意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

戦争の日本古代史 倉本一宏 *****

2018年03月30日 | 本の読後感

3-8世紀ころまでの日本列島にいた勢力、倭国、そして大和朝廷と朝鮮半島勢力との関係がよく整理できるのが本書。(事実整理のため長文)

50年前に習っていた「任那日本府」という存在は、どうも朝鮮半島最南部の金官伽耶にいた一部の倭人勢力のことを指しているらしい。また、日本書紀を編纂した当時の中大兄から天武天皇の大和朝廷が、自らの正当性を主張し強調したいための神功皇后による三韓征伐の記述を念頭に、1882年に見つかった好太王(広開土王)碑の記述解釈を加え、太平洋戦争前の日本軍部政府が乗っかったのではないかと。そもそも、広開土王碑に記述されているとされていた西暦391年前後の日本列島に、統一された倭王朝は存在せず、北九州の勢力、南部九州の隼人、瀬戸内海の吉備勢力、出雲勢力、大和・河内の勢力、敦賀から越前勢力、関東毛野勢力がまだまだ勢力争いをしていた。当時、朝鮮半島に兵を送っていたのは北九州勢力なのか、大和勢力なのかは不明である。そのころから倭の五王と言われているヤマトの勢力が宋に遣使、朝鮮半島の都督であることを認定してもらうことに大変な努力をしていたのは、それほどまでに中国の皇帝、権威者に「お墨付き」を欲しがっていたということ。結局、512年には百済に「任那四郡」を割譲したという大友金村は失脚したという。こうした日本古代史を解説したのがこの本である。

好太王は高句麗の王であり、好太王碑はその功績を称えたもの。百済と新羅は高句麗の属民であったという記述、新羅は百済と争っていて、高句麗の援助を得たい新羅が高句麗に人質を送っていたことから、高句麗としてはそのように解釈していたということ。また、「倭国が海を渡り新羅と百済を破った」というのは、百済からの要請を受けたヤマト政権もしくは北九州勢力?が朝鮮半島に兵を送り、半島南部に上陸したことを指し、そんな強力な倭をも好太王は破った、という事実を強調するための記述と解釈する。高句麗からの侵攻に協力して対抗する必要性があった新羅、百済、そして伽耶諸国は倭の勢力の協力も得て高句麗に対抗しようとした。日本書紀の記述には応神8年の397年ころ済州島と東韓の地を奪ったとある。特に百済は倭勢力に相当程度依存しながら自らの独立を維持しようとしていたと考えられる。この状況を新羅は高句麗に伝え、高句麗は新羅と組むようになる。その後、百済と倭は高句麗・新羅と戦い、400-404年にかけての戦闘で高句麗に大敗した。原因は倭軍の戦い方、短甲と太刀により武装した兵の接近戦であったのに対し、高句麗は騎兵で長い柄を付けた矛、そして射程距離の長い彎弓の組織戦で戦い、圧倒的な戦力差があったと考えられる。

