意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

伊豆・小笠原弧の衝突ー海から生まれた神奈川 藤岡換太郎 ***

2011年08月30日 | 本の読後感
伊豆・小笠原弧は4000万年前に太平洋プレートの沈み込みによって海底火山列として出来始め、3400万年前には島弧として成長した。その後島弧は分裂し現在の九州、パラオ海陵と伊豆・小笠原弧になった。火山活動が活発だったのは3400万年前までと800万年前から現在までだという。結果として、南部フォッサマグナ、丹沢地塊、伊豆地塊の衝突が起きた。島弧ができたのは3400万年前から3100万年前までの800万年の間であった。深海底4000メートルが地上になったということは100万年で500マートルの火山岩の集積があったということ。

更級日記は藤原孝標の娘が1060年ころに自分の半生を回顧して書いた自伝、その冒頭には13才の頃家族と共に父の仕官地上総の国から京都に向かうため1020年9月22日に出発、足柄峠を超えて富士山の東麓から南麓を通過した。その時の様子を日記に記している。「さまことなる山のすがたの、紺青をぬりたらむように見えて、山の頂のすこし平らぎたるより、煙は立ち上る。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。」活火山だった富士山の姿は今の様子とは全く異なる異形の山だったことが分かる。降灰や鳴動については記述がなく、そうした激しい噴火ではなかったらしいが、高いレベルで活動していたことを伺わせる。富士山の噴火歴史であ大規模だったのが864年と1707年の噴火、平安時代の貞観6年、北西山腹で割れ目噴火があり青木ヶ原溶岩が流出、本栖湖、精進湖、西湖の三湖が形成された。青木ヶ原樹海はこの時の溶岩流の上にできた森林地帯である。江戸時代宝永4年の噴火は南東山腹での割れ目噴火、三島駅から現在見えるのが宝永の火口。この時の噴火では江戸でも行灯を使わなければ昼間も暗かったという。宝永噴火は同じ年に起きた東海地震(M8.4)の49日後に起きており、地震が引き金になったと言われている。その後300年、富士山の噴火はない。

歴史上の関東・伊豆の大きな地震をあげてみると、
818年 M7.5 関東諸国
878年 M7.4 相模、武蔵
1257年 M7.5 関東南部
1703年 M8.2 元禄関東地震
1855年 M7.0 安政江戸地震
1923年 M7.9 関東大震災
1924年 M7.3 丹沢
1930年 M7.3 北伊豆
1978年 M7.0 伊豆大島

南部フォッサマグナ地域では伊豆・小笠原弧と本州の衝突は1500万年前から始まり現在も進行中だという。200万年前ころに丹沢と伊豆の間にあった足柄の海は水深が1000-2000メートルあったのが火山岩石の堆積によって水深が600メートルより浅い海になった。130万年前になると更に浅くなり内湾となり陸上の扇状地となった。伊豆半島は2000万年前には本州から南に1500キロメートルほど隔たった海底火山であった。1100年前頃には1000キロメートルほどに近づき、海底の一部は浅くなってきた。1000万年前には伊豆・小笠原弧の北部で激しい地殻変動があり、後に伊豆半島になる場所が浅い海となった。100万年前には伊豆半島の北側が本州に接し50万年前頃には半島となった。20万年前頃には箱根火山以外の火山活動は停止、15万年前には新たに東伊豆火山群が活動を始めた。相模湾は2万年前には海面が現在より120メートル低下していて、東京湾から相模湾の陸棚は干上がった状態であった。縄文時代の15000年前ころには温暖化により海面が上昇、7000年前頃の貝塚は現在の海岸線よりずっと陸地内部にまで入り込んでいた。その後2000年前には海面低下があり現在の海岸線に近づいた、これを弥生海退という。

このように、伊豆半島と神奈川の地形は火山活動や海面上昇・下降などで大きく変遷し、現在の地形に至っている。富士山を北の端とする火山列は伊豆半島から伊豆七島、小笠原諸島、硫黄島まで連なり、東側の日本海溝に対して火山フロントを形成している。海底までを含んだ地図を見るとみごとに定間隔で火山が並んでいるのが分かる。東南海地震と富士山活動、相模トラフ活動が連動しているのがよく分かる。三陸沖地震が起きた原因と相模トラフ、日本海溝におけるプレートの沈み込みとの関連もあるに違いなく、1855年江戸安政地震が前年の東南海地震との関連で起きているという推測も、現在に活かす必要がある教訓ではないか。確かな予測は出来ずとも備えはできるはずである。伊豆・小笠原弧の衝突―海から生まれた神奈川 (有隣新書)
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大本襲撃 早瀬圭一 ****

2011年08月29日 | 本の読後感
大本教は京都綾部にある宗教団体、高橋和巳の小説「邪宗門」ではひのもと救霊会という名前でモデルにされたのでも有名。学生時代に読んだ悲の器とともに印象に残る。

本書は毎日新聞社記者であった筆者が取材を元に第二次大本教弾圧と呼ばれた昭和10年の警察による教団急襲とその後10年に及ぶ裁判の記録である。 教祖は出口なお、その末娘すみこが第二代教主、その夫が王仁三郎、教祖なおと王仁三郎は有名だが、その影で二人を支えた第二代教主こそ、大本教を支えた扇の要であった、として本書はすみこにフォーカスを当てている。

昭和9年、愛知県特高課長であった杭迫軍二は内務省保安課長相川から電話を受ける。京都警察の特高課長となり、大本教の活動を洗い、とりつぶせ、ただし絶対の機密事項である、という内容。命令は絶対であり、杭迫は京都に向かう。京都の警察内でも杭迫の活動は秘密、たった一人だけ杭迫の活動を手伝わせたのが高橋係長、右翼と宗教団体を担当していた。杭迫はその後、大津に別宅を借りて大本教の教義、教えなどを徹底的に調査、治安維持法に反する教えはないか、不敬罪などに該当しないかを洗い出す。宗教の教えの中には必ずや現在の世の中の不安や不満を解消する内容が含まれるもの、そして世の中の不全をただす世直しの時が来る、などとの予言があるものである。大本教にも当然そうした教えはあった。しかしそれが体制転覆を煽動するような内容であるかどうかが、治安維持法違反に問われるかどうかである。

出口すみこはなおの4女として末っ子で生まれた。出口政五郎がその父、大工であったが、気まぐれで気が向かなければ仕事はしない。家は貧乏、そして政五郎は病死、残された家族は苦労して暮らす。そしてそのなかで母のなおが神懸りになる。すみは奉公に出されて、子守、機織りなどでさんざん苦労をするが、持ち前の明るさで乗り切る。なおの前に王仁三郎が現れた時、すみこは16才、王仁三郎は27才、なおは62才であった。翌年、なおはすみこに王仁三郎と結婚するように伝えた。すみこは素直に従った。王仁三郎はその後大本教発展に寄与し、多くの信者を集めるようになった。軍部や右翼のメンバーの中にも大本教に入信するものが増え、軍部内部、右翼に国家転覆の動きを察知していた内務省は大本教弾圧に踏み切ったのである。

