戦いであった。多くの同僚や戦友が目の前で死んでいった。戦いが終わって、薄氷の勝利を得た時、部下がこのように言った。「いつも戦線を巡り感じることは、戦闘は命令や督戦では出来ない、命令されていなくても、教えられていなくても、兵士一人ひとりが勝たなければ国が滅びるということをはっきりと知って自分で死地に赴いている。この勝利は天佑でもなく、陛下の御稜威でもございません。兵士一人ひとりの力です。」これに石光真清はこう答えている。「天佑とか御稜威などは陛下に報告するときの文章だよ。しかし兵士がこのように戦ったのは小隊長も、中隊長も、大隊長も、連隊長までも抜刀していつも先頭にたって進んだからだよ。だが、両軍にここまで兵器の優劣があってよくもまあここまで来るものかと。」

そして勝利した軍隊は日本に凱旋した。しかし石光真清は再び満州に渡る。今回は田中義一の命を受けて通訳として少佐扱いの民間人として。しかし、現地には田中義一大佐の命は通じておらず、現地の木下参謀と口論となり即刻辞表を提出してしまうのであった。ここからは、すべてが上手く行かなくなる。

馬賊の頭領と付き合った経験を生かし、海賊と手を組んで、海を行き来する船を保護する、という名目で保険料を捕るビジネスはできないかと考え、それを清国政府と日本軍に認めさせようとするが、逆に海賊と共に指名手配者のようになってしまう。その時組んだ相手が海竜との名を持つ丁殿中と海虎と呼ばれた張海宝であった。海賊に自らを認めさせることには成功した石光であったが、軍隊時代のつてを頼ってもさすがに海賊商売を認めさせることは出来ずにこのビジネスは断念。その後も多くの失敗を重ねて日本に帰国した。

日本では世田谷三宿の郵便局長の仕事が巡ってきた。田舎の農村であった世田谷村に青山から家族を引き連れて引っ越した石光は当時43才、妻が31才、長女13才、次女9才、長男でこの本の筆者である真人は7才、三女5才、4女2才であり、子供たちは東京府立第三高等女学校や第二荏原尋常小学校に通った。この当時ハレー彗星がやってきて人々は地球の最後だとか太陽が爆発する、などというデマに惑わされながらも、しかし石光家には平穏な生活が戻ってきた。明治天皇が死去、乃木大将が殉死する、第三巻はここまで。「曠野の花」の手に汗握る展開には遠く及ばない第三巻であるが、手に汗握ったあの第二巻に嘘はなかったのだ、と思わせる、うまく行きそうになってもうまくは行かないことが多い展開の第三巻であった。
城下の人―石光真清の手記 1 (中公文庫)
曠野の花―石光真清の手記 2 (中公文庫)
望郷の歌―石光真清の手記 3 (中公文庫 (い16-3))
誰のために―石光真清の手記 4 (中公文庫 (い16-4))
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曠野の花 石光真清 *****

2011年10月26日 | 本の読後感
石光真清の手記、読んでいてのめり込むような気がする。本当にあった自分の体験談をこれほど事細かく記録していた人がいるとは驚きである。第二巻では筆者が日清戦争の後、ロシア研究に打ち込み、軍から満州の状況をしらべてくるようにと命じられ、私費留学の民間人を装ってウラジオストクからハルピン、チチハルなどを転々とする。明治32年8月にウラジオストクに日本郵船相模丸にて、郵船社長の近藤廉平、参謀本部次長田村怡与造大佐、町田経宇大尉(後に大将)等とともに筆者は降り立った。地図で見るとウラジオストクから北のハバロフスクに向かうには列車で、西のハルピンにも列車であるが、当時の状況は日清戦争で日本が勝利したとは言え、三国干渉によりロシア、ドイツ、フランスなどが力を延ばしてきていた。特にロシアは満州を我が物にするために攻め入ろうとする状況下であり、列車による移動は制約されていた。ハバロフスクからハルピンは列車はなく、黒竜江から松花江経由の船旅であった。

石光がアムール川のサイドにあるブラゴヴェヒチェンスクに滞在している時に、義和団事件は起きた。満州サイドから砲撃があったためロシアは反撃、清国側の町の住民など数千人を虐殺した。この時、日本、ドイツの公使も殺害されたためロシアに協力、日本軍柴五郎少佐(後に大将)は北京で籠城、義和団と戦った。事件のきっかけはささいなことだったが混乱は満州から北部清国一帯に広がった。こうした不穏な状況の中では、馬賊、ロシア軍、清国軍が入り乱れて勢力争いをしていたが、ロシア軍は鉄道建設を進めながら、その沿線を鎮圧していった。石光はこうしたさなかのハルピン、奉天、チチハル、満州里などを旅行と称して偵察して回った。

ハルピンなどでは菊地某と名乗り、現地の馬賊の頭領や現地の住民たち、日本から流れてきていた女郎たちやロシア人とも知り合い、お互いに助けたり助けられたり、波乱万丈の毎日を送る。この頃の日本は貧しく、ウラジオストクに日本人女郎が現れ始めたのは明治16年ころと記述されている。日本女性は従順で正直、親切、白人やその他のアジア人は悪辣な取引をするとされ、東清鉄道工事が始まってからは労働者たちが集まる、場所には「白米」と呼ばれた日本人女郎たちがたくさんいた。夏目漱石がサンダカンで見た娼館の女郎たちと同様の不幸がこの地にも見られた。

