意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

逝きし世の面影 渡辺京二 *****

2009年12月31日 | 本の読後感
小説ではなく歴史評論を読んで感動を覚えるというのは何と素晴らしいことだろう、これはそういう本である。幕末から明治前半にかけて日本を訪れた外国人からみた当時の日本文化、庶民や侍たちの日常を紹介し、産業革命を終えて東洋の小国に通商を持ちかけてきた外国人が日本の風俗や文化をどうとらえたかを解説している。引用しているのは次のような外国人たちの日記や報告書である。
明治6年に来日し38年間日本を観察した日本研究家 チェンバレン
明治21年に来日した宣教師で近代登山開拓者 ウエストン
安政3年に領事として来日したハリスとその通訳ヒュースケン
初代駐日英国公使オールコック
慶応3年35日間の日本見聞録をまとめた21歳のフランス人ボーボワール
一人で東北旅行をした英国人女性イザベラバード
安政5年通商条約締結のために来日したエルギン卿使節団のオズボーンとオリファント
明治9年来日し東大医学部の基礎を築いたベルツ
大森貝塚を発見したモース
このほかにも多くの外国人が残した書物から証言を引き出している。

今は失われてしまって二度と戻ってこない文化、と著者はいうが、さらにそれらは明治20年代にはすでに失われていたとも紹介している。著者はいくつかの視点から当時の日本描写を紹介する。概ね章立てにあわせて紹介してみよう。

1. 陽気な人々
日本は専制国家であり人民は収奪され苦しんでいる、と聞いて来日した外国人たちが口をそろえていうのが庶民の幸福そうな顔、健康な体、遊び回る子供たち、冗談を言いながら仕事をする職人、大笑いする母親たち、控えめでかわいい笑顔の少女たちの姿であった。江戸時代の農民は天領と大名領では年貢比率が違い、大名領が厳しく生活レベルが違ったはずなのだがその差は明確にはわからず人々は家を清潔に保ち、村や町内の絆を保って幸せそうに暮らしていた。当時の日本人たちは初めてみる外国人に異様な興味を示し、他の国の中国やマレーシアであったようにおどおどすることなく素直に興味を示したという。興味は洋服、ボタン、履き物、帽子、ベルトなどでボタンを特にほしがったという。

2. 簡素と豊かさ
生活は豊かではなかったが、それが不潔や犯罪にはつながらず、泥棒がいない、大声で怒鳴りあう男たちもまれ、家々で鍵をかけているところはみたことがないと言っている。生活は決して贅沢はなく暮らしは質素、農業の方法は原始的に見えるが、使われている道具には工夫がみられ、放牧する土地が不足しているためほとんど牛馬は使われず、人力で耕作が行われている。人々の懸命の勤労により人口を十分に養うだけの農業生産力があると思われる。地域によっては貧富の差があるが、豊かな村では米、麦、綿、トウモロコシ、煙草、藍、麻、豆類、茄子、くるみ、胡瓜、柿、瓜、杏、柘榴が生育されている。年貢は江戸のはじめに測量された検知に従い決められており、それ以降の250年で生産性は50-100%も向上しているため、農民には相当の収穫分があったと思われている。

3. 親和と礼節
天然痘の後遺症である痘瘡が顔に表れている人が多い。また皮膚病、眼病を患う人が多いのは衛生状態の向上と治療法が知られていないためと観察された。そして売春の公然化により性病に罹患している人が都会では3分の一にものぼるのではないかと推察される。しかしである、こうした盲人やハンセン病などの病人は社会の中でそこそこの施しを受け生きていけたのだ。観察者によるとそれは物価の安さと、人々の思いやりと優しさだという。また、家の表は開け放たれ、家の中で行水する娘、子供に授乳する母、それらが通りから丸見えなのであり、異国人が表から見ていようと気にもしないのだ。近所のつきあいは行き来が激しく、鍵がかかっていないため子供たちはお互いに家や通りを縦横無尽に走り回って、母親や娘たちも近所同士のつきあいをしている。近所の絆が強く、開放性の強い絆の強い社会であるという見立てである。これが争いが少ない社会、礼節と親和が両立する社会を形成する根本であるという分析がされる。

4. 雑多と充溢
外国人からみた日本人の日常は、まるでお芝居の一幕を見るようで、とても現実のものとは思われない小道具や舞台装置であふれている。人力車で通る街角で見た道具売り、行商人、子守をする子供、金魚売り、靴治し、羅宇屋、飾り立てた箱を持った理髪屋などが小道具と舞台装置に見えたのだ。道には盲目の按摩や子供たち、放し飼いの犬などが道を歩いていて馬車や人力車がぶつかりそうになるが、馬丁や車夫はいちいちそれらを避け、道の端に寄せて通るのだ。

5. 労働と肉体
日本人は労働を苦役とは考えず、必要な労働を終えるとそれで一日は終わりとばかりに仕舞いにかかる。そこには効率や成果に対する報酬という概念はなく、時間あたりの賃金、という概念もない。一日に必要な糧が得られればそれでよしという姿勢であり、主人に使われて嫌々働くということではないようだ。農民が勤勉であること、職人が凝り性であることは否定しない、しかしそこには資本家と労働者という対立は存在しない、という観察である。日本には鉄道が通るまでは「分」という時間単位はなく、日中と夜間を日の長さに比例して変化する大まかに区分した時間の概念しかなかった。労働者はすばらしい肉体をしているが、支配階級の侍たちの体は細く弱々しい肉体しか持っていないと見られた。また、日本人男性がほとんど醜い容貌だったのに対し、女性はおしなべて可愛く美しいと観察された。

6. 自由と身分
一般庶民は自由度が高く、身分が高くなるほど儀式やしきたりにとらわれており日常生活の自由度がなかった。町衆の独立は尊重され、町衆同士の争いに侍が関与することは避けられた。また上流階級のものたちの生活と中流、下流の生活レベルは大きな差はなく、上流の侍たちも質素な暮らしをしていた。下流中流の民たちはそれぞれの生活に満足して皆幸福そうだった。こんなに一般人民が幸福そうな顔をしている国は欧州にもアジアにもなかった、というのが各国訪問者おしなべての感想であった。職人や商人の仕事は細分化されていた。畳、障子、大工、とび、簪、髪結い、理髪、帯、装飾品などの商売が細分化されてそれぞれ成り立つことにより多くの人々の生活を成立させている。これは飛び抜けて大儲けする商人が少なく、人々が相応の収入で満足していることと物価の安さによる。

7. 裸体と性
人々は町では銭湯を使ったがどこも混浴であり、何の不都合も生じていなかった。また、行水や川での水浴びを外国人が通る道ばたでも平気で行う娘や女性たちに何度も出くわし、外国人の方がどぎまぎしていた。道を歩く外国人が珍しい時には銭湯に入っていた男も女も真っ裸のまま表に飛び出してきて外国人を見物するため、外国人からみるととんでもない眺めとなった。素っ裸の人垣の中を通ることになったのである。夏の労働者はふんどし一つ、日本人は裸にこだわらなかったが、西洋人が着るような胸や肩が露出した舞踏会用の服を着せると恥ずかしがった。彼らは、女性が人目を引く目的で露出させることに恥ずかしさを覚えていたのであり、日常生活での裸体の露出にはまったく恥ずかしさを感じないようであった。売春は公然と行われ政府もそれを認めていた。街道沿いの宿にはすべて飯盛り女、つまり売春婦がおり、人々はお茶でも飲むように売春婦を買った。そのため性病は成人の間に蔓延していた。売春婦はその多くが病気になり25歳の年季明けを待たずして死んだが、そうした売春婦も年季明けを迎えると普通の結婚をした。人々も売春婦だったことを理由に受け入れを拒むようなことはなく、芸者としてのしつけがしっかりとなされた社会人として受け入れいていた。

8. 女の位相
娘は結婚するまではとても大切に育てられ幸せな子供時代を送る。しかし、結婚すると嫁ぎ先の姑、夫に仕え、生活は一変するのだ。このように女性の立場は建前上は男の下にあった。しかし、実態としては家庭の経済を握るのは女性がしっかりしている場合には妻であり、多くの家庭では女性の方がしっかりしていたため、女性の家庭での力は夫より強かった。子供が成人すると女は姑となり安逸な生活に入る。新妻時代の苦労は姑となったときの安穏な生活で回復されるかのようである。女性に限らず中流以下の人々も比較的自由に旅行を楽しんでいるようだが、上流階級である侍階級の女性の方が外出の機会は限られていた。

9. 子供の楽園
子供は大変大事に育てられていた。どの家庭でも子供たちは自由に遊ばされていて、親が子供を叩いたり、大声でしかりつけたりはしない。さらに大人たちは大人の時間である食事や観劇、お寺参りなどへも必ず子供たちを連れて行くため、子供たちは大人の振るまい方を生活の中で身につけていく。子供たちは自由に育つ中でも大人の社会のしきたりや我慢、忍耐を学び、社交辞令を覚えたのだ。そして、12-3歳になれば立派に親の代理を務めることができるようになる。

