魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

魂魄の宰相(第四巻の一)

2007-07-30 00:32:33 | 魂魄の宰相の連載

 何故、第四巻から始めるかと言うと、この巻はこの翻訳本の中で核心となる巻の一つであり、第一巻では生い立ちから始まり、内容も可也難解な部分があるので、核心となる話から始めた方が読者の興味を引き寄せられると感じたからである。先ずは、第四巻を読んで、古代の変人の生き様が如何にあったか読み解いて貰いたい。

           魂魄の宰相 第四巻

 

 

前書き

 

 

 この章(巻)は、或る意味でこの書全体の核心の章(巻)であるとも言える。千年前の古代中国に於ける改革の旗手王安石が、如何なる信念を持って改革をなそうとしたかということが記されているので、今日の我国の状況を念頭に置いて読まれることを期待します。現今の我が日本の置かれた状況と古代中国の状況とは、極めて類似した処があるとは云え、王安石が進めた改革の手法が現代の我国で通用するものとは到底考えられるものでは無い迄も、改革には先ず根本理念が必要であることは何時の時代にも変わらぬことであると謂う事が重要である。国家の存在意義は何か、或いは、為政者の民衆に対する位置付けは如何なるものとなるべきか。

 

 どのように読むかは、読者が決めることである。 時間を割いて書を読むからには、唯書から学ぶのではなく、書は読者によって完結させて貰いたい。

 

 

平成十八年七月某日 魂魄の狐神

一、富国への道

 

 

 治平四年(1067)四月、神宗皇帝として趙弴が即位して、その後、北宋の歴史の上での新しい一幕が開けられたのだった。

 

 英宗の御世、王安石は一度も江寧を出ることは無かった。彼は嘉祐三年仁宗に上書を為したのだが、其れに依って彼の箴言が実行されることが無かったので、ずっとそのことに拘っていた(所謂「万言の書」の提案の具体化が実現し無かったことに対して)。彼は仁宗が余り有能な人物で無く、寛容さと忍耐力に欠けると分ってはいたが、案の定、彼の提案は受け容れられることは無かったのだ。然し、彼は自分にも手落ちがあったとも感じていたのだ。彼が上書した文は、先ずは、人材を育成することに力点を置いて、鋭く一連の問題の核心を捉えた文には為ってはいたのだが、然し、全体として一貫した具体策を示しておらず、その提案が少し舌足らずであって、説得力に欠けるものであったことは否めなかったのだ。彼が比較的実証論を展開した積りであっても、賢才の言を並びたて、結局古の先人が使い古した話題をなぞるに留まり、余り新味の有る手法を採ったと言えず、それを受け取った皇帝の心を動かすまでの効果は無かったのだ。 

 

 王安石は経世や人民を救う武器としては伝統の儒学では、到底太刀打ち出来るものでは無いと分っていたので、その為彼は経学を活用しなければならないと決意し、試みに従前の王道の中から、改革の為の理論の基礎固めをすることにしたのだ。数年の努力を経て、新しい経学の骨組みが確立し、更に系統立てた具体案が彼の頭の中で日増しに形作られ、彼の構想は現実的なものに為り始めたのだった。

 

 王安石は確かな勝算があったのに幾度かの呼び出しに応じ無かったのは、一つは、道徳家を以って自認する王安石が君に仮病を装うなどと言うことは考えられず、彼が過労の為病気がちで書に親しむことも苦痛であるほどであったことが災いしたのであって、二つ目は、英宗皇帝は身体が弱く病気がちで、亦、皇太后との折り合いが余り好いものでは無かったことをも気遣っていたからだ。此のような情勢の下で、大業な行為を起こすことは有得無いことであり、韓琦のように上下左右の者達と融和を以って接し、根回しが出来る才能なぞ彼には望むべくも無かったし、又彼の望むところでも無かったのである。 

 