五世紀にはいると、大和勢力は河内にも前方後円墳を建造するようになり、外国使節の目に入りやすい海岸線に沿った場所に墳墓を作る。当時の宋の国は五胡十六国と言われた分裂時代を経て中国南部に勢力を張り、北部の北魏と争っていた。そこで宋は北魏への対抗措置として、倭の五王に朝鮮半島の都督の認証を与えた。その時代の宋からすれば、武力で対抗してくる高句麗、通交をしてくる百済、海の向こうにあってまれにしか入貢してこない倭、という位置づけで、新羅は高句麗の従属からなんとか抜け出そうとしていた。このころの伽耶諸国は金官伽耶、安羅伽耶、比自火、多羅、大伽耶、小伽耶が分立する状況が続いていたが、内陸の大伽耶が連盟を成功させた。倭の五王はこうした東アジア情勢のなかで、朝鮮半島での鉄生産に武器や農具の依存を深めており、宋の冊封体制に組み込まれてでも朝鮮半島での軍事活動の正当性を確保したかった。高句麗と新羅連合に対抗するための冊封依頼であり、倭国の勢力が弱体だったことの表れであった。実際、宋は五王最初の讃と次の珍には安東将軍倭国王、済には倭から求めてきた安東将軍都督、倭・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓六国諸軍事を受叙され、興は単なる倭国王、武になり初めて百済も含めた七国軍事を認められた。宋にとって百済は友好的な朝貢国と位置付けられていたためであり、それでも倭国に百済も含めた都督を認めたのは、百済が新羅・高句麗からの圧力に対抗して倭国にも協力を求めている状況を深く理解していたと考えられる。7世紀後半には百済は新羅に滅ぼされ朝鮮半島を統一することになるが、宋の皇帝によるこうした称号付与は倭国が新羅による統一前には朝鮮半島に勢力を張っていた、と主張する根拠となったことは、日本書紀編纂時の大和朝廷には非常に重要な情報であった。

中国大陸では581年に隋が統一王朝樹立に成功、百済からの要請を受けて高句麗に対抗する。倭国から見れば、中国王朝は後漢消滅依頼分裂状態が続き、それが常態でもあったため、隋による統一は大ニュースだった。朝鮮半島では高句麗は隋に武力で対抗、百済は隋が高句麗を攻める隙に乗じて倭国の援助も得ながら新羅を攻撃、自国の利益を追求していた。また一貫して隋に臣従することで高句麗と百済に対抗するのが新羅であり、この構図は隋から唐時代にまで継続する。こうした時代に倭国は遣隋使を派遣するようになる。この時代に、新羅、百済は大和朝廷に使者を送りそれぞれが支援を求めるが、形式を重んじる大和朝廷はそれぞれからの貢ぎ物である「調(つき)」を求める。ミツギモノという言葉はこの御調(みつき)に由来する。両国は形より実を重んじたので、持ってきた土産物を大和朝廷が欲する「調」として献上、もしくは献上された土産物を大和朝廷は「調」を受け取ったと記述した。大和朝廷は「任那」の存在も認めさせたがり、百済は「任那の調」としての土産物も持参していた。この時代の大和朝廷は倭の五王時代にような冊封体制は求めず、二回目の遣隋使である小野妹子は対等な関係(日出るところの天子、日没するところの天子に・・・)を求めたが憤慨した隋の皇帝は使者を追い返す。それでも高句麗と倭が結ぶことを懸念した隋はその後の遣隋使を受け入れていく。こうして隋から様々な制度や学問を学んだ留学生や僧が、のちの律令などの理論的中心となる。当時の大和朝廷としては、隋帝国のような政府・官僚体制や歴史書、徴税制度、身分制度、憲法なども存在していないことに気づいて、その後の厩戸皇子による憲法制定や中大兄などによる大化の改新、天武以降の飛鳥浄御原令、そして大宝律令、古事記、日本書紀編纂などにつながっていく。

