なんと宮城県知事であった浅野史郎氏は、もと厚生労働省の年金課の課長補佐だったそうな。
その彼が、「行政は大臣とか総理とかトップに立つものがしっかりしなければいけないんですよ」と言い放った。
確かに、国の方向性を導く仕事の国会が各省庁に大臣を送ることになるのだが(実際は総理大臣であろうが)、この結果の行政の長としての国会議員の大臣が、なすべきことは山ほどある。
しかし実務のトップとしての課長と課長補佐は専門家として、行政の実務者として長を補佐し、問題がないように進言や注意を払うことこそが彼らの仕事なのだ。
ましてや国会議員は、現場に張り付いているのではない、その過程で管理指導をするのが国の行政官の仕事ではないのか。
それを今問題になっている「消えた年金問題」を尻目に、浅野氏の古巣の年金課の問題を「国会議員が悪い」ともとれる事を言い放つこの精神には、驚きを感じる。
やはり、「浅ましい」といった私の以前の言葉には、まったく誤りがなかった。
確か本省の課長補佐という仕事は、役人としての力量と真価が問われ、ここで活躍したものは出世が約束されるという。
当然何らかの結果を出したものは課長という出世コースを歩み、官僚の頂点を目指し、将来が保障されるのだ。
そのような意味で、知事そして東京都知事候補として、擁立される身分の浅野氏は、誰も彼を悪く言う事もなく持ち上げられ、どうした訳か将来を約束されていると見てもいい。
個人の悪口を言っては、国政に関わる事や選挙に出る事が出来ないように妨害するのが非常に得意な朝鮮人が、彼に対しこれだけの過去がありながら何も言わないという事は、ある意味朝鮮人においしい思いをさせた功績があったから、彼を政治の表舞台に引っ張り出し、今もって彼を特別扱いにしているといってもいい。
彼が厚生労働省の職務についていたとき、何をしてきたのかな。
以下が、浅野史郎氏のプロフィールである。
学歴
昭和45年3月 東京大学法学部卒業
職歴
昭和45年4月 厚生省人事課入省
47年7月 在外研究員として米国イリノイ大学に留学
49年7月 環境庁自然保護局企画調整課
51年10月 厚生省社会局老人福祉課課長補佐
53年4月 外務省在アメリカ合衆国 日本国大使館二等書記官
55年4月 外務省在アメリカ合衆国 日本国大使館一等書記官
56年5月 厚生省年金局年金課課長補佐
58年12月 厚生省年金局企画課課長補佐
60年4月 北海道民生部福祉課長
62年5月 厚生省政策課企画官
62年9月 厚生省児童家庭局障害福祉課長
平成元年6月 厚生省社会局生活課長
3年6月 厚生年金基金連合会 年金運用部長
5年6月 厚生省生活衛生局企画課長
5年11月 同 退職
5年11月 宮城県知事当選(第一期)
9年10月 同 当選(第二期)
13年11月 同 当選(第三期)
17年4月 宮城県社会福祉協議会 会長
17年11月 宮城県知事を勇退
17年12月 東北大学客員教授(東北大学大学院法学研究科付属法政実務教育センター)
17年12月 社団法人日本フィランソロピー協会 会長
18年3月 NPO法人スペシャルオリンピックス日本理事
18年4月 慶応義塾大学総合政策学部教授
19年3月 宮城県社会福祉協議会に会長職の辞職届を提出
やはり、平成三年の厚生年金基金連合会・年金運用部長時代の彼の足跡などが、非常に興味深いのだが、誰か教えてほしい。
我々の年金をどのように運用したのであろうか。
ここには国会議員の目も届かなかったのではないのか。
社会保険庁の今ある問題は、誰のせいか。浅野さん、人のせいにすべきでない。厚生労働省と社会保険庁が一番悪いのだ。
元役人でもただの下っぱではなく、まさに実務のトップならば、まず謝罪すべきだが、そのような言葉が聴けなかったのは、心外だ。
