意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

昭和史(戦後篇) 半藤一利 ****

2009年06月30日 | 本の読後感
2005年に著者が社会人大学で17回にわけて語った講演録。このシリーズでは一番が幕末史、次に昭和史の戦前篇、それらに比べると戦後篇はちょっと迫力というか力が入らなかったかなという印象。しかし戦前からの日本を見てきたジャーナリストの見識が書かれていると思う。

<昭和天皇とマッカーサー会談>
マッカーサーとしては日本の戦後統治において天皇をどう扱うかを考えるに際して、終戦直後の天皇の決意表明を重く受け止めた。「朕は国が焦土と化することを思えば、たとえ朕の身は如何あろうとも顧みるところではない」と最後の御前会議で述べたこと、そしてその言葉を伝え聞いた国民は、みんなして戦後日本の復興に力を合わせていこうと感じたことを知って、天皇制の存続を考えたという。一億総懺悔のきっかけを作ったのは天皇であると。そして実際に会談した際にも天皇は次のように言った。「私は国民が戦争遂行にあたって政治・軍事すべての面で行った決定と行動に対する全責任を負うものとして私自身をあなたの代表する連合国の裁決にゆだねるためにお訪ねした」マッカーサーはこの言葉を聞いて感動したという。大抵の敗戦国元首は命乞いをするもの、「この人は」と思ったとのことである。新聞に出た会談後の写真が有名であるが、元帥は天皇をお迎えには行かなかったが、会談後は車に乗り込むまでお見送りをしたということ、好印象があったのだろう。

<五大改革>
10月11日にGHQから5大改革骨子が示された。①婦人解放 ②労働者団結権 ③教育民主化 ④特高など秘密警察撤廃 ⑤財閥解体。さらにプレスコードといわれる新聞改革も。戦中は軍国主義の後押しをしてきた新聞が、「国民に謝罪もせずに手のひらを返すようにGHQに政府のご用を務めている、度し難き厚顔無恥」と高見順は8月19日の日記に記していたという。また、ローマ字採用論、漢字廃止論などが新聞に掲載され当時のGHQの締め付けの強さも伺わせる。

<政党の始まり>
1946年の戦後初の選挙に先立ち、次々に政党が誕生した。片山哲の日本社会党、鳩山一郎の日本自由党、町田忠治の日本進歩党、志賀義男と徳田球一の戦前から続く日本共産党、橋本登美三郎の日本民党、児玉誉士夫の日本国民党、生長の家の谷口雅春の日本民主党、その他33を数えた。ジャーナリズムも準備が始まり、文藝春秋、中央公論、改造の再開、新生創刊、世界、人間、展望、潮流、リベラルなども創刊された。

<人間宣言と戦争放棄>
幣原喜重郎内閣の時に、マッカーサーは天皇は人間であると宣言させることで戦争責任を免れさせることが出来ると考え、日本側に要請、それが実現されたとの記述、そういう経緯があったのだと知る。これが1946年1月1日の新聞に掲載された。また、極端な国粋主義は社会科教育に問題有りと考えたGHQは歴史、地理、修身の廃止を命令している。また公職追放により戦争犯罪人、軍人、国家主義者、大政翼賛会有力者などが追放された。政党の幹部にも追放者が多数出て、日本進歩党では274名の議員のうち262名が追放、ほとんどである。しかし1949年になってこれが解除となる、それまでは公職から多くの人間が追放された。マッカーサーの元には多くの日本人から天皇の戦争責任を追及しないで欲しいとの嘆願が多く寄せられたとのこと、これもマッカーサーの判断に影響を与えた。幣原喜重郎はマッカーサーと会談、「日本は軍隊を持たない、戦争をしない国になりたい」との点で一致した。これが憲法9条成立につながっていく。

<象徴天皇と日本国憲法成立>
マッカーサーは1946年1月ワシントンに手紙を書き、「天皇の戦争責任は追及するべきではない」と意見具申、この時点で天皇の有罪無罪の検討は必要なしとの結論をアメリカ国としては出していた。のちの東京裁判でもこの点は変わらなかった。この年憲法草案を日本側が作成するが、明治憲法の焼き直しでしかなく、逆にGHQから草案が出された、これが現在の憲法の元になっている。その時の三原則、①天皇は国の元首 ②戦争廃止 ③封建制度廃止 かくしてGHQ案が示され、48時間以内に回答せよと迫られた。幣原首相はGHQ草案を持って天皇に上奏、天皇は「自分は象徴で良いと思う」、この言葉を伝え聞いた閣僚は当初断固反対を唱えていたものも含めて受諾やむなしと態度を変更、新憲法が成立した。このころ天皇は地方行幸を実施、戦後の復興に役立ちたいとの天皇の思いを形にしている。国会で憲法議論をしているそのころ、国民の実態は「空いているのは腹と米びつ、空いていないのは乗り物と住宅」という復員ラッシュと食糧不足が関心の的、憲法どころではなかった。

<東京裁判>
1946年5月から1948年11月まで開廷された東京裁判、市ヶ谷の陸軍省講堂で行われた。その間、当用漢字1850字が制定され、1948年2月1日には有名はゼネスト禁止命令がGHQからでる。「一歩退却、二歩前進、労働者、農民バンザイ、われわれは団結しなければならない」というラジオによる中止演説となる。1948年4月の総選挙では社会党が143名当選、第一党となって、片山哲を総理とする内閣が出来るが9ヶ月で総辞職、吉田内閣が組閣された。このころ世界ではパレスチナの地にイスラエルが誕生、この地を統治していたイギリスが国連に判断をゆだね、強力に後押ししたアメリカの力もあってイスラエルが独立、パレスチナの56.6%をユダヤが、43.5%をアラブが所有することが国連決議された。これが現在までの中東問題の引き金になっている。ベルリンの壁が築かれたのもこの年、封鎖された西ベルリンに物資がアメリカ、イギリス、フランスから空輸され、また戦争か、という一触即発の空気が見られる。東京裁判の期間はこのような世界情勢変化があったのである。東京裁判ではA級28名が対象となるが、準A級とされた笹川一郎、児玉誉士夫、岸信介などは裁判を免れている。東京裁判とは何であったか。①日本の軍国主義は悪であり連合国側の行為は正当化される ②連合国国民に見せるための復讐の儀式化 ③日本国民への啓蒙 これが半藤さんの評価。共同謀議という罪に関してはナチスドイツのヒトラーには当てはまっても、日本のように責任者が不定の国には当てはめにくかった、しかし上記①②③のために強行したのが東京裁判だった。

<GHQの右旋回>
その後米ソ対立が激化、日本の位置づけを変えざるを得ない状況に変わってくる。①ソ連側に組み込まれた諸国の問題 ②分割されたドイツ問題 ③核兵器問題 こうした情勢変化により、日本を再軍備させること、民主化の行き過ぎをチェックすること、経済復興と安定化を図ることなどの目的で、公職追放されたメンバーの復帰、警察予備隊の設置などが決められる。経済安定のために、まちまちだった円為替レートを1ドル360円に設定した。これが1971年まで続いた。

<朝鮮特需>
今をときめくトヨタやソニーは1950年の朝鮮戦争による特需で成長した。米ソ代理戦争であり、中国と国連軍という名のアメリカとの戦いであった。GHQからトラック注文を受けて作れば作るだけ売れたトヨタ、あらゆる電波探知機への需要がふくらんで会社が急成長したソニー。朝鮮戦争の3年間で日本の契約高は11億3600万ドル、戦後日本はこの三年間で生き返ったとも言える。1951年マッカーサーはトルーマンに罷免される。日本人はマッカーサーを敬愛していて、マッカーサーの銅像でも作ろうという話も出たとか、実現しなかった理由は、マッカーサーによる「日本人は12歳」という発言を日本人が誤解したこと。真意は「アングロサクソンはあらゆる意味で45歳の壮年であり、ドイツ人の軍国主義への傾倒は大人としての確信犯。日本人は国際情勢を見るという意味では12歳の少年、世界情勢を知らずに犯した罪が今般の戦争につながった」これを聞いた日本人は「このやろー」と思って銅像は建たなかった、というのが半藤さんの解釈。