 王安石は、何の躊躇も無く自分の暮らし振りを受け入れ、富貴を望むことも無かった。彼は時期が未だ熟せずと感じていたので、積極的に要求をするような行動をすることは時機尚早であり、如何なる良い結果も齎さ無いと考えていたので、彼は寧ろ常識的な行動を護ることを最善とし、同時に、決して節を屈して迄栄達を求めることなぞ無かったのだ。彼は『人材不足が国家の一番の誤りである』と見抜いてはいたのだが、自分は一生涯重く任用されることは無いと考えていたので、弟子に教える日々を出来るだけ多く設けたいと思って、ことある毎に学術講演をしていたのだ。国家の為に英才を育成して、その中で君の志を得る弟子が一人でも出れば、今やっていることは大いに遣り甲斐のあることであり、全く一生の志として悔いの無いものであると思っていた。然し、神宗皇帝が即位した時は、彼は絶好の機会が来たと感じ心中震えが起こった。 

 

 神宗皇帝若干二十歳、処が俄然英気に満ちており、仏教でいう縁があるということか、彼の個性と王安石は意見の一致するところが頗るあり、更に大事なことは、彼の少年時代には王安石を崇拝していたのだ。 其れはというのも、太子着任時から侍従の臣韓や維、孫永は総て王安石の親しい友人で、ことある毎に王安石は如何に志節が孤高で、学識が深くて広く、才気が群を抜き、うんぬんと神宗に叩き込んで来ていたので、ずっと以前より、彼の心中には王安石に対して高潔で大きくて素晴らしい人であるとの印象があったのだ。そこで神宗が即位すると間も無く、王安石に都に入るよう呼び掛け、王安石も此れに応えて、もう此れ以上辞退する理由も無く黙して聖人の心を受け取って、感慨一入赴任したのだ。この時、聖君と賢相、竜虎の風雲、縁の重合、天の巡り合わせで大いなる大変革への幕が引かれたのだ。 

 

 煕寧二年(1069)の二月、王安石は参知政事に任命され、この時から正式に国の政治に参与して、煕寧変法の主宰となった。 

 

 《続資治通鑑長編拾補》の記載に依ると、神宗は王安石に、偶然にも回廊で初めて会ったとされている:「朕は若年の時から卿を良く知っておるが、今日、卿の経術は時代の情勢に役に立つことは無いと言い切る者がいたので、気分を害していたのだが、・・・・」 王安石は其れに応えて曰:「では何故政務に携わる者達は時代の情勢を通じている筈なのに、成果を上げることも出来ず、如何して私の経術が駄目だと決めつけられるのでしょう?」 王安石は自分の経術が明確に時代の情勢に適合するものであると断言し、彼の経術は、中身が無く無用となった儒家の経術とは違い、時代の情勢に適合し一体と成った着実な学問を使って、言わば、先王の道を冠する真新しい経術であると主張したのだ。 

 

 上書に拠ると、王安石と神宗は国を治める方策を議論したのだが、神宗が「国を治める時に重要なこととして何を要するのか」と聞いたので、王安石は其れに答えて「術を選ぶことに始まる」と言って答えたのだが、神宗が更に唐の太宗の手法の是非を聞いたので、更に答えて王安石は、「尭と舜の法を模範にとするならば、唐の太宗は具体的手法に不足があった」と答えた。王安石は神宗に尭と舜を模範として法を立てるように勧めたのだが、彼の選ぶ経術が求めるのは最早儒家の学術では無くて、確実且つ実行可能な先王の道こそ実は彼の新しく作るところの新経学の正体だったのだ。 

 

