意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

ニッポン仰天日記 ゴードン・スミス著 荒俣宏訳 *****

2011年06月30日 | 本の読後感
1900年を挟んで日本を訪れた英国人男性の写真と絵がふんだんに挿入された日記。イザベラ・バード、ミットフォード、アーネストサトウ、いすれの日本日記も面白かったが、この本の価値は挿絵と写真である。手元においておいて時々パラパラと読み返したい本である。

ゴードン・スミス(GS)は英国の鉱山王を父に持つ富豪、結婚して子をもうけるが妻とは不和で離婚、その後1898年に日本を訪問、その素朴な文化と自然を愛する。GSもバードやサトウの日本旅行記を読んで日本に来ているようだ。しかし日本の人々と文化にいちいち驚いている。日本人女性の美しさと男性の醜さはバードやサトウも指摘しているがGSも同じ感想を持った。男女とも混浴や自宅前路上での行水、裸というものに関して恥ずかしいと感じない、このことに驚いている。

女性の髪型にも驚嘆している。丸髷、島田髷、櫛巻、結綿などである。毎日これらを結い上げているのかと。既婚夫人は銀杏返し、丸髷であり未婚の娘は桃割れ、結綿だが、GSにはその区別がつかない。帯の結び方にも驚いている、複雑で美しいと。

来日早々、日本における英国人社会での交流があったようである。当時の英国日本公使アーネストサトウから公使館での晩餐会に招待されたりしている。英国公使館にあった盆栽に目を奪われたりもしている。日本人が礼儀正しいことに興味を示しているが、あくまで東洋の珍しい人々をみる文明人たる英国人としての接し方である。しかしGSに横柄さはない。

正月をホテルで過ごしているGSが突然の獅子舞に驚く。悪魔のような太鼓の音とダンサーによる訳の分からないパフォーマンスが、部屋の中に乱入してきたのだ。ホテルの支配人がアレンジしたのだという。

GSは泉岳寺を訪れ大石内蔵助と47士の物語を聞く。彼らが果たした仇討、そして切腹に関して、「そんなことができるのが心底羨ましいと思う」と書いている。なにが羨ましかったのだろうか。芝公園にできた紅葉館も訪問、当時名流紳士のための社交の場として建てられた物。10セント払えば入れる、ということで高いのか安いのかよくわからない。家屋は大きく広い、そして清潔であり、娘たちに完璧に接待される、といい、一見何も見るべきものはないが、実は細部にいたるまで非常に清潔で芸術的、ブリテン島は本当に文明化されているのか、と自問自答するのである。

GSは日本で世話になった女性たちについて多くの記述をしているし、写真も撮っている。実在の人物であり、貴重な資料である。当時の日本で写真がとれた人は多くはなかったであろうから、読者の中には祖先が映っている人もいるであろう、出版社は読者にそうした申し出を呼びかけている。

GSは日本で始めて体験する地震についても記述しているが、なんといってもさすがは博物学者である、動物、植物、魚類、貝類などの記述と絵図が面白い。お雇いの梅芳という日本画家に多くの動植物や景色などを描かせた。日本で捕らえた珍しい動植物は契約している大英博物館に送っているのだ。そして日本の民話も聞いたものをまとめている。小泉八雲や柳田国男の前にもこうしたことをしていた英国人がいたのである。GSの場合は素人であり、お気楽な娯楽の範囲をちょっと出るくらいの話だったのかもしれないが、明治政府はこうしたGSの働きに勲四等旭日小綬章を与えた。

仰天日記、荒俣宏のネーミングであろうが、本当に仰天するほど面白い。3800円と安くはないが、bookoffで出物を探してでも読んで欲しい一冊である。

ゴードン・スミスのニッポン仰天日記
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義経(上) 司馬遼太郎 ***

2011年06月29日 | 本の読後感
2005年のNHK大河ドラマになった著作。

京都大原の来迎院、源氏武者の鎌田正近は親の正清が平治の乱で謀殺された時に、東国には逃げず逃げ込んだ先が来迎院だった。来迎院一派の僧は叡山などの官設寺院の僧とは違い、「融通念仏」という教義、念仏とは融通しあうものだという良忍が開いた一宗であった。一人が唱えれば全人類を救う、全人類が唱えれば一人を救う、という。もとは華厳経、これを応用した。貴族も庶民もどうすれば死後極楽に行けるのか、ということで悩んでいたので、良忍が考えついた融通念仏と念仏者名帳というもので、名簿に署名することを望んだ。この名簿に載ると阿弥陀如来がご覧になり極楽往生が約束されるというもので、時の上皇鳥羽院も署名したという。正近はこれを唱えて四条の聖と呼ばれた。この正近が鞍馬で修行する遮那王こと義経を訪れ、自分の出自を知らない遮那王に、源氏の御曹司であることを教えた。56代清和天皇から連なる源氏の家系図を示した。清和天皇の孫が経基、臣籍に下り源姓を賜り満仲、頼信、頼義と続く。その子が八幡太郎義家、義親、為義と連なり、為義の子が平治の乱で平氏に敗れた義朝。その子が9人、長男が平家に殺された悪源太義平、次男朝長、そして九男が牛若、遮那王の幼名である。自分が源九郎であることを初めて知ったのである。7歳であった。

伊豆に流されていた義経の兄に当たる頼朝、30歳になり、北条時政の娘政子に出会う。時政は頼朝が源氏の頭領であることを知り、政子が頼朝と寄り添うことを望んだ。政子も頼朝を受け入れた。夜這いに来た頼朝に向かって、「私が、当家の長女、平政子でございます」と堂々と言ったという。都ではありえない坂東風だと頼朝は思ったが、頼朝も好意を持ったのである。しかしこの政子は激しい気性と嫉妬で頼朝をこののち悩ますことになる。

遮那王が鞍馬から逃れ、身分を隠しながら奥州は阿武隈川のあずみという村の長者の家に留まることになった。長者は蝦夷の血を引く男で毛深く、長者は遮那王とは知らず、しかし若者が都人の顔立ちであることから娘の川菜を若者に与えた。タネが欲しい、という意思表示であった。若者の顔は扁平で、鼻は低く、色白でヒゲが薄い、瞼は一重、この顔相は韓国人を祖とする畿内人の特徴、奥州人は今日の言葉で言えば毛人、毛が濃く、顔の彫りは深く、鼻は低からず、瞼は二重であり、白皙人種のアイヌを祖としていた。若者は川菜を「妻(め)」と呼んだ。雅語ならば妹(いも)、普通は妻(つま)、めとは京都の市井では女性の生殖器を指す言葉である。この後も奥州にいる間じゅう、このようなタネ付けのために多くの若い女性をあてがわれることになる。

九郎と名乗るようになった義経はある時、女装して京の都を歩いて回った、この時に出会ったのが武蔵坊弁慶。九郎の女装を見破り、自らは、熊野の別当湛増の子、叡山西塔に住む武蔵坊弁慶、と名乗った。さらに「若い男が女装して黄昏、蝙蝠のごとく辻から辻へ舞い歩くのを見るのは乱の兆しである、と陰陽道にある」と言うのである。九郎は名を名乗り、これが運命の出会いとなった。