<警察予備隊>
1950年マッカーサーは吉田茂に「75000人からなる国家警察予備隊を設置することを認可する」と手紙を送っている。75000人というのは4個師団、朝鮮戦争が始まったときに日本本土にいた米国陸軍兵力数そのものに相当、朝鮮戦争に行かなければならない米国の穴を埋めて欲しい、という意味だったという解説。G2ウイロビー少将はこの準備のために「森機関」を設置、戦前の佐官クラスを集めた。これにはマッカーサーが激怒、警察予備隊は素人を集めた集団として発足した。国会で「軍隊ではないか」と問いつめられた吉田首相は「自衛のための戦力は合憲である」と回答、これが自衛隊合憲論の始まり。警察予備隊は1952年保安隊となり、その後公職追放されていた元佐官クラスの旧軍人も合流させて自衛隊と発展していった。

<基地問題>
立川、浅間、富士などの基地問題があるなか、石川県内灘の試射場での実弾訓練が大問題になる。しかし現実には内灘村の年間漁獲高は200万円、三年間の米国による使用料金額は7億円、金額ベースで見ると当事者達の本気度合いとのアンバランスがあった。しかし、戦後の開放感から反基地運動は日本全国で熱を帯びる。

<55年体制>
1951年以降、吉田総理と自由党内の派閥争いは激化していた。これが後に55年体制へとつながるが、吉田は徹底して「軽軍備・経済発展」路線、一方の鳩山一郎は「再軍備・改憲」路線、この戦いは現在でも続いている。吉田路線に賛同していたのが大野伴睦、広川弘禅、池田勇人、佐藤栄作、鳩山路線が石橋湛山、三木武吉。このころは岸信介は形勢を見ていた。1955年に社会党の左右合同があるや、保守も一致してあたらなくてはならないと、正力松太郎や児玉の斡旋で大野と三木が会談、保守合同につながる合意をする。吉田内閣は倒れて鳩山があとをつぐ。1956年には「もはや戦後ではない」という有名な経済白書が発刊されている。

<60年安保>
1958年岸信介内閣が成立、日教組への圧力のための勤務評定導入、警務職務法などの審議で国会は騒然とする。ぎすぎすした世情を沈静化させたのが皇太子ご成婚、ミッチーブームであった。「ご清潔でご誠実でご信頼申し上げられる方、柳ごおり一つでももらってくださるなら、、、」というフレーズが新聞で報道され国民的ブームとなった。1959年の参議院選挙でははじめて創価学会員が6名当選、公明党の創設につながる。安保条約改定では岸信介が強行採決、これに抗議する国民のデモデモデモで国会の周辺では連日大勢の警察とデモ隊で大混乱がおきた。文化人達はこれらを批判、「若い日本の会」では石原慎太郎、大江健三郎、江藤淳などいまでは犬猿の仲に見える当時の若手作家達が国会運営と安保条約改定に反対している。

<外交なき日本>
先ほどの中東問題や東西問題もさることながら、1962年には一触即発の世界危機であったキューバ危機があった。この時日本政府は何をしていたか、何も出来なかった。フランスのドゴール大統領には「池田首相はトランジスターのセールスをする人なんですねえ」と皮肉られていた。1933年以降国際連盟を脱退した以降、経済発展ばかりに気を向けていた日本は国際情勢のことは考えず、さらに国防はアメリカにお任せしていた、この不勉強は今でも尾を引いている。福田赳夫は1964年、オリンピックや新幹線開通に湧く日本人を批判して「池田内閣のやっている所得倍増、高度成長政策の結果、社会の動きは物質至上主義がはびこり、レジャー、バカンス、無気力が充満、元禄調の世相が日本を支配している」と述べた。今の世相でもあり、今般の経済危機を経験している現在の日本人はかみしめる必要があるコメントである。

<日本の選択肢>
半藤さんは戦後の日本が選択できた路線を4つ示す。
①再軍備、改憲 ②民主社会主義 ③軽軍備・通商国家 ④永世中立
結果として③を選んだ日本は強兵なき富国を実現、経済発展は遂げてきたが、日本精神はどこへ行ったか、と問う。今の日本に必要なことは軍事力を持つと言うことではなく、
■新しい国を作る無私の想い
■小さな箱を出る勇気
■大局的な展望能力
■他人に依存しない世界に向けた知識と情報収集力
■「君は功を成せ、われは大事を成す」吉田松陰の悠然たる風格
こうした精神を取り戻すことである、というのが最後の締めの言葉。幕末史を話した半藤さんは坂本龍馬や中岡慎太郎など幕末の若き武士達の想いを現在人に伝えたいと感じているのだろうか。
昭和史 戦後篇 1945-1989 (平凡社ライブラリー は 26-2)

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花あらし 阿刀田高 ***

2009年06月27日 | 本の読後感
阿刀田さんの短編は印象派ともいえる。絶品だと思ったのが最後の花あらし、夫に先立たれた妻の純愛物語。笑顔がすてきだった夫が40そこそこで先立ってしまう。桜が好きだといった夫の言葉通り、八王子の先にある夫の実家のそばにある山を訪れた妻の目に入ったのは全山桜が満開で夫の笑顔に見えた景色、どんでん返しも引っかけもない作品だが印象に残る。白い蟹は逆にロマノフ王朝の最後にまつわるアスタナシア伝説を題材にしたお話。こちらは至る所に最後の印象を作り出すために仕掛けに仕掛けてある。横浜にある美術館学芸員の主人公彩子、パリ留学中に知り合ったロシア人ライサを頼ってエカテリンブルグの修道院を訪問、途中車でひいてしまった動物の血の色、食べてはき出したカニサラダ大きな蜘蛛と白指蟹。こうした伏線を最後の落ちにつなげている、阿刀田魔術である。
花あらし (新潮文庫)

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昭和史(戦前篇) 半藤一利 *****

2009年06月26日 | 本の読後感
丸の内の慶応大学特別講座として2003年4―12月語られた15回の講義内容を本にしたもの。昭和の太平洋戦争敗戦までの歴史は、ペリー開国要求から日露戦争までかけて築いてきた国富を20年かけて灰燼にするまでの歴史である、という解説である。

<対華21箇条要求>
1915年日本は清国にたいし特殊権益要求を21箇条にして出した。これに対して中国内で起きた運動が五四運動、芥川龍之介は新聞社の特派員として中国を訪問、シナ遊記としてその時の様子を「中国民衆がいかに日本人を嫌い、反日運動をやっているか、その様子を具体的に」記述している。中国での国作りが出来ていないこのころから排日運動が盛んであり、日本に与えた満州の権益を返せと言う声が強くなっていたというのが大正から昭和初めにかけての状況だった。

<日英同盟廃棄>
1921年日英同盟が廃棄されることになるきっかけが、主艦船比率を日英米で5:5:3にするというワシントン海軍軍縮条約、この締結前にアメリカの外交作戦の結果日英同盟が廃棄されたことが、軍縮条約とともにその後の外交政策に大きく影響してきた。

<張作霖事件>
満州某重大事件、と呼ばれた日本軍による張作霖の暗殺。昭和天皇はこの事件に怒り田中義一首相を辞任させてしまう。軍部としては天皇のそばにろくな側近がいないからこうなる、として西園寺や牧野伸顕らを「君側の奸」と呼んだ。この時の重臣達への恨みを含む空気が226事件を引き起こす原因となってしまったとも昭和天皇は日記に記している。またこの反省から天皇としては内閣の上奏する内容は個人として反対であっても裁可を与えることを決意した。元老の西園寺さんから注意されたのではないかと推測している。これは立憲君主制では重要なことという西園寺さんの考えからであるが、この後の歴史にも影響を与える。

