天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

渡辺勇次郎

2015-02-24 | Weblog
 日本のボクシング界も世界チャンピオンを次々と輩出しています。
 白井義男から最近の田口良一選手まで、
 ウィッキペディアによると78名との事です。
 この日本のボクシング界の草分けが渡辺勇次郎で、栃木県出身の人です。

 渡辺は、1887年(明治20年)
 栃木県塩谷郡片岡村安沢(現矢板市)の農家の長男に生まれました。
 県立第三中学(現在の真岡高校)に進みますが、
 4年で中退し、1906年(明治39年)単身渡米します。

 サンフランシスコに上陸してすぐ、
 ボクシングの心得のある白人の不良に喧嘩で倒されたことがきっかけで、
 ボクシングに興味を持ったと言われています。
 黒人のターナーが経営するボクシングジムに入門して、
 本格的にボクシングを学び、
 1910年(明治43年)、カリフォルニア州ライト級チャンピオンになっています。

 ボクシングの素晴らしさを日本に伝えるため、
 1921年(大正10年)15年ぶりに帰国し、
 同年12月25日に、
 日本最初のボクシングジムである「日本拳闘倶楽部」を開きます。
 そして、翌年の5月7日、
 靖国神社で日本初のボクシングの興行を開催しますが、
 これは、興行としては赤字になり失敗に終わったようです。

 しかし、その後も多くの門弟を育て、競技の普及発展に尽くします。
 その門弟の中には、同じ真岡中学の後輩であり、
 不世出の天才ボクサーで「拳聖」と呼ばれたピストン堀口がいます。
 彼も、もちろん栃木県人です。

 戦中戦後の10年間ほど郷里安沢で疎開生活を送り、
 宇都宮市内に宇都宮日倶を開いたりしています。
 また趣味の木彫りが似顔絵などのスケッチは
 秀逸だったと言われています。

 豊かな国際感覚と機知に富み、
 明朗快活豪放磊落の性格は、
 正にボクシングの父そのものであったと伝えられています。
 1956年(昭和31年)東京都で、病没しました。享年68歳でした。
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1 コメント

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Unknown (井頭山人)
2015-03-08 20:35:10
天然居士さん、こんばんわ、
渡辺勇次郎氏のことは、全く聞いた事は有りませんでした。矢板の出身で栃木県第三中学(旧制真岡中学)に入り、4年生の時に学校ストライキを指導し、放校処分になったそうです。同窓会名簿には、その為に掲載されて居ないのかも知れません。その代り堀口恒男氏(ピストン堀口)は載って居ます。勇次郎氏は、単身アメリカに出て、白人に殴られ、それからボクシングを習ったらしいです。

当時のアメリカは、有色人種に対して、今では信じられぬ程のひどい偏見と蔑視がありました。大正から昭和の有名なジャーナリスト「清沢列氏」の評論集を読むと、排日法をはじめ、特に日本人差別の酷かった時代です。勇次郎氏も様々の嫌がらせや、蔑視を受けた事でしょう。日本人の正直でまじめな、働き者の傾向は、アイルランドやポーランドなどから来た、アメリカの白人移民に取って、脅威になる物であったと云われています。勤勉で質素に財産を成してゆく日系移民が面白く無かったのでしょうね。単なる嫌がらせに留まらず、襲撃され命を奪われる事も多々あったと記録にあります。荒ぶる精神もありますが、基本的には、日本人は温和でおとなしい。

栃木県第一中学(旧制宇都宮中学)の英語教師をしていた川上澄生も若い頃にカナダに出かけていますね。彼も色々な職業を経験し、その思い出を文章に残して居ます。ご自分をへっぽこ教師と謙遜なさっていますが、色々な職業を経験し、人生の甘も醉も知っている教師は、やはり良い教師です。本当の教師と言うのは、この様な、経験の厚みが不可欠の様に思います。オリオン通りに有った落合書店の包装紙は、川上澄生の版画でしたね。私は川上澄生が好きで、何度か鹿沼にある澄生の美術館に出かけた事があります。
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