意思による楽観のための読書日記

宇治橋  ー歴史と地理のかけはしー 宇治市歴史資料館 *****

宇治の歴史シリーズ、様々な書き手がまとめているのだが、各冊子にテーマがありそのテーマを縦糸にして宇治という地域の歴史と地理を紹介している。分厚い「宇治市史 全7巻」は読むハードルが高いが、150-200p程度の小冊子なら気軽に読めるし、歴史資料としても価値がある、本は読まれてなんぼである。本書は宇治を歴史に何度も登場させた宇治橋について。

古代、奈良から京都に歩いていく場合には、木津川と宇治川を徒歩で渡る必要があり、その経路は、奈良盆地から丘陵地帯を越えたら木津川では浅瀬があり現在の地名で言えば棚倉、玉水、青谷あたりで渡河できた。その後現在の国道24号線沿いに北上、当時から大久保から宇治市街地に抜ける真っ直ぐの道があり現在の宇治橋に至る。架橋後は橋を渡ると今の府道7号線の西側に走る細い道が旧奈良街道で、六地蔵まで直進。北陸に向かう場合には、醍醐方面に向かい、山科から逢坂山、大津、そこから湖西線沿いに坂本、堅田、和邇、高島、今津を経由して、マキノあたりで山越え、敦賀に至る。京都に行く場合には六地蔵から桃山(旧木幡山)を大亀谷で越える。すると墨染から藤森、深草、東福寺ときて京都に至る。これらが秀吉が巨椋池に太閤堤を建設するまでの経路である。流れの早い宇治川に大化二年に日本で最初の官製橋が建設された理由は明確であった。

大和に本拠地を持っていた当時の大和政権は弥生文化の担い手であり、新たな製鉄、稲作、灌漑、瓦焼きなどの技術を取り入れるためには朝鮮半島経由で中国大陸との交易が必須であり、その経路は北九州ー瀬戸内ー河内をメインとし、出雲ー吉備ー河内、出雲ー丹後ー葛野(かどの)と呼ばれていた今の京都市北部ー宇治、そして敦賀ー近江ー宇治の3つの経路であった。瀬戸内経由ではそのまま紀伊半島を回って東海、関東へも到達し、大和政権とは別の濃尾や毛野の勢力も日本列島に広がっていった。神功皇后伝説からの応神王朝が瀬戸内経由を思わせるのに対し、継体王朝は近江経由を思わせる。宇治は近江との関わりで大和朝廷から見た歴史に初登場する。日本書紀の天之日矛(アメノヒボコ)伝説である。天之日矛は新羅の王子、帰化を願って来日、播磨、淡路に居を構えようとしたが、その前に諸国をめぐりたいと申し出て、菟道河(うじがわ)をさかのぼり、近江の吾名(あの)村に住み、鏡谷の陶人を従者とし若狭を経由して但馬の出石に定住したという。日本書紀における街道の記述には四道将軍派遣の逸話もあり、四道将軍とは北陸へ大彦命、東海へ大彦の子、武淳川別(タケヌカワワケ)、西海へ吉備津彦、丹波へ丹波道主である。先程の技術入手経路とまさしく一致する。また天之日矛のたどったルートは新たな技術がもたらされる経路をなぞるようである。書紀の伊勢神宮の起源を述べる部分では、倭姫宮(ヤマトヒメノミコト)が近江、美濃、伊勢、伊賀と巡る逸話が紹介されるが、わざわざ美濃も経由するのは、それらの勢力と7-8世紀当時の大和政権との関係を示唆する。いずれの経路でも北陸、東海と大和をむすぶ途中に宇治は位置し、崇神、垂仁、景行から仲哀までの書紀に度々宇治は重要な場所として登場する。そして646年建設とされるのが官製最初の大橋宇治橋である。

応神の母は神功皇后とされ、近江を本拠地とする息長氏の流れをくむためか、はたまた近江の勢力ともコミュニケーションをとるためか、応神は即位後も近江を度々訪れた。その際、宇治の木幡を訪れ当地の和邇氏の娘である宮主宅姫(ミヤヌシノヤカヒメ)を娶り、菟道稚郎子命を授かっている。和邇氏は近江をもともとの出自とし、当時は大和北東部に根拠を持っていた。応神は宮主宅姫の妹も娶って、八田皇女、雌鳥皇女、菟道稚郎姫皇女を授かり、応神が三男の菟道稚郎子命を皇太子にしてしまったため、異母兄弟であった次男仁徳との皇位争い(書紀では譲り合い)も生じている。この菟道稚郎子命は学問に長じ、百済の阿直岐から経典を学び、王仁から論語と千字文を学んだとされる。倭の五王の最初の王は応神、仁徳に比定されており、こうした書紀の記述に千字文の成立時期の不一致など学問的には疑問を呈する向きもあるが、ある程度の真実を含んでいる可能性はある。

