生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に

大阪の禅寺 天正寺住職 佐々木奘堂(じょうどう)のブログです。人間が本来もっている自由で活発な身心を探求していきます。

「幸」と「執」の元を知ってますか?

2012年03月08日 | 「ブッダの言葉」序
臨済は、鎖・枷(手かせ、足かせ)という
実に具体的なもので、私たちが
仕組まれた自由に気づかないでいることを
描写しましたが、より精神的 な表現である
「執」という言葉も繰り返し用いています。

ここで、「執」という漢字がどのようなものか見てみましょう。

この漢字の左側は、「幸」です。
みなさん、この「幸」という漢字の由来を知っ てますか?

「幸」は、「手かせ」を描いた甲骨文字なのです。
現代で言えば、手錠にあたるわけですが、
その手かせ・手錠が、なぜ、「しあわせ」を意味す る
ようになったのでしょう?

漢字学の権威である白川静の説を紹介します。
古代中国は、罰が、ものすごく厳しかったそうです。
足を切るという罰もよく執行されましたし、
首を切る、腰を切る、体を切り刻む、
手足を四方、動物に縛りつけ、動物が走り出すと体が裂けるなどなど。

そのような罰を受けるよりは、
「手 かせですむなんて、何て、幸せなんだろう!」
ということのようです。

別の人の説では、手かせをされた状態から
外された時には幸せを感じるから、
手かせが、幸せを意味する漢字となったのだろうと
言っている人も あります。

それにしても、手錠を描いた漢字が、幸せを意味する
というのは、とても考えさせられますね。

それでも、「体を引き裂かれる刑を受けるよりは、
手錠のほうが、ずっと幸せだ」とか、
「手錠を外されて解放された時は、幸せだ」
というの は、理解できますね。

ですが、臨済が見た当時の(そして現在の)
禅宗や仏教の状況は、ある意味はるかに悲惨です。

手かせ・鎖で縛られた人が、さらに手かせ・鎖で
縛られているのに、縛った方も、縛られた方も、
それに気づかずに「歓喜」しているわけですから。

この「誰も気づかずに」ということを、実に 激しく、
私たちに突きつけたところが臨済のすごさです。
(ですが、私たちは、うっかりしているので、
自分自身に突きつけられたとは気づかな いのが、
「気づかずに」たるゆえんですね。)

「執」という漢字ですが、「執」の右側の「丸」は、
この場合、甲骨文字では、人が膝まずいて両手を差し出している
ところです。

つまり、 「執」は、人が膝まずき、手かせをされた姿なのです。

禅や仏教を教える人も学ぶ人も、この状態なのに、
それに気づかずに歓喜している痛々し い光景を、
臨済はまざまざと見たわけです。

「これからは何が俺を縛りつけるだろう?」
と尾崎の歌にもありましたが、
何が私たちを縛っている手かせなのでしょう?
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1 コメント

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Unknown (みかん)
2017-09-02 23:32:01
赤ちゃんが少しずつ大人に成るには まずは適切な養育をされる必要が、あります。その中から少しずつですが幸せの情態が出来ていくように思われます。愛着行動と言うのでしょうか・・明らかに執着の最初?・・

特に その幸せの状態が互いに心地好く感じられ 世間体も善い場合はずっと続くことでしょう。

また、学校に通うようになると、先生や友達ともなか
よくなるように マタマタ頑張って幸せになろうとするのですね。そこで、縛られることを進んでやっていくことになります。
(手取り足取り教わった・・ことなどは・・・トテモアリガタイコトです。ずっとずっと・・・大事にしておきたいです。)などと・・
幸せの状態をつくるたびに何だか重たいモノが体に圧し掛かり自由に動くことを困難な状態に・・します。
その、行き詰った状態こそが 
二進も三進も行かない状態の中で
何とかして~だれか~と助けを求め
そして 助けてもらった恩人とまた同じことを繰り返して・・・。

社会はこのように回っているのだから・・それはそれで・・・いいのかな~とおもいます。

しかし、この文章をよんで、回らなくともよいという選択肢の存在に気づきました。そして、自ら縛ったモノは気づいたら解けるモノであることも・・・それは、まったくの縛りのない赤ちゃんのように・・・









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