10. 風景
農家は貧しくても生活に清掃されていて気持ちがいい。さらに裏山や木立などが家を取り囲み、さながら自然のなかに生活があるように見える。街道沿いの茶店は必ずすばらしい景色の場所にあり、日本人が景色を眺めて自然を楽しむすべを知っていることを物語る。自然の美しさを鑑賞する目は誰かに教わったわけではなく、日本人が生まれながらに持っている能力であるとも思える。四季ごとに咲く花や草木、秋には紅葉、雪景色など、一部の芸術家だけではなくすべての日本人がそれを楽しんでいる。人間は自然の一部であることをあるがままに受け入れているのだ。ヨーロッパの一般民衆が果たして景色の美しさを愛でるだろうか。欧州の農民たちの話題といえば明日の収穫であり今日の夕食である。

11. 信仰と祭り
日本人の武士階級に信仰のことを聞くと、「無信仰」と答える。日本人の知識階級は寺の僧侶に尊敬を払っているとは思えない。一般庶民も同様であるが、しかし道ばたの地蔵や村の神社で手を合わせているのはほとんどが下流階級の女性である。男や上流階級の人たちはお参りをしないようだ。祭りは日本人にとっては店が建ち並ぶ市であり娯楽である。お伊勢参りや善光寺参りは行楽旅行であり、決して宗教的な巡礼などの行いではなさそうである。日本人は神道と仏教の違いには無神経であり、さらにはキリスト教さえ簡単に受け入れるのには驚いている。キリスト教の布教にきた神父が寺の一角を借りて布教をしたいという申し出に、寺の僧侶はこれを受け入れ、場所を少し広げたいというと、そこにあった仏像などを倉庫にしまって場所を作ってくれたのだ。どこの国に異教徒に場所を貸してくれる宗教家がいるだろうか、これが宣教師たちの素朴な疑問であった。僧侶に限らず、日本人が外国からの訪問者に気持ちよく過ごしてもらおうと心を配っていたこと、外国人にも大いに感じられていた。

このような日本人の文化はすでに失われているという。筆者はこのような時代が日本にあったことを150年前の外国人の目から見た日本描写を通して我々に伝えてくれている。しかし、いまでもこれらの一部は残っている。気がつくのは次のような点だ。
ー宗教的儀式やしきたりは年中行事であり楽しみの一部でもある。お祭りやお寺参りは今でも残っている。
ー正月、七草がゆ、桃/端午の節句、お盆、七五三などは日本人に染みついた年中行事であり、それらの宗教的背景を意識することはない。
ー子供たちは比較的自由に育つ。
ー田舎には近所つきあいが残っている。
ー清潔好きであり、礼儀正しい。
ー年寄りを大切にする。
ー自然の美しさを鑑賞する心を持つ。
ー田舎には里山が残る。
沖縄には多くの古き良き日本文化が残っている気がする。しかし、こうした美しい日本文化は文明開花、殖産興業、富国強兵のかけ声とともに日本中で薄れていった。さらに太平洋戦争の敗戦で跡形もなくなったと思うものも多い。しかし、今でも残るいい部分、日本らしい思いやり、優しさ、長幼の序、四季折々の良きしきたりなど、なんとしても残したいと思う。すばらしい本を読んだ気がする。
逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

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横浜富貴楼お倉 鳥居民 ****

2009年12月30日 | 本の読後感
幕末から明治初めにかけて料亭の女将として横浜で料亭富貴楼を経営、当時の政治家や経済人を集め一世を風靡したといわれる「お倉」とう女性の話をとりまとめたもの。江戸一番のいなせな男で遊び人だった斉藤亀次郎に惚れて、一生養ったお倉は、もとは新宿の女郎屋豊倉の遊女だったが、そのときに亀次郎と知り合い新宿から品川に河岸を変える。しかしちょうど江戸幕府が瓦解、官軍の江戸入城があり江戸の町は火が消えたようになったため、亀次郎と二人で大阪に行きます。そして明治2年に横浜にきて、芸者を始めます。そのころ井上馨と知り合い、明治4年駒形町にあった松心亭を買って料理屋を始める。井上の知り合いの陸奥宗光は横浜の知事、その年から世界旅行に出かける伊藤博文も顔を出すようになる。店を尾上町に移した頃からは大久保、大隈、松方など政界の大物も顔を見せるようになる。なぜこうした政治家たちが東京ではなく横浜の富貴楼に集まったのか、後にお倉はこう述べていたという。
「幕末に京都の志士たちは京都の町中をさけて伏見に集まったように、横浜に見えたと思うのです。それにできたばかりの汽車に乗りたかったのですよ。明治5年に開設された新橋ー横浜の鉄道は近代日本の象徴だった。しかし10年前までは江戸の時代、開国と攘夷がまだ戦っていた、そうした時代に新しい日本をどうするのか、前例もない中での政治だった。そうした中で、鉄道に乗って自信を付けたかったと思うのです。」
歴史で習うこうした面々は自信満々だったように思えるがそうではなかった、というお倉さんの証言である。お倉は三菱の岩崎弥太郎や後藤象二郎とも家族ぐるみのつきあいがあった。そしてこの富貴楼の座敷では様々なことが相談され語られた。その詳細は伝えられてはいないが、明治4年に店を開き、明治29年に大磯に別邸を建てて移転、明治39年に引退するまでの間、お倉が経営する料亭で数多くの政治家や経済人たちが語った中から、いくつかが紹介されている。戊辰戦争で西軍が東軍を追いつめる中、上野の戦いに負けて会津に下がり、その後どうするのか、蝦夷か桑名か、という土方歳三の決断もあったという。伊藤博文は上海からロンドンまでペガサス号に乗り込んで密航のような形でいった話も聞かされたという。

大久保利通の息子牧野伸顕、小泉信三もお倉の客だった。福沢諭吉の門下生だった竹越与三郎はお倉の働きを次のように紹介する。
「西郷隆盛が九州で反乱を起こしたときに、私兵を募って京都で政府に反乱しようとした陸奥宗光を大隈、井上、大久保は捕縛しようとした。これを知ったお倉は陸奥に腹を切ることを勧めている。おめおめと捕まるよりは名誉ある死を、というわけである。大隈と伊藤が明治14年の政変以降仲違いしていた仲を取り持ったのもお倉だ。岩崎弥太郎と井上馨の諍いの仲裁も行って、三菱と共同運輸の合併を裏で取り持った。」

鉄道が横浜から国府津まで延伸したのをみたお倉は明治29年に大磯に別荘を建て移転、そこで料亭を開設したのだが、伊藤博文、山県などそうそうたるメンバーも大磯に別荘を建てたり引っ越したりしている。先見の明があったのか、人望が厚かったのか、とにかく明治初期の女傑であった。
横浜富貴楼 お倉―明治の政治を動かした女
昭和二十年 第一部 (1) 重臣たちの動き 【1月1日~2月10日】
昭和二十年 第一部 (2) 崩壊の兆し 【2月13日~3月19日】
昭和二十年 第一部 (3) 小磯内閣の倒壊 【3月20日~4月4日】
昭和二十年 第一部 (4) 鈴木内閣の成立 【4月5日~4月7日】
昭和二十年 第一部 (5) 女学生の勤労動員と学童疎開 【4月15日】
昭和二十年 第一部 (6) 首都防空戦と新兵器の開発 【4月19日~5月1日】
昭和二十年 第一部 (7) 東京の焼尽 【5月10日~5月24日】
昭和二十年 第一部 (8) 横浜の壊滅 【5月26日~5月30日】
昭和二十年 第一部 (9) 国力の現状と民心の動向 【5月31日~6月8日】
昭和二十年 第一部 (10) 天皇は決意する 【6月9日】
昭和二十年 第一部 (11) 本土決戦への特攻戦備 【6月9日~6月13日】
昭和二十年〈第1部 12〉木戸幸一の選択

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雲の都(1,2,3部) 加賀乙彦 ****

2009年12月28日 | 本の読後感
永遠の都を夏に読んで、続編を読みたいと思っていた。この物語、登場人物が多いので、永遠の都から雲の都に至る主要な登場人物と親子夫婦関係と不倫関係を図にしてみた。