当時の王権を経済的に支える存在として県(アガタ)や屯倉(ミヤケ)があり、宇治地方には栗隈県が置かれていたが、応神、仁徳、菟道稚郎子命の逸話のように宇治は大和政権とのつながりがあり、栗隈氏は木津川流域開発と合わせて、宇治川左岸、巨椋池南岸の開発を担当、後に宇治を含む久世郡の郡司になり天皇家とも婚姻関係を結ぶ。この時代、宇治川右岸に勢力を持っていた岡屋氏、和邇氏などとは多少の緊張関係にあったと思われるが、菟道稚郎子命と仁徳との和解逸話から考察すると、決裂関係には当たらず、宇治橋建設までは少なくとも共存できたのではないか。聡明な王子と広範な勢力を背景に持った年長の後継者の争い、と言う図式、壬申の乱で争う大友皇子と大海人皇子に酷似してはいまいか。東国の勢力を掌握するもの、つまり宇治橋以北を掌握するものに勝敗の帰趨が決するのである。

乙巳の変(645年)については異論も多い。蘇我氏により導入されてきた仏教や漢字、計算の能力を基本とした律令制度整備などは10年単位に導入できるものではない。蘇我氏は大和盆地の西南葛城地方を根拠地としその後飛鳥地方に進出、欽明期に稲目が大臣となり、馬子、蝦夷、入鹿と仏教導入、法隆寺建立、漢字計算能力のある渡来人招聘、律令制度の根本となる租税計算、土地の測量、記録、課税方式の確定、屯倉経営などを進めてきた。継体欽明王朝期は半島との緊張が高まり、筑紫に糧食を備蓄、各地の屯倉が設置された。屯倉設置では蘇我蝦夷、蘇我麁鹿火(アラカビ)が活躍している。その際、上記の四道を押さえることは最重要で、大和盆地においては新興勢力だった蘇我氏が各街道を勢力下に置く努力を進めたと考えられる。こうした動きに危機感を持った中尾大兄皇子と中臣鎌足が一気に勢力逆転を図ったのが乙巳の変であったはずだが、大掛かりな律令制度、屯倉、県設置、徴税のための渡来人導入や教育などは推古王朝以来の蘇我氏による下敷きがあってこそのものと考えられるため、大化の改新により律令制度を一気に導入したという説には疑問符がつく。

中大兄皇子が実権を握って以降、難波、大和と遷都し、663年の白村江の戦いで大敗北した中大兄皇子は、滅んでしまった百済の向こうにある唐の圧倒的な軍事力に大きな恐怖感を抱く。対馬、壱岐、筑紫の防人設置、太宰府の水城と防御に暇がない。唐からは使いが来て中大兄皇子に会いたいという。中大兄皇子としては、白村江のような無様なところは見せたくないが、唐の水軍の強さは身にしみている。そこで、唐からの使いを宇治を通過させ、遷都なる近江京まで船で移動、その道すがら宇治川右岸の木幡の地で閲兵、完成なった宇治橋をくぐらせた。つまり、宇治橋建設のタイミングとして664年頃は最適、道登の646年よりも道昭の664年の方に信憑性があるというわけである。宇治橋建設は石碑により大化二年(646年)道登によるとしてきたが、異説がありその弟子道昭により20年後に架橋されたとも言われる。道登は道昭の師匠系列、橋を建設するにも、偉業を師に譲るため石碑には師の名前を刻したとも考えられる。中大兄皇子(天智天皇)が近江京に遷都した理由も、唐軍に攻め込まれるにしても時間がかかる近江の地に移りたかった、というのが本音かもしれない。

天智天皇は近江京遷都後5年で崩御、その後継をめぐり壬申の乱が起きる。死に臨んで天智天皇は弟の大海人皇子に皇位を譲ると告げるが、本心が我が子大友皇子にあることを知る大海人皇子は固辞し出家して吉野隠遁宣言をする。大海人皇子が近江から吉野行く際、近江朝の重臣蘇我赤兄が宇治橋まで見送る。ここまでが影響圏、境界だと。それ以降、近江朝側は大海人皇子への糧食運搬阻止のため宇治橋守りに見張りを置く。壬申の乱でも鍵を握ったのは東国の勢力、近江朝側が宇治川に守をおいて油断したのに対し、大海人皇子はより早く鈴鹿の関経由で濃尾勢力と手を握る。美濃勢力を背景にした大海人皇子は不破に陣取り、別働隊を湖北から南下させ近江京を挟撃。もう一つの別働隊は河内に向かい、近江、河内、大和が収斂する地点が瀬田であった。瀬田にかかる橋は瀬田の唐橋、伽羅橋、韓橋などと呼ばれるが、架橋技術が渡来人により唐、朝鮮半島からもたらされたためであり、京都市内にかかるいくつかの橋も唐橋と呼ばれる。

