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武者小路実篤の絵の師斎藤徳三郎の生涯(3)

2018年01月01日 | 斎藤徳三郎の生涯

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い申し上げます。

平成30年1月元旦

松宮 輝明

 





岸田劉生と徳三郎 


岸田劉生とは武者小路実篤を通して知り合いになった。徳三郎は大正13年に岸田劉生が結成した「春陽会」第1回展に出展した。 春陽会同人には小杉放菴・中川一政・木村壮八・万鉄五郎・梅原龍三郎等がいた。この年、岸田劉生は30歳・梅原龍三郎32歳・中川一政28歳、徳三郎21歳であった。


◎斎藤つく三郎の日本画「山水」


◎岸田劉生


◎前列左より声楽家柳兼子、武者小路徳子、

後列左より3人目武者小路実篤、柳宗悦、滋賀直哉(我孫子の武者小路実篤の別荘にて)

 

 武者小路実篤は大調和会展を設立した。設立の理由は春陽会を3回展で退会した岸田龍生のために作られた展覧会であると言われている。その第一回展が昭和2年、上野の日本美術協会で開催された。劉生は関東大震災後東京駒沢村を離れ京都より藤沢鵠沼に移り住んだ。龍生は日本画を試み「舞妓里代の像」など意欲作を出展した。武者小路は徳三郎を大調和会展の事務局主任に任じた。徳三郎の彼女(最初の妻)は白樺派同人の河野通勢の弟子であった。


◎河野通勢の自画像


彼女は実家が関西の御殿医をつとめた名家の娘であった。河野通勢は「箱入り娘同様に扱っていた。徳三郎に誘惑するなよ。」と釘をさしていた。この恋愛で河野通勢は実家と二人の間に入り苦しい味をなめたと言われている。白樺派の仲間たちは「御曹司とお姫様のしたことだ」と言って容認した。徳三郎の妻も作品を大調和会に出展した。 大調和会展は龍生の死を契機に2年で閉鎖された。再興大調和会展は昭和37年、武者小路を中心に白樺派画家・河野通勢の息子河野通明等が計って再興した。徳三郎は再興大調和展に出展してベテランの片鱗を見せた。

 大正14年梅原龍三郎が春陽展を退会し国画創作協会に迎えられ徳三郎も国画会に移った。そこで春陽会の盟友棟方志功と再開した。 棟方は「大和し美し」を出展し日本民芸館に買えあげられる。柳宗悦・河井寛次郎、浜田庄司の知遇を受けた。


◎左から陶芸家浜田庄司、民芸運動の柳宗悦、陶芸家河井寛次郎


 梅原龍三郎は国画会を退会し徳三郎も出展をやめた。棟方とは日本板画院を結成し棟方が名誉会員・徳三郎が参与になった。そして松方三郎を会長に迎えた。

 徳三郎は春陽会で慶応大学医学部卒業の医師で梅原竜三郎に師事した富田重雄(明治33年生まれ)と交遊し国画会でも行動を共にした。富田は美人画を得意とし吉川英治の「宮本武蔵」の挿絵も描いた。後に文展審査員になる。

◎武者小路実篤と滋賀直哉

 

 

 



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