頼朝が伊豆で打倒平氏を掲げて立ったとき、義経もそこに駆けつけた。それを聞いた頼朝の部下で大農場主である土肥実平、岡崎義実らは「御曹司、御曹司」と九郎義経の傍に駆け寄ったという。頼朝は弟が人を引きつける魅力を持つことを畏れ、あくまで自分の家来であることをことさら強調しようとした。義経もそれに甘んじた。武蔵坊弁慶はそれを見て歯がゆい思いをしたが義経本人は気にもとめない風である。

頼朝より先に京都に入った木曽義仲が京都から平氏を追い出し、しかし京都の人々や公家たちに好かれず落ちぶれて、義経が京都に上るところまでが上巻である。
義経〈上〉 (文春文庫)
義経〈下〉 (文春文庫)

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日本語を知るための51題 加藤重広、吉田朋彦 ***

2011年06月27日 | 本の読後感
日本語のさまざまな薀蓄、そしてかすかに思っていた疑問に答える書。

シカトやタメなどという隠語が一般化する理由。花札の鹿、横を向いてとぼけているように見える。十月の札であることから、鹿十でとぼける、知らんぷりをする。タメはサイコロ博打でゾロ目のことを等目といったことから、同格のことをタメと言うようになった。隠語を使うことで、意味を強めて伝えることや仲間意識を伝えることもできることから一般化するという。

雨が降り始める、とはいうが雨が降り終わる、とは言わない。降り始めたことははっきりと認識できるが降り終わるというのは明確に確定はできないから、当たり前か。梅雨明け宣言が難しいのと同じ?食べ終わる、とか歌い終わる、であれば言える。喜び初めて、喜び終わるは言えない。自然が相手だと終わりの認識は難しい。

御返事、とは、お返事とご返事、どちらか。漢語の前ではご、和語の前ではお。来店、結婚、利用、意見、奉仕、乗車はご、体、手紙、顔、酒、うちはお。御には尊敬、謙譲、美化の三種類がある。尊敬する相手からのお返事、相手へのお返事、お茶などがある。ごはん、ごちそうなどは一体化した単語が一般化している。漢語でもおを付けるものがある。食事、野菜、料理、電話、紅茶、正月、盆、彼岸、誕生日、約束、写真。生活に密着した単語が多い。外来語でもソース、ビール、トイレにはおを付ける。日常の身近な単語にはおを付けるようだ。

都会に出るとは言うが、都会から村に出る、とは言わない。出るというのはウチからソトへの移動。都会や仕事はソト、という感覚である。

いち・に・さん・し・ご、と数える。逆に言うと、ご・よん・さん・に・いち、なぜよんなのか。固有の日本語では、ひ・ふ・み・よ・いつ・む・なな・や・ここの・とお、である。この二つが完全独立していないからだという。4はしと読むと死につながるので忌避される傾向があった。4冊、4畳半、4人、4件、4回は、よん、よ、よ、よん、よん、となる。大正時代には14はじゅうし、24はにじゅうしであった、49日はしじゅうくにちである。つまり、4だけは近代になってよんが使われるように変化してきたということ。匹、杯などがつづくといっぴき、にひき、さんびき、よんひき。いっぱい、にはい、さんばい、よんはい。11日はじゅういちにち、12日はじゅうににち、13日はじゅうさんにち、14日はじゅうよっか、4だけが浮いた存在だという。

この匹、杯や枚、頭は数量を表す助数詞、人間より大きいと頭、小さければ匹、同じくらいの大きさであればどちらも使えるらしい。確かに豚、犬なら匹も頭もある。イカはハイで数えるが、海産物で袋状になっているものでは共通、アワビ、カニ、タコもハイだという。食材だからハイなのだが、水族館にいるときにはいずれも匹。ひらいて干してあれば枚である。

真夏、真冬はいうが真秋、真春とは言わない。移り変わる季節にはピークがないからである。真昼や真夜中はあっても真夕方や真朝はない。真っ白真っ黒はあっても真紫や真ピンクはないのである。

お兄さんとは言うがお弟さんとは言わない。年上の父母、伯父、叔父、伯母、叔母、姉
にはおを付ける。いとこや孫には性別がないのは関係が遠くなってくるから。三世代同居する家族が、お互いをどのように呼ぶかは、最も年少の子どもの立場にたって呼ぶ。これは日本だけだそうだ。

日本語は結構、面白いのだ。日本語を知るための51題

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絵で見る江戸の町とくらし図鑑 善養寺ススム ****

2011年06月26日 | 本の読後感
絵がかわいい。池波正太郎や佐伯泰英の小説を読むときに手元においておくと面白いのではないかと買ってみた。

江戸の町、武家装束、ご役人と刑罰、庶民の着物と道具、庶民の生業、火消しの纏と法被。特に庶民の生業の絵とその種類の多さが面白い。こんな商売が成り立つのかと思えるような物が多いのだ。赤蛙売り、朝顔売り、糸売り、枝豆売り、絵馬売り、御咄売り。

十七屋というのがある、庶民の飛脚であるが、十七夜は立待月、「たちまち着き」だから飛脚だというシャレ。

けんどん屋、蕎麦屋やいっぱい飯やのことで、そば、うどん、飯、酒を一杯盛り切りにして出す。おかわりを認めないので愛想のないことを「つっけんどん」というのだそうだ。

九里四里うまい十三里で焼き芋屋。オランダ人の身なりをする耳垢取り。漫才を売る三河萬歳。棒の曲がり癖をとる棒屋。放すために亀やうなぎの稚魚を売る放生屋。飼い猫のノミを取る猫の蚤取り。行灯の芯を売る灯心売り。カタカタと音を出して遊ぶ持ち遊び売り。持ち遊びの「お」をつけておもち屋、おもちゃはここから来たという。足で背中を踏んで行う按摩の足力。シャボン玉を吹きながら「ふきたまや」と言いながら歩くシャボン売り。渋柿のエキスを売る渋売り。夏の風鈴に付ける苔玉を売るしのぶ売り。日用品をどれでも19文で売る十九文見世。新吉原の遊女格付けを売る細見売り。義太夫や浄瑠璃などを聴かせる祭文がたり。

イザベラ・バードが江戸の町に初めて来たときに「かわいい」と思ったのはこのような人たちの日常の暮らしだったのではないか。江戸好きのマニアには必携の書である。
絵でみる 江戸の町とくらし図鑑
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アルコール問答 なだいなだ ***

2011年06月26日 | 本の読後感
サラリーマンにとって身近なアルコール、依存症になっている人は多いのか。毎日飲みたい、と思っている、お酒で人に迷惑をかけてことがある、翌日昨日のことが思い出せないことがある、もうやめようと思ったこともある、などの人は注意が必要だ。

庶民が毎日でもお酒を飲めるようになったのはここ50年くらいのこと、戦前や明治時代、江戸時代とさかのぼると、お酒が飲めるのはお金持ち、お祭りの時などで、中毒や依存症になるほど飲めなかった。

慢性アルコール中毒、という病名は1847年ころスウェーデンの医師フスによって名付けられた。アルコールに絡む問題は18世紀から酩酊という形で社会の問題とされてきた。18世紀に登場したジン、ビールやシードル、ワインなどの伝統的飲料の技術革新や資本主義的な生産により、飛躍的増産が可能になった。安く手に入るようになったアルコール飲料と産業革命による賃金労働者の登場がアルコール依存症患者の登場と増加をもたらした。