数年の滞在での報告をウラジオストクの町田少佐、武藤大尉に報告、その後身の振り方を相談して、軍隊を退役して民間人となり、その後再び家族などと共に満州に渡って民間人を装っての密偵を続ける事となった。そこでハルピンで写真館を開設、これがロシア軍からも重宝され大繁盛した。心得の悪い日本軍人の一言から店が諜報機関の手先ではないかと疑われた時期もあったが、石光は単身ウラジオストクに逃れ時間を稼いで、疑いは晴れた。ロシア軍の要塞や陣地の写真など多くは東京の参謀本部に送られ、諜報活動としては成功した。そしてここで日本に帰国することとなり、参謀本部で結果を報告、久しぶりに自宅に帰ると日露戦争勃発を受けて予備役召集令状が来ていた。妻は驚いたはずだが落ち着いて、久しぶりの軍服を準備、日露戦争へと出征することになる。本当に大国ロシアに勝てるのであろうか、この時点では日本人の誰もが勝利を確信できずにいた。

石光は幼年学校時代、明治17年に清国の北陽水軍が長崎に立ち寄った時のことを回想する。提督は丁汝昌、7千トン級の定遠、鎮遠という大鑑を旗艦とする大艦隊であり、当時の日本海軍には3千トン級の鋼鉄船扶桑があるきりであった。まだ大国清国を怒らせては大変、という時期であり、長崎市民を始め日本政府も腰を低くして対応したという。清国将兵は傍若無人な振る舞いをしたが日本官憲は手も足も出せなかった。この屈辱を晴らそうと当時の長崎県警察部長だった湯池丈雄は元寇記念碑を自費で立て職を辞して全国遊説、海軍増強を国民に訴えたという。その息子が、写真館の秘密をうっかり民間人に漏らしたというのである。因果はめぐる。

この手記は大変な記録ではないか。出会い、再開などあまりに偶然が重なり本当のことなのかと疑いたくもなるが、発表するために記録をしていたわけではない、まさに波乱万丈、この手記は映画化もされたという。3-4巻も楽しみである。
城下の人―石光真清の手記 1 (中公文庫)
曠野の花―石光真清の手記 2 (中公文庫)
望郷の歌―石光真清の手記 3 (中公文庫 (い16-3))
誰のために―石光真清の手記 4 (中公文庫 (い16-4))
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日本仏教史―思想史としてのアプローチ 末木文美士 ***

2011年10月22日 | 本の読後感
試験勉強のための仏教の歴史ではない、日本の仏教について考えてみたいと思うあなたのための解説書だという。ブッダの教えは「悟りを開く」というもの。しかし悟りを開いても空を飛べたり超能力が身につくわけでもない。そういうつまらない願望を忘れて平気でいられることこそが悟りを開く事、だったかもしれない。では日本では、貧しい人達が虐げられて希望を求めて阿弥陀如来への信仰を深くした、これが日本の仏教だった、という時代があったのはなぜなのだろう。これが極楽浄土と観音菩薩につながったのはなぜなのだろう。この本では仏陀の教えからは遠くはなれてしまった、その歴史を紹介して、日本人のものの考え方を拾い出してみた本である、これが最後の解説に紹介されたこの本である。

552年に日本に仏教がもたらされた時、日本の神を敬う心はあったが、体系立てられたものではなかった。そこに客人神として仏教が受け入れられた。排仏派と崇仏派に別れたが、為政者が統治のための思想として仏教を利用することから受容された。この際、受け入れられやすいように教理や思想、教団よりも仏の崇拝と現世利益が重んじられた。そして後には死者供養などの忌み事が仏教で行われ、正月や七五三などの慶事が神式で行われるという役割分担による神仏混合が行われた。

奈良時代の仏教は南都六宗が中心であった。倶舎、成実、律、三論、法相、華厳である。この時代の宗とは学派のようなものであり大学で言えば学部か学科であったという。その後、最澄により始まる天台宗では、「円」という円満完全な教えで天台の教理、「戒」という戒律、「禅」という禅の行法、「密」という密教からなる。最澄はそれぞれの教えを天台は道邃と行満から、戒律は道邃、禅は行表としゅく然から、そして密教は順暁、大素、紅秘、霊光、惟象を師としたという。密教は後に空海から灌頂を受けているようにそれ以前に学んでいた密教は不完全なものと自覚していた。この密教に関する不完全さが最澄の弱みとなっており、為政者や民衆の要請が密教にあったことから、逆に円仁以降の天台ではもっぱら密教に力をいれることになった。最澄は恵美押勝の子と言われる徳一との教理上の論争を行った。人は誰でも悟りを開くことができるという一乗主義と悟れない人もいるとする法相宗の立場である。

空海は人間の心が浅薄な段階から密教の究極の知恵に達するまでを10の段階に分けた。羊のように愚かな凡夫、愚かな子供が斎戒を保つ状態、悪道へは堕ちることがなくなった状態、無我の境地、業の苦しみを抜き去る段階、他の衆生にも心を配れる段階、一切の存在は不生不滅であると悟る段階、因縁造作を超えた段階、密教の立場、という10段階である。9段階が顕教であり最後が密教であるということで、密教と従来の仏教を一体化し体系化することで密教の優位性を主張している。最澄の天台宗は円仁、円珍、平安中期には源信、その後も比叡山の仏教思想かが続いているが、空海の後継者で目立った存在はいない。

平安時代の信仰には幾つかの類型がある。弥勒信仰、死後は兜率天に往生しようというもの。地蔵信仰、釈迦が没して弥勒菩薩が仏として現れるまで衆生救済を委ねられたのが地蔵菩薩。観音信仰、33の姿をとって衆生救済をしてくれるのが観音菩薩であるという。法華信仰、法華教への信仰で山岳信仰。そして神仏習合、本地垂迹で神は仏が日本の衆生を救済するために仮の姿を取ったものという教え。いずれも末法思想を背景に思想の多様化が進んだ時代であった。

衆生の心は心真如と心生滅の二面からなる。心真如は仏の絶対の立場であり心生滅日常的な煩悩にまみれた迷いの心である。心生滅にも覚と不覚が対照される。そして覚にも本覚と始覚があるという。本覚とは迷いの心のなかにもある内在的な悟りであると同時に目標としての悟りであり、不覚から本覚に向かう活動が始覚と呼ばれる、これが本覚の思想である。無常観、人間の生死の無常も自然の変化の一部であるものとして受容する、肯定する、というのが本覚思想の背景にある。草木一切成仏もこうした無常観からきている。そして本覚思想を体系化したのが天台の本覚門恵心流の三重七個の大事、三重とは教行証であり、親鸞はこれを教行信証でまとめた。

