昴星塾(ぼうせいじゅく)のブログ

リサ・ロイヤルの「ギャラクティック・ルーツ・カード」に親しむ会。不定期の掲載。

仏教とキリスト教-1:原始キリスト教の背景

2010年12月04日 | 日記

2010年12月6日

仏教とキリスト教-1:原始キリスト教の背景

 先に、もろもろの如来について記した。もろもろの如来のひとりがイエスである。今日のキリスト教徒は、イエスは神の御子である、被造物であるわれわれとは違うと説く。こういう教えになったのは、今から1600年位前の、ローマ皇帝であったコンスタンチヌスの頃からであって、決してイエス存命の時期ではない。それどころか、皇帝がある意味で強引に進めたニケーア宗教会議という会議で今日のカトリックが成立するまでは、さまざまな立場のイエスの教え、すなわち福音書があった。たとえば、「トマス福音書」とか、「マリア福音書」とかいくつかある。これらは後にグノーシス主義として正統派キリスト教徒(と今日ではいわれるが)つまりグノーシス主義に反対の勢力から弾圧された。これらのさまざまなキリスト教の立場は、原始キリスト教団それ自体の中に起源をもっているものもあれば、教団の使徒たちとは別系統の、しかしながらキリスト教的であると同時に反ユダヤ教的な立場もあった(これを、キリスト教的グノーシス主義という)。

アリウス派のキリスト教というのが別にある。はじめは正統派とされたが、やがてキリスト教の信条である三位一体説を唱えたアタナシウスという古代エジプトのアレキサンドリア出身のキリスト教神学者が出てからは、ニケーア会議以降、異端として排除されるようになったのが神学者アリウスのキリスト教である。イエスの死後2世紀くらいの間は、アリウスのキリスト教の方が優勢であった。

 アリウスの教えは、中東世界ではむしろ普通の立場であって、イエスは人間であって、イエスは「神のひとり子」(キリスト教の熱心な信者の一部に人気があった説)というのは正しくはない、という立場であった。アリウスにとっては、イエスは人間であって、神話的な「神の子」という考え方はとらなかったのである。アリウスの教えはバルカン半島を北上して、北方ゲルマン族に広まった。ドイツでは古代のゲルマン人は北欧神話の神々を崇敬していた。冬至には樅の木の精霊を祀り、新しい年の再生を祈った。これをキリスト教の信仰に組み入れたのがアリウス派キリスト教の聖職者だった。クリスマスのお祝いの起源とされる。

 キリスト教と仏教には明らかに相互の影響がある。ある言い伝えでは、イエス自身もチベットで修行した時代があるということだし、イエスの使徒のひとりトマスのインドでの布教という言い伝えもある。そういうインドとヨーロッパの交流は、西暦前3世紀ごろからアレキサンダー大王によるギリシャ文明のインド世界への流入以後顕著になったとされる。でも、もっと古くからあったのだろう。正統派がいわないイエスの教えのうち、近年発掘されたグノーシスの教説の中では輪廻転生の教えがある。輪廻転生のことは、古代や中世のユダヤ人も受け入れたもので、たとえばアメリカで活躍したユダヤ神学者マルチン・ブーバーの本を読めば明らかである。仏教の「菩薩」というあり方がイエスの説教の土台にあるという指摘も学者の中にはある。しかし、イエスは菩薩というよりは真如の世界から降りてこられた如来であろう。

  ユダヤの聖書(キリスト教はこれを旧約というけれど、ユダヤ人は決して旧約などとはいわない。)の起源について、すこし述べておかなければならない。中東世界は、基本的にはチグリス・ユーフラテス川の周りで発生したシュメール文明に起源をもつ。西暦前5千年前ごろから、シュメール文明が起こったとみられるが、バビロンのマルドゥク神話にある、マルドゥクとティアマートと戦いは、ノアの箱舟の洪水神話や、「ヨブ記」にある神の答えの中で言及されるが、原初の巨竜レヴィアタン(英語でリヴァイアサンというが、17世紀イギリスの政治学者トマス・ホッブズの著書にも『リヴァイアサン』という名前がついている)や、ベヘモートもしくはビヒモスなどの原初の竜は、のちのキリスト教でいう悪魔の原型である。シュメールの神話はアヌンナキという神々が支配者であるが、これは神話というよりは実話であると、シュメール学者ゼカリア・シッチンが唱えている。彼によれば、古代シュメールの真の支配者であるアヌンナキは、その時代に地球の近傍にあったニビルという惑星の住民で、本来はほかの宇宙領域からきた宇宙人である、というのである。彼らは地球人類を労働力として使うために類人猿を遺伝子工学を使って人間として創作したという。荒唐無稽な話と思われるかもしれないし、私もそういうふうに思った時期もあったが、ニビルが今現在も実在するかはともかくとして、古代文明に宇宙からの影響がないというのはありえないと考えるようになった。たとえば、UFOというのは、公式にはアメリカ空軍のパイロットたちによって1947年ごろから目撃されるようになったのが始まりとみなされるが、その記録ははるかに古くからある。中世ドイツの女性神秘家で修道院長であり、ドイツ薬草学の草分けである、ビンゲンのヒルデガルトは、彼女が幻視した宇宙の姿を描いている。キリスト教的な修飾が著しいが、いずれにせよ当時、彼女は未知の球体の飛行を目撃したとみられる。

 また、ペルーのナスカにある地上絵は大気圏外から俯瞰した絵であるとしか考えられない。さらにいえば、中世ヨーロッパの医学に大きな影響を与えたパラケルススという人物がいる。彼はゲーテの『ファウスト博士』のモデルといわれているが、パラケルススは占星術と医学の対応を論じたり、いくつかのタリズマンすなわち護符を書き残している。パラケルススの作品かどうかいまひとつ不明だが、そういう護符のひとつに明らかにUFOの形がある。そういう知識を得てからあらためて、ユダヤ聖書の「創世記」を読むと、たとえばヤコブの梯子の部分とか、「エゼキエル書」の「メルカバ」(ヘブライ語で戦車のことで、英語でマカバという言葉でなら知っているかもしれない)もみなUFOの存在を暗示しているといえる。

 これは科学的一点張りとみなされるヨーロッパ文明の隠された部分の秘教として伝わるもので、学問的にヨーロッパ精神史を論じる場合、深層心理学とのかかわりで無視してはならない側面である。

 要するに、キリスト教の信条とか信仰を考えるとき、天使的存在の理解を欠かせないということである。天使とは、いうまでもなく天、すなわち地球外宇宙からの導き手であり、そういう宇宙が永遠の英知と愛をもって、この世界に光を与えようという意図をもつことをあらわしている。この点で、天使は如来でもある。それは、アヌンナキとは意見を異にする宇宙の存在なのかもしれない。キリスト教徒はイエスのみを天使より上の存在とするのは彼らの宗教的想像であるが、いくつかの比較宗教学的議論からすれば、現れた存在より奥の隠れた存在がいくらでもあるので、けっしてイエスが究極ではないし、ゴータマもまたしかりである。ただ、誤解のないようにしておきたいのは、イエスもゴータマも、如来、もしくは覚者としてのブッダであることは疑いをいれない。二人の本質はまったくひとつ、神の愛(アガペー)そのものである。この世で生き、教えを説く前に人間としての苦節があったことも共通である。(つづく)