“犬の散歩に出掛けた早朝、たばこの吸い殼や紙くずなどを拾い歩く年配の男性を見ました。すれ違いざまにあいさつを交わし、心の底から「お疲れさまです」と声を掛けました。数分後に振り返ると、すっかり小さくなった男性は小さな袋を取り出し、道端に落ちたままになっていた動物のふんを拾っていました。ペットのふんを処理せずに放置したままの人も少なからずいる昨今です。それを、さも当たり前のようにあのとき処理していた男性には頭が下がります。私は犬を飼う一人として、一部の不届き者のせいとはいえ肩身の狭い思いをする機会が随分増えたと感じていたからです。
黙々とごみを拾って町をきれいにしようとするこの男性に、私も少しでも近づけるようになりたいと強く思いました。何より、あの男性を見ていてすがすがしさを覚えました。”(10月31日付け中日新聞)
岐阜県各務原市のパート・安江さん(男・70)の投稿文です。こういう話は時折ある。またボクが見かけることもある。そして、ボク自身が拾うこともある。しかし、こういう人に比べ、無頓着に捨てる人がいかに多いか。捨てる人がいなければ不必要な行為である。公道に捨てることが「悪いこと」だと知らない人はいなかろう。公衆道徳や知識の話ではない。恥じない意識の問題である。許している社会の問題である。
ボクの家は交通量の多い県道の東側で、交差点の近くである。道路を挟んで西側にはコンビニもできた。1年の大半は西風である。その西風によってゴミの集積場な屋敷になっている。歩道や屋敷に来た紙くずなどのゴミを拾わない日はないと言ってもよかろう。でも一昔前に比べて、減ったような気もする。これが世間一般なのか、ボクの家の例なのか知らない。ただボクの家は、コンビニができて交差点付近が広々となり、捨てにくくなった気もする。増えたのはコンビニのレシートである。これは拾わない日はないと言ってもよかろう。
苦情を言っていても始まらない。地域環境が少しでもよくなるように、もう少し積極的な行動に出ることであろうか。
ペットボトル、コンビニ弁当の空き箱、たまに使用済みの大人のオムツに赤ちゃんのオムツを袋にいれたままポイです。特にビールや焼酎の空き缶が多く、これを捨てたのは飲酒運転者と考えて間違いなしと思っています。
私が拾いに歩く道は毎回決まっています。農道です。従って夜は街灯も人通りもない暗闇のなかでポイするのでしょうが、恥ずかしくないのでしょうか。それに先日不燃物の指定ゴミ袋にいれたままのもありました。中を見るとしっかり分別されています、。なぜここまでしっかりと分別しているのなら決まった日にしかるべき所に持っていかないのでしょうか。呆れるばかりです。
長男が学生の頃、二人で伊吹山登山に行った時の事です。登山道にビールの空き缶が一個捨てられていました。
私は山を愛する人のする事かと言おうとした瞬間、長男がサッと拾いリュックの中に入れるのを見て成長した我が子を嬉しく思ったものです。今でも職場で開店前にみんなでゴミ拾いをしているようです。私も含めていつまでもお世話になっている町を、そして居住している町を美しくとの思いを持ち続けて行ってほしいと思っています。