鎌倉時代には多くの仏教思想かが生まれた。第一期には鎌倉仏教が形成された時代、重源、栄西、法然、貞慶、俊芿、慈円が活躍した。第二期は安定した時代背景に思想が円熟、明恵、良遍、親鸞、道元が活躍した。第三期は元寇などにより社会不安が高まった時代、叡尊、忍性、日蓮、一遍、凝然などが活躍した。室町以降も仏教は存在しているが、キリスト教伝来の頃には僧の堕落が伝道師達によって報告されているように、鎌倉までの仏教からは遠く離れ、権力と結びついて民衆からは離れていった。儀式としての葬儀や檀家制度、人別改などとして為政者と結びついていた。

筆者は最後に遠藤周作の「沈黙」の宣教師フェレイラを引いて、次のように解説する。「この国は沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば根は生えるが腐り始める。葉が黄ばみ枯れていくのだ。我々はこの沼地にキリスト教の苗を植えたのだ。」このキリスト教の部分は仏教にも置き換えられる、というのが筆者の主張である。仏教伝来以降、中世には成熟した本覚思想、本地垂迹説が発生した経緯を見ると日本で衆生救済に降り立った神の方が仏よりも価値が高い存在であり、後ろにいる思想の体系の生みの親の仏は実は不要である。鎌倉末期にナショナリズムと共に勃興した神道思想は仏教を吸収しながら思想を確立してきた、この本覚思想という現世主義、日本土着化は仏教自体の風化であった、という。仏教は深く日本に根付いているように見えて本来の仏教徒は遠く異なる教えとなっている、という指摘。
日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)
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生物学的文明論 本川達男 ***

2011年10月21日 | 本の読後感
ゾウの時間ネズミの時間の焼き直しかと思ったが、資源・エネルギー問題を視座に入れての文明論になっている。現代人は時間をエネルギーで買っていて、時間の早回しを「便利になった、文明が進んだ」と思っている。そうこうするうちにそのために消費したエネルギーで環境問題を起こしたと騒いでいるのだ、という主張。時間をゆっくり過ごす沖縄人やもっと言えばナマコに学ぶ所があるという話。文明を進めてきたのは物理学であり数学的発想だったが、生物学的発想を用いることで閉塞状態にある現代文明に環境問題解決の糸口が見える。

われわれ人類は生態系から次のような「サービス」を受けている。
1. 供給サービス:米や肉、絹や木材のように人間の暮らしに直接役立つ物品を提供してもらっている。この際生物多様性が重要になるが、種、遺伝子、そして生態系それぞれのレベルでの多様性が重要である。
2. 基盤サービス:生物が存在する上で必要な基盤となる大気のガス組成維持、土壌の形成と保持、炭素や窒素などの栄養素の循環、水の循環など。
3. 調整サービス:自然や人間活動による影響をやわらげる仕組み。森は天然のダムであり、サンゴ礁は島の自然を守っている。マングローブも同様の働きをする。
4. 文化的サービス:リクリエーションの場を提供する自然、癒しや美的、知的楽しみを与えてくれる。

こうしたサービスを経済的に評価するとどのくらいの価値になるか、例えばサンゴ礁は漁業として年間100億円、文化的には2400億円と試算されている。全体では年間16-54兆ドル、世界のGDPの匹敵する額である。

そこで動物のサイズとエネルギー使用量は、体重が10倍になると基礎代謝量は5.6倍になる、これは体重の4分の3乗に比例している。国でも企業でも同じ事は言えないだろうか。恒温動物と変温動物を比べると、恒温動物は変温動物の15倍のエネルギーを消費している。活動をしない時にエンジンを停止する変温動物に対して、恒温動物はアイドリングしていていつでも活動を開始できるように備えている、そのために15倍のエネルギーを費やしているというのである。エネルギー効率という視点から見れば変温動物のほうが高効率である。10トンの草があったとして、体重500キロの牛なら2頭が14ヶ月かかってこれを食べきり、体重増加は2頭で200キロである。体重2キロのウサギでも同じ肉の量が得られるが3ヶ月でできる。同じ量の草を変温動物としてイナゴが食べるとすると、100万匹のイナゴは9ヶ月かかって食べて200万匹に増える、つまり2トンの肉を生成できる。食糧問題を考えた時には、恒温動物なら小さい動物、そして恒温動物よりも変温動物による食糧解決を図ったほうがエネルギー効率は高いということ。牛に草を食べさせるよりは人間が草を直接食べるのがもっと効率がいいという。

そして有名なゾウの時間ネズミの時間である。時間は体重の4分の1乗に比例する、つまり30gのハツカネズミと3トンの象を比べると象は18倍ゆっくりとした時間を進んでいる。心拍はハツカネズミが0.1秒、人間が1秒、馬が2秒、象が3秒。体重が10倍になると時間は1.8倍長くなる。母親の胎内で過ごす時間は人間が280日、ハツカネズミは20日、象では600日、これもやはり4分の1乗である。ハツカネズミの寿命は2-3年、インド象は70年、しかし一生の間の心拍数はいずれも15億回。人間の場合には人生40年であれば15億回、現代では寿命が伸びて30億回、江戸時代以降の寿命の延びはこの法則からはみ出ている。