筆者は医者という立場、アルコール依存症の経験から、患者との問答といかたちで問題と解決策を提示している。アルコール依存症患者を預かる施設は禁酒のために患者を閉鎖病棟のように閉じ込める、すると患者は隠れて飲んだり逃亡したりして逆効果、なださんの施設では、患者には自由を与え、門戸はいつもオープン、お金も与えていつでも飲める環境にして禁酒を続けるよう治療したというのである。患者は「こんな自由な病院は日本中探してもない。この病院を追い出されたら大変だから、ここにいられるように努力しよう」と言う事になったらしい。

そもそもお酒が飲める機会というのはたまにある宴会だけだった。そういう機会があるとたくさん飲んでしまう。急いで飲むから泥酔する人が多い。それを飲みっぷりがいいなどと褒められる、という貧乏人の飲み方だった。太宰治や織田作之助の小説に出てくるおさけの飲み方である。酔って騒ぐのがお酒の飲み方だった。宴会はお祭りの変形であった。祭りは狂気の一種、忘年会などは会社の祭りである、という。かつての銀座の夜には三角帽子をかぶったサラリーマンが大勢いた。今はもう一人も見かけない。つまり、お酒の飲み方はこの30年くらいで日本では変わってきた。アルコール依存症という視点で見ると酒量は減っていなくて、上手に毎日飲む人が増えた。問題はなくなっていないという。

日本にもある断酒会は他人の話を聞いて自分の反省材料にする、自分の悩みを聞いてもらえる、という意味で有効だという。アルコール依存症の悩みは意外に多い。アルコール問答 (岩波新書)
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日本の十大天皇 高森明勅 ****

2011年06月25日 | 本の読後感
昭和天皇が最終章で登場するのだが、単独で読むのと、10大天皇の後で読むのでは印象が全く異なると思う。いい意味で。

雄略天皇は仁徳天皇の末裔を途絶させた張本人。雄略天皇により殺されたのは、履中天皇の二人の息子、市辺押盤皇子、御馬皇子で、市辺押盤皇子の子が仁賢、顕宗両天皇であり仁賢の子が武烈天皇、ここで子が途絶える。允恭天皇の子、木梨軽皇子は自殺、坂合黒彦皇子と八釣白彦皇子は雄略天皇に誅殺され、安康天皇も暗殺、雄略天皇の子清寧天皇の子もいなくてこの系統も断絶。眉輪王も雄略天皇に誅殺されたため、ここで仁徳天皇系の子孫は誰もいなくなった。そしてその後天皇として北陸から連れてこられたのが継体天皇であった。

このころ朝廷での指導者は大伴金村、武烈天皇、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇と大連として天皇を補佐した。継体天皇は応神天皇の五代後の血筋とされ、仁賢天皇の子である手白香皇女と結婚して正当性を保持しようとした。女系を介してなんとか仁徳天皇の血統を伝えようとした。継体天皇の子として生まれたのが欽明天皇、仁徳天皇の血筋は途切れなかったのである。この時には女帝という発想はなかった。女帝の最初の事例は推古天皇であった。

天皇の歴史の中で女帝は10代、8人いた。推古天皇、皇極天皇、斉明天皇(重祚)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇(重祚)、明正天皇、後桜町天皇である。朝鮮半島の新羅王朝でも善徳王、真徳王、真聖王と三代いた。シナでは1例、則天武后である。女帝は少ないのである。卑弥呼は天皇ではなかったのか。わからないのだそうだ。

天武天皇の時代、独自の律令を制定した。飛鳥浄御原令であり、独自の貨幣、冨本銭、国名を倭から日本とした。大宝律令もこの飛鳥浄御原令をお手本としたという。

道鏡を天皇にしようとしたのが称徳天皇、大臣禅師、太政大臣禅師、法王と位を与えついには天皇にしようと、宇佐八幡宮の託宣が出たということになった。これを確かめに派遣されたのが和気清麻呂。清麻呂は道鏡の天皇即位を真っ向から否定する報告をした。称徳天皇は激怒、和気清麻呂の名前を穢麻呂として鹿児島方面に追放、しかし道鏡の即位は立ち消えになった。人々はもう女帝はこりごりと考え、以降江戸時代まで女帝は出なかった。

院政がひかれた時代でも現役の天皇にしか与えられなかった権能がある。それは、国家的儀礼の執行、元号をあらためること、官職の任命、位階の授与、土地境界の判定、神々への祭祀。院政で上皇が権力を拡大してもこれら天皇の権威を否定するものではなかった。征夷大将軍が力を持った時代でもこの関係は変わらなかった。しかし天皇の権力が一番小さくなった時代があった。104代1500年の後柏原から後奈良、正親町という時代、即位式すら挙げられないほど困窮していたという。このころの天皇の権能は次のようなものであった。
1. 太上天皇、親王、准后などの称号を授けること。
2. 摂政、関白、征夷大将軍以下、貴族や役人、武士達に官位を与えること。
3. 伊勢神宮はじめ全国の神社へのたてまつりもの。
4. 暦の頒布。
5. 元号をあらためること。
6. 大赦、特赦。
7. 祭祀、節会など朝廷行事の主催。
8. 宗教で禅師、国師など名誉の称号を与え、紫衣の着用を許可する。
9. 神社への大明神号付与。

こうした天皇の権能を縛ったのが徳川幕府による「禁中並公家諸法度」。

そして昭和天皇、立憲君主を逸脱した切迫した状況が二度あった。2.26事件の収束と終戦の詔である。2回とも天皇の決断がなければ日本がどうなったか、その決断は歴史的にも評価されるのではないかという主張である。日本の10大天皇 (幻冬舎新書)
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大阪弁の秘密 わかぎゑふ ***

2011年06月24日 | 本の読後感
ケータイ連載の文庫版。

「しゃあないやんけ、お前のこと好きやねんから」これでぐっとくる場合があるという。ほんまか。

「なぁ」これが一番短い恋する大阪弁だという。「しょーか」より短いからだと。東京では「する?」である。

「その話、オチあんにゃろな」関西人からの厳しいツッコミである。面白くない人はいくらいい男でももてないのが大阪である。

「せえだい」がんばりや、うんと懸命に努力してね、という感じ。おばちゃん言葉だという。おっちゃんも使うと思うが。

「手伝い」と書いて「てったい」と読む。「ちょっとてっとぅて」と使う。

「ほんでなんぼにしてくれるのん」値段の交渉の際に最初に出てくるセリフ。答えた価格が最初の価格で、交渉はその価格から始まるので、大阪ではちょっと高めに答える。

「かんにん」値切りの交渉で、申し訳ありませんという時に店側が言うセリフ。「このへんでかんにんしてくれおくれやす」「ほんまにかなわんなあ」「鬼や、この人」このあたりまで引き出してこそ大阪の値切り術だという。

「あほ」「ボケ」「どの口が言うてるねん」「われ」などの悪口系はたくさんの語彙があるのが大阪弁。

「へたれ」「しんどい」「もう、ええわ」「犬になりたいねん」「もう死ぬ」「わてが悪おました」「かんにんや」などなど、弱音を吐く言葉、男が使うのだという。

「いちびり」「けったくそ悪い」「けったいなやっちゃな」「気色悪いな」「へちゃむくれ」などなどもある。

関東人が大阪弁をいくら勉強したとしても、使うのは難しい。そら無理や。人間の距離感が違う。距離感は変えられしまへん。大阪弁の秘密 (集英社文庫)
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武神の階 津本陽 ***