永遠の都では戦後、悠太が幼年学校から帰ってきて、父の悠次に戦争の意味、大人の身代わりの早さについて追いつめた。妹央子がパリに留学して、希望を感じさせ終わっている。雲の都は昭和27年から始まる。透はその後弁護士になり多忙な生活、夏江は透が火之子を八丈島に連れて帰り5歳まで父子で暮らすが、東京に帰ってきた。夏江は31歳になって女子医大に入学、医者を目指すため、初江が火之子を預かっている。この昭和27年の頃にはまだ戦争の傷跡がひどく、西大久保の小暮家の周りは、米兵相手の連れ込み旅館が建ちいかがわしい歓楽街へと変貌していた。夏江と透は一度別居したが 今はよりを戻そうとしている。悠太は東大医学部に合格、医者を目指しながら亀有の セツルメントで地元の人たちへ診療所と託児所を開設している。菜々子は悠太を慕うが悠太にはその気はない。セツルメントに出入りしている浦沢明夫は菜々子を思い、悠太に告白する手伝いをしてもらう。菜々子は明夫の思いを受け入れ結婚する。60年安保前夜の騒然とした世の中で、左翼右翼がうごめく中、悠太は活動する中で資金が必要となり、初恋の人富士千束の リサイタルを開き、そして桜子と一緒に五郎の絵の展覧会を開いて収入を得た。桜子は夫となった野本の造船会社から得られる収入で、華やかな生活を送っている。ヨーロッパに留学中でシュタイナー先生に師事している央子はパリでデビューし、成功をおさめる。

悠太は東大医学部を卒業、精神科の研修医として松沢病院に派遣され、東京拘置所で医官として様々な犯罪者と出会う。「宣告」で描写された精神の病、犯罪者の心の闇が語られる。戦後の有名になった事件の死刑囚達と面談、なぜ犯罪をおかしたのか、今はどう思っているのか、死を受け入れているのかなどヒアリングし、資料としてまとめる。悠太は晋助と時田利平のカルテを探し、見つける。悠太が精神医学を志したのは祖父利平と晋助がヒロポン中毒と精神の病をきっかけにして死んだことにあるのだろう。そして桜子との逢瀬、桜子は悠太との間に子供を産み、夫の野本もそれを自分の子と認知、名前を武太郎と名付ける。この間、央子はロンティボー国際コンクールで優勝し、一層名声を上げる。

そして時は1964年、東京オリンピックが開催される年だ。悠太は35歳、火之子の本当の父親は間島五郎だったことが医学的に証明されてしまう。調べたのは悠太、夏江は透にこのことをすでに告白していたが、透は動揺し火之子とぶつかり、火之子は家を飛び出してしまう。学生運動の全共闘が登場、自分に反対する勢力は反革命勢力だ、と支離滅裂な屁理屈を主張、悠太とぶつかる。この構図、小泉劇場と同じだ。央子はヨーロッパでの成功を手みやげに帰国、シュタイナー先生の息子ピエールとの結婚を決意、日本で活動する。桜子は50歳、悠太は40歳になり、桜子は一度アメリカの葡萄園主のお金持ちと結婚し離婚して帰国していた千束と悠太を再会させる。悠太は千束にプロポーズ、二人の結婚に反対していた千束の父は痴呆になっていて、反対する人もなく二人は結婚に同意する。そのころ学生運動の火の手は西大久保の木暮家にも及ぶ。学生運動を押さえつけようとする機動隊、それを見物する野次馬達に家が蹂躙され、住めなくなってしまう。この土地を売ると1億以上になるとわかり、初江夫婦と悠太は本郷のマンションを買うことになる。最後は透の死だ。透は末期ガンであることがわかり、家を飛び出していた火之子に連絡、父が自分のことを実の子ではないと嫌っていると思いこんでいた火之子だが、結局火之子は父の透と最後の時を過ごすことを決める。約1年、二人は最後の時を過ごす。

物語の力としては時田利平という傑物が主人公であった永遠の都には遙かに及ばない。雲の都は悠太が主人公、筆者にとっては自分だからだろうか、どこまで書こうか迷いながら書いたのだろうか。しかし永遠の都との共通項は、身近に感じられる時代世相だ。永遠の都は戦争であったが、雲の都は戦後復興と学生運動だ。悠太にとってみると学生運動などは所詮絶対殺されることはない安全地帯からの国家権力への遠吠えであり、国家権力も催涙弾と水でこれらを排除するだけ、戦争時代の強力な統制からはほど遠いと感じている。さらに、学生たちの主張が独りよがりで、戦争時代、国民が国家の呼びかけで国を挙げて戦争に突っ走ったこととの共通項を見いだすのだ。

筆者の精神科医としての描写も興味深い。「悪魔のささやき」という単語が数回登場、死刑囚が殺人を犯した理由、学生運動、男女関係さまざまな場面で使われる。これは新書「悪魔のささやき」で詳しく語られている。また、「フランドルの冬」を書いた筆者の様子が物語の終盤、J大学での学園封鎖により時間ができた悠太が取り組む小説として登場する。

「雲の都」の読みどころ、ポイントは戦後の時代世相、精神科医としての死刑囚心理描写、学生運動と太平洋戦争時代の思想と言動の相似形、加賀乙彦の自伝であるといってもいいのだろう。
雲の都〈第1部〉広場
雲の都 第二部 時計台
雲の都〈第3部〉城砦
死刑囚の記録 (中公新書 (565))
宣告 (上巻) (新潮文庫)
宣告 (中巻) (新潮文庫)
宣告 (下巻) (新潮文庫)
不幸な国の幸福論 (集英社新書 522C)
小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)

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葡萄と郷愁 宮本輝 *** 

2009年12月26日 | 本の読後感
葡萄と郷愁、象徴的な小説。東京とブダペストの女性がそれぞれの状況から脱出できるチャンスをつかむ。同じ日の時差7時間ある別地点での二人の女性の心の葛藤を描く。

沢木純子はロンドンに住む外交官村井から何度も国際電話をもらいプロポーズに「はい」と答えている。外交官夫人になりたいという気持ちと、今までつきあっていた幼なじみの孝介とを比べている。孝介との思いではあるが、村井と結婚しようと決めている。それなのに孝介との最後と思えるデートに出かける。その途中で友人の真紀に出会い、真紀から村井との関係を打ち明けられる。しかし純子の心は変わらない。孝介とのデートでは、孝介の自宅でセックスをするが心は村井に向かっている。もう決めているようなのだが、心の中での迷いがかえって反対の行動をとらせているようだ。幼なじみで両手をなくしたいつ子のことを思い出し、彼女が結婚することを聞く。いつ子に電話して自分の迷いを打ち明けるが、いつ子は村井との結婚は孝介と決着がつけばうまくいくと励ましてくれる。孝介に共通の郷里岡山から送ってきたというおみやげの葡萄をもらう。

孝介と分かれた後、モロッコ旅行から帰ってきたばかりの先輩の岡部晋太郎と偶然出会い、おでん屋で晋太郎が離婚したことを知り、復縁を進める。タクシーで家に帰る途中、おでん屋にブドウを忘れてきたことに気がつくが、そのまま家に帰る。そこに村井からの電話があり、挙式の日取りを決める。これが一つの話。

同時進行でブダペストのアーギとい若者が偶然であったアメリカ人未亡人の養女になるという申し出を受けるかどうかを悩んでいる。ハンガリーはまだ共産主義の国、自由が制限されていて好きなことができないが祖国は愛している。こちらも大学の友人や恋人がいて、町の居酒屋で葡萄酒を飲んで、悩みを打ち明け、シンデレラのような養女の話に友人も耳を貸している。しかし、祖国と友人、そして自分の父親は捨てられず、ハンガリーに留まろうとする。アメリカ人未亡人から国際電話がかかってくるのだが、電話回線が悪く受話器をあげるとすぐに切れてしまう。これがもう一つの話。

純子は郷里の葡萄をおでん屋に忘れてロンドン行きを決め、アーギはハンガリー産の葡萄酒を飲んでブダペストに残ることを決める。1990年の小説であり、ソ連がまだあって東欧諸国は暗い日常が続いていた。一方の日本はバブル景気で浮かれていた頃だ。逆の決断になりそうな気もするが、主人公たちは自由な国からは脱出し、不自由な祖国にとどまる決意をした。アーギも思い切りよくアメリカに行ってほしかった。どちらも半日の話であり、半日の中に二人の育った故郷や両親、幼なじみの思い出が絡み合って、現在の決断につながる。葡萄は土地が乾燥していて栄養が行き届かない土地でも育てようによっては豊かに育つという。両親がどのようにその子を育ててきたのか、子供が故郷と育ての親のことをどう考えて生きてきたのかが決断につながっている。
葡萄と郷愁 (光文社文庫)

