意思による楽観のための読書日記

幕末史 半藤一利 *****

1853年アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航、開国を要求してから1877年西南戦争が勃発、西郷隆盛が死に、相前後して大久保利通、木戸孝允が死亡するまでを慶応大学丸の内キャンパス特別講義として20回、講談風に語ったのを本にしたというもの。これを聴講した方達は楽しかっただろうな、と思える内容。巻末に年表がついているので見ると歴史や小説で知っている事柄が並んでいるだけなのが、これが半藤さんの講談にかかると西郷や大久保など登場人物に血と魂が宿り、その時の登場人物の志や思い、無念さやうれしさが伝わってきます。開国を受け入れるかどうか、という判断を当時の幕府は容易にできないので時間稼ぎをしようとするが、したたかなアメリカはイギリスが中国でやったアヘン戦争のことをちらつかせ、そのことを既に知っていた幕府のインテリ達をびびらせています。幕府は何も決められない、「ないないずくしの歌」が紹介されていて、「鎖国は破りたくない、ご威光も落としたくない、外国人と応対できる老中がいない、軍備が足りない、戦う勇気もない、御体裁も失いたくない、だから老中達は決心できない」町民達はこうはやし立てて喜んでいたとか。こうしたペリー艦隊などの来航は、勝海舟に海軍の重要性を気がつかせます。

こうした騒然とした攘夷と開国両論に揺れる幕末に大権力を握ったのが井伊直弼、大老となり安政の大獄が始まります。井伊は桜田門外の変で殺され攘夷論の沸騰へとつながっていきます。こうしたことが起こる前、1855年には長崎に海軍伝習所が作られて4年間で閉鎖されたのですが、その4年間で各藩から集められた優秀な青年武士には、藩より大きい国家という概念が理解されたこと、西洋の合理主義が教えられたこと、そして上級下級の武士が切磋琢磨した結果、能力が高いものが良い結果を残すことが体感されたこと、こういう成果を残したのだと半藤さんは言います。ここで学んだ武士達が中心になって日米修好条約の批准のためにワシントンに行く必要が出た際に咸臨丸の日本人だけでアメリカまで行こう、という主張が生まれたとか。実際には危ないのでアメリカの艦船と一緒に行ったらしいのですが、興味深い観察です。

公武合体のためいやいや降嫁しなければならなかった皇女和宮。行列を作って京都から江戸まで行くのですが、由比にサッタという地名があるのでわざわざ中仙道を通った、その際一日に進む距離は五里。京都から江戸まで25日くらいかけてゆっくりと行ったそうです。さらに、二里四方は煙止め、火はたいてはいけないとのおふれが出て人々はお湯も沸かせなかったとか。板橋に「縁切り榎」という木があったので伐採するわけにも行かないので、そのためにバイパスを造ったとか。降嫁の条件として、「公武一体、攘夷の徹底、大赦(一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城)」があって、自由の身になったこうしたメンバーが明治維新を進めたと紹介。幕末史は藤村の「夜明け前」と同時代、「夜明け前」が幕末から明治にかけての木曾地方を描き、主人公は、馬籠宿の本陣の家系に生まれた青山半蔵で藤村の父がモデルとなっています。「夜明け前」には中仙道を通る和宮行列の様子が描写されていますが、その他にも半蔵が尊皇攘夷に心を引かれる話、後に出てくる新撰組の武田耕雲斎率いる水戸浪士天狗党が、水戸から京を目指して上って行く話、慶喜が追いつめられて大坂から江戸に逃げて帰った話、生麦事件などが出てきます。ハラキリがフランス人にとって衝撃的だった逸話もありました。

島津久光が登場、江戸城に乗り込むと、大砲の威力を背景に「五大老(島津、毛利、山内、前田、伊達)の設置、攘夷断行、慶喜を将軍家茂の後見役に、春嶽を政治総裁にせよ」と当時の幕閣にせまります。これに成功した帰り道におきたのが生麦事件、結果として27万両もの賠償金を幕府はイギリスに払います。この後もたびたび無礼者ということで殺人をした尻ぬぐいのためにお金をはらい、外国と戦争をした結果賠償金を払わされています。四国艦隊と長州が戦った時には300万ドルを要求され50万ドルX6年払いで支払ったという話もあります。攘夷論はこうした中でますます高まりますが、尊皇攘夷、と言われる尊皇の部分というのは相当後から付け足された概念で、最初は攘夷だけだったとか。