2011年06月23日 | 本の読後感
毘沙門天の上杉謙信の一代記。津本陽は豊臣秀吉の「夢のまた夢」、前田利家を描いた「バサラ利家」、徳川家康の「乾坤の夢」、伊達政宗の「独眼竜政宗」などを書いている。本書は昭和61年から平成元年にかけて新聞に連載されたもの。

幼き日の謙信は虎千代、父の為景に問われて答える。「鶴翼の陣形とは」「鶴が翼を広げしごとき陣形、味方の多数をもって敵の少数を攻めるに利ありの構えにござる」為景「ならば魚鱗とは」「敵は多数にて鶴翼に押し包みきたらんとき魚の鱗のごとき陣形を取り真ん中を突く動きを表すことにござりまする」おさなき7歳の頃の謙信である。この陣形の話が物語の中で度々出てくる。

長尾一族は桓武天皇を遠祖とする平氏であった。天皇の第四子葛原親王の孫高望王が平氏を賜り、その六代目の孫景明が相模鎌倉郡長尾荘に住みその子景弘の時、長尾次郎と称するようになった。長尾氏と共に関東八平氏と呼ばれた豪族は、千葉、梶原、土肥、三浦、大庭、秩父、上総の7氏であった。いずれも桓武天皇の末裔で、地方官として関東に下って武士となった。関東管領になった上杉家の被官として重きをなした。上杉家は藤原氏の内の勧修寺家の流れである。上杉氏は足利幕府創業を助けた。上杉憲顕は足利政権では上野、越後、伊豆の守護となった。長尾家は守護代として上杉家の股肱となって働いてきた。

1552年、関東管領上杉憲政は景虎を頼って府中に来た。信濃の守小笠原長時は松本から一旦退いたが、武田晴信に対抗して戦った。かつては信濃十郡には村上、小笠原、諏訪、木曽、平賀の5家が割拠していたが武田に押されて村上と木曽のみが領土を保つばかりであった。景虎は村上氏を助けるべき武田晴信と対峙した。戦いの末晴信を打ち破った景虎であったが、領土拡大をせず、上洛した。なみの武将と異なる点であった。

景虎はその後政虎と名前を変えて武田信玄と川中島の合戦を数回戦う。有名な一騎打ちの場面、津本陽は事実ではなかったのではないかと疑問を呈する。ある川中島の合戦では17回の戦闘があり、11回は謙信の勝ち、6回は信玄の勝ちと川中島五箇度合戦記は記述しているという。

景虎が輝虎と称する時、河田豊後守が輝虎から教えられたという軍法五箇条を戦勝祝勝の宴会で披露した。1. 大将たるべき者は天の時、地の利、人の和を知るべし。2. 物頭奉行死すとも敵に知られず備えの違乱なきようすべし。3. 薄暮におよび敵を追うべからず。4.表裏虚実をもって自他の交わりをいたすは武士の恥辱なり。5. 奇っ怪のことあれども心を悩まさず、大将において真実を知らず、虚心にて下知いたさば敗北いたすべし。

謙信は合戦における足軽の働きを重視していた。足軽大将には次の条項を守らせていたという。
1. 自己の働きをもっぱらにして、組の軽率を捨てることなかれ。
2. 所存これあり、自己の働きを欲するにおいては出陣前にその意を述べて組を差しあぐべし。

謙信が定めた家法は次のとおり。
「心に物なき時は、心広く体豊なり。心に我儘なき時は愛嬌失わず、心に欲なき時は義理を行う。心に私なきときは疑うことなし。心に驕りなき時には人を救う。心に誤りなき時には人を恐れず。心に邪見なき時には人を育てる。心に貪なき時には人にへつらうことなし。心に怒りなき時には言葉和やかなり。心に堪忍ある時には事を調う。心に曇りなき時には心静かなり。心に勇ある時には悔やむことなし。」謙信に政略なく、自らに厳格すぎるという批判があったという。彼は至誠を貫こうとしたのである。武神の階〈上〉 (角川文庫)

武神の階〈下〉 (角川文庫)
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日清・日露戦争 原田敬一 ****

2011年06月22日 | 本の読後感
日清・日露戦争の時に太平洋戦争への素地が築かれていることに気づく。明治維新で国家体制が大きく変わった日本は世界の一流国となるために富国強兵と殖産興業に励んだ。その途中、日清、北支事変、日露戦争と5年ごとに戦争を繰り返した。台湾、朝鮮という2つの植民地を手にした日本は、植民地支配による資源獲得と更なる国家発展に邁進していた。次の狙いは中国であった。

明治維新で主力となった薩長土肥、藩閥政治が行われたと言われる。三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允ら第一世代は1880年代までに姿を消していた。伊藤博文、山県有朋、井上馨、山田顕義ら長州派と、黒田清隆、西郷従道、松方正義、大山巌ら薩摩派が明治天皇に親任され元勲として政治を動かした。元勲たちは実際の公的地位とは関係なく事実上の権力を持ちこれを藩閥政治と呼ぶ。1885年の伊藤内閣ではこれら元勲のすべてが含まれ、制度上の権力と一致していた。次の黒田内閣には7人、山県内閣にも5人が含まれていた。

1890年山県首相は施政方針演説で、「利益線」という国境以上の概念を説明した。日清戦争での利益線は北は朝鮮、南は台湾、北進論と南進論の根拠となった。日本帝国はこれ以降の50年、この北進論と南進論に沿って軍事力拡大を戦争で実行することになる。転換点は日清戦争であった。日清戦争で兵士たちが上陸後感じたのは不潔な匂いであった。兵士たちは明治維新以降の教育で衛生と清潔について学んでいたため、「文明の義戦」というプロパガンダを体感して戦争の正当化の意識操作ができるという。異文化衝突というのはこう言うことが起きるとういう現代のイスラム教徒とキリスト教徒の争いに通じるものを感じる。

台湾で病死した北白川宮を祀る台湾神社についての議論。児玉源太郎が台湾総督、神社は官幣大社(官幣中社が通常の社格だが、神武、応神、桓武、神功皇后、日本武尊なみの大社)とすべきと主張、祭神は大國魂の神、大穴牟遅の神、少名毘古神の三神を主神とする札幌神社のような開拓神社にするという伊藤首相による建議もあった。文明が野蛮を開拓するという意味付けをしたのである。

大隈重信が首相になった内閣のメンバーは陸海軍大臣以外は憲政党員という初めての政党内閣であり、板垣退助とあわせて隈板内閣と呼ばれた。この時明治天皇は陸海軍大臣は組織外に置くべし、と指示、天皇が内閣のあり方に新たな指示を出したことを意味している。山県有朋はこの指示の裏側で両ポストを軍人が占めるという画策をしたのではないか、西郷と桂の留任を上奏したのではないかというのが筆者の推測である。後の大臣現役武官制につながる話であり重要な決定であった。