大本教が弾圧されたのは二度目、一度目はその十年以上前であった。そして昭和10年12月、島根に出かけていた王仁三郎が検挙されたと同時に、綾部に向かった警察官500名は総本部に入り、無抵抗の教主たちを検挙した。新聞、マスコミは警察のお先棒を担いで、大本教が国家転覆を企む邪宗教であると報道、大本教が持っていた土地は亀岡市、綾部市に格安で売却させられ、建物は強制撤去させられた。そして裁判である。国家転覆を企んでいたということを立証することは出来ず、不敬罪のみが成立、しかし、未決勾留期間で相殺されて即刻釈放されたのは昭和20年、日本が敗戦して体制が大きく変わったのと同時期であった。

国家への賠償請求をするかどうかを問われた王仁三郎は、「国家が大変な困窮にあるなかで、賠償請求するということは、税金から賠償されるということ、国民に負担がかかるような請求はしたくない」との意向で賠償請求はとりやめた。綾部では破壊された神殿の立て直し、宗教団体としての立て直しが行われた。王仁三郎は昭和23年死亡、すみこは昭和27年に死亡している。弁護団を務めたのは後の京都市長となる高山義三、高山は王仁三郎の人物の大きさに打たれたという。裁判に絡んで、上田正昭京大教授は「治安維持法は該当する要素がなくでっち上げでした。不敬罪や新聞紙法、出版法違反などは当時多くが引っ掛けられているわけで、大本教だけが特別ではなかった。津田左右吉でも出補案法違反で早稲田大学を追放されたが戦後文化勲章まで受けています。皮肉なものです。」

すみこが書いた書を見た北大路魯山人はその自由奔放な筆致に感銘を受けたという。王仁三郎とすみこの作品を集めた展覧会も東京で開催され、魯山人をはじめ辰野隆、谷川徹三、小山富士夫など魯山人にすみこの作品を紹介された多くの来場者があったという。現在、大本教は第五代教主出口紅が引き継いでいる。教団として大きく成長しているわけではないが消滅もせず継続している。生長の家や世界救世教は大本教信者だった谷口雅春や岡田茂吉によって創設された新宗教。金光教や天理教は大本教が始められたときに既に広まっていた宗教である。こうした新興宗教は人間関係を大切にして身の回りの幸せからそれを周囲にも広げていこう、ということから教えられるが、大本教は世界と宇宙の仕組みの説明から入る。仏教の仏壇をそのまま使って葬儀は仏教式でもそれを受け入れる宗教が多い中で、大本教の仏壇は神式、葬儀も大本式であり、信者になる敷居は低くはない。戦争中の弾圧は他の宗教が活動維持のために体制に妥協的になる中で、信念を変えなかった、それでも信者を維持している、ここに大本教の特徴があると筆者は指摘する。

「邪宗門」を読んで感じたのは反抗のエネルギーのようなものであったが、本書を読んだ感想は、体制勢力による弾圧を越える「柳に風」という王仁三郎とすみこの姿勢である。王仁三郎は「邪宗門」では国家権力と戦う宗教者という位置づけであるが、本書で紹介される王仁三郎は、裁判官であっても相手の知識や技量、能力に合わせて対応するという柔軟さであり、当意即妙の受け答えである。もう一度「邪宗門」、読みなおしてみよう。大本襲撃―出口すみとその時代
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古代国家はいつ成立したか 都出比呂志 ****

2011年08月27日 | 本の読後感
弥生時代から律令国家成立までの歴史を検証、どの時点で日本は国家として成立したのかを検証している。

弥生時代の時代区分に森岡秀人氏による区分を採用、次のように定義する。
弥生早期:BC1000年―BC800年
弥生前期:BC800年―BC400年
弥生中期:BC400年―BC50年
弥生後期:BC50年-AD180年
弥生終末期:AD180年―AD240年

弥生前期から中期の戦いを青銅器や祭器分布から読み解く。北部九州、瀬戸内、出雲、畿内、東海、関東という各地区の勢力があったことが分布から読み取れ、それぞれが政治的に独立していたという。その中で、出雲は北部九州と畿内の勢力に接近しキャスティングボードを握ろうとしていたと。鉄の供給ルートをめぐっても争いがあり、北部九州勢力は1世紀までは力を持っていたのが二世紀の倭国動乱をキッカケに畿内勢力が鉄の供給路を入手、鉄が全国的に広がると共に畿内勢力が力を得た。

弥生前期までは各地域で土地や水の分配でもめていたのが、弥生中期は各勢力が国としての政治制度整備が進み国同士の争いに拡大、弥生後期には西日本全体を巻き込んでの倭国動乱となった。そして卑弥呼が担ぎあげられて弥生終末期には卑弥呼の後を継いだ壱与が狗奴国を巻き込んで東日本まで波及した動乱になったという。

前方後円墳の発達の歴史を見ると円墳と方墳が変形して、辺の一部、円の一部が祭事のために一部が飛び出て変形、円の前に入り口ができて拡大変形し、前方後円墳、前方後方墳と発展してきたことが分かるという。

倭の五王は讃、珍、済、興、武であり、履中、反正、允恭、安康、雄略に相当する。朝鮮半島における倭の政治的覇権を中国王朝に認めさせるのが目的だったのだが、その大きな要因が鉄の資源確保だった。そしてその後の継体天皇時代にも朝鮮半島に進出、前方後方墳をも朝鮮半島にもたらしたという。倭の五王の最後の武時代には倭国内での大王の地位が強化されたことが、中国王朝への依頼事項で分かるという。雄略天皇は鉄だけではなく、馬具や武器、鎧などの高度な文化を積極的に輸入、中国と交渉して朝鮮南部地域の支配を認めさせた。国内では吉備勢力の抵抗を受けながら中央集権を進め国家体制を強化した時代だった。継体天皇の時代に磐井の乱が起きるが対外活動強化に伴う地方勢力への軍事負担強化への抵抗であった、という分析である。継体天皇自体がそれ以前の天皇家とは別の系統であることが地方からの中央勢力への抵抗のキッカケになったかもしれない。

これらの時代を分類すると倭国王に女王卑弥呼が立てられた3-4世紀には巨大古墳が建造され、北部九州から畿内、その後東北南部まで支配がおよんだ時代であった。5-6世紀は倭の五王の時代、国造や県主、部民制度が定められ、九州から東北中部までが支配地域となった。7-8世紀には大王から日本天皇へ移行した時期であり、太政官、二官八省が定められ、太宰府や鎮守府、防人や良民、賤民の区別が生まれた。租庸調、雑徭などの税制が確立、58カ国3島(薩摩から陸奥国)までを支配地域とした。地域国家、初期国家、そして統一国家という発展の経緯、どの時点でそれを国家というか、これを筆者はその世紀にちなんで753論争と呼んでいる。

古墳や青銅器などの分布により歴史を検証するというのは非常に意義あることであり、説得力がある。魏志倭人伝による記述と憶測だけではない分析に興味を持てる内容である。さらなる発掘物で新たな解釈も生まれるという話し、今後も楽しみである。
古代国家はいつ成立したか (岩波新書)

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頭がいい人、悪い人の話し方 樋口裕一 **

2011年08月26日 | 本の読後感
人間が他人からどのようにして評価されるかはその話し方次第、逆に言えば話し方一つで評価は変る、という。

典型的な事例を上げて、そういうタイプの人との付き合い方と自分がそのタイプである場合の対応方法を述べる。

―道徳的説教ばかりする
―他人の権威を笠に着る
―自分を権威付けようとする
―自分の価値観だけで全てを判断する
―根拠を言わず決め付ける
―ケチばかりつける
―少ない情報で決めつける
―具体例を言わず抽象的な難しい言葉を使う
―詭弁を弄して自説にこだわる
―矛盾に気づかない
―難解な事を言ってけむにまく
―知ったかぶりをする
こういうバカ上司がいると部下には相手にされない。