<統帥権干犯問題>
ワシントン海軍軍縮条約締結には海軍は反対、閣議決定により条約批准を行うことを決める。国会での議論で犬養毅、鳩山一郎が「軍備は海軍省の権限ではなく、天皇が統帥権を持つ軍令部が持つものであり、その承認なくして海軍省が決めることは統帥権干犯である」と主張した。理論的に支えたのが北一輝。これを司馬遼太郎さんは魔法の杖と表現、このあと統帥権に関する事柄には首相もだれも口を出せないことになってしまった。昭和史スタートを切るにあたっての不幸、ウォール街の株価暴落を受けて日本がこの不況をどう乗り切るかとあわせて満州事変につながってしまう。

<満州事変>
石原完爾は張作霖事件で辞職した河本大作のあと旅順に赴任、「満蒙問題私見」を発表、日米対等たり得るためには「満州は日本の生命線」と構想、新聞がこれを後押しした。こうした新聞などマスコミによる後押しの場合「生命線、二十億の国費、十万同胞の血」などのキャッチフレーズが重要だった。関東軍は満鉄爆破を捏造、「君側の奸」といわれた勢力も、これを制止できなかった。これを後押ししたのが朝日新聞と東京日々新聞(今の毎日新聞)、それまでは慎重だった論調が一日にして逆転、各社報道合戦を通して部数を伸ばした。若槻礼次郎首相はなんとか事変縮小を図るが、朝鮮にいた日本軍が国境を越えて参戦したと聞くや「それでは仕方がない」となって、満州事変対応が内閣の方針となってしまった。天皇は内閣決議を翻さないと決めているので、昭和天皇は本心反対ながら陸軍の思うとおりの筋書きで満州事変拡大につながった。昭和7年3月には満州国建設、半藤はこの瞬間が「昭和がダメになった瞬間だ」という。

<上海事変>
板垣と石原は上海領事館付き武官であった田中隆吉中佐に上海で事件を捏造すること命じ、東洋のマタハリ川島芳子を使って中国人による日蓮宗の僧侶殺害事件を捏造した。最初から陸軍の謀略であったことを知った昭和天皇は元陸相の白川義則に上海事変不拡大を命じた。国際社会はこの不拡大方針を評価するが、陸軍には不満が募った。

<二・二六事件>
松本清張の「二・二六事件」では「事件以降は軍部が絶えず事件再発防止をちらつかせて政財界言論界を脅迫した。かくて軍需産業を中心とする重工業界財閥を軍が抱え国民を戦争へと引きずり込んだ」。事件後発足した広田弘毅内閣は重大なことを3つ決めて実行してしまった。1. 軍大臣現役武官制導入 2. 日独防共協定 3. 北守南進の政策 これらの結果、米英との衝突へとつながっていった。有名な安部定事件はこのころ起こっていて、人々は偉い人たちが沢山殺される世の中に嫌気がさしながら、日常生活では安部定事件のことを話題にしていた。

<ノモンハン事件>
1939年、満州とモンゴルの国境にあるノモンハンで国境侵犯事件があり、日ソが戦った。この戦いで日本の第23師団2万人のうち7割が死傷、師団が消滅する被害を被った。ソ連軍はこの時最新鋭の戦車、重砲、飛行機を投入、結果として日本軍58925人のうち戦死7720人、戦傷8664人、ソ連蒙古軍も死傷者24992人という被害であった。この時思い知ったことは火力戦能力の差は大きくソ連とは戦うべきではないと言うこと。この後は一貫して南進北守政策が進められることになった。この時の反省はその後も活かされることなくサイパン島敗戦でも「陸軍装備が悪いことが本当によく分かった」と服部作戦部長は言ったという。日米英の装備差、軍事力差は戦争前から分かっていたこと、日本人は過去からなにも学んでいない、というのが著者の指摘。

<三国同盟>
ドイツの欧州戦線での好調をみていた陸軍は三国同盟に積極的だったが、三国同盟により英米との対立が深まるとみていた海軍は反対、米内・井上・山本の海軍トリオは吉田海軍大臣とともに反対論戦をはった。優柔不断な近衛首相は決めかねていたが、ドイツが欧州戦線で頑張っている限りアメリカは日本に手出しできないだろう、という甘い読みと、陸軍との予算配分交渉で有利に立ちたいという海軍の思いもあり最後は賛成してしまう。山本五十六はこのことを顧みて「内乱では国は亡びない、戦争で亡びるもの。内乱を避けるため戦争にかけるとは主客転倒だ」と語ったという。昭和天皇も同じ思いだったようだ。

<北部仏印進駐>
欧州戦線でドイツにやられているフランスが傀儡政府をもっていた仏領インドシナの北部にこの隙にと侵攻を始め、米英物資の中国への侵入を食い止めたかった陸軍は北部仏領インドシナに進駐した。この際、平和理の進駐を計画していた参謀本部にたいし、現地日本軍は銃火を交えることで進駐、統帥権の乱れから国際社会からの信を失ってしまう。日本は三国同盟締結、北部仏印進駐で万が一に備えたつもりが、逆にそれが米英に戦争を始めるきっかけを与える結果となった。前年の昭和14年、アメリカは日米通商航海条約を破棄通知しており、くず鉄の全面禁輸とともに、東南アジアの石油が日本の生命線となっていた。

<日ソ中立条約>
昭和16年4月スターリンと話し合った松岡洋右は話し合いに合意、日ソは中立条約を締結した。スターリンとしてはドイツとの戦争を前にして、日本と中立を約束しておきたかった。日本としても北の脅威を抑え南進に徹するために必要な条約だった。こうした松岡の働きを日本国民は万歳三唱でむかえた。

<御前会議>
昭和16年第1回目の御前会議、天皇は発言しない決まり。第2回が9月6日、第3回が11月5日、第4回が12月1日、これで対英米開戦が決められた。決議内容は次の通り。「帝国は大東亜共栄圏を建設、シナ事変処理に邁進し、自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩を進め、また情勢の推移に応じ北方問題を解決す。本目的達成のため対英米開戦を辞せず」これが7月2日の決議内容、この時点で太平洋戦争開戦は決められていた。内大臣の木戸は日記にこう記している。「油は二年量としても戦争すれば1年半しか持たない。陸軍は一年くらいのことであり、とうてい米国に対して必勝の戦いをなすことは出来ない」2年以上は持たない戦争に、負けると分かっていて突入するしかなかったのだ。海軍が考えていた開戦の条件は、日米海軍比率が10:7の時点、建造力はアメリカが上なので時間がたつほどにその比率は不利になる。昭和16年12月が10:7になるときだというのだ。これより後は海も荒れて開戦が難しくなる、というのも理由にあった。つまり、野村吉三郎による7月以降12月までの外交交渉は表面面のお芝居だったのだ。

<ヤルタ会談>
昭和20年4月にはルーズベルト、スターリン、チャーチルによる会議がもたれ、ドイツ降伏を前提にした日本の扱いが協議された。ルーズベルトはソ連に太平洋戦線への参戦を要望、樺太と千島列島の権利をソ連に返す約束で参戦を約束、ドイツ降伏の3ヶ月後を参戦の時と決めていた。ソ連は4月に日ソ中立条約破棄を通知、5月7日ドイツ降伏の三ヶ月後である8月9日に満州に攻め入った。ソ連は自国都合により当初は8月末に参入と決めていたが、8月6日の広島原爆投下を見て、急いで参戦、ポツダム宣言受諾の8月14日以降も攻撃を続け、満州にいた日本軍と一般人57万4538人が捕虜としてシベリア送り、引き上げてきたのは47万2942人、10万人以上がシベリアで死んだことになる。満州には150万人の日本人がいたとされ、引き上げたのが満州から104万7千人、関東州から22万6千人とされていて、死亡は18万694人とされている。このときソ連はアメリカに北海道の南半分の管理を要求したがアメリカが拒否、朝鮮やドイツのようになることを日本は免れた。