 王安石の言うところの尭と舜の法は、別に実現不能な高く届くことが出来無い空中楼閣を言っているのでは無く、最も実行し易く質朴な簡易法であると考えていたものであった。彼は尭と舜の法の簡易で明瞭なところを指摘して、「最も指摘しておきたい点は決して時代遅れでは無くて、簡明に尽きるところです」と説得し、更に「聖人の経世の立法は常に人為的に創られて来たもの」の為に、後世の士大夫達は聖人の道を実現することが出来無くて、聖人の遣り方を研究することも無く、尭と舜の法が「及ぶことが出来無い高見にあるもの」と思っていたのだ。「聖人の経世を可能にする立法は常に人為的に創られて来たもの」という意味は、深い思想を含み、聖人の立法とは最高位と自覚する少数の人の基準に依って決して設立するもので無く、大多数人(中人)が受け入れて理解することが出来る範囲の程度に留まって制定されるものであるとする。大多数の中人に依る人の要求を考慮に入れて制定されたこのような法令は容易に推進され、簡単明瞭で、知り易く守り易いということを意味する(此れはまさしく民主主義の考え方だが、民主主義にも大きな落とし穴があるのだ・・・各自考えて貰いたい)。

 

 この立法の原則は尭と舜の思想が目指すものが何処に在ったか分から無かったからなのか、或いは王安石自身は自分為りに悟っていたものなのかは不明であるが、実現の段階に入れば最も実行の可能性は大きいと判断され、如何考えても、極めて考慮に値することは確実であり、今日の手法とも適合するものであった。中人の立法に依れば、中人以上は総てが受容れることが出来るので、圧倒的多数の人に支持されるということになる。往々にして自らを欺き人をも騙して、何れもが同じ土俵に立つことの無い法を制定して吹聴しても、現代人が背くのは理で、結局形骸化して無駄なものに為って仕舞い、少しも評価されるものとはなら無いのだ。俗っぽい儒学者達は聖人を知ることが出来ず、屡尭と舜を自分為りに都合良く解釈し、総ての人の同意を得ようとしたのは全くの的外れで、ややもすれば糾弾されかねないものと為り、若し、尭と舜が、彼らが解釈したように愚かならば、誰一人、尭と舜とを素晴らしいと言わ無いであろう。

 

 中人を以って推し進めることは、事実上圧倒的多数の人の利益と要求を満足させることに為るので、これが新法への主要な規範と為り、王安石の変法の基本原則と為ったのだ。そこで、王安石と神宗は共にこの大局を主宰して、部門ごとに次々と新法を登場させ、強力に長年の積弊を改変させて、圧倒的多数の人の利益への保証を高めようとしたのだった。

 

 /*当時の朝廷の直面する最大の問題は、先ずは赤字の財政で、次は国防の弱体化であった。収支の問題を解決出来ず、国庫は毎年赤字を重ねていた;弱体化は粗連戦連敗で、歳々遼や夏に金や絹織物を献納し、重篤な財政の負担を齎しただけでは無くて、更に問題なのは国家に拭い切れ無い屈辱を味わう様にさせたことで、天朝の大国の尊厳は全く損なわれていたのだ。 赤字と弱体化は相関のものであり、宋の経済が漢唐と比較して、歳入も漢唐の数倍に為っていたように、ずっと発展していたにも拘らず、収入の絶対値は低く無いのに、逆に支払いは巨額に渉っていて、赤字財政を生んでいたのだ。宋の軍隊の人員は巨大で、長い間百万を越え、数量の上から言って、遥かに遼と西夏を上回っていたにも拘らず戦力は不思議に弱く、殆ど何時も敗戦していたのだった。財政は苦しく、兵は多くて弱くて、宋の全く奇怪な現象と為っていた。 

 

 この双子の問題について、誰もが何とせねばと思ってはいたのだが、然し如何に問題を解決していくかということになると、人に依ってそれぞれ見解を異にし、入り乱れて解決策は見出せ無かったのである。王安石の変法に依って、この問題に正面から取り組むことが出来て、その結果著しい成果を上げられたのだ。 

 

 王安石の財政管理への対策には、頗る新味と創建があって、彼は財政不足の主要な原因が「財政管理の手法が確立して無いこと」にあると考え、彼の財政管理の主要な手法は源泉を改めるだけで、支出の切り詰めはし無いと言うものであった。若い頃の或る時期に、既に彼は財政を管理する手法に対して深い見識を身に付けていたのだ。

 