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百代の過客 ドナルド・キーン(上・下) ****

2009年12月25日 | 本の読後感
アメリカ人の筆者に日本の古典日記を教えてもらった。蜻蛉日記では次のように評価する。「この日記が持ついちじるしい特徴は強烈な女性的性格だといえる。自分を客観視しようなどという気持ちは毛筋の先ほどももたないという、ある女性の不幸な記録である。この世に自分ほど深く悲しんだ女性は誰一人いないと確信し、読者にもそれを味あわせようと、彼女は心に決めていたのである」道綱の母として知られるが、夫は藤原兼家、政府高官である。彼女は息子と夫、この二人以外には関心を示していない。彼女は平安女性の生活の悲しみを読者に伝えようとしているというのだ。キーンはこの蜻蛉日記と奥の細道を日記の傑作としているが、無名の日記にも大いに関心を示している。聞いたこともない多くの日記を紹介する中で、日本人が書く日記と西洋人の日記の違いを次のように解説する。「日本人の日記に主に記されるのは自分の心の中とその動きであり、西洋人のようにどこで何を食べて、誰と何を話したかではないのである」

キーンは太平洋戦争中は従軍し、日本兵が戦場に残した日記を収集するという活動をしていたという。米国軍は禁止していた日記を日本兵の多くが書き、それらは結構有用な情報源となったからである。そして日本兵の日記の、それも死ぬ間際になればなるほど、どんなに文学的才能がないと思われる兵士の日記ににも感動を誘う記述がみられたという。

日本人が残した平安時代から幕末までの80編の解説、朝日新聞での連載を上下の本にしたもの。価値ある書き物だと思う。
百代の過客―日記にみる日本人 (上) (朝日選書 (259))
百代の過客―日記にみる日本人 (下) (朝日選書 (260))
図説 地図とあらすじで読む万葉集
万葉集を読む (歴史と古典)
方丈記・徒然草・歎異抄 (日本の古典をよむ)
古今和歌集・新古今和歌集 (日本の古典をよむ)
土佐日記・蜻蛉日記・とはずがたり (日本の古典をよむ)

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オーケストラ楽器別人間学 茂木大輔 **

2009年12月24日 | 本の読後感
オーケストラの担当楽器別性格診断。大学のオーケストラが淡路島の合宿にいって、夜の練習が終わった後、飲み会になり、二次会で八畳の部屋で飲んでいて、ふっと話題が切れたときに、この本があれば結構盛り上がるかもしれない。そんな本。僕はトロンボーンだった。どうなっているかというと、酒飲み、開けっぴろげでいつも上機嫌、という性格診断、まあそうだけどネ。
オーケストラ楽器別人間学 (新潮文庫)

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平成今昔物語 村林悟 ***

2009年12月24日 | 本の読後感
特別すごい、と思う本ではなかったが、まさに自分の人生と重なる昭和史がかいつまんで紹介され、実に懐かしかった。昭和23年に三重県に生まれ育った筆者が自分の子供たちに伝える昭和の歴史、という形で語られる。昭和史を平成の今から眺めているのでこういうタイトルになっている。僕は昭和29年(1954年)生まれ、自分史に重ねてそれぞれのエピソードを読んだ。

南極観測船「宗谷」、初めて南極に出かけたのは1956年、僕も小学生の頃にプラ模型で「宗谷」を作った記憶がある。太郎次郎を置き去りにして逃げ帰ったのが第二次南極観測だった。氷に閉じこめられた宗谷号はソ連の砕氷船にロープで引っ張ってもらったがダメだったという。結局ヘリで脱出、アラスカ犬16頭は置き去りにされた。いや、思い出した、作ったプラモデルは次の「富士」だったはずだ。南極砕氷のための船翼のメカニズムがついていたからだ。その次の「しらせ」も老朽化している、というのは平成の今の話だ。

伊勢湾台風では5000人以上の人が死んだ。1959年というから、僕は京都に住んでいた。潮岬から伊勢湾に向かったため、京都でも停電があったと思う。当時台風でなくても停電は普段でもあった記憶がある。電力供給はまだ不十分だったのだ。家に電圧を上げる道具があった。それがないと電圧が下がってテレビの映像が半分くらいに縮むのだ、今の人たちには信じられるだろうか。しかしである、停電になっても蝋燭をともして結構生活できるのだ。電気冷蔵庫もテレビも炊飯器もなかったからだ。うちに炊飯器がきたのは1961年頃、冷蔵庫は62年やテレビははやくて浅沼委員長が殺されたニュースを何度も何度も見た記憶がある。64年東京オリンピックの時にはカラーテレビ導入が検討されたが、当時天然色といわれていたカラー放送はまだあまりなく我が家では見送られた。62年の冬には大雪が降り、京都でも30センチ積もった、第二室戸台風では京都は伊勢湾台風より大きな被害があった。同じくらいの台風はもう来なくなった。停電もないし、あのころの台風前のなぜか「ワクワクする」子供の思いを感じている現代の子供たちはいるのだろうか。

60年安保と岸伸介。近所の子たちと「安保反対あそび」をしていた。「あんぽはんたい」と叫びながら歩き回る、という単純な遊び、近所に警官の息子がいてそいつが僕の子分だったので、いつもその母親が出てきて「こら、やめなさい」怒るのだから楽しいことこの上なかった。「ハガチー帰れ!」遊びもあった。子供はなんでも遊びにしていた。岸伸介も暴漢に刺されたが命を取り留めた。祖母は岸が死んで浅沼さんは生きていてほしかった、と言っていた。

ケネディ大統領が死んだのは祖母に教えてもらった。暗殺って何、と聞いたら、悪いやつに殺されることだと答えた。誰?と聞いたらわからない、と祖母は答えた、その通りだったのだ。少し前の1960年だったと思うが、ソ連のスプートニクが月の裏側の写真を撮り、日本の新聞にもその写真がある面一面を使って掲載され、我が家では玄関、といっても狭いアパートだったのでそのドアの内側に貼ってあった。ただの月の表面じゃないか、と思ったが大人たちは「ソ連はすごい、アメリカなんかそのうちソ連にやられてしまうぞ」と言っていた。ガガーリンが初めて地球外飛行をしたのもこのころ62年だ。翌年、ガガーリンは日本にもきた。僕はガガーリンバッチを買ってもらい長いこと宝物にしていた。65年には女性初の宇宙飛行士テレシコワが「私はカモメ」と言った。ソ連の方がアメリカより進んでいると思っていたので、僕は大きくなったらモスクワ大学に行きたいと思っていたのだ。

東京オリンピックの前は、五輪音頭や「オリンピックへの道」というクイズ番組があって盛り上がっていた。これはすごい盛り上がりであり、今の東京招致どころではなかった。国民をあげて東京オリンピックをみたい、成功させたい、日本をいい国にしたい、という雰囲気で国中があふれていた。僕の叔母は当時中学生、僕は小学4年、叔母は中学代表として東京オリンピックの開会式に行った。これはうらやましかった。何しろ、夢の超特急にも乗れるのだ。帰ってきたら話を聞こうと思っていたが、テレビですべてを見ることができたので、なんでも知っていたので聞くことはなかった。五輪期間中でテレビ中継が目白押しなのに、同級生たちが放課後
ドッチボールをして遊んでいるので、「こんな世紀の瞬間を見なくてどうする」と思いながら毎日学校から飛んでかえってテレビにかじりついていた。印象に残ったのは東洋の魔女バレーボール、重量挙げの三宅、マラソンの円谷、競技場でイギリスのヒートリーに抜かれたのだ、これは「なにしてる!!」と叫んだものだ。

ベトナム戦争は知らない間に始まっていた。東京オリンピックが終わってすぐ、トンキン湾事件と報じられたと思ったら「北爆」という聞き慣れない言葉がテレビで毎日伝えられるようになった。ベ平連や学生の反米デモが繰り返され、テレビドラマですばらしい国だと思っていたアメリカがベトナムの人をいじめている、という印象だった。ゴジンジェム政権、グエンカオキ、ホーチミン、テト休戦、17度線などという言葉が耳にタコができるほど報じられた。ジョンソン大統領は戦争をやめられず、ニクソンが戦争を止めると公約して大統領になったのだが、なかなかやめられず、パリ合意にはずいぶん時間がかかった。73年に休戦合意してからもしばらくは戦争は続いていた。僧侶が焼身自殺する映像が何回もニュースで流されて、反戦疲れもあった。僕が小学生から高校生までの間続いたベトナム戦争、その間反戦歌としてフォークソングははやり続けた。高校3年間はずっとフォークソングを歌っていた気がする。「戦争を知らない子供たち」「イムジン河」フランシーヌの場合は、で始まる歌もあった。

佐藤栄作は非核三原則と沖縄返還でノーベル賞をもらった。ちょうど今、沖縄への核持ち込み密約の契約書が見つかった。ノーベル賞はどうなるのだろう。「私は嘘はもうしません」で有名になったのは池田勇人だが、佐藤栄作は今の今まで嘘を突き通してきたということになる。