桓武天皇は784年長岡に、さらに794年に葛野(京都)の地に遷都、以来千年の都となる。天武天皇により近江京から大和に引き戻された都は天智系の桓武により再び北に引き上げられたとも言える。京のある位置から難波へは直接船で物資を運搬でき、近江から北陸、東国への経路も簡便になる。宇治の位置づけはこれにより激変、大和から近江への要衝という場所から大きくその重要性を下げた。しかし、桓武天皇は新しい都である京の近郊の視察を丹念に行った。病気になる804年までの10年間、多いときには週一のペースで。地方有力者との政治的工作、近郊開発の下見、別業地の発見などが目的である。紫野、北野、的野、芹川野、山階野、栗栖野、岡屋野、栗前野などの記述がある。京の四方の内、西南は山崎、淀という官道、東北は鬼門、西北は古くから秦氏が治める土地、とすると東南の地、都の辰巳、鹿ぞ住む宇治は美しく穏やかな別業地と思えたのではないか。また平安遷都は大和に本拠地を持つ人達にとっては遠い北の地への転勤であり、南都仏教から離れがたい気持ちがあった。京の東北には叡山延暦寺、南には教王護国寺という新興宗教があり、大和に郷愁を抱く人たちが京から大和に向かう途中の宇治に別業地を設ける理由となった。宇治橋は設営後何度も架けかえられたが、平安時代になってもその重要性に変わりはなかったのである。

治承4年(1180年)平氏討伐の令旨を発し兵を挙げた以仁王は近江圓城寺から、南都興福寺での再起を図るべく、山科から木幡の道を経由して宇治を目指す。お供は源三位頼政、夜をついで馬を駆った宮は度々落馬、頼政に助けられ平等院にまで到着する。ちなみにこのとき逃げた道は「頼政道」として現在も木幡に残る。そこで頼政は追手の邪魔をするため宇治橋の橋板を三間分外して(つまり橋板は5.4mない状態)疲れを癒やす。興福寺に逃げ込まれたくない平氏側は坂東武者足利忠綱が号令とともに川に馬を入れ、これをきっかけに平氏側は全軍が渡河に成功、油断していた以仁王と頼政は討ち取られる。平家物語、源平盛衰記の名場面である。以仁王の挙兵は失敗したが、その後の頼朝の挙兵、富士川の敗戦、福原遷都失敗、清盛の死、木曽義仲の上洛となり平氏時代が終わる。その後義仲追討の任を受けた義経は義仲の裏をかき伊賀から大和経由で宇治橋に向かう。宇治橋の橋板は外されていたが、これが梶原景時と佐々木高綱の宇治川先陣争いの場面となる。宇治川を無事渡った義経軍は瀬田経由で京に入った範頼軍と義仲を挟撃、瀬田まで逃げたところを深田で討ち取られる。宇治に戦い瀬田で敗れるパターンである。宇治橋の合戦は承久の乱でも見られるが、このときも宇治橋の橋板は外される。実話なのに似すぎていないだろうか。京都を守る側と攻める側が、宇治橋、瀬田橋で対峙するという図式もそうである。無理に宇治橋で戦わずとも、回り道をして淀や一口(イモアライ)などを経由して京に迫る方法もあったはず。武士の戦いは多くが絵画となり、それが戦いの理想形となり後世にまで影響を与えていた可能性もあるのではないか。

宇治には、菟道稚郎子命と仁徳天皇の勢力争いがあり、継体王朝が墓所を設け、大海人皇子が近江京から逃げ、道長頼通などの藤原一門の別業や墓所が築かれ、源三位頼政と以仁王が逃げ、義経と義仲が戦い、足利義昭が信長に滅ぼされた場所がある。あるものは古事記・日本書紀に記され、平家物語や源平盛衰記の場面となり、源氏物語宇治十帖に登場し、戦記物として語り継がれてきた。そうした歴史の中でも宇治橋は重要な登場物である。平安鎌倉時代の戦記には戦いの絵になる場所、今で言えば「インスタ映えする」場所として登場している。平安時代の宇治は、柴舟、網代、柳、水車、鵜飼などとともに宇治橋が描かれ、歌に詠まれる。橋自身がこれほど歴史と地理に役割を果たすことは珍しいのではないだろうか。


↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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