意思による楽観のための読書日記

蕎麦打 加藤晴之 ***

役者の加東大介の息子、加藤晴之がSONYのデザイナーを辞めて出前蕎麦屋を始めるまでのお話し。本人も書いているが、「多くの人との出会いと支えが導いてくれた」、読者である僕から見ると、役者の父親の力は亡くなってからもシッカリと息子のことを心配していて助けてくれているようである。筆者の現在の妻は中学時代の同級生、真弓さん、彼女がまるで女神のように加藤を見守っている。前の妻は黒澤明監督の娘和子、黒澤と加東大介は親友であり、その娘とは幼なじみだったそうだ。だから黒澤久雄と林寛子とも知り合いであり、津川雅彦とはいとこ同士であるため、朝丘雪路とも顔見知りである。こうした親戚づきあいの中から生まれるネットワークがそこここで筆者を助けている。

成城学園の実家から成城大学に進むが、自分には向いていないと1年生で退学、親に頼んで2ヶ月の欧州旅行をさせてもらう。イタリアで母の知り合いの日本人デザイナーからアドバイスを貰い、デザインの勉強のために武蔵野美術大学に入学。イタリア語を習い始めるとその先生からイタリアのデザインの名門会社のデザイナー宮川秀之に紹介してもらう。実は加東大介はトヨタスポンサーの芝居をやっていたときに時のトヨタ社長から宮川秀之を息子に会えるよう手配していたのだ。そして宮川秀之が日本に来る時のドライバーになる。そこで宮川秀之が連れてきたのがジウジアーロ、その会社というのがイタル社であった。こうした時に父加東大介は死んでしまうのだが、父の息子への思いはいくつもの恩恵を加藤晴之にもたらしている。通夜の席上、黒澤明の娘和子との婚約を発表、長男隆之とともにイタリアでデザイナー修行をするためイタル社でジウジアーロの元で勉強をさせてもらう。

和子との離婚の経緯は触れられていないが、その後真弓と再婚、SONYでデザイナーに、デレビ”Profile”などのデザインを出がける。あるとき、自然食に目覚めた加藤はSONYを退社して母の八ヶ岳の別荘に移住することを決める。八ヶ岳には知り合いはいなかったが、カナディアンファームという自然の中で暮らす人に出会い、そこから畑を貸してくれる人に出会う。そこで借りたのが二反、600坪の畑であった。その地で長女なおを設け、一年目から地元の人達に助けられて自然野菜を作ることができた。そんな時、東京では行けなかった蕎麦の名店「翁」が八ヶ岳にあることを知る。すぐに出かけていき翁の高橋邦弘さんと知り合う。高橋邦弘は加藤に蕎麦を自然農法で育ててみないかとオファーを受ける。一も二もなく引き受けた加藤、自然農法で1年かけて蕎麦を育てて200Kgのソバが収穫できた。翁の高橋邦弘にさっそく手渡すと、蕎麦屋の設備を使って製粉をさせてくれるという。そして製麺道具一式を借りることになる。

SONYを退職した加藤には退職金が手元にあったが、それも尽きてしまい、母に借金、どうして暮らしていくのかを考える。そこで出てきたアイデアが「蕎麦屋になる」ということ。翁の高橋邦弘に弟子入りを頼み込み、3ヶ月半の修行で蕎麦打ちの基本をマスターする。そして思いついたのが出前蕎麦打ち、という商売。最初のお客はSONYの当時の会長、社長であった大賀、盛田であり、役員家族のパーティ会場での手打ち蕎麦サービスというものであった。ダイレクトメールを出すのにアイデアを暮れたのはSONY時代の上司黒木取締役、黒木の紹介で雑誌ターザンに出前蕎麦打ちの記事を書いてもらい、イタリアの宮川秀之の紹介で日経トレンディーにも記事が出た。こうした取材や記事のお陰で予約は入り仕事は順風満帆であった。

なんと羨ましいお話だろうか。妻もこどももいて、やりたいことをやらせてもらって、生活の心配もある中で、人に支えられてやりたいことができる。ビジネスを目指しているのではなく、アートを目指すとはこういう生き方なのだろう。そういえば家にも蕎麦打ちセット一式があった、僕も蕎麦打ち、やってみたくなった。


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