天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

小野妹子の国書紛失

2020-11-24 | Weblog
 小野妹子は、飛鳥時代の官人ですが、その生没年は明らかになっていませんし、
 その出自なども諸説あるようです。
 学校で教わる歴史では、第1回の遣隋使として派遣された人物となっています。
 『日本書紀』によれば、推古天皇15年(607年)に通訳の鞍作福利らと共に、
 当時の隋に派遣されたと記されています。

 『日本書紀』には、この前に隋に使いを派遣した記載はありませんが、
 中国の歴史書である『隋書』には、
 開皇20年・推古8年(600年)に倭国からの使者が隋を訪れたと載っていて、
 これが第1回目の遣隋使であるとするのが通説となっています。
 この時派遣された使者に対し、高祖は役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせています。
 しかし、その答えが余りはかばかしくなかったようで、
 高祖は、政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、
 改めるよう訓令したと述べられています。
 これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使派遣の事実そのものが、
 除外されたと考えられています。
 その後、603年(推古11年)冠位十二階や、
 604年十七条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ、
 一応政治の形態を整えてから、次の遣隋使を派遣したのかも知れません。

 したがって、小野妹子が派遣されたのは2回目になります。
 この時に有名な
 「日出ズル処ノ天子、書ヲ日没スル処ノ天子に致ス。恙無キヤ」との国書を持参します。
 隋の煬帝はこれをみて悦ばず、鴻臚卿に
 「蛮夷ノ書、無礼ナル者有リ。復タ以ッテ聞スル勿レ」と言ったとの事です。
 翌年、小野妹子は、隋使裴世清を連れて帰朝しましたが、
 煬帝からの国書は百済人に奪い取られたと称して献上しませんでした。
 使者が返事を取られたと言うのですから、
 これは重大な罪になり、その罪は流刑に相当するとされましたが、
 推古天皇によって恩赦され罪に問われませんでした。

 このような失態を犯しても罪に問われなかった理由として、
 煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったので、
 これを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、
 返書を破棄してしまったのではないかとの見方があります。
 返書を掠取したとする百済に対して
 日本が何ら行動を起こしていない事から、
 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、
 「掠取されたことにした」とも考えられています。

 小野妹子は、一時は流刑に処されますが、
 すぐに恩赦されて、大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し、
 再度遣隋使に任命され、裴世清の帰国に合わせて
 再び大使として隋に派遣され、学生の福因、恵明、玄理、大国、
 学問僧の日文、請安、慧隠、広斉ら8名の留学生・留学僧とともに
 国書を携え当地に赴き、
 翌年の推古17年(609年)に帰国しています。

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