その後、日本は中国における権益獲得に努め、義和団の乱の後の中国と11カ国との辛丑条約では列強の仲間入りをしたと言われる。しかし中国による賠償金により清国を疲弊させるのではなく、文化育成に賠償金を当てるなど列強の姿勢は変化した。1902年には日英同盟が成立、英国は日本にインドやネパールのグルカ兵と同様の国外軍事力の一つとして活動することを期待したのであるが、日本は対露政策の一つとして英国との同盟を位置づけた。雪中行軍の八甲田山死の彷徨があったのはこのころで、対露政策のひとつに雪中行軍があったという。

このころの日本では工学エンジニアの育成が期待され、東大、京大以降の帝国大学では東北、九州、北海道、京城、台北、大阪、名古屋まで理工科大学を設立して工学エンジニアの育成を進めた。法学部として単独の学部を持ったのは結局東大と京大で東北、九州、京城は法文学部、台北は文政学部他は理工系大学として戦前教育社会で君臨した。戦前における国家官僚の世界観としては、文官が頂点に立ち技術者を見下ろす構造となっていたというのである。
日清・日露戦争―シリーズ日本近現代史〈3〉 (岩波新書)
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健康より大切なもの

2011年06月19日 | 本の読後感
平成23年2月に厚生労働省は、健康寿命を延ばすための「Smart Life Project(スマート ライフ プロジェクト)」を開始した。発表によれば、「企業や団体に、健康意識向上につながる啓発活動を行ってもらい、また企業活動を通じて、より多くの人々の健康づくりの意識を高め、行動を変えるよう働きかけてもらうことにより、国民の生活習慣の改善、ひいては健康寿命を延ばすことを目的とした取り組みです」。企業にとっても家庭人としても健康でいることは一定の生産性の維持、家族の幸せのための必須条件、健康寿命とはなにか。

平均寿命は0才の赤ちゃんの平均余命、健康寿命とは、子供時代を除いて人の世話にならずに生きていける期間の長さであり、平均寿命から病気や要介護状態になり自立しては生活できない期間を除いた寿命、と定義できる。日本は健康寿命でも世界のトップ(http://www.jinji.go.jp/shougai-so-go-joho/bring/kenko.html )だが、認知症や要介護のシニア世代が増加しているという報道を聞いていると本当なのかと疑問に思う。http://www1.mhlw.go.jp/topics/kenko21_11/s0.html 一般的な定年年齢である60才の日本人があと何年生きられるかという定年時余命。昭和22年に男12.83年、女15.39年だったものが、平成20年にはそれぞれ22.58年と28.12年と戦後65年で男性では約10年、女性では13年以上伸びている。定年後を誰の世話にもならずに自立して健康に過ごせるのか、誰でも関心がある。

病院のお世話にならない、つまり健康な期間を長くするには生活習慣を見直す必要があると言われている。週刊ダイヤモンドに紹介された、加齢制御医学を専門とする白澤卓二・順天堂大学大学院教授による、「健康寿命を伸ばす10の生活習慣」を紹介しよう。


簡単にいえば、健康寿命を延ばすには、(1)節制(2)体を動かす(3)前向きな考え方 ということ。腹八分目を心がけ体を動かし、くよくよせずに生活する、これが健康寿命を長くする秘訣である。

医師で作家の久坂部羊さんは「日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか」で次のように主張している。「自然死こそ人間的な死に方ではないのか、現代医学は寿命を伸ばしているが、健康で幸福な寿命は伸びていない」。統計的には健康寿命は伸びている事実がありますが、本当にそうだろうかという問題提起である。久坂部さんは、長生きすると起きることとして、排泄機能低下、筋力低下による生活機能低下、歩行困難、関節の痛み、うつ病、不眠、呼吸困難、めまい・耳鳴り・頭痛、嗅覚・味覚障害、麻痺・認知症などを例示している。長生きしていれば程度の差こそあれ必ず出てくる症状であり、これに病気が加われば生きていることが苦痛になる人が出てくる。医師である久坂部さんは、「治療は苦しみを長引かせるばかり、もう死なせて欲しい」と患者に頼まれることもしばしばある、と告白している。日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか (幻冬舎新書)


江戸時代には、人は殆どが自然死していた、現代医学は寿命を伸ばしたが、苦痛や長生きによる不幸さえも増やしたのではないかというのが久坂部さんの指摘、白石教授の勧める生活習慣も、現代都会生活とは逆の昔の田舎での生活をすすめているようにも思える。平均寿命を過ぎたら、多少具合は悪くても病院にはいかずに家で療養することを推奨、一定年齢以降は病院に行かない利点として久坂部さんは次の点を挙げている。
① 濃厚医療による不自然な生を避けられる。
② 辛い検査や治療を受けずに住む。
③ 余計な病気を見つけられない。
④ 時間が無駄にならない。
⑤ お金が無駄にならない。
⑥ 精神的負担がない。
ターミナルケア(終生医療)に携わる医者である筆者にここまで言われれば、そうかもしれないと思ってしまう。

「本人以外の同居人や親戚は、具合が悪ければ病院に行くこと、延命治療をすることを肯定することは当然と思うのですが、当人が一番それを望まないケースだってある」。周りの人とのコミュニケーションを良くしておかないと、本人が望まない延命を強要することになるという話も重要。前の晩までピンピンしていて朝になったら安らかに死んでいた、などというケースは実際には稀であり、人生の最期は必ず身の回りにいる誰かとのコミュニケーションが必要となるのが現実である。

「明日への記憶」では記憶をなくしていく夫を支える妻とのコミュニケーションが描かれた。人の幸福は体の健康と心の健康、そしてお互いに支えあう家族によっても維持される、というお話。明日の記憶
家族でなくてもお互いを支え合ったのが、「博士の愛した数式(小川洋子著)」。映画にもなったのでご覧になった方も多いと思うが、家政婦(深津絵里)が派遣されたのは元大学教諭で数学者の男性(寺尾聡)宅、交通事故で短期記憶しか持てず数字にしか興味を示さない「博士」と家政婦。家政婦の10才の息子を通してコミュニケーションを深め、家族という枠を超えてお互いを支えあって、博士はその後も長く生きるストーリー。無機質とも思える数学が、「江夏の背番号28は『完全数(約数の和がその数自身に等しい)』だ」「あなたと私の関係は『友愛数』(約数の和が相互に等しい数の組み合わせ)」などという心温かな話に変わっていくのが印象的な小説。いずれの話も健康と幸福、人同士のコミュニケーションは重要な関係があることを示唆している。博士の愛した数式 (新潮文庫)

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顧客志向の罠

2011年06月17日 | 本の読後感
ハーバード大学のクリステンセン教授による「イノベーターのジレンマ」では、コンピュータシステムのオープン化やクラウド化、新聞や本の電子化、音楽のCD化とさらにはMP3化、そして携帯化などのサービス出現の背景という文脈で、「ローコスト・イノベーション」や「破壊的イノベーション」の波には逆らえない、というのが「破壊的イノベーションのモデル」と解説された。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)
この議論では、主要顧客の声に耳をかたむけることは顧客志向でビジネスを進める上で必要なことだが、それは既存市場で製品性能を高める持続的イノベーションには寄与できても、全く異なる価値基準を市場にもたらす破壊的イノベーションとはならない、とクリステンセン教授は主張していた。「ブルーオーシャン」に出るためには破壊的イノベーションが必要という議論であり、現行の顧客の声ばかりを聞いていては競争に勝てないと解釈できる主張である。ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する (Harvard business school press)