その彼が、「行政は大臣とか総理とかトップに立つものがしっかりしなければいけないんですよ」と言い放った。
確かに、国の方向性を導く仕事の国会が各省庁に大臣を送ることになるのだが(実際は総理大臣であろうが)、この結果の行政の長としての国会議員の大臣が、なすべきことは山ほどある。
しかし実務のトップとしての課長と課長補佐は専門家として、行政の実務者として長を補佐し、問題がないように進言や注意を払うことこそが彼らの仕事なのだ。
ましてや国会議員は、現場に張り付いているのではない、その過程で管理指導をするのが国の行政官の仕事ではないのか。
それを今問題になっている「消えた年金問題」を尻目に、浅野氏の古巣の年金課の問題を「国会議員が悪い」ともとれる事を言い放つこの精神には、驚きを感じる。
やはり、「浅ましい」といった私の以前の言葉には、まったく誤りがなかった。
確か本省の課長補佐という仕事は、役人としての力量と真価が問われ、ここで活躍したものは出世が約束されるという。
当然何らかの結果を出したものは課長という出世コースを歩み、官僚の頂点を目指し、将来が保障されるのだ。
そのような意味で、知事そして東京都知事候補として、擁立される身分の浅野氏は、誰も彼を悪く言う事もなく持ち上げられ、どうした訳か将来を約束されていると見てもいい。
個人の悪口を言っては、国政に関わる事や選挙に出る事が出来ないように妨害するのが非常に得意な朝鮮人が、彼に対しこれだけの過去がありながら何も言わないという事は、ある意味朝鮮人においしい思いをさせた功績があったから、彼を政治の表舞台に引っ張り出し、今もって彼を特別扱いにしているといってもいい。
彼が厚生労働省の職務についていたとき、何をしてきたのかな。
以下が、浅野史郎氏のプロフィールである。
学歴
昭和45年3月 東京大学法学部卒業
職歴
昭和45年4月 厚生省人事課入省
47年7月 在外研究員として米国イリノイ大学に留学
49年7月 環境庁自然保護局企画調整課
51年10月 厚生省社会局老人福祉課課長補佐
53年4月 外務省在アメリカ合衆国 日本国大使館二等書記官
55年4月 外務省在アメリカ合衆国 日本国大使館一等書記官
56年5月 厚生省年金局年金課課長補佐
58年12月 厚生省年金局企画課課長補佐
60年4月 北海道民生部福祉課長
62年5月 厚生省政策課企画官
62年9月 厚生省児童家庭局障害福祉課長
平成元年6月 厚生省社会局生活課長
3年6月 厚生年金基金連合会 年金運用部長
5年6月 厚生省生活衛生局企画課長
5年11月 同 退職
5年11月 宮城県知事当選(第一期)
9年10月 同 当選(第二期)
13年11月 同 当選(第三期)
17年4月 宮城県社会福祉協議会 会長
17年11月 宮城県知事を勇退
17年12月 東北大学客員教授(東北大学大学院法学研究科付属法政実務教育センター)
17年12月 社団法人日本フィランソロピー協会 会長
18年3月 NPO法人スペシャルオリンピックス日本理事
18年4月 慶応義塾大学総合政策学部教授
19年3月 宮城県社会福祉協議会に会長職の辞職届を提出
やはり、平成三年の厚生年金基金連合会・年金運用部長時代の彼の足跡などが、非常に興味深いのだが、誰か教えてほしい。
我々の年金をどのように運用したのであろうか。
ここには国会議員の目も届かなかったのではないのか。
社会保険庁の今ある問題は、誰のせいか。浅野さん、人のせいにすべきでない。厚生労働省と社会保険庁が一番悪いのだ。
元役人でもただの下っぱではなく、まさに実務のトップならば、まず謝罪すべきだが、そのような言葉が聴けなかったのは、心外だ。