<昭和史5つの反省>
1. 国民的熱狂を作ってはいけない。理性は熱狂に流されてしまう。
2. 危機におよび日本人は抽象的概念を好み、具体的、理性的な方法を検討しない。物事は自分の好都合の方向に動くと想定してしまう。
3. 日本型タコツボ社会での小集団主義の弊害。エリートはエリート集団内での情報しか信用せず、内部論理で判断してしまう。
4. 問題への対症療法で、すぐに成果を求める短兵急な発想がある。その場を取り繕うような判断をする、それが連続して起こってしまうのは複眼的思考がないためである。
5. 国際社会での位置づけを客観的に把握しない。ポツダム宣言受諾ごにも必要な手付きがあることを認識しなかったため多くの日本人がシベリアに抑留された。主観的思考の結果である。
昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)

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日本そば―味と粋にこだわる雑学 **

2009年06月24日 | 本の読後感
うまいそば屋の見つけ方とか、二八そばというのはそば粉8対つなぎ2という説と、一杯十六文という説、八文のそばを二杯とか何とかいう話を紹介している。その日の最初の客の場合に、そば湯は出てくるのか、とか、そばがきがあればその店は信頼できる、とか、生そばと書いている暖簾がでていれば十割そばのはずだが、どうしたら見分けられるのかなどなど。暇だったら読んでみたらどうか、という本。
日本そば―味と粋にこだわる雑学 (勁文社文庫21)

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石油の支配者 浜田和幸 ***

2009年06月23日 | 本の読後感
昨年の原油高は、なぜおきたのか、最高値は1バレル147ドル、そして今は60ドル、この乱高下は尋常ではない。膨大な投機マネーが原油先物市場になだれ込み、価格をつり上げていた、実需に見合う価格ではなかったことが分かる。

原油高の「犯人」は誰だったのか、著者は、原油を人質にとった「マーケット・テロリズム」といえるような前代未聞の状況だとして、その主役が、先進国の商品先物を買う機関投資家であり、具体的には投資銀行やヘッジファンド、年金ファンド、大学基金、財団、富裕層の個人、政府系ファンドなどであるという。

著者の指摘の要点は次の通り。
・石油には二重価格が存在しており、日本はどの国よりも高い値段で買わされている。
・原油市場を高騰させた資金に金利が安い、円キャリー資金が使われている。
・石油は化石燃料であり、そのうち枯渇するというピークオイル説とは別に、地球内部で無機物質から作られているという学説がある。
・CO2排出権取引市場はエンロンの陰謀であった。

そして現在では、「新セブンシスターズ」と呼ばれるロシア、イラン、サウジアラビア、中国、マレーシア、ブラジル、ベネズエラの政府系石油会社が原油市場に大きな影響力を持ちはじめているということが、重要である、と指摘している。セブンシスターズといえば、欧米の石油メジャー七社をさしていたが、これらの新興国の影響力、政治的観点から、とくに中国とロシアの動向からは目が離せないと著者は述べている。
石油の支配者 (文春新書)

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ブラック・ドッグ ジョン・クリード *

2009年06月22日 | 本の読後感
英国推理作家協会賞受賞作家だというので読んでみたが、これはついていけない。ベルファストで打ち上げられた、50年前の水兵の認識票、50年前に海に沈んだ水兵の標識と人骨が打ち上げられ、元英国秘密情報部員ジャック・バレンタインは調査、数千トンの弾薬や放射性廃棄物が、海溝に投棄されたことを知った。検死審問にきていた記者が、ジャックに隠蔽工作が行われていることを告げようとした時、狙撃されてしまう。残した言葉は「ブラック・キャット」だった。終盤でネタが明かされるが、無理があって、一気に読めるが良かったとは言い難い。
ブラック・ドッグ (新潮文庫)

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あとの祭り 指の値段 渡辺淳一 **

2009年06月20日 | 本の読後感
週刊新潮に2004-2005年に連載された「あとの祭り」というエッセイ集。なんということはない内容だが、面白かったものをいくつか。金持ちの75歳の男性がいて奥様を亡くし独身、再婚の話がいくつもあるが決断できない。どうも相手がお金目当てのように見えるから、という理由。これに比べると婚外恋愛、いわゆる不倫は財産や結婚ができなくても一心に相手のことを思うから、これこそ純愛であると、これが渡辺さんの主張、一理ある。チャールズ皇太子がカミラさんと再婚、世の中の評判はよくないが渡辺さんは絶賛、30年よく続いたものだというのがその理由。カミラさんは73年に陸軍将校と結婚二児をもうけたが95年に離婚。チャールズ皇太子は81年にダイアナさんと結婚したが96年に離婚、ダイアナさんは翌年事故死。ダイアナさんは生前「3人で結婚したようなもの」と言っていたとか、チャールズ皇太子はずっとカミラさんが好きだったのだ。この愛を貫いたから絶賛、というのが渡辺評。売れっ子の作家はいいね、この程度のエッセイでも結構な収入になるのだから。
あとの祭り 指の値段 (新潮文庫)

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代行返上 幸田真音 ***

2009年06月19日 | 本の読後感
大手の五稜信託銀行、年金基金のコンサル河野が主人公。大企業が自社の年金基金の国の年金部分の代行返上が始まっている。厚生年金基金を持っている企業の年金は基礎年金の上に企業の厚生年金、さらに企業独自の付加給付年金の3階建てになっている。厚生年金の部分は本来国が行う年金処理の代行を企業が行っていて、その代行部分を国に返す、というのが代行返上。年金の運用を年5.5%でできるという前提で設計されていた制度なので、金利が高いうちはうまく回っていたが、低金利では回らず、運用利回りが5.5%に届かない部分は企業が負担する必要が出てきて、それではたまらない、過去の社員の勤務した部分が債務となって企業の経理を圧迫する、という過去勤務債務問題から、国に返上することが多くの企業で行われたのが2003年。著者はそんなことになったら、年金の現金化の必要が出てきて株式市場で株価が暴落するのではないか、というのが執筆のきっかけだったといっている。

主人公の河野は代行返上による市場への売り圧力を緩和するスキーム作成に着手するが、そこにヘッジファンドが立ちはだかる。一方、代行返上に向けて伝統ある企業の年金基金で地道に働く人々が努力している。物語は河野と妻由子のすれ違い、小規模証券会社の経営者とその娘理美、河野の高校時代の友人多田がヘッジファンドのマネージャとして登場、勧善懲悪の単純なストーリーではあるが、代行返上で引き起こされる金融市場のリスクを解説する。社会保険庁の杜撰な保険情報処理、ハゲタカのような外資系ファンド、遅れた企業年金基金担当者という図式は単純だが分かりやすいともいえる。すっと読める。
代行返上〔文庫版〕 (小学館文庫)


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強欲資本主義ウォール街の自爆 神谷秀樹 ****

2009年06月17日 | 本の読後感
お金の儲け方ばかりを勉強しMBAを取得、経営学を修めたビジネスマンは、人間として大事なこと、職業人としての倫理やなにが幸せなのかについて何も学んでいないのではないか、というのが神谷(みたに)さんの指摘。合法であれば手段を選ばない金儲けは破綻すると主張していて、それは今現実のものになろうとしているが、こうしたバブルとその破裂は「強欲」がある限りなくならないとも指摘、これを「強欲資本主義」と称していずれ終わりを告げるときがくると説いている。神谷さんももともとは住友銀行入行後、ゴールドマン・サックス証券に移籍、米国で投資銀行「ロバーツ・ミタニLLC」を経営する強欲の当事者とも言える人物、その著者がインサイダーとしてウォール街は自爆すると表現。欧州系のマーチャントバンクが投資銀行へそして金儲けのためなら何でもやる今の投資銀行のように変身してきたかを解説、ゴールドマンサックスをそれらの象徴的存在と指摘している。