 彼は慶暦七年(1047)県県長官の任時、長江と淮河流域の荊湖の両浙江を担当する補佐役人の馬遵に宛てに手紙、即ち《与馬運判書》を書いたのだが、その中には集中的に財政管理ついての彼の政策に対する実施計画が示されていたのだ。彼は最初に次のことを指摘した:「目下赤字なのは、歳出だけが原因では無く、歳入にも問題があるのだ」。 詰り、歳入が足り無い上に歳出が余りに多大なことは総ての人が認めることであるが、然し歳入の不足の原因が何処にあるかが不明で、このことは殆どの者達が思い浮かば無かったことであった。彼は更に次の問題も指摘していた:「家を豊にするは国が資する、その国を豊にするは天下が資する、天下を豊にするは天地が資する」。これは王安石の経済運営の手法の核心となる思想で、その意味するところは、特定部門や或いは各地域が豊に成る為には一回り毎大きい環境に依存するので、今風に言えば、外部との開放政策を推進し、対外交流を盛んにすることに依ってのみ経済を発展させることが出来るのだと謂うものであった。『家庭が裕福に成るには必ず国家に依存しなければならなくて、国家が裕福に成るには必ず世の中全体に依存しなければならなくて、世の中全体が裕福に成る為には全世界に依存しなければならないのだ』。王安石は経済の本質に触れるに到り、経済の発展と謂うものが人と人との間の交流から源を発するとの思いから、交流の範囲をもっと大きくし、交流を広い範囲に拡大してこそ豊かさを齎すと推断したのだった。彼は《上仁宗皇帝言事書》中で、「天下の力によって、天下の財を生み、天下から財を取って、天下の費に供える」と提案し、亦、天下の人々の働きに依って経済の活性化を期待することを強調して、直前に述べた説と相互の補完を目論んだと言える。 経済が活性化することに依って豊になれると言うことは誰でも理解出来、其の為に互いの交易や流通で経済の活性化を為すことは商品経済の範疇に意識を傾けることであるとし、頗る先見性を持った考えであったと言えよう。 

 

 彼は更に指摘している:「今外部からは入ることが出来無いように門を閉ざして市場を市民に提供しても、市民の財を浪費するばかりで、豊にはなれ無い。近頃の言葉を借りれば利と雖善であり、国の者皆が世の中の役に立つということを良く耳にするが、互いに門の内に市場を閉じ込めていては如何にも成ら無いではないのか?」。 彼は、金儲けをする者達が権勢に頼って庶民から剥奪して来たと考え、徒に庶民から搾り取るだけであるような閉鎖的な経済では甲から借りて乙に返すだけとなり、永遠に裕福になれ無いと辛辣に風刺したのだ。彼はここでも深い理念を表現していて、鎖国をしたり、地区毎の閉鎖的な経済環境が、徒に閉め出すだけの市場となり、永遠に本物の経済を創り出すことが出来無いので、市場経済は必ず開放的で、互いの経済圏の流通が必要だと説いたのだ。 

 

 この見解が現代社会にも受け入れることは、私は反対である。 何事も、時勢や現状を無視し、先人の言を無批判に受け入れることは、全く危険なことなのだ。 

 

 王安石は更に京城の食糧の価格が突然高騰することを免れる為に「首都の駐屯軍の一部を分散させ、諸郡で食糧を得させるように」と提案した。彼は古人の言葉を借りて、天下の兵は「人の生き血に集まるが、血脈だけでは血の量が足りずに、悪性の腫れ物にまでにも集まるごときだ。食糧の食い潰しを分散させて、血脈の中を勢い良く通る血流の如く流通させるのだ」。食料を確保するのに便利となるように兵力を分けることには、食糧と経済の運営の問題が含まれていて、血脈と同じ様に流通が活発になるような経済を生み出すことが出来るとした。合理的な物流をする為に血脈の中を勢いよく流れる血流のように流通させられれば物産の量は平準化し、不足すれば価格が高騰することにもなるのだが、不足も生ぜず、物産が集まり過ぎ、集まり過ぎるのは不足すると同様に弊害を生じ、価格の下落に繋がるのだが、当然、此れも物流の平準化で回避出来るのだ。経済は人体の血脈のように、流通を活発にすることで漸く合理的に発展することが出来るのであり、流通の活発化には、必ず関税の障壁と地区の封鎖を打ち破らなければならず、此のことを主張したのは、王安石の経済の思想の先見性の現れであったのだ。 