白村江の戦いは、663年に唐・新羅の連合軍に、百済からの派兵要請を受けた中大兄、中臣鎌足ら大和朝廷が無謀な戦争をしかけて大敗、百済も滅んだとされる。あまりにも一方的な敗北だったために、唐や新羅の歴史書には些細な出来事としてほとんど記述がない。それでも斉明、中大兄、大海人皇子、額田王などのヤマト勢力は四国から北九州に向かい、斉明はその時点で落命、中大兄が称制する。数多くの小舟からなる倭国軍は統制の取れた唐の軍船に全く対抗できなかったが、以前、組織的な戦力を展開した高句麗にも大敗した反省はなかったのか、なぜこのような無謀な戦いを挑んだのだろうか。1.唐に対抗して結構頑張っているという百済の言うことを信じてしまった。2.まだまだ統一が徹底していない国内勢力の結束を目的とした。3.偉大な唐に立ち向かった勇敢な中大兄と国内で評価されたかった。4.大和朝廷の言うことを聞かない地方豪族を派遣することによりその勢力をそぎたかった。実際その9年後の壬申の乱では白村江に参加した豪族は名前が見えない。記紀における神功皇后の三韓征伐の逸話は4世紀末に起こった事実はベースにしているものの、その後の朝鮮半島進出の正当性を強調したいがための誇張も多く、三韓といっても、伽耶諸国を含めた半島南部に限定されたものであったのではないか。白村江の戦い直後に編纂された古事記、日本書紀に書き込まれた逸話として、その位置づけを確認する必要がある。そして668年には高句麗が滅亡、唐と争うようになっていた新羅は倭に使者を送るようになる。唐による日本列島侵攻を恐れていた中大兄は新羅との協力を進める。その後、壬申の乱を経て権力を掌握した天武天皇は諸豪族の領地を国営とする公地公民制度を実現、律令制度を確立する。

新羅はその後、たびたび交易を求めたり、漁民が九州に漂着したり、盗賊により強奪があったりと日本に接触を図ってきたが、当時の朝廷は報告されてくる事件に対応せず、伊勢、岩清水などの神宮に報告するだけ、というきわめて内向きの対応しかとっていない。その後の朝鮮半島は892年に後百済建国、901年に後高句麗建国、新羅を含めて新三国時代となり、918年に高句麗を継承するという意味で後高句麗は高麗となり、新羅と百済は弱体化したのちに936年に高麗により朝鮮半島が統一される。当時の日本は、新羅を敵視しており、高麗も新羅の後継とみなし敵視し続けた。中国では907年に唐が滅亡、五代十国時代を経て960年に宋となり統一される。高麗は300人の住民拉致や兵船500艘来襲など、たびたび九州地方の人々から強奪を図るような動きがあったが、大和朝廷は新羅からの外交圧力を知りながらも対応を先延ばしにし続け、藤原道長が権力の絶頂にあるころの1019年に刀伊の入寇が起こる。刀伊とは高麗語の東夷(とうい)に和文字をあてたもので、もっぱらツングース系の女真族を指す。中国では北の契丹(遼)と南の宋が対立、契丹が宋との全面戦争に突入すると、宋との貿易に支障をきたした女真族が海賊化、日本にも押し寄せるようになっていたのである。国家間戦争ではないものの、刀伊の入寇ではひと月以上にわたり北九州一帯が襲撃、強奪され、1000人以上が殺害されたり拉致されたりもした。海上から襲撃し夜は船に帰るという行動をとったため、低気圧襲来で嵐となり女真族は一月後引き上げた。これを見た人々は「神明による風が吹いた」と大和朝廷に半月後には報告、「神風が吹く」という記述となって歴史に残る。

平安時代の1162年に九条伊道が書いた「大槐秘抄」に高麗に対する認識が次のように記述されている。1.高麗は太宰府に武勇人が任命されると怒る。2.高麗は神功皇后が成敗した国であり復讐を誓っているはずだが、日本が神国なので怖気づいている。3.鎮西(九州)には高麗人が多いので、侮られないようにみすぼらしい恰好はしてはならない。以下略。 高麗の襲来を恐れながらも軽蔑されないようにする神国意識、これは後世まで伝えられることになる。