関西大学の商学部川上智子教授は破壊的イノベーションに成功した事例を提示した。任天堂のWiiがワールドワイドの競合でWbox360とPS3に勝ったということ。顧客志向の新製品開発―マーケティングと技術のインタフェイス
世界シェアで2007年にはWiiがXboxとPS3を追い越したのである。

画像品質や処理能力ではXboxやPS3に敵わないWiiが、遊び方や価格帯、そしてどの消費者層にターゲットを絞るのかというマーケティング戦略でまさった、任天堂は「破壊的イノベーションに成功している」というのである。ゲーム機を買う主たる年代層と使用率、そしてその消費者層のゲーム機の使い方を調べて考え抜いたのが任天堂だという主張である。任天堂はすでにファミコンからゲームボーイ、ニンテンドーDSというヒットを飛ばしてきたが、NINTENDO64やニューファミコンなど失敗事例も死屍累々。XboxやPS3はゲーム好きにはたまらない魅力があるが、Wiiはゲームに関心がなかった女性やシニア世代でも使える工夫がある。またファミコンユーザは小中学生がメインのターゲットだったが、Wiiはほとんど全世代がユーザ、なかでも20-30歳代のユーザが新たな購買層として設定されているようだ。

顧客情報収集において、現在の顧客からクレームや改善提案を聞くことは顕在ニーズ情報として有用だが、一般消費者の行動を観察すること、Wiiで言えばPS3やXbox、DSなどには見向きもしなかった一般消費者の潜在ニーズを掘り起こしたことがシェア拡大につながったと言える。川上教授は任天堂での顧客志向戦略は次のように実行されたと解説。顕在/潜在ニーズなど顧客情報の収集と分析においては、企画部門だけではなく全社に情報共有をすすめ、行為、知識、感情の各側面から利用者の声を分析検討したと。つまり、顧客情報の収集・共有・利用が社内で一人で3種目こなす「トライアスロン」のようにつながることが重要だったという指摘である。実際には企業というのは組織の壁があり、市場適合性を考えるマーケティング部門、技術成果を求めるR&D部門、効率を追求する生産部門などでは専門分化が激しく、組織協同や組織間コミュニケーションが難しいのが実態。実際の社内では共有サーバやグループウェアだけではなくSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)活用が進められているとのこと、任天堂はそれを実践したことにより、Wiiを開発販売し成功したという。社内でのTwitterやブログなどのSNSの活用が日本企業の今後の課題だというのが川上教授の分析。

日本企業の弱みは何だったかというと、携帯電話がよく引き合いにだされるが、日本の消費者への過剰適応をしていてグローバル市場に適合できない、そして商品のコモディティ化が進むと、企業による製品差別化ができなくなり価格競争に陥ること。モノ志向と競争志向二つの誤りを正し、真の顧客志向を実現することが原点だという。SONYはWalkmanで成功したが、アップルのiPodには完敗した。それは日本企業が得意としてきた技術や商品開発、そして生産などによる価値創造だけではなく、創造した価値に対する対価を得ること、技術や商品による価値を自社の事業利益にする仕組みを獲得することであると。価値創造に対比して後者を価値獲得と呼び、アップル社がiPodとiTunesの両立てでビジネス開発に成功したような、これこそが真の顧客志向だと解説。技術志向は捨てずに顧客志向を強化する、そして同質化による価格競争を回避して差別化要因を創造する、これが日本企業の進むべき道だという。SONYは電子書籍のビジネスでも米国企業の後塵を拝する状況だが、これはコンテンツ提供力の差であると。iTunesのような仕組みを書籍でも提供できる企業が勝てるというわけだ。日本の電子書籍市場はこれからだが、アメリカ市場での雌雄決着は書籍チェーン2位のBordersが倒産、1位のBarnes&Nobleも店舗数縮小に苦しむなど、すでに戦いはAmazon、Appleとその他企業による後半戦に突入している。

株式会社コムセルの代表取締役飯塚幹雄さんによるサムソン社の強みについての話。市場づくりを忘れてきた日本へ。
コムセル社はサムソンなどへのプロモーション戦略提案などを手がける会社。飯塚さんの川上さんと同様の点を指摘、日本企業がサムソンに勝てないのは、商品作りをせず、モノづくりばかりに傾注するからだと。世界を市場として自社製品を圧倒的なシェア一位に持っていく努力をしているという。サムソンの事業は4系列、通信、液晶、デジタルメディア、半導体で、携帯電話ではNOKIAについで世界2位、薄型テレビ、液晶、フラッシュメモリーでは世界一位を2009年時点で達成。サムソンをパナソニックと比較すると違いは顕著。2009年度の売上高はそれぞれ10兆9059億円と7兆4180億円、営業利益は8736億円と1904億円、社員数は188,000人と384,586人ですので、一人当たり売上は5800万円と1900万円、一人当たり営業利益は465万円と49万円、売上高で3倍、営業利益では9倍以上の差が出ている。

「日本企業は技術力では負けていないはず」というのも勘違いだと指摘。サムソン社は獲得した資金でR&Dを行い、商品開発や人材獲得をしており、日本企業が対抗するためには、これまでになかったカテゴリーの製品を生み出すこと、日本に有利な市場開拓をおこない有利なフレームワークを作り出すことしかないと飯塚さんは断言。アップル社は新技術を生み出したわけではなく、iPod、iPhone、iPadいずれも既存技術を使って開発したハードウェアに音楽配信、持ち歩けるパーソナルデバイス、書籍や写真などを気軽に読めるツールなどとして提供、使い勝手やデザインで消費者に訴求した。卓越したデザインと新たなユーザインタフェースが消費者には新たな価値として捉えられたという。

アップルもサムソンも世界を市場として第一義に考えている。サムソンは欧米で獲得したシェアを携帯、テレビ、エアコン、白物家電というプロダクトミックスのマーケティング戦略で拡大、ロシア、CIS諸国、中東地域、地中海側アフリカ諸国、歴史的フランス語圏である南西アフリカ諸国へと展開していくブランドとシェア拡大戦略をとっている。そのためには商品開発のなかで機能、性能、マーケティングに加え、デザイン力が重要との指摘。見えない部分には力を入れず、消費者の目に入りやすい部分のデザインには力をいれる、技術は見えて初めて売り物になる、という。ここで重要なのが決断の速さ。日本企業にデザイン提案のプレゼンに行くと、だいたい対応するのは課長クラスの社員。部長、役員、経営トップにプレゼン内容が伝わるに連れて、プレゼンの本質は薄められて、会社の中での説明者と聞く立場が考慮されるため、自社内の都合が優先され、おまけに決断に時間がかかる。サムソンであればデザイン提案のプレゼンには常務クラスが始めから出席して、その場で判断する、この違いは大きいという。パナソニックの社員が一生懸命働いていても、それは多くが社内説明資料や稟議用データ作成などであり、それが一人当たりの生産性の差になってあらわれていると、経営者の現場力が違うという指摘。サムソン社入社の条件はTOEIC900点以上、幹部には920点以上と毎年のマーケティング試験が経営者であっても義務付けられているとのこと。経営者になれるのは社員の1%、そして経営者でも業績により毎年1-2割が入れ替わるとのこと。顧客が真に求めるものはなにかを追求し、会社が利益を出せる事業を創り出す、これがサムソンのパワーだという。