エネルギーを使えば時間的効率は上がるが、体の本来持っている時間感覚とのギャップは広がるばかりであり人間の場合には不幸になるのではないか、というのが筆者の主張。ナマコは単位体重あたりにして人間の50分の1しかエネルギーを使っていないという超省エネ生活を送っている。昆虫は卵、幼虫、蛹、成虫と変態を繰り返してエネルギー消費量を変化させ、時間の流れを変えているとも言える。言い方を変えると、生物はエネルギーを消費して時間を生み出しているとも考えられる。冬眠はエネルギーを節約して過ごしにくい時間を乗り切る工夫である。人間はエネルギーを使って時間を速め、寿命も延ばしてきた。しかし資源・エネルギー問題を考える時に、現代社会の文明化が本当に人類の幸福につながったのか、生物学的視点から再考すべきではないか、という主張である。

人間の場合、40才以降はエネルギーを使って人工的に延命している状態であるという。不自然な生き方ゆえ病気や体にガタが来る。資源とエネルギーを使って寿命を買っている、と思えば環境問題への考え方にも変化が出てくるかもしれない。
生物学的文明論 (新潮新書)

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城下の人 石光真清の手記 ****

2011年10月20日 | 本の読後感
読み物として面白く、実際に実在した人物の手記に基づいて書かれているので信頼性も高い、非常に面白く読める。島崎藤村の「夜明け前」は自分の父をモデルに、馬籠を舞台にした幕末のお話だったが、これは「夜明け後」はどうなったのか、熊本藩士の子として明治維新に生まれた筆者の経験を語った手記を丁寧にまとめたもの、歴史的研究のために文書としても価値は高いと思う。

石光真清は旧熊本藩士の息子で明治元年生まれ。熊本では旧武士の一部が神風連の乱を起こす。明治維新以降の急速な海外文明取り入れに反対する余りに新政府の政策に対しても批判的な神風連に対して、それを時代に盲目な人たちと軽蔑する風潮もあった。筆者の父は次のように筆者に語りかける。「時代が動き始めると、始めの頃は皆同じもいでいるものだがいつかは2つや3つに分かれて党を組んで争う。古いものを嘲っていれば先覚者になったつもりでいるものもあり、新しいといえば頭から軽佻浮薄として軽蔑するものも出てくる。こうした対立の中から、本当に時代遅れの頑固者と新しがりやも生まれてくるものだ。これは人間の弱点だ。神風連の人たちにも立派な人がいて、日本人としての魂を忘れるなという主張には一理ある。頑固者だといって一律に軽蔑するものではない。」

この父のところには、熊本鎮台に来ている谷干城中将、樺山資紀中佐、児玉源太郎少佐が訪問するようになる。西南戦争を前に、熊本の状況を視察に来ている彼らが、筆者の父と知遇を得て意見を聞きに来ているのである。谷は西南戦争の熊本城攻防、田原坂の戦いで鎮台側の総大将となる。熊本の筆者の実家は西南戦争では薩摩側の陣地に近く、筆者は10才の子供ながらも薩摩軍の兵士たちと親しくなり親近感を抱くが、神風連のリーダーたちのことも忘れては居ない。

薩摩、鎮台双方兵力が拮抗して長期戦になる様相が見えてきた頃、新政府軍が博多に到着する。総大将が有栖川宮熾仁、山県有朋中将、川村純義中将などが軍を率いていて、筆者の叔父である野田豁通も会計部長として出征していた。対する薩摩軍は池上四郎を攻城戦の総大将として、篠原国幹、村田新八、別府晋介などがこれに対した。熊本の住民たちはその内に片が付くと思っていたが予想外の長期戦に戸惑っていた。

熊本の士族の中で嘉悦孝子は教育に力を入れたいと考えていた。「これからの子女に必要なのは自分で生活できるだけの職業を身につける教育である。東京に出て女子教育家になる。」筆者が叔父の野田豁通を頼って東京に出てきた時に、野田が下宿先として紹介したのが後の陸軍大将柴五郎。野田が戊辰の役に幕僚として従軍、会津若松城を攻撃した時に相手側にいた人物であった。野田がその後青森県知事となった時に、会津の武士たちは青森に追いやられた。その際、会津藩士からも将来のために育成すべき若者を選抜する、ということ選ばれたのが柴五郎であった。柴五郎の生活指導のもと、筆者は陸軍幼年学校に入学することができた。

筆者の兄真澄は三井物産の馬越恭平に信頼され、恵比寿麦酒の会社立ち上げに参画した。真澄はそれ以外にも軍関係の用品取扱を手がけ、日清戦争の軍需景気に乗っかって野田豁通の紹介もあり、大きな利益を得て、親族の困窮が緩和された。野田豁通は書生として多くの若者を手元において育てた。後藤新平(後の外務大臣)、斎藤実(後の総理大臣)なども書生の一人であり、筆者の周りには随分と歴史上活躍した人物がいたことになる。日清戦争の後は、筆者はロシアがこれからの日本の命運を握るとの考えからロシア留学を実行する。

ここまでが、「城下の人」の内容。いくつもの手記や日記の内容を再編集したと思われるこの書き物、全4巻あり、曠野の花、望郷の歌、誰のために、と続くという。これは是非読んでみたい。
城下の人―石光真清の手記 1 (中公文庫)
曠野の花―石光真清の手記 2 (中公文庫)
望郷の歌―石光真清の手記 3 (中公文庫 (い16-3))
誰のために―石光真清の手記 4 (中公文庫 (い16-4))
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永遠の出口 森絵都 ****

2011年10月19日 | 本の読後感
童話作家、というがこれは結構な書き手だと思う。講談社児童文学新人賞を受賞したというが、本編は大人向けとしても十分楽しめる内容である。主人公の女性が小学3年生、小学6年生、中学生、高校生と成長していくプロセスを9つのエッセイにまとめていて、それぞれが独立した良い構成になっている。

