生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

実に「ポカーン」とさせられる祖師の言葉

2011年07月31日 | 「ブッダの言葉」序
 前回、前々回と、法然上人の言葉を紹介しました。
私も、最初、その言葉を読んで、唖然、ポカーンとしましたし、
そのような人も多かったのではないでしょうか?

 法然の弟子・親鸞上人は、浄土宗の歴史の先達を
7人挙げていて、繰り返し賛美しています。
インド、中国の僧を挙げた後、日本人での浄土宗の
先達として挙げているのは、
源信(恵心)と、法然上人です。

 そうなのです、親鸞上人も、
源信(恵心)を浄土宗を日本に伝え広めた功績を
常に讃えてているのです。

 源信(恵心)は、念仏を大事にすると共に、
通常、仏教の基本と考えられている「真如観」に関しても、
詳しく述べています。
 そのような通常の仏教の枠内で、教えを説いたら、
法然上人も親鸞上人も、迫害されなかったかもしれません。
 ところが、法然上人も、親鸞上人も、
源信(恵心)が重要視した真如観などに関して、
完全に、けんもほろろ、にべもない態度なのです。
(これが既成の仏教教団から迫害を受けた理由の
一つの要因とはなっています。もちろん多くの要因ありますが。)

 これを、また、私たちが、「真如観」への悪口と受け取ると、
実に間違いだと、私は思います。
(私の書き方に、そう思われる感じがしたとしたら、陳謝します。)

 法然上人も親鸞上人も、必死に仏教を学び、行じ、
「何とか観を修する」「それをやればできる」ということへの反省が
自分自身の中に高まってきたのです。
その中で、人間が、何とか観を修することを全く断念する次元での、
すさまじい世界の開けに生きたのが、
法然上人、親鸞上人のすごいところだと、私には思えます。

 ともかく、親鸞上人の言葉も、その弟子たちにとって、
「ポカーン」とさせられるものだったことが、その手紙を読むと
よくわかります。

 本当に真剣に道を求め、新しい世界を切り開いたような
祖師方の言葉は、私たち凡人というか、
「誰か知識や方法を教えてちょうだい、それ信じて行じるから」と
思っているような人間、
本当に自分自身を信じるのでもなく、阿弥陀仏を信じるのでもなく、
ただただ流され、「誰か教えてちょうだい」みたく甘ったれて生きている
私たちには、常に「ポカーン」とさせられる
ものなのかもしれません。(臨済の言葉も!)

 私は、いちおう禅宗僧侶ですが、禅宗の始まりの言葉も、
実にポカーンとさせられるものです。
それは禅宗が起った当時、ポカーンとさせられただけでなく、
現代の私たちにとっても、いやいつの時代でも、
ポカーンとさせられるものだと言えるでしょう。

 それを次回、見てみましょう。
単にポカーンとしてるにとどまらず、その迫力を感じ、
自分がその言葉に参じていくと、全く想像もできなかった
世界が開けてくることと思います。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「おたずねまでも無益に候」―... | トップ | 「ポカーン」とさせられる禅... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

「ブッダの言葉」序」カテゴリの最新記事