中国の文化大革命とはなんだろう、実に訳がわからない革命だ。毛沢東が腹心だった林彪を殺害した(報道では飛行機でソ連に逃げる途中で墜落したとされたが、誰も信じなかった)。若者が自分の親や大学の先生たちをつるし上げて、毛沢東語録を手に持って行進しているすがたが報じられた。それまで1949年に独立した中国には何も印象を持っていなかったが、なにか得体が知れないと感じたのだった。造反有理、革命無罪というスローガンだったが、高校一年生の時に教室の掲示板に貼ってあった「造反有理、紙は醒めているか」意味がわからなかった。

成田空港反対運動はいったい誰が反対していたのだろう。国際化する中、羽田は手狭だから千葉の不便な成田に空港を作る、それに反対するのだったら少しはわかるが、建設そのものに、そしてその手続き、手順に反対したのだ。当時社会党や共産党も反対していたが、今ではどの党の議員も海外に行くときには成田から飛行機に乗っている。土地を手放さなければならなかった人たちには同情が集まったが、それは成田に限らない。どうして成田闘争、などという長期間にわたる騒ぎになったのか、誰かの政治的判断ミスだ。

ソ連のチェコ侵攻は1968年、中学2年の時だった。当時はチェコスロバキア、プラハでドプチェクという大統領が国の民主化を図ったが、ソ連がそれを戦車でつぶしたのだ。ソ連のそれまでの良いイメージがつぶれた事件だった。北朝鮮だって東京オリンピックの時には手を横に振る入場行進を見て,いい国だと思った。ソ連も中国もいい国という印象だったのが、このころにみんなつぶされた。それはアメリカも同じ、世界に良い国はないのかという気がした。

大阪万博は1970年3月に開幕、当時僕は中3の春休みが始まったばかり、暇な春休みの3月17日に万博に行った。まだまだ開幕直後で入場者数が一日15万人くらい(当時入場者数が毎日新聞に出ていた)、大人気のアメリカ館、三菱未来館にもノータイムで入れた。5月には友人と買ってもらったばかりのカメラを手に、英語の実践に万博に行った。外人がうじゃうじゃいるのは勉強のチャンス、というわけだ。準備していったフレーズは次の通り。「Excuse me, Would you please take a picture with us?」 これを外人とみれば言い寄るのだ。最初の外人は高校生が二人急に近づいてきたので、びっくりしたようだったが、「picture?」とかいいながらカメラを取り上げようとするので、「with us」と連呼しながらカメラを取り返した。しかし、とにかく通じたのに気をよくして10人以上の外人と写真を撮った。結局通じた単語はpictureだけだったようだったが満足だった。

三島由紀夫が割腹自殺したのもこの年だった。森田必勝という若者が介錯したと報じられ、そっちの方に反応した。介錯って侍でもないのにできるのか、と思ったのだ。よど号ハイジャック事件もこのころだ。ハイジャック、というおしゃれな言葉も初めて知った。このころ英会話学校に行き始めて、この話題になり、ハイジャックがちゃんとした英語だということも知った。船ならseajack、Jackというのは悪いやつなのだ。70年安保は10年前のようなデモにはならなかったが、大学紛争では多くの死人がでた。10年前は樺美智子さん一人が死んで大騒ぎだった。高校に入って驚いたのは、5月1日メーデーの日には学校が2時間目で終わり、先生たちはバスを借りてメーデーに出かけてしまったことだ。生徒は自習、当然みんなさぼって帰ったが、僕たちは先生が出かけていったというメーデー会場に行ってみることにした。宇治川の塔の島が会場、大勢の人たちがいた。先生に見つかるにはいやだったが、先生たちがさぼっているのだ、と思い、先生を探しに行ったのを思い出した。その後どうなったのか記憶にない。

田中角栄による日中国交回復は1972年、ニクソンの頭越し外交に遅れること一年、日本も中国と国交を回復したというニュース、ぴんとこなかった。なぜなら国交などなくても商売はやっていたし、人は行き来していたのを知っていたから。パンダがきたので良かった、というのが印象だ。田中角栄は列島改造論で建築ブームが起きた。僕は大学志望を建築学部にしようと思っていた、短絡的だった。大学入学は1973年4月、次の年にはロッキード疑獄で田中角栄は逮捕、ブームは終わった。

オイルショックは突然やってきた。中東戦争が起きて、石油から作られる製品がなくなるという噂からトイレットペーパーや洗剤の買い占めが起きたのだ。実はこのころ我が家ではトイレットペーパーを使っておらず、落としがみだった。トイレットペーパーなどなくなっても平気だと思っていた。実際すぐに店先にペーパーは復活、実際にはいくらでもあったのだ。しかしガソリン代はそれまで50円だったのが100円になった。これは元には戻らなかった。

浅間山荘事件は、高校2年生の冬だった。テレビで浅間山荘に警官が突入する様を実況中継しているので、授業を抜け出して食堂でテレビを見ていた。「どうしてほかの生徒たちや先生はこれを見ないのだ」と世紀の瞬間を見逃しているみんなを不思議に思ったものだ。すごいのは、鉄の玉で浅間山荘をたたきつぶす作業、大迫力だった。内部リンチがあったこともわかり、これ以降もうだれも過激派に肩入れすることはなくなったと思う。

うーん、こうして書いてみると、1960年から1977年3月僕が大学を卒業するまでの日本の出来事は興味を引かれる面白いことがいっぱい起きている。それに引き替え1980年以降の日本国内は平穏なのだ。民衆の怒り、国外からの脅威、戦争の恐怖、国家への不信などが大きな渦となっていたのがその期間。2010年海外は大変なことが沢山起きるのだろうが、日本の国内は引き続き平穏な年になるのだろうか。
平成今昔物語

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あなたみたいな明治の女 群ようこ ***

2009年12月23日 | 本の読後感
選ばれた女性がバリエーションに富んでいて面白かった。森鴎外の母、峰子は1846年生まれで長男の鴎外(林太郎)を溺愛する。悪気はないが、林太郎の妻茂子に経済を任さず、林太郎の日常の面倒までみている。鴎外はこうした家庭生活を小説「半日」に書いている。峰子は家族にとっては面倒見がいい母親であったかもしれないが、周りには相当迷惑なおばさんだったのではないかと筆者は言っている。息子の林太郎の大学での成績にまで口出しをしているのだ。担当教授のところに押しかけて点数を上げるように交渉していたことが日記に書かれているという。教育ママであり、結婚後も日常の面倒をみて財布も握っているとしたら、妻の茂子は立場がなかっただろうと思える。

高群逸枝は結婚して小学校代用教員となるが、物書きとなるべく執筆に専念する。多くの研究や詩集なども発刊しているが、筆者はもっぱら高群が飼育してかわいがったニワトリについて書いている。筆者にとってみると「あの高群が」という気持ちがあったのだろう、高群がニワトリを可愛がるときには我が子のように接していたというのだ。これが子供がいなかった高群夫婦円満の秘訣でもあったようだ。

木内きゃうは小学校教員となり、小学校校長から参議院に選出されている。若い頃から年をとるまでずっと働きづめで、休むいとまもないような人生を送ったらしいのだが、それが筆者には新鮮にうつっているようだ。「あんまり一所懸命なので鬱陶しいくらい」と評している。

富本一枝は雑誌「青鞜」編集部に1年勤務、平塚らいてうの「愛人」ともいわれた男勝りの新しい女であった。絵の才能を生かしてその後も活動をするが、富本憲吉と結婚、家庭的な人になる。しかし憲吉は外に女性を作り家を出てしまう。それでも子供を育て家庭を守った。

福田英子は頭がよかったが男運が悪かった。子供たちに読み書き算術を教えて一家を支えた。大井憲太郎の大阪事件に関わったとして入獄、出獄後大井の子供を作るが離別。その後福田友作と結婚、しかしその後も苦労に苦労を重ねる。死ぬ間際の言葉「男はだめだ、勲章や位階をほしがるからね、その点女はいい、そんなものにき求めないからねえ」

宮田文子は波瀾万丈、思いつき通りに行動して、その思いつきが当たるのでそこそこの行動ができた。「こんな女が明治時代に本当にいたのか」というのがこの人の人生を紹介された本を読んだときの感想だそうだ。二度の結婚と離婚、政友会機関誌の記者を経験してパリへ移住。パリのファッションを日本にもたらすため資生堂の子供服部主任となる。レストランを開業したりピストルで顔面を撃たれたりまさに波瀾万丈である。

網野菊は志賀直哉の弟子として小説を書いた作家であったが、小さい頃母が姦通罪で入獄、父は再婚した。母は菊が
女学生の時に出所してきて学校帰りの菊に会いに来るが、あまりにみすぼらしく感じ冷たく接する。小説の愛読者であるという孝一と結婚、しかし結婚生活は思い描いたものとはかけ離れており離婚、その後一生一人で過ごした。