アメリカは物作りができない国になってしまった象徴としてGMを例示、CEOワゴナーの2008年5月に日経ビジネスに掲載されたインタビューでの言葉を紹介している。「企業としての至上命題は株主への利益の還元であり、収益性やキャッシュフローが非常に大切です。当社は昨年米国でレンタカー向けの販売を大幅に削減しました、採算が合わなかったからです」自動車会社の命題は消費者が必要とする車を作ることであり、顧客のために働くことが至上命題のはず、と神谷さんは指摘している。これに対するトヨタ経営者の言葉を紹介。「われわれが欲しいのは顧客なのです。顧客を増やすためには顧客のためになる新しい技術が必要なのです。そのためにはどんなにお金をかけても良いと思っています」神谷さんはこれがGMとトヨタの今の企業差を表していると言う。GEも2008年5月に不採算という理由で家電部門を売却すると発表、アメリカ企業は儲からない物作りから手を引いて、採算の良い金融機能に絞ろうとしている、これがアメリカの危機だという。その金融機関の考えていることは「今日のもうけは僕のもの、明日の損は君のもの」という自己中心的なもの、リーマンショックで目が覚めることを祈る、としている。

ウォール街のファンドの報酬体型はどうなっているのか。一般にプライベート・エクイティ・ファンドでは、運用総額の2%プラス、キャピタルゲインの20%という契約、できるだけ短期で利益を上げて売り抜けることを考える。10年20年かけて事業を作り上げることを考えているようなマネージャーはいない、ということ。法律さえ守っていれば、社会貢献や経営者倫理などには全く興味もなく、ひたすら利潤を目指しているという、お金だけに価値があるとの考え方である。

所得格差にも問題があると指摘、倒産したリーマンブラザーズのトップ、ファルドCEOが得ていたボーナスは4000万ドル、一方で失業者は6%を超えていて、健康保険や予防施主さえ受けられない子供達がいるアメリカという国は病んでいると言わざるを得ないと神谷さんは言う。こうしたアメリカの病理を1987年時点で指摘していた日本人が下村博士、池田内閣時代に「所得倍増論」を構想した経済学者で指摘事項は次の通り。
①消費好きのアメリカ人とレーガン減税は虚構の経済政策。
②日本商品はアメリカの異常膨張に吸い込まれ繁栄しているかのように見えるが、異常膨張に合わせて設備投資すると過剰投資となる。
③財政赤字を減らすには大幅な歳出削減と増税以外に道はない。
④アメリカの要求に合わせた日本の内需拡大論は日本経済を破滅させる。
⑤ドル崩壊の危険性は常にあり、日本はすでに何兆円も損をしている。
⑥日米は縮小均衡から再出発するべきである。世界同時不況を覚悟するしか解決の道はない。

当時、この下村博士の主張に耳を貸す人はおらず、前川レポートにつながり日本バブルは90年代初めに崩壊、「小泉・竹中時代」にはさらなる強欲主義が日本を席巻し、そして今アメリカ金融経済は崩壊、日本も大きな影響を受ける結果となっている、と神谷さんはいう。これからは内需振興や輸出振興、特にアメリカの浪費を前提とした輸出は多くを望めず、資源価格は上昇傾向、地球温暖化問題もある。大きな赤字を抱える日本としてはこれ以上の財政出動にも限界があり、下村博士指摘の通り、ゼロ成長を現実のものとして受け止める必要がある。日本人は物づくりや日本人が大切にしてきた価値観、「もったいない」「足を知る」に立ち返るべきである、という主張である。デフタパートナーズの原丈人さんの「公益資本主義」での主張と重なる部分も多い。強欲資本主義の真ん中にいる著者の主張だけに説得力もある。
強欲資本主義 ウォール街の自爆 (文春新書)
世界経済はこう変わる (光文社新書)

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マグマ 真山仁 ***

2009年06月16日 | 本の読後感
ハゲタカの間山さんの地熱発電会社のターンアラウンドを描いたマグマ、ハゲタカよりずっと読後感が良い。これは主人公の、外資系ファンドのゴールドバーグ・キャピタルに勤める野上妙子の人間力だと思う。野上はGC東京支店長の待田から、地熱発電を研究運営する日本地熱開発(地開)の再建を任される。野上は地開の安藤社長や研究責任者の御室から地熱発電の潜在力と将来性を説明され、会社再建に努力する。野上は上司の待田、元上司の大北など、GCの先輩社員に尊敬を感じながらも、会社の姿勢や先輩の拝金主義に疑問も持つ。きわめて正常な神経の持ち主なのだが、GCの社員である以上、会社を再建させて転売する、というターンアラウンドビジネスマンであることには変わりはなく、時に非情な台詞も口に出す。日本地熱開発の安藤元社長は政治家である安藤大志郎の孫であり、地熱発電が大きく成長しなかった理由について次のように解説する。「地熱停滞の最大の理由は、電力会社が原発という神の火を手に入れ、後戻りできなくなったことである」そして、政府環境庁が電力会社と組んで地熱発電を阻み、さらに国立公園保護や温泉地保護を切り札にしていることを説明している。「日本の場合、二つの大きな障害が、大型地熱発電所建設を阻んでいる。一つは、有力な地熱エリアが国立公園内にあること、もう一つは温泉街との兼ね合いである」 これは本当なのだろうか。入念たる取材と関係者ヒアリングの後の記述であろうと推察する。環境問題に注目が集まり、ポスト京都議定書が間近に迫る、今後調べてみたいテーマである。
マグマ (朝日文庫)
レッドゾーン(上)
レッドゾーン(下)

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幕末史 半藤一利 *****

2009年06月15日 | 本の読後感
1853年アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航、開国を要求してから1877年西南戦争が勃発、西郷隆盛が死に、相前後して大久保利通、木戸孝允が死亡するまでを慶応大学丸の内キャンパス特別講義として20回、講談風に語ったのを本にしたというもの。これを聴講した方達は楽しかっただろうな、と思える内容。巻末に年表がついているので見ると歴史や小説で知っている事柄が並んでいるだけなのが、これが半藤さんの講談にかかると西郷や大久保など登場人物に血と魂が宿り、その時の登場人物の志や思い、無念さやうれしさが伝わってきます。開国を受け入れるかどうか、という判断を当時の幕府は容易にできないので時間稼ぎをしようとするが、したたかなアメリカはイギリスが中国でやったアヘン戦争のことをちらつかせ、そのことを既に知っていた幕府のインテリ達をびびらせています。幕府は何も決められない、「ないないずくしの歌」が紹介されていて、「鎖国は破りたくない、ご威光も落としたくない、外国人と応対できる老中がいない、軍備が足りない、戦う勇気もない、御体裁も失いたくない、だから老中達は決心できない」町民達はこうはやし立てて喜んでいたとか。こうしたペリー艦隊などの来航は、勝海舟に海軍の重要性を気がつかせます。

こうした騒然とした攘夷と開国両論に揺れる幕末に大権力を握ったのが井伊直弼、大老となり安政の大獄が始まります。井伊は桜田門外の変で殺され攘夷論の沸騰へとつながっていきます。こうしたことが起こる前、1855年には長崎に海軍伝習所が作られて4年間で閉鎖されたのですが、その4年間で各藩から集められた優秀な青年武士には、藩より大きい国家という概念が理解されたこと、西洋の合理主義が教えられたこと、そして上級下級の武士が切磋琢磨した結果、能力が高いものが良い結果を残すことが体感されたこと、こういう成果を残したのだと半藤さんは言います。ここで学んだ武士達が中心になって日米修好条約の批准のためにワシントンに行く必要が出た際に咸臨丸の日本人だけでアメリカまで行こう、という主張が生まれたとか。実際には危ないのでアメリカの艦船と一緒に行ったらしいのですが、興味深い観察です。

