先回の天真寺日記にて京都のKちゃんが「本願寺 本山にて帰敬式」と、NちゃんとIちゃんの帰敬式の様子を書いてくれた。
帰敬式とは、阿弥陀如来・親鸞聖人の前で「おかみそり」を受け法名をいただき仏弟子となって、浄土真宗の門徒としての自覚をあらたにする、生涯に一度きりの大切な儀式です。浄土真宗では、釈○○という法名を頂きます。
帰敬式の流れは、
「三帰依文」唱和 → おかみそり → 「帰敬文」拝読 → 法名拝受
今日は、帰敬式でみんなで唱和する三帰依文についてです。。
三帰依文とは
南無帰依仏(なむきえぶつ)
南無帰依法(なむきえほう)
南無帰依僧(なむきえそう)
[現代語訳]
仏に帰依したてまつる
法に帰依したてまつる
僧に帰依したてまつる
というお言葉です。
浄土真宗本願寺派仏教婦人会連盟出版「つながるひろがる-仏教婦人会活動事例集-」に三帰依文についてのA先生のコメントがありましたので、掲載させていただきます。
帰敬式で私たちは、ご門主様より「南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧」と三法帰依をご教授いただきます。仏教徒とは、「仏・法・僧」を「宝」として生きる者であると、自覚と責任を教えていただいたのです。三宝の中「仏」は仏さまであり、「法」とは教えを表します。ですから、私たちの帰依、尊敬の対象であることは容易に理解できます。しかし「僧」が「宝」とはどういう意味でしょう。
「僧」とは、個人的な僧を意味した言葉ではありません。もとは「サンガ」というインドの言葉でした。それを中国語訳するときに「僧伽」と漢字表記したもので、意味は「和らかな信者の集い」をいいます。ただ、「出家者の集い」を意味していました。浄土真宗には出家のサンガはありません。そこで「僧」とは「和らかな信者の集い」というべきなのです。その意味の深さをこの事例集によって感じさせていただきました。素晴らしい「仏さま」「教え」があっても、その素晴らしさが実際に社会に広がり、人々に認識されていく原動力は、仏像でもなければ教えの理論でもありません。それは仏さまを尊敬し、教えを身に受けて生きる、人々の行動によって明らかにされるからです。
信仰に生きる者が集い、力を合わせて、その教えを伝えようと努力する姿こそ、仏教の真実が現実社会のなかで機能している姿にほかならないのです。その責任の深さと重大さを示す言葉が「南無帰依僧」の一句だったのです。
以上です。
帰敬式とは「仏さま・教え・和らかな信者の集い」を「宝」として仰ぎながら生きていくことを誓う儀式であります。。
法名は、生前に頂くこともできます。本願寺での帰敬式についてのご案内です。
http://www.hongwanji.or.jp/guide/shinobu/
帰敬式ご希望の方、帰敬式に関してご不明な点がありましたら、天真寺(tel 047-389-0808)までお問い合わせ下さい。
(龍)