 

以上は自立経済圏の拡大と連携による安定した経済社会の構築を目指すということになる。処で、今日の社会は全地球的に経済圏の連携が採られているが、巌然と国家と言う概念が実現されている以上、内需と国際化の均衡が必要で、国際経済に重点を置き過ぎると、国同士の摩擦に振りまわされ、又、国際社会の複雑さに巻き込まれ、不確定性や予測不能の要素が複雑に絡み、安定した国内の経済を確保することが出来ずに、結局、近代国家が目指してきた社会格差の根絶まで放棄するように導いて仕舞うのだ。 

 

 《与馬運判書》に措いて王安石は財政管理の思想を具体的に纏め上げており、彼は後に此れに修正を加え、そして実践に移した。経済は流通と交易を考慮して促進されるとするので、彼は断固として閉鎖的経済に反対した。更に又、又県の県長官に在任中の時に、彼は塩やお茶に対して専売制度への批判を朝廷に提出した。《上運使孫司諌書》の中で、彼は孫司に対して小役人が禁制品の塩の密売者の行為を厳しく糾弾し、密告した者に金を出していることを諌めて、「塩田から採れる塩は、例え死刑を課して禁じても、禁を破る勢いは止めることは出来無い」と指摘し、互いに密告するように仕向け、人民を犯罪者に仕立て上げ続ければ、民間の風習を土足で踏みつけ、ごろつきがことある毎に密告者に仕返しをするので、漁民の暮しも成り立たず、結局、漁民の収入は断たれ、盗賊に成るしか生きられず、社会に動乱を招く。彼がこのように考えたのは、専売制度は表面上朝廷に利益を齎すが、実際は人民の上下層の別も無く、最終的には公私の全ての者の困窮を招くような見せ掛けの利であるという思いがあったのだ。彼は《収塩》一詩を創って、漁民を追い詰めていると告発した: 

 

 

 

州家は櫛比して符牒が飛び交い、海から採れる塩は今日では更に多く必要なのだ。

 

 貧しい上に囚われた者の破れ家は雅に悲嘆の極みなのに、官吏の操る船が更に繰り出す。   

 

海中の諸島は古から不毛で、島の夷民は生計を立てる為今ただ働き続けなければならない。

 

 海水を炊くことも出来ずに餓死して仕舞うことを耳にし、誰が死んで免れることしか無い者達を見過ごし得よう。 

 

彼の如く盗賊が度々襲い、賈客を誘拐・殺害してその隻を沈める。

 

一人の民の生命は世で重く、君子は僅かばかりのことで争うを忍ぶ哉?

 

 

 彼は封建官吏が密造或いは売塩を禁止するように厳しく命令することが、人民の生活の安定を損ない、犯罪を多くし人民が盗人に成る外生きる道が無く為ると告発して、朝廷が民と利を争うべきで無くて、製塩工業を独占すべきで無いということを指摘した。それから彼は《与孫ンキ老書》の中でも又、本来正統で有る筈の「塩秤子」(密造者或いは売塩の行商人)が如何して世の中を乱すのかということに関心を寄せたが、中々難しい問題を孕んではいたが、詰る所朝廷の専売制度が、その様な窮状を創り出しているのだと結論付けたのだ。 

 