異性に好かれない典型例は、
―済んだことをいつまでも蒸し返す
―何でも勘ぐる
―感情に振り回される
―優柔不断ではっきりと言わない
―自分のことしか話さない
―相手が関心のないことを延々と話す
―低レベルの解釈をする
―何かにつけて目立とうとする

人望が得られないタイプは、
―自慢ばかりする
―強がりばかり言う
―人の話を聞かない
―おべっかばかりで自分の意見を言わない
―感情の起伏が激しい
―正論ばかりを振りかざす
―ありふれたことしか言わない
―グズグズとして何を言いたいのか分からない
―どんな話題でもいつもの話題に持っていく
―差別意識を口に出す

バカでも許せるタイプは、
―人の考えをすぐ鵜呑みにする
―感動癖がある
―善人になりたがる
―丁寧すぎる
―現状を正確に把握できない
―視野が狭い
―その場しのぎでしか反応しない
―綺麗事の理想論ばかり言う
―新聞などの知識を自分の意見のように話す
―バカで良いと居直る

実に面白い、と思うか、当たり前の話ばかりだと思うかは読み人次第。結果は自分に降り掛かってくる。
頭がいい人、悪い人の話し方 (PHP新書)

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お金の流れが変わった! 大前研一 ***

2011年08月25日 | 本の読後感
アメリカ経済が世界経済をリードする時代はリーマンショックを潮目にBRICsからVITAMIN(ベトナム、インドネシア、タイとトルコ、アルゼンチンと南アフリカ、メキシコ、イランとイラク、ナイジェリア)に移行した、という主張。

アメリカのそもそもの間違いは冷戦終了後国内のユダヤ人に配慮してイスラムとの対立に舵を切ったことであり、対立の先に救いはなく答えもない。ヨーロッパはイスラム勢力との対立が1000年以上ありこれ以上戦うのは生産的ではないという感覚があるが、ブッシュ父以降の大統領は誰にも頼まれていないのに消耗し尽くしている。世界の警察官のイメージから脱し切れないままにリーマンショックを経験して、失業率が高止まり、量的緩和策も限界に来ている。

G2の一方の国中国でも一党独裁の矛盾に国民が気づき始めている。毛沢東最大の貢献は共産党による土地支配だった。農民から召し上げた土地を商業地に転用、この差益で繁栄してきたのが近年の中国経済であるという。土地バブルは政府の隠れた収入を増加させる仕組みがある限りは政府は痛みを感じない。中国共産党は日本の植民地支配にピリオッドを打たせた功績を人民にアピールしてきたが、日本を追い出したのはアメリカであり、山奥にいた共産党は何もしなかった、という意見が出始めた。中国政府はイスラムとの対立を避け、イスラム勢力が持つ資源確保に向かっている。共産党が怖いのは不満を感じた人民の怒りが政府に向くことである。

世界中にある余剰資金は8000兆円、そのうち4000兆円程度がホームレスマネーとなり国境を超えて投機マネーとして世界をさまよっているのが現状。少子化、高齢化がすすみ経済発展が見込めない先進国には向かわず、VITAMIN諸国にこれらのホームレスマネーが流れこむのである。日本は外国資本を締めだすのではなく、投資を呼び込む方向に転換できなければ経済の方向は縮小でしかない。外国から見て魅力的な企業の例を上げれば、三菱自動車、パイオニア、JVC・ケンウッドという企業、技術力があり世界でそれが通用するのに負け組になっている。

日本企業が行っているビジネスモデルの中で、輸出可能で価値が高いものはたくさんある。なかでもJR東日本の駅ビルショッピングセンターとSUICAのパッケージは価値が高い。鉄道は儲からない、のではなく、パッケージにすることで大きな利益を産む。日本独特の私鉄モデルもある。海外にはこのように多くの私鉄が大都市のインフラを担っている例はない。私鉄は都市にスラムを作らないことにも貢献している。私鉄があることで半径50キロの範囲に人々を分散、中間所得者層は夜間は郊外に帰るので周辺にも学校や病院が建つ。こうした私鉄モデルは海外にも輸出可能ではないかと言う。鉄道をシステムとしてパッケージにして販売することが肝要である。

東京都内の容積率制限を緩和することで建て替え需要が発生し経済が潤うとも提案。東京山手線内側の平均が2.6階建て、東京全体では1.4階建てであり、パリの6階、NYCの14階に比較して圧倒的に低く、江戸時代を引きずっている。日照権という魔物に眼をつぶれば大都市での発展余地はまだまだあると指摘。さらに湾岸地区を近代都市にふさわしいインフラ整備を行う。上下水道、電気通信の地下埋設、立体交差、災害対応、液状化対応を行い湾岸地域に100万人の新たな地域を創出できるという。

経済施策は行き詰まっているように見えるが、少し目先を変えればまだまだ余地はある、という具体的な提案である。
お金の流れが変わった! (PHP新書)

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地名で読む京の町(上) 洛中・洛西・洛外編 森谷尅久 ***

2011年08月24日 | 本の読後感
やましろ地方には縄文時代から古墳時代にかけて発展、外国を含めて多くの人達が集まってきた。賀茂氏、出雲氏、小野氏、秦氏、土師氏、八坂氏、百済王氏、狛(高麗)氏などである。渡来系は小野、秦、土師、八坂、百済王、高麗であり、先進的な技術を携えてこの地に来た。特に秦氏は桂川地域、白川流域にあり開発に勤しんだ。絹織物をうず高く積んだことから、太秦と書いてうずまさと呼んだ。太秦にある広隆寺は推古天皇が603年に造営、818年、1150年にも全焼したがその後再建、本尊の半跏思惟像だけは住職が持ち出し消失を免れてきたという。蚕の社には三本柱の鳥居三柱鳥居があり三方から拝するようになっている。

平安時代に開拓された京の町は右京と左京に分けられたが、右京は湿地帯でありその後廃れた。1177年と1178年の大火事は太郎焼亡、次郎焼亡と呼ばれ、平安時代以降建設された大極殿、小安殿、などすべてが灰燼に帰した。当時の政府に再建の余力はなく御所は衰退していった。頼朝は鎌倉に幕府を置きながら、京都には六波羅探題を設置、京都から西の監視を行った。王朝政権も令外の官、検非違使を設置し治安維持に務めた。京の町は武家と律令政権の2つにより運営されていた。南北朝内乱で足利尊氏が勢力を握ると京都に幕府を開き征夷大将軍となったことにより、武家が完全に京都を制圧した。ここから政治都市としての京都文化が開花する。足利義満が造営した花の御所、金閣寺、義政が銀閣を建造したのである。

京都には七口の洛外への出口がある。その一つが大原口があった出町、もう一つは山中越えで北白川から坂本に抜ける荒神口。今出川から鴨川沿いに足を延ばすと出雲路という地名もある。鞍馬口も鞍馬へ向かう街道の出入口であった。

