昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

仏教との出会い: 秋風と無門関―3

2010年10月25日 | 日記

2010/10/25

仏教との出会い: 秋風と無門関―3 

固い話が続いて少し疲れたかもしれませんね。一息入れて、鎌倉の話をしましょう。ご存じのように鎌倉は源頼朝が幕府を開いたところです。沢山の名所旧跡があります。お寺が多いのはなぜでしょう。京都のお公家さん達の文化、そのころは仏教文化の花盛りでしたから、を取り入れたからかもしれませんが、それにしても春夏秋冬別々のお寺に参詣する人たちが一年中町を歩いています。陸路から鎌倉に入るには、鎌倉を取り巻いているいくつかの小高い丘の連なりを越えて行かなければなりません。鎌倉の材木座海岸、由比ヶ浜、七里ヶ浜、は海路とつながりますが、陸から入るには、大船方面か藤沢からか、横浜の金沢八景から入ることになります。逗子から三浦半島の方面に行くと、観音崎の真向かいは房総半島です。久里浜から金谷までフェリーで1時間以内でつきます。高速船なら半時間くらいです。内房にも外房にも近いです。

鎌倉の中心は鶴岡八幡宮です。春、桜が咲き染めるころは、鶴岡八幡宮から海岸まで昔は一路、段葛(だんかずら)という道が一直線に伸びていました。その道を飾る桜並木の向こうに、小高く鶴岡八幡宮の本殿が見えてきます。その昔、義経の妻、静御前が頼朝以下鎌倉武将達の前で「しずやしず しずのおだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな」と歌いつつ舞を舞ったという舞台があり、石段の脇には大銀杏の古木が歴史を見つめていました。惜しくも今年、ついに鎌倉幕府以来八百年の巨木も倒れてしまいました。頼朝の長男、頼家は伊豆の修善寺で暗殺され、その遺児別当公暁がそそのかされて叔父源実朝をこの銀杏の陰から躍り出て暗殺してしまいました。実朝は文化人で公家の文化に詳しく歌人でもありました。七里ヶ浜に立って相模湾に打ち寄せる波をみていると、雄大な波が「割れて砕けて裂けて散るかも」(金槐和歌集)と詠んだ歌人の心が伝わってくるようです。

 七里ヶ浜の西に江ノ島が見え、その遠く富士の高嶺がそびえています。七里ヶ浜から鎌倉に進攻しようとしたのが新田義貞です。後醍醐天皇は鎌倉幕府の倒幕を呼びかけられ、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らが北条氏と激しく戦いました。多摩川の分倍河原で北条方の軍勢を破って一挙に南下して鎌倉に迫った新田の行く手を阻んだのが稲村ヶ崎でした。彼が願をかけて太刀を海に投ずると稲村ヶ崎の水が引いて鎌倉攻めができたという伝説があります。その義貞も南北朝の争いの後は吉野方について、北朝を押し立てた足利尊氏と戦って戦死します。源平の戦いを謡った平家物語も、南北朝の戦いを謡った太平記も、ともに日本人の無常観をあらわしています。仏教が無常の想いを育てたといえます。

さて、稲村ヶ崎から鎌倉の由比ヶ浜に至る途中に、極楽寺殿と呼ばれた北条重時をまつった極楽寺坂があります。鎌倉では浄土宗系統の仏教と、武家に人気があった禅宗系統の仏教が盛んでした。女性にゆかりの深いお寺は駆け込み寺として有名な東慶寺、名月院(あじさい寺)、白旗弁財天、佐助稲荷などではないでしょうか。いずれも北鎌倉の駅から行けます。これらのお寺のほかにも歌人、与謝野晶子がほめ歌として詠んだ鎌倉の大仏があります。大仏は長谷(はせ)にあります。この長谷にある長谷観音は、近畿の長谷寺と深くつながっていると聞きました。鎌倉は今は古都の風情ですが、その昔、政治の渦中にあったとき、多くの人の血が流されました。お寺が多いのもそのせいかもしれませんね。 

 


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