新撰組はよく小説や映画には取り上げられますが、こうした歴史の中での意味はほとんどないと見られています。池田屋事件は明治維新を4―5年遅らせたという説もありますが、半藤さんは逆に2―3年早めたと主張。池田屋事件が蛤御門の変をおこし、長州藩がここでこてんぱんにやられたので維新は早まった、という説明です。その後高杉晋作の活躍で長州が再び表舞台にでてきて開国論へとつながります。薩摩と長州はながく敵対していましたが、中岡慎太郎、坂本龍馬、小松帯刀、桂小五郎、西郷隆盛などの働きで薩摩名義による武器輸入を実現させ、薩長同盟の基礎を築きます。この時立ち合った薩摩の西郷38歳、小松31歳、桂33歳、坂本30歳、中岡29歳にすぎないのです。このとき武器輸入をしたのがイギリス人商人グラバーで、龍馬が結成した亀山社中、のちの海援隊が活躍しました。開国の決断をした天皇は孝明天皇、その決意を促したのは慶喜の大演説だったとか。こうして明治維新へと向かいますが、1867年には高杉晋作(享年29歳)も坂本龍馬(享年33歳)も死んでしまいます。辞世の句は有名な「面白き、こともなき世を面白く、住みなすものは心成りけり」。ところで龍馬が土佐の船夕顔丸で後藤象二郎に授けた知恵が「船中八策」、聞いた後藤象二郎はすっかり感心してそれを山内容堂に、そしてそれを慶喜に提案したと言われています。1. 大政奉還 2. 上下議院制 3. 人材登用 4. 外国との条約 5. 憲法制定 6. 海軍設立 7. 近衛兵の設置 8. 為替と金銀交換レート設定 龍馬が如何に進んだ考えを持っていたか分かります。

王政復古といわれる最初の明治政府の幹部達は誰だったのか。総裁 有栖川宮熾仁親王 議定 正親町三条実愛など公家達+徳川慶勝、松平春嶽、浅野茂勲、山内容堂、島津忠義。 参与 岩倉具視、大原重徳、橋本実梁その他尾張藩士3名、越後藩士3名、広島藩士3名、土佐藩士3名、薩摩藩士3名。これらに加えて小御所会議では薩摩から大久保利通、西郷隆盛、土佐から後藤象二郎、神山左多衛、越前の中根雪江、酒井十の丞、尾張と広島から2―3名などとなっています。こうしたメンバーで会津と桑名を御所から追っ払い、鳥羽伏見の戦いへと突入、慶喜は朝敵となってしまうのです。その後、西軍と東軍に分かれて西軍が新政府軍、東軍は幕府軍となるのですが、追いつめられた慶喜は京都から大坂に逃げさらに一人江戸まで逃げ帰ります。幕府代表勝海舟と西軍西郷隆盛の話し合いにより江戸城への無血入城がなされて、朝敵慶喜の命は助けられます。

五箇条のご誓文についても、最終版になるまでの経緯を紹介しています。
第一版 由利公正 第二版 福岡孝弟 第三版 木戸孝允 そして最終版が明治天皇に提示されたということ。この五箇条のご誓文、内容的には民主国家を目指そうというもの、将軍など作らず万機公論に決すべし、としています。内容としては龍馬の船中八策からの発展形ですね。