今では人で賑わう新京極、ここは寺町であった。幕末から明治維新で東京に首都が移り、京都の衰退を懸念した京都府参事槇村正直が寺院の境内を買収して一坪50銭という格安の価格で民間に売りだし、繁華街とする促進策を施した。平安時代の東京極にちなんで新京極と名付けた。ここが繁華街となるのは明治10年、芝居、浄瑠璃、寄席、見世物、茶店、料理屋などが軒を連ねるようになり、明治30年には活動写真の試写会が行われ、大阪千日前、東京浅草とともに三大繁華街と呼ばれるようになった。

中京には鉾町がいくつかある。長刀鉾町、役行者町、鯉山町、橋の弁慶町、山伏山町、占出山町、天神山町、菊水鉾町、函谷鉾町、月鉾町、鶏鉾町、白楽天町、郭巨山町、船鉾町、岩戸山町、蟷螂山町、傘鉾町、芦刈山町、木賊山町、太子山町である。これらは応仁の乱以前から祇園祭に山鉾を出してきた町。函谷鉾は斉の孟嘗君が鶏の鳴く真似をさせて函谷関を開かせたという故事にちなんで命名された。岩戸山は天岩戸神話から、橋弁慶山は五條橋での弁慶と牛若丸のエピソードから命名されている。室町時代の茶人武野紹鴎の手洗いの井戸、菊水の井から名付けられたのが菊水鉾、京都の町人たちは歴史と教養を重んじたのである。山鉾町の中心は室町と新町通と四条通りの交差点、四条室町は鉾の辻と呼ばれている。

宇治は応神天皇の皇子宇遅能和紀郎子(莵道稚郎子)が桐原日桁宮を営んだのが始まり、彼を祭神とするのが宇治上神社、平安後期の建築でその内殿は神社建築では最古の遺構とされる。名茶は宇治の特産品であるが、栂尾高山寺の明恵上人が宇治に茶の栽培を伝えたとされる。万福寺の前には明恵を顕彰する駒蹄影園跡の石碑があるというが、そういえば東宇治中学校の校歌に「駒の蹄影、たゆーるみなく♫」という歌詞があったのを思い出す。
地名で読む京の町 上 洛中・洛西・洛外編 (PHP新書)

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江戸奇人伝 氏家幹人 ***

2011年08月23日 | 本の読後感
あとがきでも書かれているように本書は川路聖謨の日記、手紙から読み取った、川路聖謨の生涯を彩る人間模様、という内容である。

川路聖謨の妻おさと、15才で親元を離れ、紀伊徳川家の姫君に8年仕えた。その後35才で川路聖謨に嫁ぎ、先妻がもうけた二男二女と30年間聖謨の面倒を見た。聖謨が奈良奉行時代につけた日記が寧府記事、1847年3月18日の記事は妻の病気のこと。妻は美人なるがゆえに、ビイドロのように壊れやすい、などと記述。1853年にロシアのプチャーチンと交渉する際に、我妻は美人であるがゆえに江戸に留守番させているのが気になって仕方がない、などとプチャーチンに言って、それを聞いたプチャーチンは大喜び、左衛門尉聖謨の名前は現地でも有名になったという。おさとさんは文才にも優れ、彼女の文章や歌を読んだ聖謨の友人たちから土佐日記に源氏物語を加えたる如し、と褒められたという。

さらにおさとは負けず嫌いだったようで、知識と文才では誰にも負けないと自負していた。佐久間象山と夫との文通があるころ、佐久間象山の絵心を知ったおさとは、佐久間象山先生は凡人ではないことは知っていたが、人には誰にも目も鼻もある。五尺の体なれど口惜しきナリ、と感想を述べたという。

実は川路聖謨は4回結婚をしている。19才の時に迎えたえつは程なく病死、21才で再婚したやすとは二男二女をもうけたが12年で破局、翌年娶った妻とも1年半で離婚、そして4人目がおさとであった。二回目の結婚をしたやすは気が強かったらしく、才気煥発過ぎて夫の出世につれて増長、離婚に至った。3人目はそれに懲りて性格が温厚な女性を選んだが家政ができずすぐ見限った。川路家の跡取りだった息子を22才で失った聖謨は孫の太郎に夢をかけた。そして結婚の難しさを説いたという。

もう一人の実の息子市三郎は出来が悪かった。そのため度々説教をしたという。生活態度に対しての厳格さを示す逸話。槍の稽古にでかけようとする息子に「雨の日に長合羽は致し方がないが白足袋はいかん」と叱責。今の感覚では分からないが、そういえば坂の上の雲で秋山好古が弟の真之を同じように叱責する場面があった。学校に行こうとする真之が母にもらった足袋を履いているのを見て好古、「そんなものは脱いで裸足でいけ」と雪が積もる中を真之が東京大学に登校するのをみて叱責していた。こうした質素倹約の教え、というのがなくなったのはいつからであろうか。
江戸奇人伝―旗本・川路家の人びと (平凡社新書)

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日本語の真実 タミル語で記紀、万葉集を読み解く 田中孝顕 ****

2011年08月18日 | 本の読後感
日本語学者の大野晋が1980年に提唱したのが「日本語タミル語起源説」、音韻、語彙、文法が三拍子揃って対応している、という主張である。比較言語学界では相手にされていないというこの説、この本では古事記、日本書紀、万葉集で今まではよく解釈できなかったこと、解釈がわかれた記述をタミル語起源で考えればどうなるかと、その実証を行ったもの、とても興味深い本である。

タミル語を含むトラヴィタ語が話されている地域はインド西部で、現在タミル語が話されているのはインド南部とセイロン島北部である。タミル語を話すタミル人は現在1億人いるという。日本語はタミル語を見よう見まねで話をしたカタコト語であるピジン語でありこれをクレオール言語と呼ぶ。タミル語にある母音は日本語と同じaiueo、子音ではny、舌音のn、そしてnがあるが日本語ではすべてnに収斂されている。タミル語は膠着語、語順も日本語と同じである。

国造はなぜ「くにのみやつこ」と読むのか。これは「国の御奴子」だと筆者は言う。ヤッコとはタミル語では奴隷のように働くもの、日本ではこれは臣(やっこ)となり、中世以降賤民視され「穢多」と呼ばれた。国造は大和王朝たる「国」の使用人であり、大和国のために働く人であった。

敏捷に空を飛ぶ鳥ではない動物は「モマ」、これはタミル語の飛ぶ、蝙蝠から由来するという。日本語で小動物を指す「子」をつけて「モマのグワ」と呼ばれ、モモンガーとなった。ムササビはモモンガーより大きく、遠くまで飛ぶリス科の哺乳類。モマの手のように小さいということから紅葉(古くはモミチ)、カエデは「蛙手」に由来するのと同様である。

稲荷とキツネと油揚げはなぜセットになっているのか。タミル語でキツネのことを「イナリ」と言う。元明天皇の頃、秦伊呂具(ハタノイログ)という長者がおり、餅を的にして弓の稽古をした。矢が的にあたり、的であった餅は白い鳥になり山の峰に降り立つと、そこに稲が成り生えた。これがイナリの由来。白い、といのは輝く、という意味に解釈でき、餅は太陽を象徴、照り輝く太陽を象徴する。狛犬(こまいぬ)はタミル語の「コマ(神)」であり神の犬、稲荷神社ではコマ(神)をキツネとした。油揚げはタミル語の油がキツネを意味する単語と類似したいるためと解釈する。