この後の日本歴史では13世紀の元寇(蒙古襲来)、16世紀の文禄・慶長の役(壬辰倭乱)があり、19世紀末の日清戦争、20世紀に入っての日韓併合、日中戦争、太平洋戦争これが日本の対外戦争である。元寇については戦争というよりも、襲来してきた外敵に対応した、という戦いであり、対応したのも九州に所領を持つ幕府御家人の武将たちであり、朝廷の巻き込みは少なかった。そういう意味では14-16世紀に倭寇と呼ばれた日本人と一部中国人が朝鮮半島や中国沿岸地帯を襲撃した出来事があるが、これも戦争とはいいがたい。それでも元寇では文永の役で25000、弘安の役では10万を超える兵が押し寄せた。それに先立っては1268年以降モンゴルからは交易、和好の申し出があったというが、朝廷はこれらをことごとく無視してきた。1126年に宋を滅ぼした女真族の金王朝も、1234年にはチンギス・ハーンにより滅ぼされ、1271年には元と名乗る。南宋は南京で再興されており、日本とは大規模な交易をおこなってきた。元は南宋と敵対していて、こうした背景が蒙古襲来にはあったはず。文永の役では手薄だった九州防衛も弘安の役のころには強化されていた。これら戦いで、鉄砲の前身である武器や毒矢など、当時の日本武士たちが見たこともない兵器を持っていたため戦意喪失する兵士たちも多かったという。ここでもまた、暴風雨が吹く。3か月も海上にとどまり攻撃を続ければ、10-11月の東シナ海には暴風雨がそのうちやってくることは言うまでもないこと。またしても神風は吹いたのだが、時の執権北条時宗は沿岸警備、防壁建造に力を入れたため、その後の弘安の役ではそれらが役立った。7月末の季節でまたも台風が到来、10万の兵は退却した。元のクビライはその後も1282年から4回にもわたり日本攻撃計画を策定していたが、1294年にクビライは死去、時宗も1284年に死去したため、御家人の窮乏と幕府内紛に苦慮していた日本は三度目の襲来がなくて助かった。1288年にモンゴル軍はベトナムに侵攻、ここでベトナムのゲリラ戦に大敗北し国力を大いに弱めていた。この時、ベトナムが負けていたら三度目の元寇、そして日本上陸、進駐まで進んでいたかもしれず、歴史は変わっていたかもしれない。

古代倭国以来の日本が朝鮮半島に抱く意識の中に、朝鮮半島を討伐したという神功皇后の逸話が横たわってはいないだろうか。その出兵が百済からの要請に基づくものであり好太王碑や七支刀などの記述もある。五世紀には倭の五王が当時の宋朝廷から朝鮮半島の都督として認証されたという、実際の支配権は有していなかったにせよ、宋が認めた、これも事実。日本書紀に書かれた任那日本府、これも実体はなく、百済が支援を求めた際に倭国の言い分を飲み込んで「任那復興」と調子を合わせたこと、これが後世にまで日本が朝鮮半島南部を支配下に置いていた、という誤解を生んだ。その後も新羅と百済は軍事的に困るたびに、日本に使者を送り「任那の調」を持参する、という日本からの要請に対応してきた。これにより7世紀まで倭国は新羅、百済、任那という三国が朝貢してきたと主張することになる。白村江では大敗するが、8世紀初頭には律令国家として制度を整備、新羅は「蕃国」、東北は「蝦夷」、南九州は「隼人」、百済からの王子に官職を与えて、日本は小帝国であると胸を張った。本書の内容はここまで。

こうした日本と朝鮮半島、中国との関係を整理してみると、現代日本人の朝鮮、中国に対する意識のベースにあるものがこうした歴史から由来してはいないと言えるだろうか。年号を確認したくて見つけ出した高校時代の「年号記憶本」を見てびっくりした。369年日本軍出兵、百済と通交は「見ろこれから始まる朝鮮支配」、391年日本軍、百済、新羅を下すは「さぁこいと日本軍」、562年任那日本府滅ぶは「新羅のごろつき日本府を滅ぼす」。太平洋戦争前の教科書ではない。1970年発刊の高校日本史の受験研究社発行の小冊子であり、意識としては戦前の日韓併合時代と変わらないではないか。今の教科書にはさすがにもうないはずと考えたい。それにしても、北朝鮮と韓国、そして日本との関係、こうした歴史と重なって見えるのは不思議である。

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