天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

招魂場

2018-06-10 | Weblog
 靖国神社に祀られている人については、以前書きました。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/ffceb31770f1f24e02ae6edba0475a30

 そこにも書きましたが、
 靖国神社になったのは、1879年(明治12年)の事で、
 それまでは、1869年(明治2年)創建された東京招魂社でした。
 そしてその招魂社の原型は、長州で始まったもので、
 当初は招魂場と呼ばれていました。

 最初に作られたのは、
 奇兵隊が、慶応元年(1865年)5月、
 下関郊外桜山(現下関市上新地町)に完成させた招魂場です。
 同年7月、長州藩は藩内各郡に
 ひとしく招魂場を設けるよう命じ、費用も支給しました。

 招魂場の建設に当たっては、面白い話が伝わっています。
 山陽道の宿場でもある船木市(現楠町船木)の東境の山を開墾し、
 慶応3年3月に完成した鳶ケ巣招魂場(現船木護国神社)についてです。
 船木宰判管内の各村々から毎日人を繰り出させ、
 勤労奉仕させる事で始まりました。
 藩は、民衆に挙国一致を理解させ意識を高めようとする狙いもあったようです。
 第1日目は、万倉(現楠町)の担当で、
 籠や鍬を持って地味な身なりでやって来て開墾に従いました。
 2日目は、小野村(現宇部市)で、
 一同揃いの着物を着て、幟に太鼓を打って余興気分でやって来ました。
 次の藤曲(現宇部市)の者は、船着き場があったので、
 飾りを付けた小船を担いで来ました。
 それから各村毎日趣向をこらして余興気分で来るようになります。
 最初の日にやって来た万倉の者は不平を言い出しました。
 「沙汰の仕様が悪い、万倉村の体面にかかる」と言い、
 最後の日に余興気分で再度出場したとの事です。

 結局、奉仕による開墾工事は捗らず、
 藩は人を雇って開墾工事を行い、招魂場を完成させたとの事です。

 以上、一坂太郎さんの「長州奇兵隊」に載っていた話です。

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2 コメント

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Unknown (井頭山人)
2018-07-17 09:34:43
招魂場を作ると云う事で、最初は神聖な仕事と思い、質祖な身なりでやって来たが、他の村が段々とお祭り気分でやって来たので、とうとう、そんな雰囲気に成ってしまったと云う事ですね。万倉村にしてみれば、沙汰の仕様が悪いので、自分達は独自のものが出せなかったぞ、と云う事なのでしょう。

靖国も当初は東京招魂社でしたね。村田蔵六の提案で国家の為に命をささげた英霊を祀るという趣旨で有った様です。ですから祭神は英霊なのですね。
有難うございました (天然居士)
2018-07-29 18:29:19
井頭山人さん コメント有難うございました。

村田蔵六は長州の出身ですから、招魂場を全国に広めたような感じなのでしょうね。
靖国神社に祀られている人たちも、
かなり政治的な色合いで選別されていると思っています。

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