ホトを箸で突いて死ぬ、という説話が古事記、日本書紀にある。ホトとは女陰であり、これでは恐ろしい説話である。これもタミル語で考えると、体を水に沈めて死ぬ、と解釈できるという。つまり身投げである。

常磐とかいて「トキワ」と読むのは、常陸を「ヒタチ」と考えたから。日立とはタミル語の東に由来、アズマは日が昇る場所、日立を常(ひた)地とした。タミル語でヒタチの同義語トキワに常盤というじをあて字したことから始まったのだという。

姫百合、鬼百合、という植物名があるが、いずれも姫、鬼ではなく、タミル語の小さいを意味するフィネが転じてヒメは小さいものを意味し、大きいというヲニが転じてオニに置き換わった。ヒネモスは一日中という意味だが、タミル語でヒメムスはぎっしりと詰まった状態、ヨモスガラは一晩中であるが、スカラは全部という意味のタミル語、昼はヒネモス夜はヨモスガラはタミル語だったのだ。

マナはタミル語では美しい、愛娘、愛弟子などに残る。真名井は美しい井戸、丹後の国風土記に出てくる丹波国に豊受大神が降臨した時に掘った井戸。この水でこの地を灌漑して稲を植えると秋には沢山の実がなったといい、「あなにえし、にうへやしこたは」と言ったという。これはタミル語起源で考えると、実に愉快だ、稲を植えて、大いなる繁栄が証明された、と解釈できる。

水辺で棚機女(タナバタツメ)という巫女が神の降臨を待つ、という農村の禊行事があった。この女性を神に捧げる、というシナの宮廷行事が習合して七夕が始まった。七夕をたなばたと読むのはここから来ている。ねぷた祭りのネプタは神への捧げ物、というタミル語と対応する。最初はニペタ祭りと言っていたのがネプタ、ネブタと変化したという。祭りの最後に船や神輿を川に流すのは、こうしたイケニエの風習が象徴化されているという。ワッショイという掛け声も奉納という意味のタミル語、ワッチョイだという。

日本語と朝鮮語で類似している語がある場合、漢語を除くとほとんどがタミル語由来であり、タミル語は朝鮮半島南部にも流入した。朝鮮半島にはアルタイ語系統も入り漢語も取り入れられて混合したのが日本語である。日本から朝鮮半島に流出した文化に前方後円古墳がある。しかし日韓の学会はこの事実に触れたがらないという。

スメラミコトのスメラとは稲妻という意味になるという。大野晋は「シュメール」つまり須弥山であると主張したが、筆者はこれには同意しない。稲妻を意味する単語が日本語のスメルに対応するからだと。雷電は稲作と関係し、タミル語では王を意味するという。クワバラというのは桑原と思っている人が多いが、これは後世の付会であるという。タミル語のカーバラ、怖い怖いという意味でクワバラクワバラとなったというのである。

紀伊と出雲には同一地名や神社名が多いのは、出雲の海部族が紀伊からの居住者であることを意味するという。熊野、美保(三穂)、日御碕、須佐神社、熊野大社、速玉神社など紀伊のほうが神社としての社格が高いからだという。

聖は「日知り」、タミル語では雷電と対応する。もとは徳が高い人であり仏教伝来の後に大王、そして僧侶を指すようになった。

タミル語のことを何も知らない読者としては、「そうなんだ」と思って読むしかないような本ではあるが、大野晋も孤独ではないんだ、というエールのような本である。なにより邪馬台国の場所、卑弥呼は誰か、などの解釈もできると言う所が面白い。古代史に関心があれば一読の価値はある。
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運命の息子 ジェフリー・アーチャー(下) ***

2011年08月17日 | 本の読後感
フレッチャーはその後、ハリーゲイツ上院議員の後継者としてコネティカットから民主党から立候補、当選する。このころナットは銀行家として企業買収に取り組んでいるが、上院議員に立候補して戦うフレッチャーを知り、レストランではワインのボトルを差し入れたりして応援する。二人が直接出会う初めての場面である。

その後、紆余曲折があり、二人はコネティカット週知事候補となり民主共和に別れて戦う。その共和党予備選でナットのライバルラルフ・エリオットがもう一人の候補者となる。ラルフは公開討論会で、スー・リンの過去を暴いて、スーの母が母国で売春婦だったとこを公開の場で問題とする。それを見ていたナットとスーの息子は自殺してしまう。ナットは激怒、ラルフの自宅に押しかけ、ラルフを殴る。ラルフはピストルで応じる。ナットがラルフの自宅を出た時に銃声がする。ラルフの妻レベッカがラルフを撃ち殺してしまったのだが、警察はナットに殺人の疑いをかける。

ナットは集知事選の候補者でありながら容疑者となり、裁判の被告となる。ナットは弁護士としてもう一人の州知事候補であるフレッチャーに依頼する。フレッチャーはそれを受け、裁判で勝利を獲得する。集知事選は激しい戦いになるが、接戦であった。その時、フレッチャーは交通事故で瀕死の重傷を負う。輸血が必要となるが、血液型はABマイナスという珍しい血液型、その時ナットは輸血を申し出る。医師は二人のDNAを検査して、全く一致することを知り二人に告げる。二人は二卵性双生児(Dizygotic twins)であると。二人はその原因を推測し、それがもたらすそれぞれの家族への影響を考え、他には漏らさないことを決めて、関係書類をシュレッダーにかける。州知事選の投票結果はなんと同数で決着はコイントスとなる。”head or tail?”

ナットとフレッチャーの年代記であるが、それぞれのストーリーが交互に、切れ切れに書かれていて、展開も早いので、読んでいる側としては時々キャッチアップできないこともある。次々に起きる事件もドラマチックであり、読者を飽きさせないが、ちょっと派手すぎるきらいがある。シドニー・シェルダンの小説に通じるものがある。

小説の中では度々シェイクスピアの台詞、俗語、フランス語などが登場する。「名前に何があるというの?」、「ユーコン(コネティカット大学)」、”Menage Trois(三角関係)”、”Sad Sacks(のろまども:ジョージ・ベイカーの漫画より)”、そして章立て自体が旧約聖書の目次に沿っている。

一気に読めてしまう痛快なお話しである。
運命の息子〈下〉 (新潮文庫)


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運命の息子 ジェフリー・アーチャー(上) ***

2011年08月16日 | 本の読後感
ナット・カートライトとフレッチャー・ダベンポート、この二人は双子としてこの世にうまれてきたが、産院での別の夫婦の死産とその家に仕えていた乳母の働きにより二人の姉弟は別の家族として育ち生きていった。そのことを本人たちが知るのは43歳になってからである。

二人はコネティカットに育つ、そしてホッチキス校とタフト校という2つの名門校に進む。カートライト夫妻は息子の進学に関して次のように議論する。「私は息子にパトリシアン(貴族)よりもイガリテリアン(平等主義者)になって欲しいのよ」と妻、「なぜその2つがインコンパチブル(両立)しないんだ」と夫、それを聞いていたナットは辞書を引いて両親の議論を知る。そして両親に言う。「モビーディックは巨大なパトリシアン、善良なコネティカットの人々は巨大な鯨をそうだと考えたのさ。」