なぜ日本は今でも100V電源なのか、どうして東と西で周波数が違うまま放置されているのか、世界の市場で100V、120Vは日米のみ、その他ほとんどの国は220Vだというのが飯塚さんの指摘。以前は米軍からの要請で100Vだった韓国は国を上げて世界標準の220Vに時間をかけて移行したとのこと。日本はアメリカを教師として生産や商品開発、マーケティング理論を学び、市場として製品を販売してきた。リーマンショックで分かったことは、アメリカ経済は実体のないお金で消費をしていたということ。日本は国を上げてグローバル市場を相手にするビジネスに移行することが必要だと。

日本企業の強みはモノづくり、と言われたが、川上先生も飯塚さんもそれではもう勝てないと言う。商品を顧客に提供する仕組みづくり、事業で利益を生む仕組みづくりまで考えなければグローバル市場では勝ち残れないという話であった。人口が1億2800万の日本企業はまずは日本市場での成功を基礎に世界に進出、成功してきたが、人口4800万の韓国は最初から世界を市場として戦うことを強いられ強くなってきた。70億人の世界市場を前に、商品開発、マーケティング、デザイン力、そして人材力でいかに戦うか、すべての企業が任天堂やアップル、サムソンのようになれるわけではないと思うが、目指すべき方向は明らかだ。

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物部氏の正体 関裕二 **

2011年06月15日 | 本の読後感
物部氏は意図的に日本書紀からその先祖や出自を隠されていると指摘、吉備の一族であると主張している。物部守屋は蘇我馬子と仏教受け入れで争い破れて没落したとされるが、日本書紀からは抹殺されたの等しい、それはなぜなのか。

九州に舞い降りたとされる天皇家の祖先は神武天皇となり、東に向かった。そしてヤマトですでにその地にいた饒速日命、長髄彦と激しく戦ったが、饒速日命が長髄彦を裏切り神武天皇が勝ったとされる。饒速日はなぜヤマトのために戦った長髄彦を裏切ったのか、これが神武東征の謎である。そしてその後天皇家は物部氏の祭祀を踏襲しているという。物部氏は三輪山の大神神社とも深いつながりがある。どうも物部氏の祭祀を継承することを条件にヤマトの王権を天皇家に禅譲したのではないかというのが筆者の推理である。

その物部氏自身が東遷したのではないか、そしてそれは邪馬台国東遷と密接な関係があったのではないか。物部氏は神武東征より早い時期にヤマトに入り勢力を拡大していた。物部氏は筑後平野出身で福岡久留米の高良神社に氏神が祀られていた。物部氏は東遷すると中瀬戸内海にも勢力を広げて行ったのではないか。稲作をヤマトにもたらしたのは物部氏だったのではないか。物部王国こそ邪馬台国だったのではないか、などの憶測を生んでいる。

桃太郎伝説は江戸時代に確立された物語とされるがその起源は吉備の国吉備津彦にあるかもしれないという推測。崇神天皇の時代に四道将軍の一人として山陽道に遣わされた吉備津彦、吉備を最初に平定した、これが桃太郎伝説になったのではないかという。吉備の国は瀬戸内海の潮の満ち引きの入れ替わる場所に当たり、潮待ちする海上交通の要衝であった。物部氏はそうした瀬戸内海の王者吉備の一族であり、没落した吉備を立て直すために河内、ヤマトに乗り込んだ、そして北陸から新しく王を即位させたのではないかという推理である。

日本書紀にある記述、「犬と蛇が仲良く死んだ」とあるのは蛇が物部氏、犬が蘇我氏であり、物部氏と蘇我氏は律令制度の推進に貢献したが、中大兄皇子と中臣鎌足がそれを妨害、豪族たちが手放した土地を藤原氏が横取りしたのではないかという。

すべては筆者の推測であり、学会に支持されているわけではないし、学者の学説に裏付けられているわけでもない。しかし、古代史ミステリーが大好きな読者には大変面白い推測、興味がある人には一読の価値アリである。物部氏の正体 (新潮文庫)
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食べる西洋美術史 宮下規久朗 **

2011年06月14日 | 本の読後感
最後の晩餐の最大の主題は聖餐式の制定、ミサの起源にあった。聖餐式はキリストの犠牲と復活を覚え、キリストを自分の体のうちに取り込み罪の許しと体の復活にあずかるキリスト教の行為。教会の祭壇はこの聖餐式のための祭壇に他ならない。キリスト教徒はその結束を強めるためにしばしば集まって食事をした。感謝の祈りを中心とするエウカリスティア(聖餐)がミサの起源である。パンを割くというのは聖書に頻出する表現で、一つのパンをちぎって多くの人に分け一緒に食べるという、食卓を共にするのは信者同士の結びつきを確認する行為であるという。パンとワインは西洋での基本的食事、その晩餐のキリストとその弟子12人の最後の場面を描いたのが最後の晩餐。パンとワインは神の体と血であるという思想の表れだとも言う。

西洋美術では各時代を通して宴会の情景が頻繁に描かれてきた。神に捧げる肉を食べ、地中海ではワイン、北欧ではビールが祭事として飲まれていた。宴会は徐々に世俗化し、厳粛と喧騒、浪費や贈与などを伴う非日常の行事であり、酒が神と人々を繋ぎ、ハレ(非日常)の世界を作ってきた。日本の本来の宴会も神人共食の直会(礼講)が時間と共に饗宴(無礼講)に移行するものが多い。宴会ではしばしば既成の社会秩序が否定され、価値の転倒や欲望の開放が行われた。自由民と奴隷の区別が取り払われ、暴飲暴食も可能な酒池肉林の乱痴気騒ぎも行われた。これがカーニバル(謝肉祭)になり、キリスト教の聖餐は伝統的な神の儀式から新たな意味をもって焼き直しが行われてきたとも言える。一見、悪しき食事の代表である宴会も、元は聖餐と同じ祭祀に由来するものであった。西洋美術で描かれている食事場面にはこの二つを戒めとして描いた作品も多い。「7つの大罪」とは傲慢、貪欲、婬欲、憤怒、大食、嫉妬、怠情であり大食は悪徳であった。放蕩息子を描いたものもある。大罪を犯した息子が罪を悔いて許しを求めるというもの。

二重空間を描いた作品も多く、手前には美味しそうな食材が並び、奥には聖書の場面を垣間見るような図柄である。手前の美味しそうな食材は脱却しなければならない肉欲や食欲を表し、奥の聖なる情景の精神的価値との対比を示している。アンディ・ウォーホルのキャンベルの缶詰の絵も、こうしたキリスト教的思想が背景にあるという。

人類の歴史の中で食料が安定して供給されるようになったのはほんの50年ほど前からであり、人々は凶作による飢饉にいつ襲われるかわからない不安をいつも抱えて暮らしていた。人々は静物画の中の豊かさに安心感を求めたのである。
食べる西洋美術史 「最後の晩餐」から読む (光文社新書)