公武合体のためいやいや降嫁しなければならなかった皇女和宮。行列を作って京都から江戸まで行くのですが、由比にサッタという地名があるのでわざわざ中仙道を通った、その際一日に進む距離は五里。京都から江戸まで25日くらいかけてゆっくりと行ったそうです。さらに、二里四方は煙止め、火はたいてはいけないとのおふれが出て人々はお湯も沸かせなかったとか。板橋に「縁切り榎」という木があったので伐採するわけにも行かないので、そのためにバイパスを造ったとか。降嫁の条件として、「公武一体、攘夷の徹底、大赦(一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城)」があって、自由の身になったこうしたメンバーが明治維新を進めたと紹介。幕末史は藤村の「夜明け前」と同時代、「夜明け前」が幕末から明治にかけての木曾地方を描き、主人公は、馬籠宿の本陣の家系に生まれた青山半蔵で藤村の父がモデルとなっています。「夜明け前」には中仙道を通る和宮行列の様子が描写されていますが、その他にも半蔵が尊皇攘夷に心を引かれる話、後に出てくる新撰組の武田耕雲斎率いる水戸浪士天狗党が、水戸から京を目指して上って行く話、慶喜が追いつめられて大坂から江戸に逃げて帰った話、生麦事件などが出てきます。ハラキリがフランス人にとって衝撃的だった逸話もありました。

島津久光が登場、江戸城に乗り込むと、大砲の威力を背景に「五大老(島津、毛利、山内、前田、伊達)の設置、攘夷断行、慶喜を将軍家茂の後見役に、春嶽を政治総裁にせよ」と当時の幕閣にせまります。これに成功した帰り道におきたのが生麦事件、結果として27万両もの賠償金を幕府はイギリスに払います。この後もたびたび無礼者ということで殺人をした尻ぬぐいのためにお金をはらい、外国と戦争をした結果賠償金を払わされています。四国艦隊と長州が戦った時には300万ドルを要求され50万ドルX6年払いで支払ったという話もあります。攘夷論はこうした中でますます高まりますが、尊皇攘夷、と言われる尊皇の部分というのは相当後から付け足された概念で、最初は攘夷だけだったとか。

新撰組はよく小説や映画には取り上げられますが、こうした歴史の中での意味はほとんどないと見られています。池田屋事件は明治維新を4―5年遅らせたという説もありますが、半藤さんは逆に2―3年早めたと主張。池田屋事件が蛤御門の変をおこし、長州藩がここでこてんぱんにやられたので維新は早まった、という説明です。その後高杉晋作の活躍で長州が再び表舞台にでてきて開国論へとつながります。薩摩と長州はながく敵対していましたが、中岡慎太郎、坂本龍馬、小松帯刀、桂小五郎、西郷隆盛などの働きで薩摩名義による武器輸入を実現させ、薩長同盟の基礎を築きます。この時立ち合った薩摩の西郷38歳、小松31歳、桂33歳、坂本30歳、中岡29歳にすぎないのです。このとき武器輸入をしたのがイギリス人商人グラバーで、龍馬が結成した亀山社中、のちの海援隊が活躍しました。開国の決断をした天皇は孝明天皇、その決意を促したのは慶喜の大演説だったとか。こうして明治維新へと向かいますが、1867年には高杉晋作(享年29歳)も坂本龍馬(享年33歳)も死んでしまいます。辞世の句は有名な「面白き、こともなき世を面白く、住みなすものは心成りけり」。ところで龍馬が土佐の船夕顔丸で後藤象二郎に授けた知恵が「船中八策」、聞いた後藤象二郎はすっかり感心してそれを山内容堂に、そしてそれを慶喜に提案したと言われています。1. 大政奉還 2. 上下議院制 3. 人材登用 4. 外国との条約 5. 憲法制定 6. 海軍設立 7. 近衛兵の設置 8. 為替と金銀交換レート設定 龍馬が如何に進んだ考えを持っていたか分かります。

王政復古といわれる最初の明治政府の幹部達は誰だったのか。総裁 有栖川宮熾仁親王 議定 正親町三条実愛など公家達+徳川慶勝、松平春嶽、浅野茂勲、山内容堂、島津忠義。 参与 岩倉具視、大原重徳、橋本実梁その他尾張藩士3名、越後藩士3名、広島藩士3名、土佐藩士3名、薩摩藩士3名。これらに加えて小御所会議では薩摩から大久保利通、西郷隆盛、土佐から後藤象二郎、神山左多衛、越前の中根雪江、酒井十の丞、尾張と広島から2―3名などとなっています。こうしたメンバーで会津と桑名を御所から追っ払い、鳥羽伏見の戦いへと突入、慶喜は朝敵となってしまうのです。その後、西軍と東軍に分かれて西軍が新政府軍、東軍は幕府軍となるのですが、追いつめられた慶喜は京都から大坂に逃げさらに一人江戸まで逃げ帰ります。幕府代表勝海舟と西軍西郷隆盛の話し合いにより江戸城への無血入城がなされて、朝敵慶喜の命は助けられます。

五箇条のご誓文についても、最終版になるまでの経緯を紹介しています。
第一版 由利公正 第二版 福岡孝弟 第三版 木戸孝允 そして最終版が明治天皇に提示されたということ。この五箇条のご誓文、内容的には民主国家を目指そうというもの、将軍など作らず万機公論に決すべし、としています。内容としては龍馬の船中八策からの発展形ですね。

この後は、版籍奉還、廃藩置県、徴兵制導入となるのですが、こうした荒療治を西郷隆盛が結構独断でやってしまう。というのは岩倉使節団が1年半いない間には大きな改革はしないこと、との約束があったのです。しかし西郷さんは岩倉使節団が出た後の大久保、岩倉、木戸、伊藤など重鎮が留守中に、大隈重信、板垣退助等と主に大改革とも言える施策を実行しています。まず、朝敵の大赦、徳川慶喜、会津の松平容保、桑名の松平定敬、老中の板倉勝静、榎本武揚などを軒並み赦免。そして徴兵令です。①近衛兵創設 ②廃藩置県による各藩主からの兵権奪取 ③徴兵制 ④兵器製造独立 ⑤陸海軍学校創設 こうした流れになります。徴兵制に旧武士階級は反発したと言います。戦いのプロたる武士は失業させておいて全国から百姓などの素人を集めてどうするのか、という言い分。山県有朋と西郷さんは徴兵制施行を強行、国家の枠組みとして徴兵制がこれを機に組み入れられました。そして学校制、鉄道開業、諸外国とのコミュニケーション向上のための太陽暦採用、国立銀行設置、地租改正などあれよあれよという間もない改革実施だったようです。

廃藩置県は先の西軍と東軍の戦い、つまり朝敵側と新政府軍に分かれて戦ったしこりをそのまま引きづり、今でも県名と県庁所在地名が異なる17県のうち、14県は朝敵側だとのこと、このオペレーションをしたのは井上馨、この差別は昭和の軍隊まで引きずっていたとのことです。対米戦争直前の薩長土肥強硬派、永野修軍令部総長(土佐)、海軍次官、軍務局長、人事局長が長州、戦争指導班長、軍令部情報部長などが薩摩と薩長閥の佐官級クラスがそろい踏みだった。終戦の手じまいをしたのが朝敵とされた鈴木貫太郎(関宿藩)、米内光政(南部藩)、井上成美(仙台藩)これらの人たちが汗をかいたとされています。明治30年時点の陸軍大将は全員薩長出身、陸軍中将は長州12、薩摩13、土佐2、福岡4、東京1、陸軍少将は長州40、薩摩26、土佐6、福岡4、熊本1、石川4、東京2。相当明快な薩長閥が形成されて太平洋戦争突入まで行ったことが分かります。そういえば総理大臣の出身地をみても山口県が8名でトップ、地域ブロックでもると、明治維新の震源地であった中四国・九州が多く、幕府側の抵抗拠点があった北海道・東北、関東以北は、比較的少ないという傾向が見うけられ、ここまで影響が残っているとも言えます。