 彼は長江下流地域の刑獄に在任中に、《議茶法》と《茶商十二説》によって、警告の意味で、独占の弊害を強く述べた。《議茶法》の中で、彼は指摘している:「国家は専売茶の法を止めて、実を摂る為に人民に自ら販売させることが、古来より利に適った遣り方だ。だが、人民が自販することに、反対する者がいると、若しかすると利財を求めて搾取しようと重税を課し、将に臣下が財を得ようと毫末の間までもが貪るというような過剰な搾取が起きる不安が拭い切れ無かった」。 彼は桑弘羊が創った専売制度に反対して、これが目先の利益ばかり考えて将来を考慮せず、慈しみをも省み無い、民と利を争うだけの制度となっており、全く知恵のある行いと言い難いとした。《茶商十二説》の中で、彼は国家が一部の豪商に頼って十二悪の独占を経営させていたことを指摘し、独占は庶民にとって害だけを齎すばかりか朝廷に対しても不利であると糾弾したのだった。

 

 彼は《酬王叔奉使江東訪茶法利害見寄》一詩の中で指摘している 「長い間東南を害していた首領を、茶法が押え込んだ。盗んでは隠れて販売していたので、牢獄は常に盛況であった。牢獄が一杯になると、往々にして鞭打で殺した。敗れれば様々な悪を並びたてられ、嘗ての非を責められ、売るように強いられた。其のことで、市場は困惑し、然も市場を掻き乱した」。茶法は人民を犯罪に追い立て、監獄は満杯になり、隠れて密売することで、あらゆる者がその害を受けて、運送者は目減りで欠損を負わされて責任を負い、屡処罰されて鞭の刑で死んだ。茶が太くて粗悪で食用に耐えられないで、無理に売り捌いたことに拠り、市場を不景気にならせただけで無く、その上お茶の需要が混乱させられて、山林の静かな佇まいをも荒らしたのだ。 

 

 王安石は、独占が自由経済の立場に反対のものだと一貫して主張したが、彼が猛烈な非難に曝されたのは、彼が政府の独占が豪商や勢力者や地主の独占へと繋がるとの反対をしただけに留まらず、同じく担保として収容することを主張する独占の立場を抑える為にそれをも反対したからだ。彼には《兼併》の一詩があって、担保として収容することへの秦始皇帝の奨励策に対して不満の意を表し、「孔子を利し諸子百家が続出して、小人の私は萎縮し始めた。官吏と争っても、民衆は勝ち目を無い」という状況がその深刻さを表しているのに怒りを以って同情し、「担保として収容することが秩序を破壊することは全く無い」と世俗化した儒学者が納得出来無い意見を言うことに悲憤を隠し切れ無かった。 封建官吏が担保として収容する者と互いに結託して、市場を独占する為、市場の支配を庶民と争って彼らを迫害し、庶民は非常に悲惨な立場に追い込まれ、庶民らの為に非難してあげる人も無く、その上封建官吏らは人情味を微塵も入れず庶民を追込んだので王安石は非常に憤慨し、彼は担保として収容することを抑える一方では生産の増大と階層化の打破の意図を含んで自由経済を導入することを主張し、勢力者が余りにも下層部の人民を搾取することに反対する構えを示したのだった。 

 

 上述したことは、貧しき者から観れば、何処かの国のいんちき政策に類似するが、その根本の理念を得意の摺り変えで都合良く詐欺師が唱えるものとは、全く趣を異にするものである。 

王安石が担保として収容する所謂兼併を主張する勢力を微塵も動揺すること無く抑えられたのは、兼併を如何抑え得るかと言う課題について冷静な態度で対拠していたからで、富豪の不動産としての田畑を強行に剥奪して貧民に与えようなどと言う無分別な主張は決してしなかったのであり、若し、このような主張をしたならば社会に激しい衝突を頻発させ、混乱を招くことを十分理解していたのだ。当時、李覯、二程などの人達も土地が均等に配分されて無い問題を解決する為に古代の井田法を其の儘復活することを主張していたのだ。王安石は、彼らは此のような実行性の無い政策しか考えられ無い無能な古い考えの学者であるとして、彼は現実的な処理を唯一実現出来る政治家は自分だけであると誇示した。

 