小学3年生の女友達6人組の誕生会、プレゼントを交換して食事会をする、という普通のイベントに、6人の中では一人少し毛色の違う女の子がいて、その子をめぐっての主人公の悩みと出来事を綴る。1968年生まれの主人公が小学3年生の時には1978年、まだまだ貧富の差があるなか、誕生パーティに皆で家に行ったのに、パーティも食事会もなく終わってしまった。そのことをクラスの他の皆に話したところ、その子に同情が集まる一方、5人組は食い意地が張ったやつ、というレッテルをはられたというのだ。そしてその復讐に5人組での次回の誕生会にその子を呼ばずにいたら、その子はプレゼントだけを持って誕生会のあと自宅まで持参してくれた、そしてその子の家までお礼に行って、逆に夕食までごちそうになってしまう、そのことをめぐる主人公の葛藤である。3年生の女の子の小さな悩みがよく書かれている。

小学5年生になった時の高学年としての誇りと最高学年ではないというピラミッド社会の記述、誰しも思い出すこと。そしてその担任教諭の意地悪さとクラス全員による団結と反撃。小学6年生から中学生になるときの列車に乗っての小冒険、中学時代の不良時代、父親の不倫による不和を解消することを目論んで姉が仕組んだ家族旅行に中学3年の主人公が望む、父の描写はちびまる子ちゃんの父と重なるが、母親は世の中の一般像とはダブらず、独特である。旅行先での旅館の夜中の非常ベル騒ぎで一家の緊張は一気に別次元へと展開し、両親の不和はなぜか解消の方向に行くが、主人公には納得が行かない部分も見える。高校生になってレストランでアルバイト、アルバイト先の人間関係は、主人公が思うほど単純ではない。店主、社員とアルバイトなど、大人の関係にまた翻弄される。そして恋、好きになった相手を追いかければ追いかけるほど相手は逃げていく、逃げられる理由が分からない、分かろうとしたくない気持ちを描く。そして高校を卒業する、進学組と就職組、そして未定組の主人公。卒業前のイベントを企画するが、欽ちゃんの仮装大賞、ヘビメタ、そしてスターウォッチャー。主人公は星の観察を選ぶ。

どこまでが実話なのかはどうでもいいが、一つ一つのエピソードが女の子の心理から描かれて面白い。男の子バージョンを書いてみたくなるような、そんな一編である。
永遠の出口 (集英社文庫(日本))
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蟻の兵隊 池谷薫 *****

2011年10月16日 | 本の読後感
終戦の時に中国には多くの軍隊と民間人がいた。ソ連に侵攻された満州での悲劇は多くの書物で有名であるが、中国内部で、国民軍と共産党軍の戦いに巻き込まれた日本軍がいた事は余り知られていないのではないか。北支派遣軍第一軍59000名の兵隊の内、2600名が現地に残留して、国民軍の閻錫山の軍隊に編入され3年8ヶ月もの期間共産党軍との戦いを繰り広げていたというのである。残留は兵隊の意思であった、というのが現在の日本政府の立場だそうだが、2600名のうち550名は何のために戦死したのか、生き残りの兵士にインタビューをした筆者は、意思による残留は大いなる嘘であることを知る。映画化、そして本としての出版はそうした兵士たちが、上官からの命令で残された事実をできるだけ多くの人々に知ってほしい、という筆者の強い思いからきている。そもそも、8月15日以降満州をのぞく中国で戦死した日本軍将兵は5万人に達していたという。なぜそんなに多くの将兵は戦争後に戦死したのか。

8月15日現地の第一軍司令官澄田中将、参謀山岡少将は閻錫山と対共産党軍に共同で防御の態勢で臨むことを協定している。中国の共産化を望まなかった岡村寧次大将支那派遣軍総司令官の意思を澄田、山岡も汲み取っていたという。日本に戻れば戦犯として裁判にかけられることが確実だった澄田司令官の身柄を閻錫山が自分の利益のために預かった、とも考えられる。

しかし、中国における上部司令部である支那総司令部の参謀宮崎舜一中佐は、こうした第一軍の動きを知って、それを阻止するために山西省に飛んで、閻錫山に日本人の残留をさせないように要請、澄田、山岡の第一軍司令部には全員帰国を確約させた。1万5千人規模の残留を目論んでいた閻錫山は規模を縮小させても日本人部隊を残留させることを画策、澄田、山岡もその要請に応えるように動く。同時に、澄田、山岡は将兵達は書類上現地除隊の手続きを取ったことにする。これが戦後日本政府が、残留兵は自分の意思であったとする主張に与することになる手がかりである。

一方、第一軍司令部麾下の114師団、混成第三旅団、歩兵第10旅団、歩兵第14旅団、第四・五独立警護隊の将兵には詳しい経緯や説明されず、敗戦後の日本軍戦力の温存と共産軍征伐のために残留すべし、と説明される。中でも今村均大将の甥として人望の高かった混成第三旅団高級参謀の今村方策大佐は、澄田から多くを知らされない中で、日本軍残留部隊の指揮を任される。

宮崎中佐からの報告は日本政府や占領軍にも知らされていたはずであり、ポツダム宣言に反するそうした行動をどのように見ていたのであろうか。「反共」は日本政府、そしてアメリカ軍の意思でもあったのではないか、というのが筆者の疑問である。あえて見逃されていたというのである。実は宮崎中佐は今村大佐と面談していなかった。その事実を後から知った宮崎は、「今村大佐に会っていれば2600名の残留はなかったかもしれない」と述懐している。今村大佐は日本国内の妻への手紙で、澄田を信じた結果として多くの日本兵士を無駄に死なせてしまったことを悔やんでいる。今村大佐でさえ情報統制を受け、全貌を知らされないまま3年以上も中国で戦っていたのである。

澄田はその後帰国、昭和28年には軍人恩給を支給され、後に日銀総裁になる長男智の紹介で会社の会長になり、郷里の軍人会の理事長などを努めて昭和54年まで生きた。勲一等旭日大綬章も受賞している。宮崎参謀は敗戦処理のために2年現地残留後、帰国して警察予備隊へ入隊、自衛隊では北部方面司令官になり平成8年に脳梗塞で倒れた。蟻の兵隊の映画化では筆者に協力した。