こうした女性たちを群ようこは自分の手元に引き寄せて、自分だったらどうかと考えている。いずれの女性もその一生の一端がわかるような記録があるのだから、小説家や議員などその道での一流の女性であったはずだが、この本では一流の部分にはあまり焦点を当てずに、何気ない個人生活について興味ある部分を拡大して読者に見せているのだ。それが明治時代に活動していた女性たち、ということで、この時代にもこうした女性たちがいて、今の女性と同じような苦労と楽しみ、悲しみを持っていたのだとよくわかる。また明治時代の女性の立場、それに反発した女性の気持ちがよくわかる。男性の立身出世物語では内分、本物の歴史が感じられ「おんなの昭和史」というような感想を持つ。筆者もそれを狙っているのだろう。
あなたみたいな明治の女(ひと) (朝日文庫)

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仏教と儒教、仏教と神道、キリスト教とイスラム教、仏教とイスラム教 ひろさちや ***

2009年12月21日 | 本の読後感
昨年のラマダン期間中、日本事情紹介番組「Thought(改善)」が、サウジ、シリア、ヨルダン、エジプト、イラク等のアラブ諸国視聴者の間で大反響を巻き起こしたという報道がありました。番組では日本人の規律、社会的モラルに焦点を当て、サウジ人の習慣やマナーが対比して紹介されました。番組放映期間中、ジッダで行われた名古屋グランパスと地元サッカー・チームのアル・イティハドの対戦は2対6で日本チームが敗れましたが、試合後日本人サポ-タ-が観客席を清掃して引き上げたことを賞賛する記事が掲載され、企業や学校、家庭等で日本人を見倣う光景が見受けられるようになったということです。


当該番組での、アラブ人からみた日本人の道徳と経済発展紹介例は次の通り。

1. 日露戦争でバルチック艦隊を打ち負かし、太平洋戦争敗戦で壊滅的被害を受けたあと復興、経済発展した。背景に国民道徳の高さがあるのではないか。

2. 自国語と自国文化を尊重している。 抽象概念や技術用語も日本語化、高等教育もすべて日本語。デパート・旅館のお辞儀、上履きによる施設内清潔維持なども素晴らしい。

3. 狭い国土と創意工夫。 畳と布団による部屋の有効活用、パーキングタワー、屋上のテニスコート、トヨタ生産管理など。

4. 学校での清掃は生徒が行う、道路・公園をきれいに保つ努力をする、誰かの説教や命令はない。

5. 誰でもが「目の前にあること」の改善をすること、改善範囲拡大に躊躇がない。

6. 学校では給食を生徒が配膳、残さず食べる努力をし、後片付け。その後、歯磨き、(ティッシュペーパでなく)タオルで顔を拭く。清潔でありエコである。

7. 他人への思いやりがある。トイレの音姫、アイスに適量のドライアイス、濡れた傘に袋、電車中での携帯電話不使用、駐車スペースにはみ出さず駐車、電車座席につめて座る、旅館で客が布団をたたむなど。

8. 路で拾った財布を警察に届け、警察もそれを持ち主に返す、正直と信頼がある。


番組の解説では、これこそイスラムが目指す理想的国家像ではないか、というのです。「親切と思いやり」を教義とするイスラム教を知るためのヒントになる話だと思います。一方、このような日本人の規律的な行動様式には、多くの場合意識された宗教的背景はないと思います。日本人に道徳に対する向上心、責任感が強いのは、「礼儀は大切だ」、「人様にに迷惑をかけない」、できれば「世の中のお役に立て」などという価値観を親が子に伝え、社会人として子を世の中に送り出すことを自分の役割と感じているからだと思います。戒律の締め付けなしに理想を実現する日本人にアラブ人からの関心が高まっているのです。

多くの日本人は「自分は無宗教」などと言いますが、日本の婚礼や祭礼には必ずと言っていいほど宗教的背景があります。そして、私たちが考えている「道徳」の多くは宗教的教え、戒律と重なる部分が多いのです。日本でのこうした道徳観は儒教の影響が大きいと言われていますが、儒学とも言われる儒教は宗教なのでしょうか。国交正常化前、中国の小平が、日本から西園寺公一を迎えたときに、西園寺が日中戦争から太平洋戦争の侵略を詫びたところ、逆に小平が、漢字と孔孟思想を輸出してしまったことを詫びたという逸話を司馬遼太郎が紹介しています。戦争は十数年で終わったが、漢字や思想は大和言葉と八百万の神の国の日本人を1000年以上苦しめたのでお詫びしますと言う話。孔子、孟子は男尊女卑、克己復礼を1500年も前に日本にもたらした、という中国人らしい時代感覚のユーモアです。実際には日本人はそれらをうまく取り込み、150年後には漢字で古事記を編纂、儒教も教養や道徳観として取り入れ、その後仏教の広まりとともに儒教は廃れますが、江戸から明治にかけて国家や家族の価値観確立のために忠孝思想が強調され、朱子学などの学問として再び着目されたと言われています。中国から輸入した忠孝思想を基礎に教育勅語、軍人直喩を作り、それらで教育された軍隊が中国に攻め入った歴史を小平は皮肉ったとも解釈できます。


5世紀頃に入ってきた儒教の『仁・義・礼・智・信』は、謙譲の精神を持つ高人格者が、天子(君主)を補佐することで理想的な政治が行われる際に必要な五徳だとされています。

 仁:思いやり、慈しみ。

 義:人道に従うこと、道理にかなうこと。

 礼:社会生活上の定まった形式、人の行なうべき道に従うこと。

 智:物事を知り、弁えていること。

 信:嘘を言わないこと、相手の言葉を疑わないこと。

その後中国でも日本でも為政者が人民統治に都合の良い『忠・孝・悌』を加え、換骨奪胎、中身が入れ替わってしまったと言われていますが、儒教の唱える五徳は日本の民衆レベルの教養の中に根付いていると感じます。

仏教も儒教と同じ頃日本にもたらされていますが、それを国家の仕組みとして定着させた立役者が空海だと言われています。『三教指帰』(さんごうしいき)は空海が24才のときに書いた書物、「三教」とは当時日本にあった儒教、道教、仏教のこと、空海はこの三教の思想をユニークな人物達に語らせます。儒教を代表する亀毛(きもう)先生は学問と仁・義・礼・智・信が大事であると説き、そうすれば出世や結婚もできて幸せになれると言います。道教の教えを代弁する虚亡(きょむ)隠士は不老長寿となって仙人になる教えを説き、自由に生きるべきだと言います。最後に仏教を代表する仮名乞児は、苦しみから解放され救われる道は仏教だと他の二人を説得します。こうして儒教が唱える道徳も仙人の幸せも仏教の一部として取り込んだ仏教が日本では広く布教されていくことになります。空海自身はその後、唐で密教を学んで、天皇を頂点にいただいた国の形の中に、密教の儀式と教えを組み込むことに成功、天皇をまつりごとの頂点におきながら、仏教が国家統治の理論的支柱となる形態に移行していきます。この形がその後の摂関政治、幕府と朝廷、象徴天皇と形を変えて現在にまで続いていると「空海の企て」の著者 山折哲雄さんは主張しています。

その後の歴史のプロセスでは本地垂迹(ほんじすいじゃく)や神仏習合があり、神道と仏教は民間習俗でもミックスされてきています。除夜の鐘を聞いて神社に初詣するのは、寺が神事に協力しているケースです。お彼岸に墓参りする習俗は仏教的ですが、明治時代には神道の春秋の皇霊祭と言われていました。お盆の送り火は神道の精霊祭の儀式をお寺が取り入れたと言われています。また、葬儀や法事は在家の行事でしたが江戸時代に檀家制度が確立されると同時にお寺の行事となりました。仏教は各宗派に別れ盛衰を繰り返し、明治維新には廃仏毀釈が行われ神仏間の争いもありましたが、神も仏も日本人の頭の中では大きな混乱なく同居し、儒教の教えは道徳として広く日本の民衆の中に根付いてきたと言われています。これだけの宗教行事を行う日本人は生まれたときから仏教徒であり神道信者だと考えた方が、生まれたときからイスラム教徒でありキリスト教徒である中東、欧米の人たちから正しく理解されると感じます。(外国で”What is your religion/denomination?”と聞かれた場合の平均的日本人のベストアンサーは”Buddhist/Jodo-Shinshu(例えば) & Shintoist, since those two have been mixed together in the Japanese history”だと思います。)

さて、仏教の理想は、欲望を少なくし、足るを知るこころを持つことです。そのためには「正しい考えを持ち、正しいと信じることをなす、規則正しい生活を送る」などの世俗的な欲を断ち切ることが求められ、「(不要な)殺しはしない、盗まない、不倫しない、嘘をつかない、酒を飲みすぎ(飲ま)ない」ことを求められます(キリスト教もイスラム教も宗教が共通して持つ戒律です)。その後、迷いや苦しみのない悟りの世界へ入ること、つまり涅槃の境地になれば自らも仏となることができるというものです。八百万の神がいて、解脱して涅槃の境地になれば仏にもなれる、さらには死ねば成仏、つまり誰でも仏になるという解釈は、人間はどんなに修行しても神やアッラーにはなれないキリスト教やイスラム教とは大きく異なる部分です。“God”の日本語訳はない、と言われる所以です。