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日本社会の歴史(下)網野善彦 ***

2011年06月13日 | 本の読後感
通史としては、網野さんの専門の中世史が一番である。

足利義満は将軍から天皇にまでなろうとした人物。後円融上皇はこうした義満の権力の強化にたいし抵抗、自殺するとまで口走ったが1393年に死去、後小松天皇に対して義満は「治天の君」の立場に立ち、権力を行使した。義満は義持に将軍職を譲り、太政大臣になるが翌年には出家、王朝が保持していた官位の叙任権、僧侶・神官の位階叙任権、祈祷、祭祀の権限をすべて手中に収めた。これまで治天の君に仕えていた公卿・官人は義満に直接仕えることとなり、実質的な法皇となった。さらに九州の探題今川了俊を解任、管領斯波氏に近い渋川氏に交代させた。大内氏と今川氏はこうした義満に抵抗したが戦争に敗れ力を失った。義満は明との交易で「日本国王」と名乗っていたが、義満は死去、義持は明との勘合貿易を途絶させた。その頃の貨幣や信用経済の発展は海上交通を中心とした商人や廻船人、金融業者によるネットワークに支えられ、悪党、海賊達は海上交通の要諦を握り収入源としていた。

このころのアイヌや琉球の民たちは民族として一つの集団を形成、蝦夷千島王、琉球王などと自称するようになっていた。都市では自立的な宗教民、芸能民、商工民への警戒感が生まれ、差別を生じるひとつの理由になっていた。悪党や海賊も海上交通に力を発揮したが、被差別者となっていった。穢れに対する人々の対処の仕方が畏怖から汚穢としての忌避に変化したという。女性は土地財産権をもってはいたが、軍役が土地に賦課されるに関連して公的にはほとんど認められなくなってきた。しかしこれは女性の地位低下ではなく、職人の中には女性が多く見られた。遊女の地位は低下、男性の亭主に使用される立場に変化して行った。

浄土真宗は14-15世紀には時宗に押されていたが、越前の吉崎に移った蓮如の布教によって急速に勢力を拡大した。真宗はこの時期に差別対象となっていた職能民、芸能民、女性などに支持され巨大勢力となっていった。特に加賀においては一向宗門徒の国人の広い支持を獲得、1488年の一向一揆は守護富樫氏を滅ぼし加賀一国を支配するまでになった。越前の朝倉氏は一向宗門徒と妥協して支配を確立していた。各地の真宗寺院は境内に租税免除、徳性免許を特権として獲得、自治的な寺内町を成立させ、商工業者などの都市民に強く支持されていた。一向宗と日蓮宗、法華宗などは対立、戦闘をして戦っていた。

17世紀になるとアイヌのシャクシャインに率いられた2000人が幕府の力を背景とした松前氏によって鎮圧、それ以降大名に貢納物を献上して地位を保持した。幕府は傾奇者を禁圧しつつ生類憐れみの令、血や死の穢れを排する服忌令を出し、それが西日本では社会に浸透していた穢れを忌避する傾向を助長し、斃牛馬を処理し皮革を加工する人々を穢多、種々の清め、葬送に携わる人々を非人と呼ぶなどの慣習が東日本にも持ち込まれた。アイヌや琉球ではこのような差別は持ち込まれなかった。

本書は通史ではない、と著者もあとがきに解説している通り、近世以降は概説にとどまっているが、日本社会の歴史としては差別の誕生、明治維新政府の日本精神確立が太平洋戦争をもたらした、などという解説にその真髄が現れている。日本社会史として価値ある通史だと考えて読んだ。日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)日本社会の歴史〈中〉 (岩波新書)
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人間とヘビ R.&D. モリス ***

2011年06月12日 | 本の読後感
2006年に翻訳された動物学者デズモンド・モリスと夫人ラモナの共著作。

ヘビ信仰は世界中にあるらしい。 ヴードゥー教の古い神殿では生きた蛇が飼われていた。コブラは初期のドラヴィダ人のトーテムだった。紀元前1500-前700年ヴェーダ時代のインドではヘビは村落の基本的な神であり、地元の守護者だった。中国では植物と樹木の精霊は度々蛇の形を取るし、肥沃の象徴とされた。古代日本では雷神はヘビとして崇拝され農耕の神須佐之男の命はヘビと密接な関係があった。長崎では白蛇は神の使いであった。中米とメキシコでは象徴的な意味にしても重要な位置を占めていた。

毒蛇の毒の成分は意外にも十分解明されているわけではないらしい。毒自体は唾液の変化した物質、毒腺は唾液腺の一部が進化したものだという。オーストラリアの専門家フェアリの分類によれば、毒は次のように機能する。
1. ニューロトキシンは延髄と脊髄の神経細胞に作用する。
2. ヘモラジンは血管にならぶ内皮細胞を破壊する。
3. トロンバーゼは血管内血栓溶解を引き起こす。
4. ヘモライシンは赤血球を破壊する。
5. サイトライシンは赤血球、白血球、組織細胞に作用する。
6. アンチフィブリンやアンチコアギュリンは血液凝固を遅滞させる。
7. アンチバクテリサイド物質。
8. 膵液消化の準備を目的とする酵素とキナーゼの阻害物質。
コブラ、海蛇、マンバには1,4,6が豊富、クサリヘビとガラガラヘビには3,5の量が多い。インドコブラに噛まれると、酩酊感覚から始まり、虚脱感、麻痺、舌と唇の筋肉調整不能、呼吸困難により顔色が青黒くなり嚥下困難になり、吐き気、嘔吐、呼吸停止に至る。

蛇に噛まれたときの注意事項。
1. ヘビを殺してもしっぽにしか触ってはいけない。
2. 蛇に噛まれて死ぬことはめったにないことを知ること。
3. 安静にする。
4. ひもで軽く患部を縛る。30分ごとに緩める。
5. こすらず水で洗い流す。
6. 噛まれた箇所を動かさず楽な体勢を取る。
7. 鎮痛剤は使ってもよいがモルヒネは使わない。
8. 医師を呼ぶか病院に行く。出来れば蛇も持っていく。

現在生き延びている爬虫類はカメ目、ワニ目、ムカシトカゲ目、有鱗目であり、有鱗目にはヘビとトカゲが属する。しかしヘビとトカゲはいくつかの相違点がある。トカゲには四肢、まぶた、外耳があるがヘビにはない。腹面のウロコはトカゲは数列、ヘビは1列、前頭蓋はトカゲは開放、ヘビは閉鎖、顎はヘビは柔軟であるがトカゲは固定されている。尾の再生は蛇の場合にはない。

イギリスでの1962年の調査、一番嫌いな動物がヘビである子供は27%、少年は24%で少女は30%と相違がある。蛇が嫌いな年齢のピークは6歳、男女とも14歳までに20%以下に下がる。どうも霊長類には蛇に対する先天的な嫌悪感があるようだ。幼くして捕獲されたチンパンジーやオラヌータンが一度も蛇に遭遇したことがないのに、蛇を見てパニックを起こすという実験があるという。「小さくて奇妙に動く動物」なら何でも怖いのか、それとももっと複合的な原因なのかは不明である。霊長類の祖先が、ある危険信号に対して瞬間的に身を引くことが大きな利益を得たという可能性がある。

「裸のサル」の著者による本書、興味がある人は一読を。人間とヘビ かくも深き不思議な関係 (平凡社ライブラリー)
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