手塩family”愛”

競馬伝説Live!ナドアルシバサーバで活動する馬主会メンバーのためのブログです。

~イル・ピッコロ物語~

2006年05月03日 23時22分37秒 | 倒壊名馬劇場
―1956年10月7日、フランスは雨のロンシャン競馬場。
あいにくの天気にも拘らず多くの人が競馬場に押し寄せた。
第35回凱旋門賞、観衆の注目はたった1頭の馬に注がれていた。
視線の先には出走する馬の中でも華奢に映る馬・・・彼の名はリボー(Ribot)。
この日、彼はある偉大な記録を達成しようとしていた。
そして、訪れた誰しもが歴史の証人になるべくその瞬間を待ち望んでいたのである・・・。―

「ドルメロの魔術師」の異名で称えられるイタリアの馬産家といえば、ご存知フェデリコ・テシオ氏のことである。
そして、数多の名馬を世に送り出し、天才馬産家の名をほしいままにした彼の最高傑作として並び称されるのが、ネアルコとリボーの2頭である。
種牡馬として旋風を巻き起こし、現在も多大な影響を与え続けているネアルコに対し、サラブレッドの頂点ここに極まれり、とまで形容されたのがリボーである。

そんな世紀の名馬として語り継がれているリボーだが、幼少期は別段期待されていたわけではなかった。
その小さい体から牧場では「イル・ピッコロ(=ちびっこ)」と呼ばれ、「リボー」という名もフランスの二流画家の名をとって付けられたというのだから周囲がいかに期待していなかったかが伺える。
・・・ただ一人、テシオ氏を除いては・・・。

デビュー前のリボーを見たテシオ氏は、「分からない、言葉でなんと表現したら良いのか分からないが、この馬には“何か”がある。将来その名を轟かせるような馬になるかもしれない・・・。」と感じたという。
(残念ながらテシオ氏はリボーがデビューする2ヶ月前に85歳でその生涯を閉じており、自らの目で彼の活躍を目にすることはなかった)

しかしながら、あまりにも小柄であったためか、テシオ氏もリボーをクラシック登録しておらず、リボーは裏街道を進むこととなるのである。
1954年7月にデビューしたリボーは、2歳戦を3戦3勝で終える。
(デビューする頃になるとリボーの馬体は平均的なサイズにまで成長していた)
3戦目のグランクリテリウムでは生涯唯一の接戦(アタマ差)という苦戦を強いられたが、それは将来を見据えて抑えるレースをさせようとした主戦のエンリコ・カミチ騎手と終始喧嘩をして完全にやる気を失くしていたためである。
それでも勝ってしまうのだから恐れ入る。
このレース以降、カミチ騎手はリボーの意思を尊重し、先行するレースを心がけるようになったのである。

このレースでも分かるように、リボーには非常に意思が強く、頑固な一面があった。
調教ではスピードを制限されることを嫌い、調教助手やカミチ騎手を振り落とすこともしばしばであった。
またリボーは帽子が大嫌いで、馬主のインチサ・デラ・ロッケッタ伯爵もリボーの前では必ず帽子を取っていたという。
この激しい気性は歳を重ねるごとにひどくなっていき、種牡馬入りしてからも本当に慣れたグルーム(厩務員)でなければリボーを扱いきれなかったという。

明けて3歳になったリボーは益々強さを増していく。
緒戦のピサ賞を馬なりのまま6馬身差で楽勝すると、続く3歳最強決定戦の一つ、エマヌエル・フィリベルト賞では後続に10馬身の差をつけて圧勝し、イタリア3歳馬最強の座を確実なものとした。
3ヶ月ほど休養を取った後、リボーはブレンボ賞でまったく追うところなく1馬身差で勝ち、凱旋門賞のステップレースとして選んだベサナ賞も馬なりのまま10馬身差をつけて圧勝した。
(リボーはクラシック登録していなかったため、調教師のウゴ・ペンコ氏は最大目標を秋の凱旋門賞に定め、そこから逆算したローテーションを策定していた。)