彼は、解決策として、兼併をする側の富豪も全く期待するものが無いとは言わず、「種を播いて収穫させ、不足があれば補助をしてあげ、兼併側の力を持つ人達は大衆が収穫し現金が入るまで待ってやりさえすれば良いのであって、如何して多くの貧民を急いで追い詰めることに為るように田を奪って仕舞うのか?」と指摘している。当時のような強硬なやり方を実行しても良い結果は生まれない;先走って実行しては、結果的には利益を生ま無い。蘇轍等の人達は勢力者の地主の利益を代表して王安石を「匹夫」であると攻撃して、彼が「貧民に我慢させること無く富める民に深く痛手を負わし、貧民に味方し富める民を破綻させようと言うだけのものであるとの意図を持つ」と、全く悪意を以って誹謗したのだ。 

 

 兼併を抑える目的は別に裕福な家を破産・失敗させる為では無く、貧民に不合理な害を受けさせ無いように、彼らが早急に利益を独占するような行動が無いように戒めて、それに依って世の中全体が利益を得るような目的を達成しようとしたのだ。青田法は裕福な家や高利貸しを抑制させる為のもので、搾取を減らす為国家が低い利息で金を貸しつける様に決めることで、貧民の便宜を謀ることであった。市易法は物価の安定の為のものであって、その本意は別に商人同士の争利の為では無く、豪商の賈さんの独占を抑えて、彼らが市場を独占することを防止して、小売商や行商人と消費者の利益を護ってあげ、更に富商に取って替わって国家が独占をしようというものでも無いが、その実施の段階で如何なる問題が生じたかは、今は述べることを差し控える。均輸法の実施は同じ様に世の中全体の供給を保障する為のもので、浪費を減らして、同時に豪商の賈さんの不合理な利を制限する為のものであった。 

 

 上述の法令を通して、摩擦を少なく兼併を抑える目的を達成したのであって、この目的は経済的手法を使うことで平安を目指すもので、譬え勢力者の豪商と代弁者が心中不満に思うおうとも、相手と直接対抗するようなやり方をすれば武装蜂起を起こしかね無いので、政治が弾圧をして解決する手段を採らずに、土地を関する争いに対して、社会にとって有利で無害な解決手段を提供したと言え、王安石はこれら総ての思惑を胸に秘めて実行に移したのであり、成算があったと推測される。彼には《寓言》の詩の一首がある: 

 

 

  冠婚葬祭を為さずば、貸し銭でごたごたすることも無い。誰も耕し植えなくば、穀類は実ることは無い。 

 

 物を採取することで利益を生み、物は担保に出すことも出来る。後世は必ずこの様にする義務は無くなり、取るに足ら無いものは担保として収容することを抑えよう。 

 

 

 この詩は若い頃創られ、然し既にその中には貸付けなどの経済手段で担保として収容することの思想を否定し抑えるように書かれている。王安石が政権を握ってからは、公布した経済と関係がある法令の殆ど総て兼併を止めさす意図で創られており、募役法は均等に負担させることを目論み、中産階級には為るべく労働法に依って守ってあげるようにし、下層階級には最も尽力出来るようにする為に負担を半分に減らし、勢力者のみが得するような目論みを決して許さ無かったのだ。 

 

 

 あの異民族の血統をもつ詐欺師の改革が、王安石のものと正反対の目論みをもつものだったと、国民は如何して分から無いのだ。

 

 王安石は主として財源の確保に重点を置き、支出を抑制し、需要を引き起こして経済を発展させる政策を展開したが、只管に支出だけを減らすだけでは無く、人々の要求に依っては支出を減らすどうか検討するようにしており、雅に彼は時代を遥かに超えた施策を先取りしていたので、このことが当時の人には理解出来ずに誤解を生み、彼に多くの無実の罪を着せたのだ。 

 