考えてみると明治維新というのは若手の武士達が攘夷、開国の狭間にあって、国家大変革が必至との認識を持って行動した、その結果、武士という特権階級はなくなり、国民という概念を持つ一つの国として生まれ変わったのです。藩の利益、自分の階級や立場の維持などに拘泥しない若者達だからなしえたこととも思えます。幕末の日本人平均寿命は40歳弱だったらしいので、今の半分、今の40歳代が当時の20歳後半から30歳代だと考えても良いかもしれません。それにしても日本の今のリーダー達の多くが60歳代であること考えれば、国が変わるときには若い力が重要になるわけです。

そしてこの後西郷の征韓論と政府軍との戦いへと進みます。征韓論賛成派は岩倉使節団の留守だったメンバーが中心、反対派は使節団メンバーとなっていて、対立軸は明確なようです。こうした中、江藤新平佐賀征韓論派に担がれて政府に処刑、西南戦争で西郷さん(享年51歳)も木戸孝允(享年45歳)も死にます。西南戦争の翌年、大久保(享年49歳)は暗殺され、残ったのは大物は伊藤と山県です、明治元年の時には伊藤28歳、山県31歳、10年たって伊藤38歳、山県41歳、彼らが明治政府を背負って立ったのです。山県はこの時参謀本部を陸軍省から独立、統帥権はこの時政府から独立していて、明治憲法発布より前のことです。統帥権干犯問題が太平洋戦争前に出てきますが、今から見れば何が問題なのかとも思えるこの話、根本は山県有朋が明治の始めの国の形として決めたもの、この形は太平洋戦争終了まで続いたのです。この後、「坂の上の雲」の時代へと入っていき、国は殖産興業、富国強兵へと舵を切っていきます。1853年のペリー来航から新政府の枠組みができるまで、という幕末史、前後の流れと人と人との関係がよく分かります。まさに歴史は人と人が同じ時代に出会って作られているのです。
幕末史
昭和史 1926-1945
昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989

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小説 ザ・ゼネコン 高杉良 **

2009年06月14日 | 本の読後感
1988年バブル破裂前夜のゼネコン業界に取引銀行から出向した山本を主人公に、ゼネコンのビジネスを描いている。ちょっと古くさい感じがするのは致し方ないか。東和建設は準ゼネコン、社長の和田征一郎はワンマン、山本は和田社長に気に入られ秘書的な役割を与えられ、ブレーンとして信頼を受ける。ゼネコンの問題は政界癒着、談合、裏世界との取引、山本は1年という短い出向期間に社長の側近としてこれらをかいま見る。バブル崩壊直前の危うい好況が崩壊を予想されるような記述が見受けられるが物語は山本の出向解除で終わり、バブル崩壊はその先の話である。出向解除の理由が、和田社長の息子の処遇に関する意見の違い。直言居士山本はできのよくない和田社長の息子の面倒をみるように頼まれるがいい返事をせず、社長の甥が新入社員として入ってこようとすると歓迎しようとして、和田社長から会社を追い出される形となる。物語のリズムやテンポがのんびりしていてはらはらどきどきしない。結論はわかっているようなそんなお話。
小説 ザ・ゼネコン (角川文庫)

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麻疹が流行する国で新型インフルエンザは防げるのか 岩田健太郎 ****

2009年06月13日 | 本の読後感
アメリカ116人vs日本27万8000人、2001年に麻疹に罹った人の数である、著者によると原因はハッキリしている。96年に3種混合(MMR)ワクチンの副反応により死者が出たため責任追及をおそれた厚生労働省の担当者がワクチン接種を定期接種から任意接種に変更、2006年までの10年間接種せずに過ごした人から発症者がでたとのこと。厚生労働省は副反応がでやすいおたふく風邪(Mumps)ワクチンをはずしたMRワクチンの定期接種を再開したことのこと。役所では2-3年で担当課長補佐は異動するため、責任者は誰なのか、という問いには「責任者は変わったためわかりません」という答えになるとのことで、責任者はいつも不在である。日本は先進国で唯一麻疹が流行し、エイズが増え、結核が減らない国であり、ワクチン行政がアメリカより20年遅れている国であるとのこと。アメリカで接種されていて日本で接種が義務化されていないものに、Hib(インフルエンザ菌:インフルエンザウイルスとは別物)、肺炎球菌(Prevnar)、ロタ、A,B肝炎、DTaP(大人向け百日咳)などがある。インフルエンザ桿菌は小児で細菌性髄膜炎や急性喉頭蓋炎の原因になり、どちらも非常に重篤な病気であり、小児科の臨床をやっている医師の多くは日本でもはやくHibワクチン義務化にと思っているそうである。実際にH1N1が流行してみて、日本とアメリカなどの対応を比べてみると、日本の対応のちぐはぐさがよくわかった。ワクチン問題だけではなく、日本での防疫、公衆衛生の概念など本当に遅れていると感じる。
麻疹が流行する国で新型インフルエンザは防げるのか
進化から見た病気 (ブルーバックス)
豚インフルエンザの真実―人間とパンデミックの果てなき戦い (幻冬舎新書)

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愉楽の園 宮本輝 ***

2009年06月11日 | 本の読後感
タイのバンコックを舞台にした、日本人女性 惠子とタイ人で裕福で王家の家系にも繋がる家庭育ちの男性サンスーン。二人は妻を亡くした男と、パートナーにと別れて傷心旅行でバンコクを訪れた女性としてバンコックで偶然出会い、そのまま3年、夫婦とは成らないまでも家を買って週に何度かを一緒に過ごす間柄になっている。サンスーンは惠子と正式に結婚したがっているが、惠子には迷いがある。日本から世界を旅してバンコックにたどり着いたという野口が惠子の前に現れ、惠子の心は揺らぐ。サンスーンは政界進出を期に、惠子と正式に結婚したいと考えプロポーズする。惠子は煮え切らないが、3年も住んでいて読み書きもできないタイ語を勉強する決心をして、サンスーンには内緒で学ぶ。ある日、惠子がタイ語を話すのを聞いたサンスーンはそのことが、プロポーズへの答えだと解釈する。政界進出と同時に本の出版ももくろむサンスーン、だが、本当の執筆者は別にいることを惠子は知る。本の出版を祝うパーティ席上、二人の結婚を披露するサンスーン。惠子は、野口とのこと、本の秘密などが頭の中を駆けめぐり、サンスーンの期待には添えないことを決意する。ここで物語は終わるのだが、サンスーンの表面面の良さを描きながら、政治家としてのサンスーンの裏側を予見させる描写もあり、途中からは惠子がサンスーンを裏切るのだと見えてくる。野口は惠子に惹かれながらも、二人が結ばれることはないとも考えている。ある時、二人は結ばれるが、、それは一時の惠子の気の迷いと野口は感じている。あーでもない、こーでもない、という女心とも思えるが、自分がサンスーンであったならばとうに見切りをつけるような展開だと感じるがどうだろうか、惠子がそんなに魅力的な女性だとも思えない。宮本輝らしい舞台設定でありストーリー展開である、とも言えるが、みんなが中途半端で読後感は良くない。
愉楽の園 (文春文庫)

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家庭と幸福の戦後史 三浦展 ****

2009年06月09日 | 本の読後感
日本の「幸福」観はアメリカの「幸福」観を20年遅れて追いかけてきて、今行き詰まっている。アメリカのそれは20年前に行き詰まり、エンロンやワールドコムの経営倫理破綻が企業破綻を招いたことに続いて、利益追求をしてきたリーマンが破綻、そしてアメリカ労働者を支えてきた代表企業GM、クライスラーも破綻した。アメリカは経済自体も破綻状態になった。