二人はタフト校とホッチキス校それぞれで一生の友人となるトムとジミーと出会う。そしてフレッチャーは初めてジミーの家を訪問した時にその妹(キッドシスター)のアニーと恋におちて、結局二人は結婚することに生る。そしてジミーの父で上院議員のハリーゲイツと出会う。ハリーはフレッチャーに天性の政治家を感じ、自分の息子よりフレッチャーを自分の政治後継者とすることを決めることになる。ナットはトムという親友、そしてラルフ・エリオットという一生ライバルとなる人間と出会う。ラルフはこのごの人生でもナットの前に度々登場しナットの邪魔をすることになる。小説的には完全な悪役、ここまで徹底した悪役は日本小説では珍しい。

この小説は現実のアメリカの歴史と共に進む。ナットにその歴史が直接的に覆いかぶさってきたのはベトナム戦争時の徴兵、大学生のナットに来た召集令状であった。大学生であったナットには召集猶予を申請することができたが召集に応じて訓練に参加することにした。新兵訓練でナットは優秀な成績を示し、上官は幹部候補生として遇すること、そして前線には送り込まないことを取り計らう。後方部隊の物品調達担当中尉となってベトナムに赴任していたナットはある時、前線からの救難信号を受信、自らもヘリコプターに乗って前線に救助に向かい、ヘリコプターは撃ち落とされてしまう。しかし、傷病兵を連れて徒歩でサイゴンまでの211マイルを帰還、名誉勲章を授与される。

招集されなかったフレッチャーは新聞でベトナム戦争の記事を読む、そして兵役免除を申請せず前線で活躍して名誉勲章を得たカートライト中尉の記事を読み、自分に召集令状が来たら自分はどんな決断を下したかを考えてみる。

ナットは上官の計らいで大尉となり、大学に復学して給与を得ながら卒業した後にも軍人としての年金を受け取ることができる権利を得る。大学に戻ったナットは同級生たちとの経験の差、精神的な自分の成長を感じる。その時であったスー・リンという韓国人女性と恋に落ちて結婚することになる。スー・リンは優秀なコンピュータ技師になり、その後大学で最年少准教授となる。

フレッチャーもナットもその後大学を卒業、フレッチャーは法律事務所、ナットは銀行で働くことになる。
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歴史家の見た日本文化 家永三郎 **

2011年08月15日 | 本の読後感
歴史を文化の幾つかの視点から見た解説書。

古代における天皇の地位は終始同一系統の血統で世襲されてきたとは考えられないと筆者は言う。選挙のような制度があったという推測である。選挙と言っても支配階級による協議のようなもので、魏志倭人伝に日本での内乱の後諸勢力がともに卑弥呼を立てて女王とした事実が伝えられており、衆議に基づいて君主の擁立される古代的選挙君主制度の存在した可能性を指摘する。武烈天皇の死後子孫がなく、大伴金村が他の有力者と協議して遠方から継体天皇を迎え立てたという記紀の記述からは、ヤマト国家でも同様の君主選定が行われたことを裏書するという。また、継体天皇が応神天皇の子孫であるとする根拠は薄く、武烈以前の王朝と継体天皇以降の王朝に断絶があると指摘、多くの歴史かも指摘する点である。

日本における性器を公然の場に公開する歴史は日本固有の文化であるという。日本各地に現在も散見される事実があり、天鈿女命の天の岩戸開きの歌舞においても女陰を公示して歌舞したことが伝えられているが、この物語は鎮魂儀式を素材にした神話であり、祭祀に老いて女性が参列者の前で女陰を露出することもしばしば行われたに違いないと推測する。秋田県の地方では田植えが終わった後に雇人の男女を交合させて農業の神を刺激し稲作を祈る習慣があったという。性行為さえも公示されていたのが日本特有の文化であるというのである。このような性行為の公然性は妻問婚から嫁入り婚への転移に伴って薄れ、儒教的な道徳が正統的思想になってきたことにより社会の表面からは一掃された。しかし、家庭制度が人間の自然の性情を抑圧してしまうことはなく、かえって性の隠蔽が表向きの道徳とされた時代に浮世絵の一流の画家たちがこぞって秘戯画を描いていた。ポツダム宣言語は嫁入り婚から寄りあい婚に移行、性に関する観念も大きく変わった。筆者は後記でチャタレイ裁判を例にとって、判決を批判、「家庭の団欒においてはもちろん世間の集会などで朗読を憚るものでありワイセツである」とした判決理由に対して、「冗談ではない、世の中の発刊物のすべてが家庭の団欒などで朗読するものなどではないのだ」と指摘、出版物にはそれぞれ目的があるのだという。

平安朝の大和絵で最も多く描かれた題材は四季絵。梅、霞、鶯、雉、雁、桃、桜、山吹、杜若、藤、菖蒲、蓮、卯の花、常夏、時鳥、五月雨、滝、月、露、鹿、菊、霧、紅葉、時雨、枯野、雪というような動植物・天体・気象などの自然の風物。若菜摘、小松引き、稲荷詣、賀茂祭、水無月祓、夏神楽、納涼、駒迎、小鷹狩り、臨時の祭、野行幸、大鷹狩り、仏名などの人間の行事もあった。そして人物と自然が組み合わさって描かれることで人生の周辺部として自然が描かれた。外国の絵画は自然は人物の背景として描かれるか、自然が描かれる中に人物が点景として存在しているのと大きく異なるという。これは四季絵が月次絵とされる特徴である。大和絵と同時代の物語、和歌、後世の連歌、俳諧でも自然と人事とが分離しがたい融溶をなしているのが特徴であるとする。

アメリカの文化人類学者ベネディクトは「菊と刀」で「恥を基調とする文化」と「罪を基調とする文化」を文化の二大類型とした時に日本文化は前者であると指摘、日本的善悪観を「他人の批評に対する反応」が道徳的行為の基準となっているとした。筆者もこれに同意、しかし、親鸞や道元により日本的価値観から反逆する哲学が追求されたが、それが有力な思想的系列として歴史上の伝統になったことはなかった、と解説する。

第二部では筆者は江戸時代に読まれた川柳から庶民意識を紹介している。家族生活、親子、嫁と姑、階級観、政治意識、経済観念、都鄙意識、儒教観、宗教観、などである。

家永三郎の一面を知った。
歴史家のみた日本文化
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犬は「びよ」と鳴いていた 山口仲美 ***

2011年08月14日 | 本の読後感
日本語は擬音語、擬態語が面白い、というサブタイトルが付いている。黒川伊保子さんの「怪獣のなはなぜガギグゲゴが多いのか」に続けて読んだのでより一層面白い。

擬態語はオノマトペとも言われるが、三島由紀夫や森鴎外は品がないとして使わなかった。北原白秋、草野心平、宮沢賢治は擬態語・擬音語が大好きで大いに作品に取り入れている。日本語には英語の3倍の1200種類の擬音語・擬態語があると言われる。紫式部は源氏物語で登場人物ごとに擬態語を決めていた。紫の上には「あざあざ」色彩が鮮明で目の覚めるような派手さを意味する。「けざけざ」はすっきりと際立つ感じの美しさを示しているが玉鬘に使われる。「おぼおぼ」はぼんやりとしている意味で浮舟に使われているという。黒髪の様子「つやつや」は髪自体の美しさを表現、繕わなくても整い輝く天性の美。「ハラハラ」は衣服や枕、顔という他の物体が介在した二次的な美しさ、「ゆらゆら」は子供の美しい髪を形容している。

