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意思による楽観のための読書日記

日本人はなぜ「頼む」のか 白川部達夫 ****

「頼む」とWblio精撰版日本国語大辞典によると、頼む/恃む/憑むと異字があり、意味としては

1 たよりにする。あてにする。また、信頼する。信用する。
2 信仰する。帰依(きえ)する。
3 たよるものとして身をゆだねる。主人としてたよる。
4 他にゆだねる。依頼する。委託する。
5 特に懇願する。願う。
6 よその家を訪問した時、案内を請(こ)うことば。

とある。本書によれば、英語にこれらにピッタリ一致する単語がないので、「頼む」を翻訳するときには、依頼するask、依存するrely onがよく使われるという。やすきよ漫才で一世を風靡した横山やすしがよく言っていたのが「頼むでぇ、ほんまに」、これは具体的に何かを頼んでいるのではなく、『なんか、今変なこと言ったけど、普段から信頼しているのだから、ここは期待を裏切らないでほしい』というほどのニュアンス。外見は強気に見えるヤンチャなやすしが、堅実で真面目なきよしに本当は甘えて頼っている、というこのコンビの背景があり、結構奥深い。単純な「依頼」「依存」ではないことは確か。本書は日本語「頼む」の歴史的展開を文書からたどる。

古代、仏教との関わりで「憑む」という文字が使われた。安寧を祈る、という思いがこもる。万葉集では男女が思いのもつれを表す言葉として主に女性が遠くの男性に恨み、嘆きとして使う例が多い。枕草子では、期待しているのに頼もしげない様子を描写。誠実な人が慰めてくれるのも、頼もしげ、と表現する。源氏物語では、頼むは多用され、女性から男性へ向けての頼む用例が38%、頼もしが35%。頼もし人とは生活の面倒を見てくれる人である。つまり、「頼もし人」は身内的関係の人を想定している。蜻蛉日記では、受領の娘であった作者が、地方に赴任したまま帰ってこない父を「一人頼む人が父」と評している。更級日記では夫のことを頼もし人と表現。古今和歌集掲載の小野小町の歌「秋風にあふたのみこそ 悲しけれ わが身むなしく なりぬとおもへば」、秋風に会う田の実を見ると、自分も虚しく終わったのかと悲しい思いがする、というほどの意味。頼みと田の実をカケコトバにしているこの歌は、有名な「花の色は・・」の対歌だという。

武家主従制が発展すると、頼む人、とは主人を意味する。宇治拾遺物語や方丈記で記述される主従関係には、京の都で主従関係を結んだ貴族と奉仕者の関係があり、その後、保元物語、平治物語、貞永式目の武家主流の主従関係にまでつながる。頼む、というのは身命をかける、身を託すというほどの重みがあった。人に頼まれたら否応なく受ける、というのが武士としての弓矢の習いであった。人を頼む輩が従者、頼む人が主人である。

この頼む人、という日本的表現には、古来からの贈与文化が関係しているというのが本書。贈与文化に対抗する言葉は収奪文化。異なる文明同士が出会ったときに、贈与しあって関係を構築するか、収奪により支配するかの違い。日本では古来、贈与文化があり、公益ができる相手かどうかを、まずは非接触な形で贈与物を放置してみて、相手がどう行動するか、物々交換が可能な相手かどうかで判断した。通商と収奪は紙一重である。阿倍比羅夫が蝦夷、粛慎(みしはせ)と接触した時、蝦夷は返礼をしたが、粛慎はしないとして、敵対者判断をしたという。贈与と返礼の関係は世界中に存在するし、現在でも香典と半返しなどの礼儀として残る。

鎌倉時代の武家の主従性は、総領制が背景。律令制から荘園制度が広がり、さらにその荘園が形骸化する中で、平安後期に農地開発を進めて開発領主となっていった武士たちは各地に開発拠点を作った。浪人たちを集めて、わが子達には土地を与え、惣領を広げていく。鎌倉幕府はこうした惣領を御家人として領土を安堵し主従関係を結んだ組織。こうした庶子家は独立して数を増やしていき、限界があった土地が総領制に動揺を与えていく。決定的なのはモンゴル襲来にともなう、恩賞たる土地の不足である。支配する相手の土地がモンゴル人が相手では存在しないため、不満が高まる。こうした中、中国では南宋が滅んで日本に宋銭が流入した。貨幣経済に適合できない武士たちは所領をかたに借金をする。永仁の徳政令もこうした中で発令されるが、南北朝内乱で武家の離合集散が進み、頼みを根拠にする惣領制は崩壊する。

新たにでてきたのが「一揆」という社会的結合。国人と称された領主が在地で団結したのが一揆で、相互に協力し、お互いに主従ではない等しい立場で戦闘、地域の秩序維持にあたった。守護や戦国大名も一揆衆を組み込んで成長した面がある。この一揆の関係を「見継ぎ見継がれる」と表現した。公のことは相談して対処し、私の確執は理非に任せて処理しよう、という関係である。「見継ぎ」という言葉は「頼み」と同様古語であり、古代には調(みつき)。見届ける、見守り続けるという意味から、助成する、支援する、という意味に発展した。江戸時代になると「貢ぐ」とも書くようになり、財物を提供して人の面倒をみる、という意味に使われた。一揆の中の契約状にある「頼み」は「縁」であり、「見継ぎ」は「理非の見極め」であった。戦国大名の家法はこうした一揆の法を吸収して、自らを公儀へと転換させようとした。

頼み頼まれる関係は、戦国時代以降、人々がお互いに自立・独立し強い結びつきが失われた。その代わりに登場した考え方が「義理」、正しい筋道、世の中の道理である。諸士法度では「武芸を心がけ 義理を専らにし、風俗をみたるへからさる」とされ、風俗を乱さないためにも義理を心がけて、近世の儒学者が説くような治者としての士(さむらい)の自覚が強調された。武士にとって理解しやすいのは、治者の論理というよりも、武士同士の結びつきや一分の意地をかけて守り抜く生き方を「義理」と感じた。この武士の義理を浸透させる考え方が「武士の頼み」。匿ってくれと頼んできた相手を守り抜く、それが義理であり、町人にもそうした考え方は浸透した。

現代社会でも、中元歳暮などの贈与文化、代議士への頼み、投票の頼まれがあり、日本人の歴史的頼みの積み重ねは生きている。本書内容は以上。


 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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