20世紀はアメリカの世紀とも言える。20世紀初めにフォード、GMが誕生、製造業モデルがスタート、大恐慌で一時停滞するが、その後1939年に開催されたNY万国博が一つの転換点であった。NY万博では大規模郊外型住宅とそこに住む家族、という理想的ライフスタイルが提示され、職場であるダウンタウンには車で通勤する、郊外と町中はハイウエイで繋がっている、という理想絵図が展示された。GM館では“フューチャラマ”と名付けられた未来絵図がミニチュアで飾られ来場者の目を奪った。「GMがあなたの未来のアメリカへの旅にご招待します。1960年の世界です」というナレーションで来場者がみせられたのはハイウエイと地平線、緑豊かな自然の風景と未来の高速道路だった。家電メーカーの“ウェスティングハウス”はインディアナからNY万博を見物にきた、という設定の“ミドルトン一家万博に行く”という映画を制作、両親と息子、娘に祖母から成る家族を一つの理想的家庭として描いた。NY万博は郊外に住む4―5人家族から成る平均的なアメリカ家庭が理想的姿として示された場所となった。第二次世界大戦がはさまったが、その後1950年代にはその理想を実現するような宅地開発がなされ、シカゴのパークフォレスト、LAのウエストチェスター、NYのロングアイランドなどが開発された。GM館でみせられた“フューチャラマ”の実現である。こうした生活をTVは番組としても取り上げた。「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」「陽気なネルソン一家」いずれも郊外に住む中流家庭が主人公、庭付きの郊外一軒家が住まいであった。

「台所戦争」と呼ばれる論争があったのは1959年、モスクワで開催された「アメリカ展」でのこと。アメリカから参加したニクソンが当時のフルシチョフ書記長に自慢した。「ここに展示されているような電気製品やレジャー用品、そしてそれらを入れる住宅をすべての階級のアメリカ国民が手に入れることができる」これに対しフルシチョフはこう答えた。「わが国でもこの程度の住宅と設備なら新築であれば装備されている。それよりもアメリカでは貧乏な人は道ばたで寝て暮らすしかないでしょう、ソ連に生まれた人ならば誰でもこうした暮らしができるのですよ」 これが台所戦争の中身、不毛な議論、ともいえるが当時は二大大国の真剣なつばぜり合いだった。

アメリカはこのころ実際消費文明の頂点に立っていた。男性にとっては家庭は成功の証であり、成功を消費財の蓄積によって示した。女性にとっては家事労働を電化製品が軽減し、持ち家を得ることは主婦としての満足に繋がった。1956年にはインターステイト高速道路建設費用として1000億ドルが計上、6万Kmのハイウエイの9割を国家予算でまかなった。第二次世界大戦前まではアメリカでも実用性を重んじること、禁欲の美徳が唱えられていたが、こうした消費生活には良心の呵責を感じていたアメリカ人も多かった。しかし「消費は家族のため」という考え方に古き良きアメリカ人の気まずさも埋もれてしまった。

実際、アメリカでは1954年から1964年まで年間400万人の子供が生まれるベビーブームとなり、離婚率も1946―1958年減少を続けた。典型的な家族は郊外に住み子供を二人持つ中流家庭となり、消費の王様として子供が登場した。ベビーブーム世代の子供達は生まれながらにして豊かな環境に囲まれ、古くからの生活の知恵は古くさいものとして葬り去られてしまった。

しかしこうした中、アメリカ人女性の間にはじわじわと問題が巣くっていた。「これが私の人生なの?」1955年には存在しなかった鎮静剤の消費、58年には46万2000ポンド、59年には115万ポンドにも達した。50年代の主婦には4つのB、booze(酒)、bowling(遊び)、bridge(ゲーム)、boredness(退屈)があると言われた時代であった。1954年に登場したエルビスプレスリーはこうした典型的なアメリカ家庭から見ると存在自体が不道徳、大人からは敵視されたが、郊外の保守的価値観に反発を感じていた高校生からは絶対的支持を得た。50年代の若者の価値観の変化はベトナム戦争に対する反体制ムーブメントからロックの祭典「ウッドストック」へと繋がっていった。こうした意識変化はTV番組にも表れた。「奥様は魔女」「かわいい魔女ジニー」「アダムスのお化け一家」、いずれも舞台設定は一昔前の郊外型一軒家なのに、登場するのは魔女であったりお化け、現実逃避のドラマで、子供の不良化や両親の離婚など、現実の家族の問題を隠蔽する手法がとられたのだと分析されている。

さて、日本では50年代のアメリカの家庭を理想像として、しかし現実問題として限られた住宅地でどうするか、と考えられたのが集合住宅としての団地、1955年に設立された住宅公団、1960年代から増えてきた2DKである。当時の日本人は、家庭の理想として、冷蔵庫には大きな牛乳瓶やハムやチーズの固まり、新鮮な野菜やカラフルなゼリー、ガレージには車があって、庭には緑の芝生、白い柵の塀にバラの絡まる門がある、という「パパは何でも知っている」ででてくるドラマの世界を夢見た。日本での核家族化は55年から75年にかけて急速に進行、住宅地を郊外である埼玉、千葉、神奈川に求めた、まさに20年遅れでアメリカの郊外化が日本でも進行した。OLという呼び方は63年に女性週刊誌が始めたそうであるが、意味としては50年代のアメリカ同様、主として働く男性の補助的役割であった。アメリカでの理想的家族像が39年のNY万博から50年代に定義されたように、日本でも64年の東京五輪前後に夫婦と子供二人を標準世帯と考えるような、配偶者税控除や家族手当の考え方、住宅資金貸付制度などの形が完成してきた。父親は残業してでも収入を得ながら女性は家事育児を担当し、子供が学校に上がる頃には郊外に持ち家を建てて、子供達は学歴を求めて受験勉強に励む、という標準的家庭が設定されたのがこのころである。住むだけならば賃貸住宅でも良いはずなのに、なぜ持ち家なのか。金融公庫による住宅融資制度、福利厚生としての企業社内融資、住宅手当、これらは働く人たちに目標を与え、働く意欲を継続して欲しい、という戦略であり、国と会社がアメリカを手本とした長期戦略であった、と著者の三浦は分析している。

1973年の三菱地所のCM、「3Cのある3LDK」。今の人はご存じないかも知れないが、3Cとはカラーテレビ、車、クーラーであり、アメリカでの消費は美徳で郊外に持ち家、という延長線上にある幸せ観である。こうした大衆消費の前提には工業力の発展と、生産性向上による第二次産業から第三次産業への人口シフトが起こる。アメリカでは1960年に第三次産業比率が54.5%、日本では1980年に55.3%とほぼこちらも20年遅れでシフトが起こっている。アメリカで60―70年代に起こった価値観の変化からくる社会の歪みは、日本ではバブル崩壊後の90年代におきていると三浦は見ている。それは95年のオウム事件であり、97年の小学生惨殺事件が象徴する90年代におきた一連の中高生による事件群であり、それらの多くは郊外型の住宅地でおきている。こうした郊外型事件の共通点を著者は次のようにまとめている。
①共同性の欠如:地域の結束力が希薄。
②働く姿が見えない:地元で働く人たちがおらず、住宅地は寝る場所。
③世間がない:親戚や近所という子供達にとっての「世間」がない。
④均質性:誰もが同じような生活をする中で、人との違いを目立たせない子供が増加。
⑤生活空間が合理的にすぎる:子供達は部屋にこもる、息苦しい私有空間。
これらはアメリカでの理想的な生活と価値観、私有財産を殖やすことが幸せ、というところに起源があるのではないか、というのが著者の主張である。アメリカは資本家と労働者は対立するものではなく、生産者主体の社会を消費者主体にしようとした、日本はそれに追随した、と言う解釈である。そしてその消費者社会の生産工場である「郊外」が日本でも崩壊しようとしている、という警鐘である。

この指摘に回答はもちろんない。だからアメリカ型の幸福感は間違いだった、ということではないし、日本はこれからこうなるという予測もないが、今何かが問題になりそうだ、子供達の将来はどうなるのだろう、ということを考えるきっかけ、ヒントになる。「下流社会」で登場した三浦さん、と思っていたら以前からこういう視点からも評論もしていることに注目したい。
「家族」と「幸福」の戦後史―郊外の夢と現実 (講談社現代新書)
下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

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