天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

義経と頼朝

2022-12-13 | Weblog
 元暦2年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡します。
 同年4月24日に源義経は京都に凱旋し、
 4月26日平宗盛など平氏の捕虜が、京都の義経の邸に入ります。
 5月7日、義経は平宗盛・清宗父子を連れて都を出発、鎌倉に向かいます。
 5月15日、義経一行は、相模国酒勾に到着し、
 源頼朝は、北条時政を遣わし宗盛らを迎え取り、義経の鎌倉入りを禁じます。
 5月24日、義経は、満福寺で心情を綴った腰越状を書きます。
 この手紙は公文所別当大江広元宛てに書かれ、
 頼朝へ取り次いでもらったとされていますが、
 結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなったと言うのが、
 いわば日本史の常識であると考えていました。

 最近読んだ近藤成一さんの「鎌倉幕府と朝廷」では、
 腰越状は、後世の創作であるとして、
 義経は鎌倉に入っているのが史実であると述べていました。
 腰越状については、様式や文言など、当時の普通の披露文などとは異なっていて、
 少なくても義経が書いた原文ではないとされています。
 しかし功を誇り頼朝の仕打ちを嘆き、肉親の情に訴えるさまは
 史料である『玉葉』などに残された義経の発言と一致するものがあり、
 当時の切々たる義経の心情をよく表したものとも言われています。
 また頼朝の親族への冷酷さを強調する『吾妻鏡』の幕府編纂者による
 捏造の可能性も指摘されているとの事です。

 8月16日の除目で、頼朝が知行する6か国の受領に源氏の諸将が任じられますが、
 頼朝は義経を伊予守に推薦しています。
 義経が、他の諸将と同程度の扱いに不満があったかどうかは分かりませんが。

 10月に入り頼朝・義経の叔父にあたる源行家が頼朝と離反する動きを示し、
 義経は初めこれを制止しようとしますが、
 これが叶わないと、行家に同心するようになります。
 この辺から、義経が頼朝と対立する事になったようです。
 
 少し時間を戻すと、6月9日、頼朝の命により、義経は宗盛たちを京都に護送し、
 6月21日、義経は近江の篠原で宗盛を処刑しています。
 かねてから、対立する義経に何故捕虜の護送などを任せたのか不思議でしたが、
 義経と頼朝の対立が10月以降とすると、すっきりと説明出来るような気がします。

コメント
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