ビバEXPO2025 関西・大阪万博が開幕 SDGs実現へ、いのち輝く未来社会の未来社会のデザイン
地球の誕生は46億年前、生命の誕生は35~40億年前、真核生物がミトコンドリアと細胞内共生したのが20億年前、有性生殖が始まったのが10億年前、人類の進化は猿人、旧人、現生人類と進み出アフリカは5万年前とされています。一世代25年とすれば2千世代の先祖を持つことになります。紀元後2千年の間では80世代になります。80代に渡って脈々と続いた生活の中で命をつなぎ、知識と知性を育みました。1千年2千年前の先代よりも、そして戦後の目覚ましい発達を遂げた生物学など、現代に生きる人々の方が生命に対する豊富な科学的な知識を有しています。
残念ながら生命は一代限りの命であり、身体は卵子と精子の受精から、胎芽期の短い間に進化の過程を再現しながら人の形と成長し、未熟なまま母親から出生し、保護され養育されて社会的に18才で成人となります。言葉を始めとして知識、知性は周りからの刷り込みに負う処と義務教育や志向する学びがあります。言語の学習は幼児期の習得、反復する刷り込みですが、人は幼形成熟として大人となりますが頭脳は未熟なまま老人になっても成長が可能であり、思考が硬直しない(盲目的に価値観を受け入れない)ならば変化に柔軟に対応が可能です。
愛は宗教の専売ではありません。一人一人の存在として愛を持つ存在です。家族や同郷、民族や夫婦間の自己拡大だけの愛でもありません。前提は有性生殖・雌雄交配の定めです、オスとメスは互いに求め合い、同性はライバルでもあり共存しなければ争って自滅します。戦後の人権拡大、女性解放のトレンドは女性の性欲(拒否を含め)を認めることです。
第二次世界大戦後の価値観喪失(キリスト教)の中、実存主義で時の人となったフランスのサルトルとボーヴォワールは自由恋愛を認める契約結婚を始めました。 自由意志、自分が決断する自由をサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。何故?
少なくとも一対の両性が求め合う恋愛結婚は選択という競争が必然であり、逆に多くの優れた相手の中から一人に決める誤謬も起こります。基本的には性愛が人を動かす原動力ですが、それだけでは無く、異性だけで無いカタワレの孤独と癒し、人間的魅力で求める愛があり、またファンやヒーローに憧れる熱情もあります。将来的に結婚制度がどのように変遷するのか不明ですが、性の問題は個体差で多様に或いは歪に変化します。やっかいなのは支配・被支配の問題や年齢によっても幼青壮老と変化し、経験によっても文化的にも多様に変化します。一律な考えはナカナカ通用しません。少なくとも羨み・ウラヤミや嫉妬・ソネミやネタミの感情は人間の幼児性として、大人として成熟するにつれ排除される必要があります。恋愛は今の自己世界の中で一番に向ける熱情であり、選択という排他性がありますが、世の中の半分は求める異性であり、愛すべき人の一人です。親が子供を差別しない心情と同じであるべきです。
あなたを心の底から愛します、あなたが私を愛するかは問題ではありません。人を愛さずにはいられないカタワレたる己を自認することです。それは自己中に陥りがちな欲望を制御し、自分を愛する事と同じです。世の中にはすばらしい人が数多います。あなたの喜ぶ笑顔が最高の褒賞です。無償の愛とか貴方が愛してくれるからという有償の問題ではありません。人は人を愛さずにはいられない存在であり、逆に人から愛して欲しい存在でもあるのが人間です。
私という生命は他の命を受け継いで生きる存在です。食事で育む身体もしかり、文明文化を受け継がなければ存在しません。生命は他のイノチを受け継ぐ存在です。
「私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る」
これが愛と生命の連続を理解する公理です。過去のあなたから私へ、今のあなたへ、そして未来のあなたへ。私という存在は過去のあなた無しには存在せず、現在のあなた無しでも存在しません。そして今は直ぐに明日へと変化する中で生命を受け渡す存在である人間です。
これが愛と生命の公理ならば、そこから導かれる定理とは?
