月刊文芸誌「すばる」に、吉田秀和は『思い出の中の友達たち』という自伝ふうの文章を連載していた。同時に「レコード芸術」誌にも連載をもっていた。それらは未完のまま残されることになったのだろう。
98歳になっても、ラジオでしゃべる仕事と原稿を書く仕事とを二本の柱としてきた彼は、音楽を言葉で表現することに貪欲でありつづけた。あれだけ評判になったホロヴィッツの来日公演にしても、実際に現場で聴くことができたのはほんのひと握りの人間だ。それを評論というかたちで対象化し、会場に来られなかった多くの人々に伝えることを、彼は使命と考えていたのではなかろうか。
ところで『思い出の中の友達たち』には、中原中也や大岡昇平など、過去に出会ったさまざまな文学者のエピソードが綴られているが、6月号には、チャタレイ裁判で知られる伊藤整のことが出てくる。吉田は父親の仕事の都合で北海道に引っ越し、旧制小樽中学に入った。そこで英語を教えていたのが、まだ20歳そこそこの伊藤整だったのだ。
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伊藤は生徒たちと年齢が近いせいもあり、上から威圧的に教えるタイプの教師ではなかったらしい(こんな控えめな人物がのちにチャタレイ裁判の被告席に立たされ、文学かワイセツかの論議の渦中に投げ込まれたのだから、さぞやりきれなかったろう)。ある日、伊藤先生は教室に来ると、英語の授業であるにもかかわらず、こう申し渡した。「今日は国語の自由作文とします。何でもいい、日記でもお話でも自由に書いてみなさい。」そして、自分は静かに本を読みはじめたという。
だが、後年あれほど多くの音楽評論を書くことになった吉田秀和は、このころにはまだ文章の書けない少年だった。いくら考えても、何をどういうふうに書いていいのかわからない。結局その時間中には何も書けず、伊藤先生は来週のこの時間までの宿題ということにした。
ところが、家に帰って頭をひねってみても、やっぱり書けない。弱りきった吉田少年は、手近にあった本のなかから他人の小説を書き写して提出するという暴挙に出た。それが実は、世間では大変によく知られた作品だったのだが・・・。
一週間後、伊藤先生は何もいわず、にっこり笑って、二重丸をつけた盗作原稿を返してくれたという。あの日から何十年も経った今でも、吉田にはそれが腑に落ちない。彼はこう回想する。
《私の書き写したのは芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という話で ― 当時の私は知らなかったが ― 有名な作品だから、先生が知らないはずはない。とすれば、先生は何を思って、この二重の赤い大きな丸をくれたのだろう? 全然読まなかったのか。それとも、全員に二重丸を配ったのか。私はホッとし、それから無性に腹が立った。》
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戦後、文筆業で生計を立てることに決めた吉田秀和は、すでに作家として脚光を浴び、東京で創作活動にいそしんでいたかつての伊藤先生のもとを訪ねる。そのときの会話というのが、ぼくの心にしみる。
《先生は昔と変らぬ笑顔で迎えて下さった。二人でゆっくり昔の話、今の話をあれこれ話した。その上で先生は「失礼だが、このごろ大分忙しそうだが、音楽のことを書いて暮せるの?」ときいて下さった。「売れるかどうか。とにかく、ほかのことは全くする気がなくなったので、こうやって生きてみるつもりです。注文がなくても書いてるものが、このくらい溜りました」といって、私は立って腰のあたりに手をやった。すると、それまでのにこやかな笑顔が消え、キッと真顔になった先生が「君、それを売りにいこう」と言った。》
こうやって、伊藤整の尽力により雑誌に評論が掲載され、その後、吉田は音楽評論家としてのキャリアを切りひらいていくこととなった(もちろん多くの苦労があったにはちがいないけれども)。
かくいうぼくも、注文されもしないのに毎日文章を綴るようになっている。残念ながら紙に書いているわけではないので、それが腰の高さまで溜まっているか、あるいはそれよりも高いか低いかわからない。
ぼくはいちおう、子供のころから文章を書くのは好きだった。けれども、中学生まではろくに作文も書けなかった吉田秀和が、いつの間にか「書くこと」を人生の中心に据え、ほかのことは何もする気がないというほどの変化を遂げたのは、不思議としかいいようがない。
以来60年余り、さまざまな評論や随筆を書きに書いて、吉田秀和は逝ってしまった。なお、書きかけの文章をあとに残して・・・。
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心よりご冥福をお祈り申し上げます。
(了)
(画像は記事と関係ありません)
参考図書:
吉田秀和『主題と変奏』(中公文庫)
同『私の好きな曲』(ちくま文庫)
同『思い出の中の友達たち』(「すばる」6月号)
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫)
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