意思による楽観のための読書日記

冬のデナリ 西前四郎 ****

デナリ、一般にはマッキンレイ峰の冬季登山への世界で最初(1967年)の挑戦を描いたノンフィクション。夏でも氷点下20度にもなることがあるデナリ、冬には日照時間が4時間、高度6千mの頂上付近では氷点下50度にもなった上に、風速50mの強風が吹いて、計算上氷点下148度にも感じられるという極寒の山である。そこに、日本人の筆者(物語ではジロー)とその他4カ国から7名が集まり、合計8名のチャレンジで、麓の氷河から歩き始めて3日目にチームの一人ファリーンがクレバスで転落死。チームは引き返すこととこのまま上ることで意見が分かれるが、遺体をアンカレジまで一人が運ぶことで、7名でさらに進むことで合意。第二第三第四とキャンプを設営して必要な荷物を運ぶという登山が綴られる。単独登頂やもっと大勢のポーターやシェルパを雇ったヒマラヤ登山の中間規模の登山、それでも運び上げる燃料や食料、テントなどの荷物はすさまじい量である。

物語の中で、日本人の登山はチームであり、誰が頂上を究めてもみんなで喜ぶことが紹介される。一方、米国人は自分が頂上に立てなければその登山は失敗と考える。このあたりの心理が、この挑戦の中でも登山計画と実行に影響を与え、7名中3名の登頂成功後の強風のなかでのビバーク、遭難につながる。残りの4名も二つのグループに分かれての行動を余儀なくされ、7日間にもわたる頂上直下での強風下のビバークは3名の命を削る。食料と燃料は3日分しかもっておらず、残りの4名からは絶望視されるなか、ビバークの3名は奇跡的に以前に登山した際の燃料と、他の登山隊が残した食料を見つけることができる。それでも手足の凍傷で、3名のうち一人しか両手を使えない、という絶望的な状況の8日目強風がやみ、凍傷の手足で死にものぐるいで下山する。筆者は頂上に行けなかった4名の中の一人であるが、この挑戦が本当に良かったのかどうか、自分はできることを本当にやったのかどうか、懊悩する。

筆者はその後、1975年に隊長として上ったヒマラヤで遭難によりメンバーを失う。その後日本で学校の先生になり、冬山登山はしない。このときのこと、そしてヒマラヤでの仲間の遭難死を考えると、山に登ることができないのだという。冬のデナリでの登山の描写は本当に厳しい冬の山デナリを経験した人でしか書けない山での生き延びるための知恵を紹介する。植村直己もホワイトアウトで1m先も見えない時に、クレバスに落下するのを防ぐために6mのアルミポールを腰に差して歩いた、という逸話も紹介している、スキーなのかと思っていた。登山家らしい淡々とした書きっぷりの中からも読者は冬山登山の素晴らしさと、遭難したときの厳しさ、登山家の考えていること、それでもなぜ冬のデナリに登ったのかを感じることができる。作り事ではないだけに、一つ一つの出来事が読者の目の前に示され、その迫力のために読み止まることができず、一気に最後まで読んでしまう。

文中より、その後の冬のマッキンレイへの挑戦者を紹介すると、第二登が1982年3人のチームが挑み一人が頂上に立った。第三登は1983年4人チームで2人登頂、一人が遭難死。第四登が1984年植村直己、登頂後遭難死。第五登は1988年の単独登頂、第六登1989年3人のチーム、第七登単独登頂。この本が書かれた1995年まではその後登頂されていない。筆者はこの本を執筆後、発刊直前の1996年亡くなった。忘れられない山登りのお話となりそうだ。裏表紙に小学生上級以上などと書いてあるが、立派な大人向きの山の本である。
冬のデナリ (福音館文庫)

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