意思による楽観のための読書日記

シュンスケ! 門井慶喜 ***

1909年、ハルピン駅で暗殺される伊藤博文は周防国束荷村の百姓の子として生まれ育った。名前を利助と言った。小さい時から自分は侍になる、と周りに言っては笑われていた。その侍気取りの子供の話を聞きつけた萩城下の藩校明倫館の学生で来原良蔵という秀才のほまれ高い青年が束荷村の利助を訪ねてきた。利発な利助の姿に、来原良蔵は「勉強しろよ」と言って去っていった。利助はその後、外国船防備のために鎌倉は鶴岡八幡宮に来ていた来原良蔵に10年後出会うことになる。1853年の黒船来航以来、幕府は各藩に沿岸警備を命じていたのである。来原良蔵も利助も同時に相手に気がついた。利助は17才になっていた。実は、利助の父が、村の中間水井武兵衛の目に止まり使用人になった。中間は長州藩では士族の下の卒席に属する。そして利助はその武兵衛に可愛がられ、実子のいなかった武兵衛はついに利助の父を養子にしてしまう。なんと利助は本当に武士の端くれではあるものの苗字帯刀が許される中間の息子になった。そして伊藤俊輔と名乗っていた。利助はトシスケ、トシスケは俊輔、と変化したという。そして俊輔はその時から来原良蔵の手付け(部下)に取り立てられる。

その後、来原良蔵は藩主の方針に反対して切腹をしてしまうが、俊輔は来原良蔵の遺言とも言える引き立てから、長州藩が送り出す英国留学生5人の一人に選ばれる。同じ時に留学生となったのが井上聞多であった。時は攘夷論が日本中を席巻する頃、5人の若者はロンドンに留学、その6ヶ月後、長州藩がイギリス艦隊に向けて砲撃をするという事件が留学生たちにも伝わってきた。居ても立ってもいられない井上と俊輔は日本に帰って長州藩に「偉大な国イギリスに戦争をふっかけることなど無鉄砲極まりない」と説得すると主張する。帰国しても首をはねられるだけだ、というアドバイスも耳に入らず急遽帰国する二人。予想通り、ざんばら頭で反攘夷を唱える英国帰りの二人は命を狙われることになる。

しかし、英語ができるようになっていた俊輔は、四国艦隊が馬関海峡に出現して長州の砲台を壊滅させ、その上で町を占領しようとするのを一人で相手の艦隊の旗艦に乗り込んで相手の提督と交渉、町への攻撃を取りやめさせることに成功する。この手柄から、長州藩の上位者から信頼を得、高杉晋作や桂小五郎にも一目置かれるようになる。本書ではその後、伊藤俊輔が8月18日の政変、七卿落ち、蛤御門の変、長州征伐などで長州藩の裏方になり高杉や桂小五郎を支える。

楽天的、生まれ持っての政治家、相手の懐に飛び込む好かれやすい性格など、俊輔がなぜ百姓から侍に取り立てられ、その後の幕末の荒波の中で頭角を現したかが描かれる。新選組や幕府側の物語が最近のテレビドラマでは多かったが、長州側からこう見える、という視点が新鮮であった。一気に読めてしまう好青年俊輔の成長、出世物語である。


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