今日は成人の日ですね。豊岡では昨日が市の成人式でした。寺小屋出身の新成人も数人、塾に挨拶に来てくれました。皆それぞれに「大人の顔」になっていて、うれしさと頼もしさを感じました。
さて、その「成人式」ですが、そもそも「成人する」ということは、どういうことなのでしょうか。
皆さんは、「バンジージャンプ」というアトラクションをご存知ですよね。かなりの高いところから脚に命綱一本だけをつけて飛び降りるものですが、あの競技は元々メラネシアのちいさな島で行われていた「成人式(通過儀礼)」が起源だと言われているのをご存知でしょうか。
「通過儀礼」とは、それぞれの文化の中で、人生の節目節目に超えなければならないとされるハードルですが、多くの民族にとって「大人になる」とは「子供として親や社会の保護下にあった自分自身をいったん殺し、大人として社会から期待される役割や責任を自分の力で果たせる人間に生まれ変わること」を意味していました。その死の恐怖や痛みに堪えることのできたものだけが、「一人前の大人」として社会から認められたのです。
日本でも侍の子弟は、「元服」とともに「切腹」の作法を教えられたそうです。つまり、いざという時に自分で責任を取る方法を、形で教えられたということですね。また農村地帯では「米俵一俵を一人で担げること」が大人の条件とされたところもあったそうです。
いずれにせよそこにあるのは「ある年齢に達したからといって、自動的に大人として扱われるわけではない」という厳しい現実ですよね。
もちろん現代の民主主義国家では、ある年齢に達した人達には同等の権利が与えられるのは当然だと思いますが、でも逆に「大人と子供の境目があいまいになっている」現実があるのも事実ですよね。そういう意味である種の「子供から大人になるための通過儀礼」は必要だと思います。
とすると、今の日本の現状の中では、「受験(大学入試だけではなく就職試験も含めた広い意味で)」こそがその役割を果たしていると私は思います。
ある目標を定めて努力を重ねて来たのにもかかわらず、たった一日の試験の出来不出来で場合によっては受け入れを拒否されるわけですから、受験生にしてみればある意味「死の宣告」であり、「落とされるかもしれないという不安」はまさに「死の恐怖」ですよね。でもその不安や恐怖に打ち勝ち、乗り越えることが出来てこそ、はじめて「大人の仲間入り」が出来るのだと思います。
一週間後にセンター試験を控えた受験生諸君。今が正念場です。自分のもてる力をすべて出して、自分自身に打ち勝ってください。そして「成人式」が「自分に大人として社会から受け入れられる資格があるかどうかを試されている儀式」であることもわからず、会場でただ騒ぐだけの「バカ星人(成人!?)」の仲間入りだけはしないで下さい。