 司馬光は経済が全然分から無く独り善がりにも拘らず、代表する保守派の為に王安石の財政管理の政策を受け入れることに反対したのだ。司馬光は王安石の「人民から良い財政管理者と言われる者は増税を好ま無い」という観点の意味すら良く分りもせずに、彼は「商品となる財の総ては天地が生んだ物で数量にも限りあると思っていて、民間の物では無く、公の物だと考えていた」のであり、桑弘羊は国の為に用いる為には必ず民から取ることは可能と為ると言うが、これは完全に自給自足経済の観点であり、財物は全く天地が生んだのだと考えており、労働から新しい財産を創造することが出来るのに人の労働を軽視したものであり、更に財物の数量が固定したものであると思っているので、生産物は増加することは出来ず、世の中で拡大再生産をすることは可能であるということに無知であったのだ。その為、彼は所謂財政管理とは重税を課して搾取することだと決めつけ、民間から搾り取ったのだ。 

 

 以上のことは、経済を限定的に考えている何処かの国の財政大臣の考え方と同じではないか。問題解決の前提を固定化しては、柔軟で幅広い考えは生まないのだ。 

 

 王安石は天下の財産は天下の力に従って生むと主張して、絶えず、生産を増加することで継続的な発展をすることが出来るので、数量を固定化したり、前提を固定化したりして問題を解決してはなら無いのだとした。財政政策に依って経済発展させることで、社会の財産を増加することは出来るのだ。資源を調達することが出来さえすれば、生産を発展させることが出来るとして、王安石は盲目的な節約に対しては批判的だったので、この点も彼が人に誤解を生ます原因と為ったのだ。 

 

 司馬光等の輩は、財源の確保に一法があることが分から無かったので、財政難を解決する為には、節約するしか方法は無いと断定したのだ。節約は無論美徳で、財政難を解決する一法である事には間違い無いが、然し若し、節約に限って財政難を解決しようとすれば、只管節約に偏り、不可避とされていた支払いを減らすことが出来、当面急ぎ解決しなければならない問題を処理出来ても、更に眼には予測出来無い危険を齎し兼ねず、将来何倍もの支払いを招くことも有得たのだ。不用意に需要を抑えるのは、生産の増加に対しては不利で、近代経済学では、既に完全にこの点を証明されているのだ。宋の真宗以前、何人かの皇帝の総ては、比較的節約を善しとしたが、然し単に節約だけでは財政難の根本的な解決の道筋をつけることは出来無い上に、徒に皇帝が節約しても、大臣や貴族の総てが節度無く贅を享受していたのでは、全く意味を為さ無かったのであり、仁宗の朝廷がこの事を露骨に証明していたのだ。 

 

 正に王安石が只管節約することに反対する為、保守派と後代の人の多くは、彼が節約することに反対するのは何か企みがあってのことと思い、甚だしきに至っては天下の財で生活する皇帝が派手な生活を送れるようにする為ではないかという説も出た程であったほどだ。こういったことが論外である事は自明で、王安石は一生涯慎ましく暮していたのに、どのような目的で節約に反対することが出来ようか?神宗も生涯比較的慎ましく、決して派手では無かった。これは邵伯温らの輩の嫌がらせで、単なる中傷で、後世においても「分らず屋」が付和雷同しただけのものだった。 

 

 煕寧の変法は、実際に、富国の方面で明白な効果を出し、大量の荒田が開墾されて、水利工事が行なわれ放水は田に水を漲らし、農業生産物の増産を可能にし、政府の財政収入は大幅に増加して、「国内外の貯蔵所は、全て洩れ無く広がった」、「州々県々、それぞれ蓄えられた物資がある」、財力が各事業の十分な展開をさせて信頼出来る経済的土台も出来、中下層の人民の生活水準をも例外無く一定の向上をさせたのであった。

 

 地球環境と資源の制約をしなければなら無い現状では、上に挙げた王安石の経済拡大路線は今日の社会に当て嵌めることは出来ず、限られた環境の中で、如何資源を全地球的に分配して行くかと言うことが、今日の緊急の課題であり、現在地球規模で起きているあらゆる分野での「壊れ」は、この大命題を前提として考えられなければならないのだ。

続 く


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