本当にこんなことがあったのであろうか。蟻の兵隊として戦後も上官に命じられて戦った兵隊たちは何と戦ったのであろうか。そしてそこで生き残り日本に帰国した兵隊たちは日本政府からは現地除隊扱い、つまり軍人恩給の支給を受けられず、逃亡兵扱いを受けたという。母国に2度も裏切られる気持ちであった人も多かった。もっと多くの人にこのことを知ってほしい。
蟻の兵隊―日本兵2600人山西省残留の真相 (新潮文庫)
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それからの海舟 半藤一利 ****

2011年10月15日 | 本の読後感
筆者は向島生まれの江戸っ子好き、戦争中の避難先が新潟の長岡で朝敵の地、薩長が大嫌いで徳川家に最後まで忠誠を尽くした勝海舟のことを「勝っつあん」と呼ぶ。贔屓の引き倒しとも言える勝海舟伝で、維新後のことを中心に書く。

江戸城無血開城の勝海舟を太平洋戦争最後の首相鈴木貫太郎に例える。昭和20年8月になっても鈴木貫太郎は最後まで強気であり、腰抜けのところなんか見せなかった。米内光政らの和平派が首相はどちらに向いているのか疑う時、あっという間にポツダム宣言受諾に国を向けた。「どうせダメならいっその事彰義隊と一緒になってひと泡ふかしてやろうか」などとは考えなかった。大宅壮一はこの「どうせ」と「いっそ」という日本語は外国語に訳せない、こういう考え自体が日本的だといったという。「カチューシャ可愛や別れの辛さ、せめて淡雪とけぬ間に」という「せめて」もそうだとのこと。しかし幕末の勝海舟、太平洋戦争の鈴木貫太郎も「どうせ、いっそ、せめて」などという感情には流されず理性的判断をした。

しかしこの判断には、バックアップがあったのである。海舟は新門辰五郎や日本橋の魚市場の勇み肌の兄ぃ達に話をつけて、西軍が江戸市中に進撃してきたときには江戸八百八町に火をはなって西軍を梵殺してくれるように頼んでいた。イギリス公使ハリー・パークスには徳川慶喜を軍艦に乗せて安全なところに移送してもらう、というところまで話をつけていた。そして、江戸の人々は海岸につけたありったけの船で江戸の川や堀から逃す計画も立てていたというのである。そして勝が西郷につけた条件は、「慶喜の身の安全と幕臣のメンツを保てる石高の保証」。これも太平洋戦争の「無条件降伏」+「国体護持」と似ている。イギリスは薩長を助けながら、幕府の代表であった勝海舟にも手を差し伸べていたことになる。

西軍代表でハリー・パークスと西軍のための病院建設に助力を願った木梨精一郎にパークスはこういった。「前将軍徳川慶喜は降伏の意思を表明しているのに、なんのための進軍を西軍はしようとしているのか。大体において戦争をするならば、政府代表が外国人居留地を統治している領事に政府命令があるはずだが、そんなものは受け取っていない。この国は国際法も知らない無政府状態なのか」勝海舟との会談を前にした西郷隆盛はパークスの言う国際法に付き合ったった気がしたという。西郷隆盛が江戸総攻撃を思いとどまったのは、こうしたイギリスからの圧力があったとする説があるらしいが、当然とも言えるほど現実性を持つ話である。榎本武揚が降伏をする際に、敵方の黒田清隆に「万国海律全書」を送った、というのも、世界列強国を目指すこれからの日本を引っ張る薩長軍に万国法を知っておいて欲しい、という江戸幕府としての誇りと潔さだった。

岩倉使節団が西郷たちを国に残し出発する際に、西郷達に言い残したこと。「国内事務は新規改正をしないこと。諸官省庁官の欠員補充はせず、内閣規模は変更せず、官員増員はしないこと」、西郷はそれをあっさりとホゴにした。元若年寄永井尚志、箱館戦争の副将大鳥圭介、海軍総裁の矢田堀鴻も復職させた。そして勝海舟と大久保一翁、山岡鉄太郎も復活させたのである。山岡は天皇の侍従番長に、大久保一翁、は文部省二等出仕、勝海舟は海軍大輔という高官として復活させたのである。陸軍太輔は山県有朋、海軍のことなら一肌脱ぐか、と勝海舟は思ったのである。その後、勝海舟は1年5ヶ月海軍大輔として勤め、参議・海軍卿1年6ヶ月、元老院議官7ヶ月と合計3年反明治政府にお勤めをして以降は浪人したのである。

そして明治29年になって伊藤博文内閣の政治を次のように批評した。「政治家の秘訣は他に何もない。ただた正心誠意の4文字。伊藤さんはわずか4千万の人心を収攬することもできないのはもちろん、いつも列国のために恥辱を受けて独立国の体面をさえ全うすることが出来ないとはいかにも歯がゆいではないか。つまり伊藤さんはこの秘訣を知らないんだよ。」不平等条約改正のために鹿鳴館を作り、欧風を真似ることばかりに執心する政府を見ての言葉であった。

この言葉を施政方針演説に引用した野田総理、グローバル化というフレーズに欧米風を真似ることに執心ばかりしないように願いたい、と勝海舟なら言ったのではないか。
それからの海舟 (ちくま文庫)
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風の王国 五木寛之 ****

2011年10月08日 | 本の読後感
山の民、山家、世間師などと呼ばれた人々が古代から連綿とつながる歴史を生きてきた、という設定で、主人公の速水卓が自分の出自を教えられ、現代でも生きている自分の一族と出会う、というお話。網野善彦や柳田国男が解説している山の民、もしくはサンカが古代より権力者たちに虐げられてきた、という歴史をエピソードにして、その一族の中での勢力争いを縦糸に、速水卓の生い立ちから31才の今までの物語を織りまぜてストーリーは進む。

