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意思による楽観のための読書日記

誰も知らない江戸の奇才 河合敦 ***

戦国時代が幕を閉じて、安定の時代が始まった江戸時代には多くの才能が花開いた。ものづくり、経営者、インフルエンサー、信念の人、才能の人など、慶長の時から慶応の約260年間、有名人ではない、しかししっかりと足跡を残した13人の人物に焦点を当てた一冊。

蒸気船、大砲など西洋にある近代的な乗り物、武器などを見様見真似で設計し試作、さらに本当に動く、乗れる、使えるものに仕立て上げた田中久重は寛政11年、儀右衛門として久留米に生まれた。父は鼈甲職人、久重は小さい頃から何でも自分でこしらえてみる器用な子供だった。15歳の頃から作り始めたのがからくり人形。いつしか近所でも評判を呼んで、「からくり儀右衛門」と呼ばれた。26歳で大阪に出た儀右衛門のからくり人形は大評判を取り、興行で大成功する。その後、世の中の役に立つ発明をしたいと考え、懐中燭台を売り出し、これまた評判を得る。時計の修理、販売でも成功した儀右衛門は、さらに京の伏見で、油が自動的に供給され続けるという「無尽灯」なる商品でまたヒット。さらに幕府天文方の戸田久左衛門から暦学、天文学を学び、土御門家に推奨されて、近江大掾という職人の最高位を授かった。西洋の技術と天文学の知識を身に付けた儀右衛門は、精巧な時計作りに没頭。一度のゼンマイ巻きで400日は正確な時を刻むという万年時計を作り上げる。この時、同時に作っていた蒸気船の模型が鷹司関白の目にもとまった。

そんな儀右衛門に目をつけた人物がもうひとりいた。佐賀藩で大砲と反射炉作成を藩主の鍋島直正に命じられていた佐野常民。佐野は京都にいて、儀右衛門の技術と知識を高く買っていた。儀右衛門は佐賀藩から士分扱いとして招聘されることになる。儀右衛門54歳のことだった。佐賀では佐野のもとで、蒸気機関、蒸気機関砲、電信機、反射炉などを作っていく。そして作り上げたのが日本初の実用蒸気船である「凌風丸」だった。その後も、請われて久留米藩に移り、蒸気機関による各種道具類、金属のねじ切りゲージ、水車動力の昇水機など。しかし明治維新は尊皇攘夷強硬派が牛耳る久留米藩の命脈を絶ち、廃藩置県により儀右衛門の仕事は失われた。

しかし肥前佐賀藩の佐野常民は明治新政府の工部大丞(ナンバー4)になっていた。儀右衛門はすでに75歳になっていたが、ウイーン万博に出展する万年時計と電信機を作って欲しいという佐野からの要望で、東京に呼び寄せられた。家族とともに上京したその後も儀右衛門は機械を考案し続け、東京では田中製作所を設立し、82歳で生涯を閉じるまで働き続けた。田中製作所はその後、東京芝浦製作所となり、現代の東芝へとつながる。

その他にも紹介されるのが、
・日本初の西洋型城郭である五稜郭と高炉を設計・作成し、ロシアにまで出向いて交易に成功した武田斐三郎。
・鎖国の時代に西洋の情報を取り入れて世の中に伝え、江戸時代の人たちの世界観を作り上げた西川如見。
・500万両にも登った藩の借金を見事な手法で消し去り、幕末に政治力を発揮した薩摩藩の調所広郷。
・厳しい修行の末に剣術の技を芸術的なステージまで極めた白井亨。
・男尊女卑の時代に、男たち以上の文芸作品を作り出した江馬細香。

いずれの奇才も神から才能を与えられたと言うよりも、与えられたチャンスを生かした才人である。楽しい、必要性、ヒトのためになる、などが才能を発揮するきっかけになっていることが共通項。才能開花とその後の成功の陰には、努力や犠牲を払っていることも事実。江戸時代の職人たちのすごさを教えてくれる一冊。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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