多くの日本人はこうした仏教の成り立ちや歴史を強く意識してはいませんが、親が子に教える「我慢は大切だ」、「人に迷惑をかけるな」、「勤勉は美徳」、「身のほどを知れ」などはこうした複合的な宗教的背景の上に成り立っている価値観だと思います。4S運動(整理・整頓・清潔・清掃)や小集団活動が日本の製造業で根付く背景も、人々が意識の中に持つこうした価値観から来ているのかもしれません。経済活動一本槍から、社会貢献や環境推進活動、ワークライフバランス推進など短期的には会社の利益にならないようなことにも気を配る企業の社会的責任の考え方は、実は日本文化の奥底に流れる伏流水だったのだと思います。アラブの人たちに賞賛された日本人の「思いやり」や「慮る」こと、日本語には多くの類似語があり、英語に比べると宗教用語以外でも家族・周囲、弱者・社会、罪人・改悛者への思いやり、相手の気持ちや状況・背景などに気を配る日本人の語彙の豊かさを感じます。

こういう仏教、キリスト教、イスラム教、儒教のなぜなぜがわかる本、これがこのシリーズです。
キリスト教とイスラム教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
仏教と儒教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
仏教と神道―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
仏教とキリスト教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)

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シンメトリーな男 竹内久美子 ****

2009年12月20日 | 本の読後感
この人の本は面白い、科学の読み物ではなくて竹内さんのエッセイだと思って読めば楽しいのだ。本書のテーマはシンメトリー、生物が生き残るということは、寄生虫や感染症に負けずに育って、さらなる子孫を残す可能性が高いということ。それを見分けるのに雄も雌もパートナーがシンメトリーかどうかで判断しているというのだ。

1. 子孫を残そうとする雌はシンメトリーの雄を選ぶ。その際、シンメトリーは微妙な違いなので、フェロモン、臭い、体の模様や色などでも見分けるようになったという。
2. 人間の乳房はいつでも発情可能な印であるという。しかし大きければ良いというわけではなく、これもやはりシンメトリーが最良であり、大きいとシンメトリーが低下する傾向もあるという。シンメトリーが高い女性が多くの子供を産むということがわかっている。
3. 男の指は生殖機能を表す。薬指が人差し指より長い男性は精子の力が強いという。手足の指の左右の差が差が等しい男性の生殖機能は高い。
4. 女性の足は足首が引き締まり、アキレス腱がくっきりと浮かび上がっている女性の生殖器はよく発達している。
5. 排卵期の女性はピルを飲んでいない限り、シンメトリーの高い男性のにおいをかぎ分ける。
6. 男性は生殖の機会が高まると生殖腺を刺激し、ひげを伸ばす。
7. はげの男性の生殖能力は高い。そして胃ガン、結核。気管支癌、肺気腫になる可能性が低い。
8. シンメトリーな男性は運動能力が高く、筋肉質である。その男性の鼻は高い。
9. ウエストのくびれた女性は元気な赤ちゃんを産む。
10. 女性は女性化した顔を持つ男性を好む。東洋人は西洋人よりいっそう女性化した男性を好む傾向がある。そのため東洋人の顔は西洋人よりネオテニー(子供化←女性化)である。これは男性も同じ傾向。西洋の方が浮気の率が高く、現時点での女性能力が高いことが求められるため、大人の女性が好まれる。東洋では浮気が少なく将来の子供を産む能力が重視、子供っぽいかわいい女性が好まれる。

本当なのかどうかは分からないが、男性の指が気になる女性は多く、女性の足とおっぱいが気になる男性は多い。今後の研究を知りたい。
シンメトリーな男 (新潮文庫)


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白州次郎の日本国憲法 鶴見紘 ****

2009年12月19日 | 本の読後感
良い本を読んだ、白州次郎については妻の正子さんのエッセイなどが雑誌に掲載されたりして有名になったが、白州次郎の一生全体をカバーした話を初めて読んだ気がする。

事業家である父文平は綿取引で巨額の富を得る。自身も若い頃米国ハーバード大学に留学していた文平は次郎17歳の時に英国ケンブリッジ大学に留学させ、月額1万円を送り続けたという。1919年のこと、今の4000万円だというから桁違いだ。そこで親友となるストラッドフォード伯爵と知り合う。二人は終生友情をつなぐことになる。1929年日本が中国に進出、世界大恐慌のあおりで父文平の会社は倒産、次郎は帰国する。

帰国後、樺山愛輔の息子丑二と知り合い妹の正子を紹介され結婚する。文平は会社が倒産していたにもかかわらず結婚祝いとしてランチア・ラムダを贈る。いったいいくらしたのかは誰も知らないらしい。正子の父である樺山と外交官であった吉田茂はヨハンセングループといわれる戦争に反対する意見を持つ陣営にいた。白州はその関係から吉田に接近、お互いに24歳も年は離れていたが言いたい放題、意見を真っ直ぐに言う白州を吉田は買う。駐英大使となった吉田に白洲は同行し、英語が十分でなかった吉田を補佐する。

吉田の外交官としての働きも太平洋戦争は止められず、白州は鶴川に農地を買って正子と終戦まで移り住み、食糧不足の戦争中を過ごす。終戦後、戦前から白州の力を知っていた近衛や幣原喜重郎から対GHQ対応の窓口の仕事を依頼される。幣原のあと吉田が首班となるがその間に大きな課題となったのが日本国憲法であった。松本蒸治が中心となり日本案を策定するがGHQに却下、1週間後にはGHQ案が提示される。今日問題にされている「押しつけられた憲法」である。この間の白州の働きがこの本の白眉である。

白州は憲法草案策定中の松本にアドバイスする。「GHQ側が考えている案は先生が想定しているような生やさしいものではありませんぞ。少なくとも天皇の大権は大幅に制限する必要があるでしょう」これは松本が旧憲法の1-4条はそのままにしなくては日本の国ではなくなる、国民に理解されないなどと言っていたからである。そして一週間後GHQ案が日本側に手渡されたのだが、その場にいたのは吉田外相、松本国務相、白州であったという。GHQ側はこれが天皇制度を安寧させ恒久化させることができる案であり、これを受け入れられなければ、戦勝国側11カ国による憲法協議に入り、天皇制の維持も保証できない、と迫られたという。

マッカーサーがホイットニーに検討を命じた柱は次の3つ。
1.天皇の義務と権力は、憲法に従い、憲法によって定められる国民の総意によって実施される。
2.戦力の否定、陸海空軍の否認。
3.封建制度の廃止。
松本は、国体護持は国民の総意だと信じておりそれなしには受け入れられないと考えていたのだが、国民は「天皇陛下万歳」と口にして死んでいったけれども、本当はお母さん、お父さんありがとう、と死んでいったのが本当の心の中であったはず。天皇の戦争責任、というところまでは踏み込まず象徴天皇として残し、国民主権を柱とするというGHQ案はそのときの国民の総意であった。白州はこうした松本の心中をホイットニー准将に手紙で伝える。急がないでくれ、日本人がこれを受け入れるには時間がかかると。このGHQ案の日本語訳を白州と外務省の小畑が一晩でやれ、とGHQに命じられたという。吉田は国体護持派だったが、皮肉にもこの新憲法を公布したのは吉田が総理大臣になった年の1946年11月3日であった。

その後サンフランシスコ条約締結でも、白州は吉田とともに渡米している。吉田の演説原稿は当時の外務省の役人がGHQの担当者と相談して書いたものがあったらしいが、吉田は白州に相談、白州は内容をみて激怒、「日本人の誇りが全くない演説だ、書き直そう」といっさい書き直したという。

晩年は軽井沢ゴルフクラブの支配人、東北電力の会長、鶴川の農民として最後まで軽やかに、表舞台にたつことなく1985年永眠した。

こうした日本人がいたことは喜ばしい。今の日本には坂本龍馬も白州次郎も見あたらない。日本人の矜持、プリンシプルは現在の日本に当てはめるとそれは何であろうか。今の白州ブームでちょっと持ち上げられすぎていて「神話化」が進みすぎている気もするが、次の点はその通りだと思う。
1.英国のスノビズムを持った数少ない日本人だった。
2.今あるものはしょうがないから受け入れるという日本人にはプリンシプルがない、という白州の主張。
3.自動車は道具であり下駄だ。しかし持ち主の魂は乗り移る。
4.強いやつに喉元を押さえつけられていても言いたいことはいうべきだ。