卓は原稿書きを仕事にしているが、数年前までは世界放浪のたびに出ていた。自分の放浪の経験を織りまぜて記事を書いて雑誌に掲載してもらう、これが現在の商売で、物語は二上山紀行の取材から始まる。二上山で出会ったのが揃いの法被を身にまとった集団、中に一人風のように歩く女性を見た。この女性に会いたい、との思いは後日叶うことになる。

葛城哀、それが彼女の名前、天武仁神講という宗教団体の代表である父天浪の代理としてパーティーで挨拶をしたのだ。そのパーティは射狩野グループという企業連合体の創立60周年を祝賀するパーティであった。そこで、卓は葛城哀と再び出会い、そして哀が属する天武仁神講が実は山の民の一族の現代の姿であり、実は射狩野グループも同族が経済的に世間に進出してきたものであることを知る。

二上山の記事をまとめる時、大津皇子が殺された時のエピソードを卓は一族の老人から聞く。山の民は、農民でも貴族でもなく、ヤマト政権からみると、徴税、兵役から逃れる存在であった。その山の民を時の権力者は大量虐殺したのだという。その時に難を逃れて伊豆に逃げ延びた、その子孫が天武仁神講の一族なのだと。

それ以降も、日本の歴史を通して、戸籍におさまらない存在であった山の民、世間師、サンカと呼ばれる存在は権力者から見ると目障りな存在であり、明治維新の時にも、兵役、徴税、そして教育の義務からも逃れる存在であった山の民は迫害された。サンカを山窩という宛字をして広めたのは三角寛、それはサンカを犯罪者扱いした明治時代以降の官憲の思う壺であり、間違いであったとしている。

日本の歴史的な美術品や文化財が江戸末期から明治時代に海外に持ち出された。これもエピソードとして取り扱っている。ボストン美術館には仁徳天皇陵から持ち出されてとされる獣帯鏡とかん頭柄頭が所蔵されている。廃仏毀釈の時代には現在日本にある国宝の2倍の数の美術品が海外流出したとも言われている。

速水卓の祖父は天武仁神講の初代講主であった。その言葉は山の民の言葉である。「山に生き、山に死ぬる人々あり。これ山民なり。里に生き里に死ぬる人々あり、これ常民なり。山を降りて里に住まず、里に生きて山を忘れず、山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。これ一所不住、一畝不耕の浪民なり・・・これセケンシの始めなり・・・」世間師とは山の民のことである、という言葉である。

五木寛之が二度目に休筆した直後の作品であり、壮大な構想と縦横に織り成すエピソードは読む側に想像をたくましくさせる。歴史好きにはおすすめの本である。
風の王国 (新潮文庫)
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被差別部落一千年史 高橋 貞樹 ***

2011年10月04日 | 本の読後感
筆者19才の時の著作で1924年発刊、即発刊中止、その後再発刊、文庫には1992年発刊という本。被差別部落(特殊部落)が歴史上発生した経緯を辿り、1922年の水平社誕生に至る流れをたどる。前半で歴史、後半で水平運動について記述している。本書が有名にならなかったのは、筆者が転向したから、という。佐野学、鍋島貞親などと同様の転向であるが、本書を読む限り、大正末期、水平運動に携わる筆者の情熱がひしひしと伝わってくる。

日本種族の発祥、日本民族は複合した種族の集合であり、種族的反感がそこにはあったとする。稲作をもたらした天孫族は弥生文化の種族であるが、それ以前には日本列島には縄文文化が広がっていた。その中でも、蝦夷、北狄(高志)、熊襲などがいたとする説もあるが定かではない。仏教はその後の日本にもたらされ、種族に加えて宗教的な賤視観念を加えた。それを法制化したのが戦国時代から徳川時代、そして明治維新後は四民平等とされたが差別は残った。これを第一期、第二期、第三期と呼ぶ。

先史時代に原始共産制から氏族社会に移行する中で奴隷が生まれた。日本民族は、先住民族であったアイヌ、インドネシア、マレーから日本列島に到達した熊襲、隼人、北方から渡来した蒙古系人種で弥生式土器を残した天孫族、そして銅鐸民族と呼ばれる出雲族、秦族、苗族など諸説がある一種族の混合であった。古事記、日本書紀を残したのが天孫族であり、それ以外の種族で天孫族の奴隷となったものがいたことは想像できる。氏族社会では氏族に隷属した奴隷がいた。氏族財産の部曲、家族財産であった奴婢、そして工業奴隷であった雑戸である。

大化の改新の頃には良賤の別は決定的となり、法制上にも五色の賤民として定められた。天皇の陵番である陵戸、官庁の雑用をする官戸、家の子の役をする家人、公(く)奴婢、私奴婢、という五種類であった。この五種類のなかでも陵戸、官戸以外は公民権が剥奪され、家人は奴婢よりも資格として上で奴婢との間には婚姻はなかった。

村の起源には人為的と自然発生的なものがあり、血族、氏などによるものが自然発生的なもの。そして特定の部、屯田、屯倉の設置によるもの、帰化民によるもの、俘虜によって構成されたもの、という人為的な村があった。特殊部落発生の起源はこの人為的な村に起源を持つ。

山家、浮浪民、うかれびと、遊芸人、河原者、傀儡子などと呼ばれる人々がいた。山家は山の者、山人、散家から来ているという。律令制度の崩壊と荘園制度の発達から平安時代には浮浪民が発生、農耕に従事しない人びとは雑多な収入源を求めた。浮浪民をうかれびとと呼ぶこともあったが、女性は遊女、男性は狩猟や手工業に携わった。浮浪民で祝言(ほぎごと)を述べて食を乞い歩くものがあった、これをほかいびと、と呼ぶこともあったが、ことほぎから由来し、乞食をほいと、と呼ぶ由来でもある。遊芸人はこの仲間、万歳、春駒、越後獅子、人形回し、猿回し、祭文、ほめら、太神楽、浮かれ節、田楽、猿楽に至るまでこの仲間であり、歌舞伎役者もこの末裔であるという。河原者は室町時代に掃除人、植木屋、庭づくりなどから日傭取りという職業についていた。そのうち、皮革関係者が穢多と呼ばれ、非人が河原者と呼ばれるようになった。浮浪民には傀儡子がいた。人形遣いを傀儡子というが、この時代には狩猟者、太神楽、手品、人形遣いなども含まれた。犬神人、山番などは浮浪民の分派であった。