生きる目的をあれやこれやと考えても袋小路に陥りますが、生物は生きることが目的であり、命のバトンを次に引き渡すことであると言えます。そして人は自由と愛を公平に享受する権利と義務があり、人権、平等、平和が保証されなければなりません。
シャカは死後の問題に言及していません。生物は生きてナンボです。死後は死後に任せればいいだけです。死は無と考える私です。よく生き、命のバトンをつなぐことです。覚悟するだけの問題です。死後が有ってほしいと願う人を無碍にはしません。思想信条の自由です。優れた多くの先人が逝っています。死後の世界をイメージすることは自由です。しかし単純明快ではないと思います。そからの派生が神仏とは考えません、少なくとも神仏は人間の姿形をしていません。
鎌倉時代、親鸞は9才で得度し29才のときに性欲を持て余し、修行では煩悩を解脱できないとして、聖徳太子を引きあいに磯長の夢告にはじまり、六角堂での夢告で女犯戒を許された非僧非俗・愚禿として教団の開祖となりました。性欲を抑圧することが可能な超人としての修行と信望が是とされた仏教界で画期的な成果を獲得しました。浄土真宗は日本では明治になるまでの6百年、官許僧の妻帯が許された唯一の教団でした。中でも室町末期から戦国時代にかけて8代目の蓮如は浄土真宗を山科御坊など畿内に多くの寺内町を作り一大教団に変貌させましたが、個人的には84才の生涯で27人の子沢山で80代に3人の子を作ったスーパージジイでした。彼の有名な説に「後生(ごしょう)の一大事を心にかけて」があります。私は残された人(遺族)の問題であり、愛する故人の人生を顧みて、その人生の問題を解決すべく努力することと理解します。父母は何に苦しめられたか?自分は何に苦しんだか?それが文明発展の歴史でなければなりません。
休憩 八重子 (戦友) 渥美 清
続く
地球の誕生は46億年前、生命の誕生は35~40億年前、真核生物がミトコンドリアと細胞内共生したのが20億年前、有性生殖が始まったのが10億年前、人類の進化は猿人、旧人、現生人類と進み出アフリカは5万年前とされています。一世代25年とすれば2千世代の先祖を持つことになります。紀元後2千年の間では80世代になります。80代に渡って脈々と続いた生活の中で命をつなぎ、知識と知性を育みました。1千年2千年前の先代よりも、そして戦後の目覚ましい発達を遂げた生物学など、現代に生きる人々の方が生命に対する豊富な科学的な知識を有しています。
残念ながら生命は一代限りの命であり、身体は卵子と精子の受精から、胎芽期の短い間に進化の過程を再現しながら人の形と成長し、未熟なまま母親から出生し、保護され養育されて社会的に18才で成人となります。言葉を始めとして知識、知性は周りからの刷り込みに負う処と義務教育や志向する学びがあります。言語の学習は幼児期の習得、反復する刷り込みですが、人は幼形成熟として大人となりますが頭脳は未熟なまま老人になっても成長が可能であり、思考が硬直しない(盲目的に価値観を受け入れない)ならば変化に柔軟に対応が可能です。
愛は宗教の専売ではありません。一人一人の存在として愛を持つ存在です。家族や同郷、民族や夫婦間の自己拡大だけの愛でもありません。前提は有性生殖・雌雄交配の定めです、オスとメスは互いに求め合い、同性はライバルでもあり共存しなければ争って自滅します。戦後の人権拡大、女性解放のトレンドは女性の性欲(拒否を含め)を認めることです。
第二次世界大戦後の価値観喪失(キリスト教)の中、実存主義で時の人となったフランスのサルトルとボーヴォワールは自由恋愛を認める契約結婚を始めました。 自由意志、自分が決断する自由をサルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。何故?