筆者は擬態語・擬音語を幾つかのパターンに分類した。

A(ふ、ぶ、き、さ)
Aっ(きっ、さっ、ぴっ)
Aん(かん、がん、ぴん)
Aー(さー、すー、ぐー)
AA(だだ、へへ、ふふ)
AっA(かっか、さっさ、ぱっぱ)
AっAっ(くっくっ、ぴっぴっ)
AんAん(くんくん、つんつん、ぱんぱん)
A-A-(かーかー、ぐーぐー、ぴーぴー)
AB(どさ、どき、どて)
ABっ(どきっ、ぼかっ、むかっ)
ABん(くすん、ちくん、ぱりん)
ABり(きらり、ちくり、ぺろり)
AっBり(さっくり、ざっくり、ぴっかり)
AんBり(こんもり、こんがり、ぼんやり)
ABAB(きらきら、しこしこ、ぴかぴか)
ABB(うふふ、ひゅるる、ずおお)

これらには歴史があり、奈良時代から生き残る形がA、AA、AB、ABAB、ABB、平安時代からではAん、AんAん、ABん、ABり、鎌倉時代からではAっ、A-A-、AんBりなどだという。なかでもABABが一番の日本語代表。平安時代の今昔物語集にでてくる擬態語の53%は現代まで継承されているという。

この日本人にはよくわかる擬音語は外国人には一番わかりにくい日本語なんだという。にこにこ、にこっ、にっこり、にたにた、にやにやなどの違いは日本人なら誰でも分かるのに日本語を学ぶ外国人には最難関語だと。あっさりとさっぱり、物や人の性質に使うのがあっさり、さっぱりはそれらから受け取る私たちの気持ちを表す。冷たいジュースを飲んでさっぱりする、とは言えてもあっさりした、とは言えない。

犬はわんわんだと思っているが、江戸時代にはベウ、と鳴いていた。ねこは源氏物語ではねうねう、寝う寝う、に引っ掛けている。ねずみはチュウで「忠」につなげて主君の仇を打つ漫画になっている。雄牛はモウで雌牛がメウ、面白いのはツクツクボウシが「つくづく欲しい」「くつくつほーし」「おいしつくつく」「美し良し」というのもあったらしい。

日本語の脇役としての擬態語・擬音語、うまく使えばいい。
犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い (光文社新書)
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怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか 黒川伊保子 ***

2011年08月13日 | 本の読後感
「男性脳と女性脳」という本を読んでこの筆者を知った。元人工知能を研究するエンジニアでただのコピーライターが好き勝手に唱えている説ではないと思える。

筆者の名前は「イホコ」、この音を分析すると、「先頭母音のイは相手の中に飛び込むスペクトル、ホは温かさと包容力、最後のコは賢さ、可愛らしさがあり全体としてほっこりとしたカジュアルさがあるという。これがシホコなら切ない感じがあり華奢なイメージで手を貸してあげたくなるという。ミホコとなると女らしさが増すが現実感も増えて、チホコにすると華があってちゃっかりしたイメージ、リホコになると知性派で先生と呼ばれる職業にも似合う。田中真紀子がマユコ、マサコ、マミコ、マユコだったらどうだろう。磯野貴理子がキミコ、キヨコだったら、などと考えるとイメージが違うことがわかる。

Sは爽やかさを感じ、Tには確かさを、Hは開放感、Nには慰撫され、Kには鼓舞される。このように言葉の音から潜在脳に浮かぶイメージをサブリミナルインプレッションと言える力を人に与えているという。認知科学ではこれを「クオリア」と呼ばれる。言語発生から東西への拡大の道のりはインド・ヨーロッパ祖語から発し、サンスクリットなどの古代インド語、ペルシャ語、ラテン語、ギリシャ語、ゲルマン語、スラブ語、イタリア語、フランス語、スペイン語、英語などと西へ広がり、東へは梵語、漢語を経て日本語へと広がってきたという。これら約300にも登る言語に共通するのが擬態語・擬音語(オノマトペ)のクオリアである、というのが筆者の着眼点。

B音のオノマトペはボンボン、ビンビンなどの膨張、バンバン、バリバリなどの力強さ、ボサボサ、ボウボウなどの増大、バラバラ、ベラベラなどの分散、ベタベタ、ベトベトなどの粘性であり、膨張し破裂するB音のイメージである。S音は滑りがよくサラサラ、固いK音ではカラカラ、とろみのあるT音ではタラタラなどとなる。

こうした音の感性を視覚化することを筆者は試みているが、世界にはこうした研究がないといい、その理由は日本語のみが母音語であるからだという。日本語は5つの母音と15の子音の二次元一覧表で50音+濁音が表される。子音中心の英語などでは言葉の音声は構造化できないリニアな音声並びであると見ているので、何千種類ものパターン認識を行って音声を聞き分けている。日本人は母音5音を軸に2次元構造で見ているので、音声は母音を区切りにした拍ごとに認識し、拍ごとの読み表記文字であるかな文字をもっている。

商品名では日本でもCの文字を使うことが多い、音としてはKもしくはSになるが、曲面、回転をイメージさせる製品ではKの音にKではなくC文字を使うことが多い。車の名前に多いのがカローラ、コロナ、カリーナ、クラウン、カムリなどであり、セドリック、シビックもCである。外国でもカマロ、コルベット、シボレー、シトロエンなど数多い。ゲルマン語系ではボルボ、ベンツ、ポルシェなどブレークスルー系のB音、P音も多い。KTPなどの清音にはH系の音があり、ドライ感、温感、空気感などリラックス、未来などのイメージを持つ。N系も清音であるが、密着、粘性、癒し、ナイーブ、私的な感じを表す。

N音を名前先頭にもつ女性は恋人・女房には適するがキャリアウーマンには徹することができない。T音、K音が名前にあるならそちらで呼んでもらえば仕事では得することが多い。M音は柔らかさ、丸さ、母性、満ち足りた思いがある。R音には弾性、理知的、哲学的なリズム感を持つ。

一方BGDZの濁音は膨張、放出、振動の発音構造であり、BはHの濁音とされるが、Pの濁音と考えたほうが現代日本語の発音構造からは妥当であるという。KTPの清音が男性の生殖行為における意識を刺激するのに対し、BGDZの濁音は力強さと膨張感があり、オトコ子供の好きな音、ジャンプ、マガジン、サンデー、モーニングとブレークスルー系と呼ばれるPKT、BGDZ系の音が多い。昔からあるのがゴジラ、ガメラ、ピグモン、ガンダム、デビルマン。ガンダムの話の中にはガンタンク、ガンキャノン、ザク、ドム、ジムゲルググなどが登場する。

S音は思春期から第一子妊娠までの女性脳を癒す音。親の干渉を疎ましがる時期にはKT系を好む。12歳まではBPを愛しMに癒されていた少女たちがいきなりSKT音に傾倒するようなるのが初潮期の変化なのだという。全女性に愛されるM音にSKTを加えるとパンダ、ムーミン、ミッフィー、ミニーとなり、サンリオ、キティー、セブンティーン、ディズニーへと変遷する。同時期の男の子が好むBGDZは同世代の少女には憎らしいくらいなのだが女性ホルモンが安定してくるとBPに対してもタフになりRと組み合わせて華やかさを感じるようになる。ブルガリ、プラダ、バーバリーなど、リボン、バラなどと合わせてのブランドマントラになるという。