河原者の仲間に産所があり散所、算所とも書く。血の汚れを忌んだことから、お産をする小屋を産の小屋と呼んだ。その場所に住んだ賤民、浮浪民が差別の対象となった。算所は寺の境内の掃除、汚物の片付けであった。夙の者は上方に多く、守戸のことである。宿河原、夙川などに地名の名残があるが、河原者の一種であった。

京都は長く都であり、特殊部落の発祥の地でもあった。鴨川の河原で悲田院の仕事をしていたものが河原者になり穢多の名がつけられたと考えられる。放牧、葬送、餌取り、余部の失業者が零落して穢多の最初の形成をみたと筆者は記している。また、穢多とはエトリの転化であった、としている。このように形成時代の穢多の職業範囲は広かった。清める仕事、汚物を扱う仕事、死体を扱う仕事、出産にまつわる血を扱う仕事、獣を殺す仕事に携わる人達が穢多と呼ばれるようになった。

穢多は生まれながらの賤民であり、自由民になることは出来なかったが、非人は自由民になることもあった。自由民は本人の希望によって非人になることは可能であり、人別帳に記入して弾左衛門に届けを出す、それを江戸町奉行に届けた。不倫、不義の情死未遂なども非人になる原因となった。

明治4年に穢多28万人、非人2万3千人、革作8万人で合計38万人が穢多、非人の数であった。大正9年には87万人になり、都道府県別に見ると、兵庫が10万人、福岡が7万人と多く、大阪48000人、愛媛46000人と続いた。

水平運動では同情的運動は失敗、本質的な差別撤廃に向かわなければならない、という筆者の訴えである。長い間隷属と屈従、窮乏を強いられてきた被差別民の生活と民族を記述した本書は歴史書であると同時に、解放の書であった。人間の生き方を考えさせられる本である。
被差別部落一千年史 (岩波文庫)
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戦陣訓の呪縛 捕虜たちの太平洋戦争 ウルリック・ストラウス ****

2011年10月01日 | 本の読後感
アメリカ人が書いた日本人捕虜の気持ちと戦陣訓が果たした役割。80人以上の日本軍人にインタビューして得られた証言から「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す事なかれ」この言葉に縛られて一体どれほどの兵士たちが無駄に死んでいったのかという証言録からのドキュメンタリーである。

中国共産軍による分析で、日本軍が敵に投降しやすい状況は、①部隊から孤立するか負傷して絶望的な状況に置かれた場合、②道路建設中や補給作業中に急襲を受け素早く反撃の態勢を取れない場合、③作戦を遂行する際の軍規に注意を払うことができなくなった場合であるという。

ノモンハンの戦いではソ連軍捕虜よりも日本軍捕虜の方が数が多かった。日本軍部では捕虜になることについての確たる考えを固めていなかったが、これ以来、捕虜となるよりも死を選ぶことを尊ぶ指針、戦陣訓が時の陸軍大臣東条英機により策定された。真珠湾攻撃の1年前であったという。2の第八「名を惜しむ」では次の通り。「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残す事なかれ。」である。軍人勅諭以来の内容を再確認したようなものではあったが、法よりも社会的規範に高い価値を見出す日本人社会を実際に支配したのは戦陣訓であった。海軍には戦陣訓はないが、その価値観は共有されていた。

玉砕、という言葉は6世紀の中国の北斉の史書北斉書に由来する。「大丈夫たる者は寧ろ玉のまま砕けるべきであり。瓦のように平凡な人生を永らえてはいけない」が語源。カミカゼは13世紀の蒙古襲来の際に元の軍船を沈没させた大風である。日本人はこうしたターミノロジーでぼんやりとした言葉上のロマンティシズムにより死を覆い隠そうとしたのである。

こうした風潮は団体での投降を非常に難しくした。特に将校が自部隊を集団投降させることは非常に困難であった。

大岡昇平は京都帝国大学を卒業、フィリピン中部のミンドロ島に配置されていた。1944年、敵に囲まれた日本軍に所属していた大岡は敵状偵察を命じられた。日本軍よりはるかに大きな米国軍の存在を確認した大岡は、愚劣な作戦で命を落とすのはつまらないと考えた。逃げ惑うなかで自殺を覚悟した大岡は手榴弾で自爆を試みたが不発だった。気を失った大岡を起こしたのは米国兵、降服したのではなく捕捉されたと自分では思った。インテリの大岡にとってさえ戦陣訓の影響を受けたのである。

日本人捕虜たちは、米国側から捕虜に対する厚遇を受けると感謝の気持ちを覚え、尋問には素直に答える兵隊が多かったという。まともな食事を長い間とっていなかった兵隊たちにとって米軍のKレーション(野戦用携行食)やCレーション(缶詰型携行食)、チョコレートは夢のような食べ物であった。そしてなにより、人間的な取り扱いを受けたこと、これが一番のショックであったという。日本軍では人間扱いされなかったのである。米国兵と同じ食事を与えられ、病院では米国兵のとなりに寝かされた。そして看護婦が将校の扱いを受けていることにも驚かされたのである。その看護婦達も敵である日本兵にも米兵と同じように親切に接してくれにっこり笑いかけてさえくれたことに感激した日本兵は多かったという。

本当に馬鹿げた話だと思うが、これは実際に日本で70年前にあったことなのである。あらゆる日本人がこうした史実を知る必要がある。戦陣訓の呪縛―捕虜たちの太平洋戦争
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