お金持ちの坊ちゃんだが、英国式ノブリスオブリージュをたたき込まれ、人との交渉ごとは苦手で決して表舞台にはでようとしなかった白州、どのように評価できるだろうか。
白洲次郎の日本国憲法 (知恵の森文庫)

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病気じゃないよフツーだよ 藤臣柊子 **

2009年12月19日 | 本の読後感
この本を読んでみようと思った理由が思い当たらないのだが、手元にあったので読んでみた。神経症で小さいときから苦しんでいる、今は漫画家の藤臣さんの闘病記だ。明るく書いてあるが、とんでもない状況への対応である。病院に行ってみよう、と同病の読者に問いかけている。筆者は漫画家、という神経症患者としてはたいそう恵まれた職業に就けたのだが、普通は芸術家やデザイナーなどで身を立てるのは難しい。毎日決まり切った事務所に出かけて、人と顔をつきあわせて、好きでもない仕事をこなす、時には怒られて、酷いときには能なし扱いもされるようなサラリーマンなら大変である。しかし、そうした人たちが多い、というのがこの本の存在理由だろう。

病院選びが重要だともいう、先生によって鬱病の症状が悪化することもあると。個人のクリニックが良いといっているが、先生次第だろう。大病院だと先生も替わるが中小であれば固定する。

会社でも「プレゼンティーイズム」が問題になる、鬱病の一種だろうが、会社にはきているが効率が上がらない、会社から出ると元気が出る、という都合がいいもの。さぼっているのだろう、と思われがちなこの症状、花粉症や頭痛などとも併発するから見分けがつかなくてやっかいだ。藤臣さんが最後にいっているのは、そういう自分とつきあわなければならないなら、できることをやってみよう、気持ちが晴れないなら山に登って、海にも潜ってみよう、と。一人でいたいときもあるが、一人では生きてはいけない、仕事をすることは重要だという。そうだろうと思う、引きこもりで親元にいるのが一番だめだと思う。いくら鬱病でも自分の面倒は自分でみたい、これが人間というものだ。それもできない重症の人もいるかもしれないが、なんとか突破する努力、これがなければ保護者なしでは生きてもいけない。

励まされる人は多いのではないか。
病気じゃないよ、フツーだよ―神経科に行ってみよー

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歴史と小説 司馬遼太郎 **

2009年12月17日 | 本の読後感
司馬遼太郎は歴史小説が一番、こういう随筆は週刊誌で読むに限る、これが感想。細切れで読むと、利き酒7種セット、などという中途半端な心持ちになる。1. どれが本物かわからない(自分が悪いのだが) 2. 美味しいものはもっと飲みたくなる 3. どれも結局記憶には残らない 4. 次々と好きな方に持っていかれる気がする

それでも司馬遼太郎ファンとしては新撰組、龍馬、土方歳三、高杉晋作、池田屋騒動、などというと期待する。そう、読むと面白いのだが先の1-4を感じるのだ。

最後に、モンゴル語と日本語との比較があって面白かった。日本は漢字、漢語を取り入れたので抽象的概念や大和言葉にはなかった官位などをうまく表現することができるが、モンゴル語はそれができないため、科学的概念や技術を取り入れるため政治的決断をして、シリル文字を捨てて、ロシア文字に切り替えたという。そうか、モンゴルでは近代まで日本でいう大和言葉で暮らしてきたのだ。漢字を取り入れ、仮名とカタカナを発明した日本人の先達に感謝しなくてはいけない。これは収穫。
歴史と小説 (集英社文庫)

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兇眼 打海文三 ***

2009年12月15日 | 本の読後感
殺人サスペンスにカルト教団が絡んでいると思ったら、実は教団に引き込まれて集団自殺してしまった親たちの子供たちが教団の資産を持って10年以上逃げ回る、それを突き止めるという話だった。打海文三は一筋縄では読まれたくないというひねくれた作家なのだろう。

江東区のマンションで殺人事件、殺されたのは洞口という物書き、同じマンションに住む夏子はその殺人に疑問を抱く。マンションの管理人の武井は前職が大学助教授、そのときに教授の娘に惚れられて一悶着の結果自殺されている。その際、目をけがした。夏子はそのことを突き止めていて、武井に洞口殺人事件の捜査を武井に持ちかける。洞口は11年前のカルト事件のことで子供が訪れてくることを夏子に伝えていた。カルト集団の資産5億円を持って逃げたというのは8歳から14歳の子供たち、夏子たちは子供たちを手引きした大人がいたはずだとの想定で捜索をする。

武井はさまざまな情報の切れ端から子供たちが潜むアジトを突き止めて夏子とその場所に向かう。5億円を追っていたのは夏子と武井だけではなかった。大須というやくざがやはり子供たちを追ってきた。夏子と武井は子供たちを見つけるが逆に監禁されてしまう。数週間後、大須もアジトを突き止める。大須と子供たち、武井との戦いで武井は大須を殺害、子供たちもけがを負う。

武井は戦いの達人でもやくざでもない普通人だが、夏子に誘われ子供たちを探すプロセスで子供たちの不幸を知り、何とか助けてやりたいと最大限の努力をする。

お話はこれだけだ。しかし、打海の小説の魅力は読者を放さない、なぜだろう。最小限の記述なので、ちょっと気を抜くと登場人物の状況をつかめなくなる。3行読み飛ばすと前後関係が不明になる、という経験を繰り返すと読者は一心に読むようになりお話につり込まれていくのだ。ハルビンカフェとも愛と悔恨のカーニバルとも違うジャンルの小説だと思う。
兇眼

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歴史の舞台 司馬遼太郎 ***

2009年12月13日 | 本の読後感
本の前半3分の2は中国西域、天山(テンシャン)山脈の北、ジュンガリアと呼ばれる地域と南、タクラマカン砂漠の北の端にすむ人たちの話である。1977年と80年に訪れたと書いているのだが、一緒に行った人たちがすごい。井上靖、東山魁夷、団伊久磨、藤堂明保など10名である。当時、中国は積極的に外国人に旅行を許可していない状況であったが、長年功績のあった中島健蔵さんを招待、彼に同行したという。

西域の広さを示す描写はいくらあっても行ったことのない人間には分からないのかもしれないが、遊牧民とは、という記述がその草原の広さを想像させてくれる。遊牧民というのは人間が牧畜を放牧して暮らしているのではないというのだ。草を食べて生きている牛や馬、羊の群れの中に人たちが馬に乗るすべを覚えて混じって移動している、そういう文明なのだそうだ。野菜不足になってしまうのを、羊の乳を飲むことでカバーすることを身につけた紀元前数世紀頃に発明された文明なのだそうだ。それまでは草原は広すぎて人間の住める場所ではなかった。

ジュンガリアのイリという町に10日間宿泊した際、皮膚は白皙、髪の毛は金髪に近いカザフ人だという女性がお世話係についたという。名前がトルスングリ、彼女は遊牧民として育ち、農業には携わったことがないらしい。彼女は人を明るい気持ちにするすばらしい笑顔と、親切な対話相手となったが、相手のことを慮ったり、気を遣うという神経を持っていなかった。彼女は教育を受け、中国語を話すようになり今の職業を得たと思われるが、サービスするなどという考えは理解ができないのである。トルスングリはいつも食堂にいて配膳をしてくれる。いつも機嫌がよく、目が合うと微笑んでくれるのでとても気持ちがいい。そういうお世話係なのだ。

中国の小平が、日本からの客として西園寺公一を迎えたときに、西園寺が日中戦争から太平洋戦争の侵略を詫びたところ、逆に小平が、漢字と孔子、孟子の思想を提供してしまったことを詫びられたという逸話。戦争は十数年、対する漢字や思想は何千年もの間日本人を苦しめているという。孔子、孟子は男尊女卑、克己復礼を1700年も前に日本にもたらした。漢字は確かに輸入された7世紀当時の大和言葉とは全く異なるものだったのだが、100年も経つ頃には古事記が漢字で書かれている。その後、かなと漢字は混合して日本語をなすようになったのだが、これには日本人の大変な苦労があった、というユーモアのある話なのだ。儒教のほうはそんなに被害を及ぼしていないではないか、とも思えるが、日本語が持つ敬語は長幼の序という思想の体系化されたものではないかと思う。

その後、朝鮮が中国の支配下に半分入りながらも「韓」と呼ばれ、けもの編で表されるその他の周辺国とは違う扱いを受けていることを解説している。日本は倭、人が人に委ねている、つまり主人と従者がいて、上下関係を結んでいる国、という見方をされていたと説明する。後書きで土佐人の気質にふれている。

司馬遼太郎の調査や研究、思索の幅広さに触れることができる。
歴史の舞台―文明のさまざま (中公文庫)
仏教とキリスト教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
仏教と神道―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
仏教と儒教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)
キリスト教とイスラム教―どう違うか50のQ&A (新潮選書)

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