そして迎えた凱旋門賞。リボーは2番手を追走、残り400mで先頭に立つと、2着のボウプリンス(パリ大賞・英セントレジャー3着)に3馬身の差をつけて完勝した。

凱旋門賞馬となったリボーは、その後ワシントンDCインターナショナルからの招待を受けたが、地元からの強い要望を受けてイタリアのジョッケクルブ大賞へと駒を進める。
このレースには、同レース3連覇のかかっていた古馬の強豪ノルマンが出走していたが、リボーは3歳最終戦となったこのレースで、ノルマンに15馬身もの差をつけて圧勝。もはや国内には敵など存在しなかった。

古馬になってもその力は一向に衰えず、緒戦となった5月のグイリオ・ヴェニノ賞を4馬身差で勝つと、4日後にヴィッテュネオ賞という小レースに出走し12馬身差で楽勝した。
さらに6月始めのガルバニャーテ賞を8馬身差で勝ち、当時のイタリア最高のレースであったミラノ大賞に出走し、これを8馬身差で圧勝して見せた。

その後リボーはイギリスに遠征し、キングジョージⅥ&QエリザベスSに出走、イギリスでも圧倒的な一番人気に推されたが、その期待に応えて当時のレース史上最大着差となる5馬身差をつけて快勝した。(ちなみに、このレースでイタリア馬の勝利はこれが初めてだった)
そしてまたミラノに戻ると続くピアツァーレ賞も8馬身差で楽勝し、2度目の凱旋門賞制覇を目指してフランスへと渡ったのであった・・・。

こうして未だ無敗で迎えた2度目の凱旋門賞。
これがリボーにとっての引退レース。
斥量60kg、圧倒的な1番人気もリボーにとってはどこ吹く風、ただ当たり前に事が過ぎようとしていた。
レースが始まり、悠々と3番手を追走すると、直線、リボーは鞭も入れられぬまま後続との差を広げ、アイルランドダービー馬タルゴ以下に6馬身の差をつけて圧勝。(この着差はシーバードと並ぶ凱旋門賞史上最大着差でもある。また、公式記録では6馬身差となっているが、実際には8~9馬身差はあったとも言われている。それも最後まで馬なりだったという事実は驚嘆に値する)

思わず騎手も振り返ったほど圧勝の引退レース、拍手と大歓声が降り注ぐ中、見事に有終の美を飾ったのであった。

通算競走成績16戦全勝。史上5頭目となる凱旋門賞連覇を達成。
・・・この日、牧場でイル・ピッコロ、ちびっこと呼ばれた小さな馬はついに伝説となったのである・・・。

しかし物語はまだ終わらない。
種牡馬入りしたリボーは、凱旋門賞馬など活躍馬も多く輩出し、その血は今も世界中で生き続けているのだから・・・。
  
~エピローグ~
リボーが無敗で凱旋門賞を連覇してから22年後の1978年。
彼の直孫であるアレッジドが、リボーと同じく凱旋門賞を連覇することになるのだが・・・それはまた、別の話・・・。

長文に最後までお付き合いくださった方、どうもありがとうございました^^
競伝でリボーを使うときにはこんな馬だったのかと思い出して頂ければ幸いですw

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (闘魂)
2006-05-04 02:08:13
そんな馬を生産してみたいと思うのは

馬主なら誰でも夢みることですね^^

リボーかぁw



・・・うん?カードがなかった><

明日からカー伝に励むとしよう^^;;

倒壊さんwロマンのあるお話ありがとです(o^-')b

返信する
Unknown (SD)
2006-05-04 02:24:48
リボーってそんなすごい馬だったんだ。

うちも頑張ってリボー作ろう。



・・・うん?うちにもカードがなかったw



よっぱのSDでした^^

吐きそうw
返信する
イル・ピッコロイベント… (向日葵)
2006-05-04 18:22:36
我が家のリボー系種・パラスト君から凱旋門賞制覇産駒が出るのは後どのくらい先でしょうか?w

題名は某有名競馬ゲームからw

返信する
今は (きゅうとく)
2006-05-04 23:25:05
母系に入って力を出すパターンが多く

直系は殆ど見かけないと言う寂しい状況

なんですよね…ココ最近だと日本では

タップ位しか直系の活躍馬がいないのが

史上最強の競走馬と言われた血だけに

惜しいなぁと言う感じはします。

せめて競伝内では…皆様と同じく何とか

したいなぁと言う気持ちを強くもてました^^

素晴らしいお話を頂き有難うございます♪
返信する

コメントを投稿