母音語には日本語以外にはポリネシア語があるが、母音一文字で単語になるのは日本語の大きな特徴だという。吾a、胃、井i、卯、兎、鵜u、絵、柄e、尾oなどアーネスト・サトウだったかミットフォードだったか英国人外交官が書いた日本日記のなかにも、日本には一文字母音の単語があることに驚いたというような記述があったと記憶する、英国人が知ったら大喜びするはずだ。母音を言語優位脳である左脳で聞くのは世界で日本人だけだという研究をしているのが医学博士の角田忠信さん。日本人以外では日本人が出す「あー」「ウー」などという音声を人間の音声と認識しにくいのだという。欧米人に「胃」「絵」などと発音しても聞き取りにくいことになる。左脳右脳を繋ぐ神経が太いのが女性脳、細いのが男性脳というのが筆者のもう一つの主張であり、これと日本人の特性を加えた研究も期待したいところだ。
怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか (新潮新書)
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温泉教授の温泉ゼミナール 松田忠徳 ****

2011年08月12日 | 本の読後感
温泉ブーム、秘湯ブームの中で温泉の情報開示に問題があると問題提起した2001年発刊の本。

2000年、レジオネラ菌感染による死亡事故が静岡掛川であった。原因は循環風呂のろ過装置で、浴槽水の塩素濃度が低く殺菌が不十分だったこと。同じ年茨城石岡で同様の事故があった。循環式風呂で殺菌不足になるとレジオネラ菌とその宿主であるアメーバが検出され、そうした温水の噴霧を吸入することで感染するという。浴槽水の入れ替えを怠る風呂が多かったことが原因だった。さらに、レジオネラ菌の危険を低減するために入れられている塩素にもっと大きな問題があると筆者は指摘。塩素処理水に長時間浸かることは、塩素の酸化力によって、皮膚の老化を促進、太陽光による日焼けと同じ結果となるという。水道水の塩素濃度は0.1ppm、銭湯の塩素濃度は0.3ppm以上、人間が塩素臭さを感じる濃度は3.5ppm、10分間での致死量は600ppm、3-20ppmに15-30分さらされると重大な病気を引き起こすとされる。

日本の温泉法では、地中からの湧水で25度以上あって、温泉成分とされる物質が含まれていれば天然温泉と謳うことができる。平成以降増えたのが市町村による日帰り温泉施設で、その特徴は天然温泉を謳うが、循環式ろ過方式で、塩素による消毒が行われ、温泉以外に食堂や土産物売り場が充実していること。こうした温泉施設が老舗の温泉旅館などの経営を圧迫している。こうした公共温泉施設が日本の温泉を堕落させている、というのが筆者の主張。

循環風呂の見分け方は、浴槽からお湯が溢れているか、飲泉ができると表示されているかどうか。毎日掃除時間が設定されていなければ、お湯の入れ替えもしていないことになる。泉源温度が40度以下なら加温していると考えられ循環している可能性も高くなる。湧出量もチェックすべきという。大型の旅館であれば毎分200リットル、中規模では100リットルあればかけ流しが可能。湯量不足を補う方法として登場したはずの循環式風呂が手抜きの道具に使われていると怒りを表す筆者。源泉であり、かけ流しであれば良いのだが、加水して温度を45度前後に調整することで効能が激減する。少ない温泉水を加温して低温の温泉水を温めるので、有効活用のために循環させる、これは文字通り悪循環である。

こうした温泉の堕落のきっかけとなった裁判があった。外湯が売りであった城崎温泉の湯元旅館三木屋が昭和2年に内湯宣言をして、その他の旅館が泉源が個人の土地にあっても温泉の権利は財産区にあると主張する民事訴訟を起こした。昭和10年に三木屋が勝訴、しかし昭和25年に調停が成立し、三木屋が内湯不慣行、外湯主義という財産区の主張を全面的に受け入れることで決着した。しかしこの調停後財産区では7つあった外湯以外の泉源を求めて掘削を開始、高温泉源を掘り当てて昭和30年以降内湯化が進んだ。この裁判の結果を受けて全国の温泉地で内湯化が進んだという。結果は泉源枯渇とそれに伴う循環ろ過方式の温泉増加であった。城崎では泉源不足を補う方法として内湯を希望する全旅館に、数カ所の泉源から集めた湯を再配布する方式を導入、旅館側は蛇口をひねることでお湯が出るようになり、温泉地としても一日1200トン使用していた温泉水が700トンで済むようになったため余剰湯は再利用されることになる。7つあった外湯の個性はなくなったのである。この時点では循環ろ過は行われていないが、この城崎方式は全国に広がった。

最近の温泉ガイドブックには、源泉、かけ流し、加温、加水、循環ろ過、24時間などの表示がされるようになったことは進歩である。昭和50年以降に開設された温泉施設では特に注意が必要だというのが私の経験則、新しい施設ではお湯に下水のような匂いがある場合もあるのは循環ろ過式である場合が多い。お湯がヌルヌルしているのはアルカリ泉の特徴だが、循環式でお湯の交換をしないと塩素により皮膚組織がお湯に混ざってヌルヌルする場合もあるという。これではお湯に使って顔をぶるぶる、なんていうこともできなくなるではないか。ガイドブックはよく読んで出かけることにしよう。
温泉教授の温泉ゼミナール (光文社新書)

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ヨーロッパ文化と日本文化 ルイス・フロイス ****

2011年08月06日 | 本の読後感
16世紀に来日していたルイス・フロイスが書いた彼の母国と日本の比較集。衣食住、宗教、武器、演劇など幅広い記述で大変面白い。

眼の色、日本人には白い目はいない。ヨーロッパには碧眼は多いが白い目とは。日本語では白眼視する、白い目で見る、などというのは悪い表現であるが、当然ヨーロッパではこのような表現はない。

ヨーロッパでは妻は夫の許可無く出歩けないが日本では自由に出歩いている。娘も両親に断りもなく幾日でも一人で好きなところへ出かける、とある。本当だったのか。

ヨーロッパでは堅信礼のあとに名前を変えることはないが日本では一生の間に5回か6回改名する、とある。解説では、幼名、假名、唐名、官、受領、実名、法名、贈官、名字、氏・姓と10個上げている。

ヨーロッパでは息子は親の死後に相続するが日本では親が息子に財産を渡すために生前極めて早い段階で引退する。

ヨーロッパでは手づかみで食事をする。(16世紀ではそうだった。食卓でフォークを使うようになったのは17世紀から)日本人は子供の頃から箸で食事をする、と書いている。パンと米、食卓の並べ方(一度に配膳する日本式と順次配膳する欧州式)、膳の高さと大きさの違い、ナプキンの有無、椅子と畳、スープと汁物、食器が銀製か陶器製かなどなど。男女一緒に食事するのが欧州式、日本は別々。瓜の切り方、欧州は縦切り、日本は横切り。果物の皮は食べてから捨てるのが欧州式、日本式は剥いてから食べる。

欧州ではペスト、結核性頸部リンパ腺炎、結石、足痛風が起こりやすいが日本では稀。ペストは明治中期に日本でも流行した。痘瘡は日本ではよく見られた。

財産を災害で失うことは大きな悲しみであり、ヨーロッパでは大きな悲しみを表すが、日本では表面上きわめてかるく過ごす。日本には災害が多かったからであろうか。
ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)
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