少なくとも一対の両性が求め合う恋愛結婚は選択という競争が必然であり、逆に多くの優れた相手の中から一人に決める誤謬も起こります。基本的には性愛が人を動かす原動力ですが、それだけでは無く、異性だけで無いカタワレの孤独と癒し、人間的魅力で求める愛があり、またファンやヒーローに憧れる熱情もあります。将来的に結婚制度がどのように変遷するのか不明ですが、性の問題は個体差で多様に或いは歪に変化します。やっかいなのは支配・被支配の問題や年齢によっても幼青壮老と変化し、経験によっても文化的にも多様に変化します。一律な考えはナカナカ通用しません。少なくとも羨み・ウラヤミや嫉妬・ソネミやネタミの感情は人間の幼児性として、大人として成熟するにつれ排除される必要があります。恋愛は今の自己世界の中で一番に向ける熱情であり、選択という排他性がありますが、世の中の半分は求める異性であり、愛すべき人の一人です。親が子供を差別しない心情と同じであるべきです。
あなたを心の底から愛します、あなたが私を愛するかは問題ではありません。人を愛さずにはいられないカタワレたる己を自認することです。それは自己中に陥りがちな欲望を制御し、自分を愛する事と同じです。世の中にはすばらしい人が数多います。あなたの喜ぶ笑顔が最高の褒賞です。無償の愛とか貴方が愛してくれるからという有償の問題ではありません。人は人を愛さずにはいられない存在であり、逆に人から愛して欲しい存在でもあるのが人間です。
私という生命は他の命を受け継いで生きる存在です。食事で育む身体もしかり、文明文化を受け継がなければ存在しません。生命は他のイノチを受け継ぐ存在です。
「私が在る限り貴方は有り、貴方が在る限り私は有る」
これが愛と生命の連続を理解する公理です。過去のあなたから私へ、今のあなたへ、そして未来のあなたへ。私という存在は過去のあなた無しには存在せず、現在のあなた無しでも存在しません。そして今は直ぐに明日へと変化する中で生命を受け渡す存在である人間です。
これが愛と生命の公理ならば、そこから導かれる定理とは?
生きる目的をあれやこれやと考えても袋小路に陥りますが、生物は生きることが目的であり、命のバトンを次に引き渡すことであると言えます。そして人は自由と愛を公平に享受する権利と義務があり、人権、平等、平和が保証されなければなりません。
シャカは死後の問題に言及していません。生物は生きてナンボです。死後は死後に任せればいいだけです。死は無と考える私です。よく生き、命のバトンをつなぐことです。覚悟するだけの問題です。死後が有ってほしいと願う人を無碍にはしません。思想信条の自由です。優れた多くの先人が逝っています。死後の世界をイメージすることは自由です。しかし単純明快ではないと思います。そからの派生が神仏とは考えません、少なくとも神仏は人間の姿形をしていません。
鎌倉時代、親鸞は9才で得度し29才のときに性欲を持て余し、修行では煩悩を解脱できないとして、聖徳太子を引きあいに磯長の夢告にはじまり、六角堂での夢告で女犯戒を許された非僧非俗・愚禿として教団の開祖となりました。性欲を抑圧することが可能な超人としての修行と信望が是とされた仏教界で画期的な成果を獲得しました。浄土真宗は日本では明治になるまでの6百年、官許僧の妻帯が許された唯一の教団でした。中でも室町末期から戦国時代にかけて8代目の蓮如は浄土真宗を山科御坊など畿内に多くの寺内町を作り一大教団に変貌させましたが、個人的には84才の生涯で27人の子沢山で80代に3人の子を作ったスーパージジイでした。彼の有名な説に「後生(ごしょう)の一大事を心にかけて」があります。私は残された人(遺族)の問題であり、愛する故人の人生を顧みて、その人生の問題を解決すべく努力することと理解します。父母は何に苦しめられたか?自分は何に苦しんだか?それが文明発展の歴史でなければなりません。
休憩 八重子 (戦友) 渥美 清
続く






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