天然居士のとっておきの話

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帝室技芸員

2015-06-09 | Weblog
 戦前の美術界の制度として、宮内省が運営する帝室技芸員がありました。
 1890年(明治23年)に設置された美術・工芸作家の顕彰制度で、
 戦後の1947年(昭和22年)に廃止されています。
 ジャンルは幅広く、日本画家や西洋画家、彫刻家の他、
 金工や陶工、漆工といった諸工芸作家に加えて、
 刀工と写真家等も認定されています。

 制度ができた背景には、
 1889年(明治22年)に東京美術学校を創立した
 フェノロサと岡倉天心らの革新派と、
 従来からのグループとの対立があるとされています。
 旧派は、伝統絵画を護るという意図から宮内省の庇護を求め、
 1887年(明治20年)に有栖川宮熾仁親王を総裁に迎えて、
 新たに「日本美術協会」を発足させます。
 同会は宮中や宮内省との結びつきが強く、
 翌年には帝室技芸員の前身とされる「宮内省工芸員」を認定します。

 1890年には正式に帝室技芸員制度が始まります。
 宮内大臣により任命された選択委員により作家が推薦され、
 帝室博物館館長の招集した会議によって任命されるというものでした。
 定員は25名であり、生涯、勅任官の待遇を受ける一方、
 年金の他に下命された制作に対しては制作費が支給されました。
 1944年(昭和19年)までの55年間に、79名しか選ばれていません。
 現在の重要無形文化財保持者(人間国宝)の数と比較しても少なく、
 いかに優れた芸術家が選ばれたか分かります。

 この第一回の帝室技芸員の日本画に選出された画家が6名います。
 田崎草雲、森寛斎、狩野永悳、守住貫魚、橋本雅邦、野口幽谷です。
 この他、柴田是真も選ばれますが、
 画家ではなく漆工芸として選ばれています。

 この内、田崎草雲は下野国足利藩の出身です。
 幕末の頃から足利に居を定め、終生足利から離れませんでした。
 以前、栃木県の足利市出身の田崎草雲の旧居に行く機会がありました。
 作品を見ながら、改めてその素晴らしさを感じました。
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2 コメント

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Unknown (井頭山人)
2015-08-03 19:27:12
江戸時代の浮世絵師、彫り物師、幕府お抱えの絵師、など、250年間に亘る技芸の研ぎ澄まされた文化の結晶が明治を迎え、帝室技芸員の制度が生まれたのでしょうかね。栃木県の真岡市にも田崎早雲の絵が有ります。また河野守弘の「下野国誌」の桜の版木が二百数十枚ほど、保管されている版木堂があります。
大嶽浩良氏の「下野の明治維新」は、身近な激動の歴史を知る上で大変参考になるものでした。
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有難うございました。 (天然居士)
2015-08-09 18:20:48
井頭山人さん コメント有難うございました。

帝室技芸員の制度は、日本の伝統文化を伝える上で、大きな役割を果たしましたね。
何でも洋風を好んだ明治政府の制度の中では異色の制度だったようにも感じます。

「下野国誌」の版木が残っているのですか。
見てみたいですね。
梅渓と名乗っていた頃の草雲が挿絵を描いたようですね。

「下野の明治維新」は読んでいません。
今度読んでみたいと思います。
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