この後は、版籍奉還、廃藩置県、徴兵制導入となるのですが、こうした荒療治を西郷隆盛が結構独断でやってしまう。というのは岩倉使節団が1年半いない間には大きな改革はしないこと、との約束があったのです。しかし西郷さんは岩倉使節団が出た後の大久保、岩倉、木戸、伊藤など重鎮が留守中に、大隈重信、板垣退助等と主に大改革とも言える施策を実行しています。まず、朝敵の大赦、徳川慶喜、会津の松平容保、桑名の松平定敬、老中の板倉勝静、榎本武揚などを軒並み赦免。そして徴兵令です。①近衛兵創設 ②廃藩置県による各藩主からの兵権奪取 ③徴兵制 ④兵器製造独立 ⑤陸海軍学校創設 こうした流れになります。徴兵制に旧武士階級は反発したと言います。戦いのプロたる武士は失業させておいて全国から百姓などの素人を集めてどうするのか、という言い分。山県有朋と西郷さんは徴兵制施行を強行、国家の枠組みとして徴兵制がこれを機に組み入れられました。そして学校制、鉄道開業、諸外国とのコミュニケーション向上のための太陽暦採用、国立銀行設置、地租改正などあれよあれよという間もない改革実施だったようです。

廃藩置県は先の西軍と東軍の戦い、つまり朝敵側と新政府軍に分かれて戦ったしこりをそのまま引きづり、今でも県名と県庁所在地名が異なる17県のうち、14県は朝敵側だとのこと、このオペレーションをしたのは井上馨、この差別は昭和の軍隊まで引きずっていたとのことです。対米戦争直前の薩長土肥強硬派、永野修軍令部総長(土佐)、海軍次官、軍務局長、人事局長が長州、戦争指導班長、軍令部情報部長などが薩摩と薩長閥の佐官級クラスがそろい踏みだった。終戦の手じまいをしたのが朝敵とされた鈴木貫太郎(関宿藩)、米内光政(南部藩)、井上成美(仙台藩)これらの人たちが汗をかいたとされています。明治30年時点の陸軍大将は全員薩長出身、陸軍中将は長州12、薩摩13、土佐2、福岡4、東京1、陸軍少将は長州40、薩摩26、土佐6、福岡4、熊本1、石川4、東京2。相当明快な薩長閥が形成されて太平洋戦争突入まで行ったことが分かります。そういえば総理大臣の出身地をみても山口県が8名でトップ、地域ブロックでもると、明治維新の震源地であった中四国・九州が多く、幕府側の抵抗拠点があった北海道・東北、関東以北は、比較的少ないという傾向が見うけられ、ここまで影響が残っているとも言えます。

考えてみると明治維新というのは若手の武士達が攘夷、開国の狭間にあって、国家大変革が必至との認識を持って行動した、その結果、武士という特権階級はなくなり、国民という概念を持つ一つの国として生まれ変わったのです。藩の利益、自分の階級や立場の維持などに拘泥しない若者達だからなしえたこととも思えます。幕末の日本人平均寿命は40歳弱だったらしいので、今の半分、今の40歳代が当時の20歳後半から30歳代だと考えても良いかもしれません。それにしても日本の今のリーダー達の多くが60歳代であること考えれば、国が変わるときには若い力が重要になるわけです。

そしてこの後西郷の征韓論と政府軍との戦いへと進みます。征韓論賛成派は岩倉使節団の留守だったメンバーが中心、反対派は使節団メンバーとなっていて、対立軸は明確なようです。こうした中、江藤新平佐賀征韓論派に担がれて政府に処刑、西南戦争で西郷さん(享年51歳)も木戸孝允(享年45歳)も死にます。西南戦争の翌年、大久保(享年49歳)は暗殺され、残ったのは大物は伊藤と山県です、明治元年の時には伊藤28歳、山県31歳、10年たって伊藤38歳、山県41歳、彼らが明治政府を背負って立ったのです。山県はこの時参謀本部を陸軍省から独立、統帥権はこの時政府から独立していて、明治憲法発布より前のことです。統帥権干犯問題が太平洋戦争前に出てきますが、今から見れば何が問題なのかとも思えるこの話、根本は山県有朋が明治の始めの国の形として決めたもの、この形は太平洋戦争終了まで続いたのです。この後、「坂の上の雲」の時代へと入っていき、国は殖産興業、富国強兵へと舵を切っていきます。1853年のペリー来航から新政府の枠組みができるまで、という幕末史、前後の流れと人と人との関係がよく分かります。まさに歴史は人と人が同じ時代に出会って作られているのです。
幕末史
昭和史 1926-1945
昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989

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